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(慶尚南道)昌原市
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鎮海区
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訪問日:2014年10月中旬
大韓民国(慶尚南道)昌原市 鎮海区 ~ 区内人口 16万人、一人当たり GDP 39,000 USD(道全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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鎮海中心部への 交通アクセス と 街歩き
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旧市街地に残る 鎮海郵便局の局舎と、海岸エリアの 不動産バブル
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鎮海区の 海岸ラインの埋め立て と 倭城群
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安骨浦村の 海岸入り江
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安骨浦城
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【倭城ネタ】 安骨浦城
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日本水軍の 本拠地が置かれた 湾岸エリア
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熊川邑城
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朝鮮の役後の 熊川邑城 と 倭城跡地
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熊川倭城
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熊川倭城跡の 山裾にある倭城村 と 海岸線
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【 倭城ネタ 】 熊川倭城
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明洞倭城
当地は、韓国史上で 最初(1952年8月に、韓国海軍海上作戦司令部の発足)にして、現在、最大の海軍基地が配備されていることで有名だ。敷地は米国海軍と共同使用されており、米国海軍の原子力潜水艦も停泊している。
また、鎮海区内には 16万本もの桜が植えられており、4月の花見行楽は風物詩となっているらしい。日本が韓国を植民地統治している間、この地に日本海軍が軍港を置いた関係上、入植した日本人により都市開発が進められ、 多くの日本式家屋や 洋館(現存する鎮海郵便局舎など)の建設、そして桜の大量植樹が 実施されたということだ。
これらの日本時代から所々に残る家屋は、未だに現役で使用されている。
下古地図は、1750年代の
李氏朝鮮時代
の鎮海付近の海岸エリアを描いている。
また、港湾エリアにある鎮海カーフェリー・ターミナルから、巨済島へ渡航して現地の倭城視察も可能であり、倭城訪問には欠かせない交通の要衝都市である。
なお筆者は、
昌原市
馬山区
から現地入りした。
馬山魚市場
を通る路線バス 163番か 160番で、直接、鎮海区中心部まで来れる。1,200 Won、乗車時間はだいたい 30分ぐらい。バス自体は 15~20分に一本運行されている。
ちなみに、160番は鎮海鉄道駅の方面(つまり 西向き)に対し、163番が鎮海区役所方面(つまり東南向き)行となって、鎮海中心部までは同じルートだが、鎮海中心部内で東西に行先が変わることになる。下地図。
鎮海区中心部のメインストリートは、線路を渡って一つ目のバス停である(鎮海中央市場がある忠武洞エリア)。ここでたくさんの乗客が下車するので分かりやすい。 163番バスはここから東側へ、 160番バスは西へと進むことになる。
筆者個人的には、163番の路線バスのみで往復した。
先述
のメインストリートで下車後、鎮海の旧市街地も徒歩で巡れる。鎮海鉄道駅や、旧市街地の桜並木通り、帝皇山も、すべて徒歩圏内だ。
下写真左は、鎮海区内で一番有名な建築物である、旧鎮海郵便局である。1912年に完成後、2000年まで使用されていたらしいが、今では歴史記念建築物として観光名所の一つになっている。
また旧市街地は、それぞれの通り沿いに桜が植えられ、時折、日本家屋が目に入る(下写真中央と右)。中園ロータリーの 一帯(上地図)を散策すると、直線的に開発された都市設計の人工的街並みがとても落ち着いた雰囲気を醸し出し、こういう場所に住んでみたいな~と思わず口走ってしまわずにはいられない。
そんな願望を持ってしまうのは、どうやら筆者だけではないようで、鎮海区の海沿いでは、目下、すごい勢いで建設ラッシュが進んでいた(下写真左は鎮海区役所エリアの海岸線)。
また、下写真右は、鎮海旧市街地で見つけた「何でも屋さん専用出張バイク」。このバイクを発見したとき、筆者の鎮海移住願望は最高潮に達したのであった。
なお、163番路線バスの終点は、霊山法華寺という寺院の山麓部分の駐車場であった。鎮海区役所、区議会のすぐ横である。
鎮海区内の海岸線上は、鉄条網で囲まれた軍事基地が複数あり、163番路線バスは、この軍事基地の横の大通りをひたすら東進していく。
筆者の鎮海入りの目的は、
倭城視察
にあったので、旧市街地散策もそこそこに、さらに東部へ移動を図った。 163番バスに乗って、馬山区から移動し、鎮海区の線路を超えた最初の バス停(メインストリート沿い)で、たくさんの乗客が下車するので、これに混ざって降りる。
その同じバス停から、路線バス 305番か 315番で、熊川城まで行ける(1,200 Won)。筆者は、
安骨浦城
と
熊川城
、および、
熊川邑城
を見学する意味で、 315番バスのみ愛用した。これ一本で、すべてが見て回れる。
この三城は、上地図の通り、この鎮海区の東海岸線上に並んでいる。
ちなみに、下地図は、まだ海岸線の埋立て工事が実施される前の状況をよく表している。ここまで地形が変形されてしまうと、もう同一の場所とは思えない。↓↓↓↓↓
上地図の白色の海岸部分とピンク色の一部はすべて埋め立て地である。
2003年から導入された沿岸 8地域の経済自由特区政策の一環らしいが、2014年現在では、外資誘致の成約総額は目標数値の 10分の一程度らしく、埋め立て区域はほとんどが未使用状態のままだ。その実情は、熊川城を視察される際に、無駄に広い産業道路と埋め立て地を目にされると、痛感されるであろう。かつての海岸線のままでよかったかも。。。
>>> 釜山・鎮海経済自由区域 公式サイト
話は脱線したが、
315番
バスに乗車したら、終点まで乗り続ける(約 40分ぐらい)。
終点間際、途中に大きな 湖(実は、海の入江)が見える 地区(キリスト教会もあり、一見すると、欧州アルプスの田舎町みたいに見える)で Uターンすることになる。この Uターン・ポイントが安骨浦村であり、安骨浦城への一番の最寄り停留所である。下写真と地図参照。
筆者は、315番路線バスの終点まで行き、徒歩 20~30分かけて元海岸線上ルートをつたって安骨浦城へ向かった。車の通りも少なく、いい散歩コースである。途中、魚介類の市場があり、なかなか見事応えがあって面白い(下地図の黄色のルート)。
下写真は、315番バスの終点停留所。すぐ横は海岸が広がる。
かつての海岸線上に通る道路を散歩しながら、正面に見える
安骨浦城
へと歩みを進める。
下写真左のように、左手に埋め立て地を臨みながらの散歩。山に近づいていくと、天守台の石垣が見えてくる。下写真右は、安骨浦城の入り口を示す案内板。
安骨浦城
城郭としては、規模が小さい印象である。しかし、山の標高は低いが、結構、急峻な小山である。
安骨浦城の本丸からは、対岸の熊川城は直視できない(直線距離にして 3 kmほどなのだが)。
それは城郭の西側に、より高い山があるためである(下写真左)。かつては、あの山も連結して防衛線や見張り台が設置されていた、と推察される。
しかし、今日現在、大変に残念なことに安骨浦城の前面に広がっていた海岸一帯は完全に埋めたてされており(上写真右)、その埋め立て土砂として、この西側の山から土が切り出されていた。
このため、かつての見張り台や守備陣地の遺構は完全に破壊されてしまっているはずである。
ちなみに
、安骨浦城は冬に来るべきだろう。春~秋にかけては植物が生い茂りすぎて、城郭内を散策するのが困難であった。それでも、変な復元作業で手入れされていない分、生々しい遺構跡を見ることができる貴重な古城遺産である。
また道中に耳にした話では、さらに最悪なことに、安骨浦城の北側に広がる 安骨浦村(例の欧州アルプスの田舎町のような場所)の海岸部分も埋め立て計画が持ち上がっているらしい。この先も、地形の変形がますます進む、とのことだった。
【 倭城ネタ 】
安骨浦城
標高 70.2 mの絶壁の山城である。朝鮮側の熊川県邑城の東約 2 kmにある湾岸エリアの東斜面に築城され、城の東面と南面より加徳水道を制御できる場所にあった。城の北側の湾岸が当時から入江となっており、 すぐ西側の海峡より回って、城郭の真下に直接、接岸できる構造になっていた。当時は、西方に直接、熊川城が見渡せたという。
1593年(文禄 2年)の築城時には、四国水軍の菅達長、来島通総、
紀州水軍の藤堂高虎
、堀内氏善、杉若氏宗、桑山一晴らが共同で作業に携わっている。完成後は、九鬼嘉隆、
加藤嘉明
、
脇坂安治
、そして前述の
四国水軍
と
紀州水軍部隊
が輪番で守備にあたった。それぞれの大名らは別個に滞在すべく、城郭は大きく 3地点に本丸を有する三角形タイプの変則型になっていた。
なお、安骨浦村の一帯にはもともと朝鮮軍の小規模な水軍基地が設置されていたという。全長 56 m、高さ 3 mほどの土塁に囲まれ、内部には井戸や接岸用の埠頭も設けられていた。
日本軍は、この 水軍基地(つまり現在の安骨浦村)一帯の入江を自軍の水軍基地として占領し、その山上に安骨浦城を築城したわけである。築城工事には 5万人もの労働力が動員されたといわれる。
その後、この城は日本軍の水軍基地として機能し続け、1593年の築城時から和議交渉期間もずっと日本軍が駐留し、1598年末の総帰国時に廃棄されるまで使用された。日本軍撤退後は、朝鮮水軍により接収され、その港湾設備は継続利用されたという。
下写真
は、熊川倭城から安骨浦城側を眺めたもの。眼下には無意味な埋め立て地が広がる。
かつては、この海に大量の日本兵船が行き来していたことであろう。
そして、
熊川城
方面へと戻る。同じく 315番(305番でもOK)に乗車して、15分ほど移動する。ここに、朝鮮時代の旧城壁が復元されたものが目に飛び込んでくる。ちょうど南側、海側の方角。ここで下車して、熊川邑城の城壁や堀川の復元を見る。その先には、熊川倭城跡が山頂にそびえ立つ。
熊川邑城
当初、あまりに立派に作られ過ぎている印象で、かなり興冷めしたのであったが、順天市に現存する
「楽安邑城跡」
を視察して以降、朝鮮式の邑城城壁も、実際、高さは低いものの、それなりに立派に石垣が組み上げられて作られていたことが分かり、ここの復元城壁もすべてが大げさというわけでもなさそうだと考える。
そもそも、熊川邑城は半島南海岸線に頻繁に襲来した倭寇と、近くの薺浦倭館の居住日本人らを監督するため、
第四代大王の世宗の治世下
の 1434年に築城されたものである。朝鮮時代前期に開港した三浦の中で最大規模の日本人居留地であった薺浦倭館から、わずか 1 kmほどの距離にあり、実際、三浦の乱の際、熊川邑城は日本人らに占領され、東門が焼失したとされる。
朝鮮の役
でも日本軍に占領され、熊川城の支城として利用された。戦後は再改修され、朝鮮南岸の主要防衛拠点の一つとして機能していくことになる。
近年の発掘調査から、堀は U字型に彫られており、その底に石が積まれ、木製の杭が打ち込まれていた(堀を渡る敵を防ぐため)。堀の深さは、2.5~3.5 m。また、城門前には跳ね橋もしくは固定橋が設置されていたという。城門は 4箇所あり、それぞれ 見龍門(東門)、睡虎門(西門)、鎮南楼(南門)、拱震門(北門)と命名されていた。
上写真左は、かつての熊川邑城の中央通りにあたる。現在でも、熊川村のメインストリートで、両脇には、立派な 小学校、中学校、高校の校舎が立ち並んでいた(下の古地図から、かつては役所群の敷地であったことがわかる)。それらとは、いかにも見劣りする商店街であった。いや雰囲気をぶち壊しているのは、立派すぎる学校の校舎の方であろうか。本来は、もっと小規模な村学校的なものにすべきかも。
下の古地図は、
1750年代
のものである。熊川県城を中心に、外南山、内南山、そして海峡付近に「倭城」の文字も見える。この当時、150年前に破却された熊川倭城も、とりあえず、地名として認識されていたようである。
安骨浦城に至っては、その入り江の集落地と一帯で「安骨」の地名のみで言及されている。
それでは、続いて古地図にある
倭城(熊川城)
へと歩みを進める。基本は、下の地図のオレンジ色のルートが最短ルートであり、往時の日本武士の移動ルートに沿ったものと考える。
要は、熊川邑城の城壁のすぐ東側にある 川(外濠川となっていた)沿いを、そのまま南進する、ということである。途中、高速道路下の橋げたの下を、道なき道を突破していく。といっても、地元の人が歩いたような形跡がわずかに残されているので、決して進入禁止の場所ではないらしい。
そのまま野原を突っ切り、川沿いをさらに進む。かつて、南山に築城された熊川城と、朝鮮軍から奪取した熊川邑城跡の支城との往来は、 きっと、この川沿いの土手あたりを進んだに違いない。
南山の山麓に到着したはいいものの、熊川城の登山口は非常に分かりにくい。経験者と来訪すれば問題ないだろうが、一人旅だと簡単には見つけられなかった。事前に上の地図で位置を確認して出向かれると無駄な遠回りを避けられるかと思う。
熊川倭城
熊川邑城とつながる川を堀川に応用しつつ、熊川城が築城されている。標高は倭城の中で最も高い。
一人で登山するのは、結構、おっかないぐらいに、うっそうと原生林が茂る山道をひたすら上へと向かう。途中までは舗装道路、さらにバイクなどが上がれる道が続くが、だんだんと密林地帯になる。夏場は登山を控えられた方がいいかも。朝鮮虎は日本軍の朝鮮出兵の際、まだまだ原野にたくさんいたらしいが、今日でもまだ少数ながらその生息が確認されているという。正直、トラとの遭遇という最悪シナリオを妄想しながらの登山であった。
上写真左は、三の丸石垣跡。角部分が崩れ落ちていた。
上写真右は、本丸の 入り口(虎口タイプ)。それにしても、小生が登山した 10月中旬でも、まだ木々は青々と生い茂り、石垣は隠れてしまっているし、非常に消化不良の気持ちになる。 冬場だと、石垣の見える割合も増すであろう。
この城は、
西生浦城
と並び、山裾まで続く「
登り石垣
」で有名だ。
下写真
は、 城下の 埋め立て地(沿岸の埋め立て地へと続く陸橋まで作っていた。。。)。かつては山裾のギリギリまで海岸線が迫り、 たくさんの日本の兵船が停泊していた場所だ。現在、ここは倭城村という集落地になっており、 城郭資材の多くはこの住民らの生活部材として再利用されているに違いない。 山頂部分の石垣のみ手つかずで今日まで残っているわけである。 現存する石垣は高さ 2~8 mのものが総計 700~800 mほどという。
小西行長
が在番守将を務めた間、
キリスト教神父
を日本より招聘し本丸に住まわせて布教活動を許可しつつ、自身や兵士、武将らは山裾の 海(川)沿いに居住していたようである。確かに、これだけ標高と傾斜がある山城だと、毎日、往復もしていられまい。
かつては、山裾から熊川邑城までの平野エリアに、多くの日本兵らが居住していたことであろう。
【 倭城ネタ 】
熊川倭城
朝鮮側の熊川県邑城の東南約 250 mの 南山山頂(標高 184.3 m)に築城された。東向きに出っ張った、四方全面の海域に見通しのきく岬の先端部に築城されており、東側と南側は鎮海湾に面し断崖絶壁で船舶の停泊は不可能であったが、北側の 入江部分(川の河口部分にあたる)は波も低く、数百の船舶が停泊できる入り江になっていたという。この城は、1593年、上杉景勝とその家臣の松浦鎭信らが築城工事を担当し、
小西行長
が守備についた。
本丸は他の倭城の中でも最も高い位置に築かれており、その広さは東西約 70 m、南北約 35 mであった。この南西部分の隅に天守台があり、その面積は 南北 15 m、東西 17 mほどであったという。また、朝鮮水軍による海側からの攻撃や上陸を阻止するため、海岸部から山頂部の本城部にむかって、南北に連なる「登り石垣」の城壁が築かれていた。当時、8万人を動員しての大規模な工事だったと推定されている。
ポルトガル人宣教師 セスペデス(1551~1611年)がこの城を訪問した際、その城中の様子を書き記している。
曰く、「守将の小西行長はじめ 有馬、大村、五島、平戸、天草、栖本ら各将や兵士らは、本丸下の山麓部分の 海辺(河口付近)にて居住し、その家屋の周囲にはそれぞれ石垣が設けられていた。 兵士らは巨大な家屋に共同生活していた。宣教師である自分と、小西行長の弟であった興七郎と ヴィンセンテは、本丸内に居を構え、ここで洗礼式や告白を行った」。
セスペデス自身は、1593年12月28日~1594年4月9日の間、この熊川城に滞在した。
この城は、1594年2月中旬ごろに朝鮮と明側の交渉団が訪問し、
小西行長
と和議交渉が実施された場所でもある。
また、熊川倭城の山頂の本丸の西側から、
明洞倭城跡
が見渡せる。
明洞小学校の近くに 集落地(明洞村)があり、この村の海岸部にある小高い山が、明洞城の出城部分で、その向かいにある大きい山の上に本城が築城されていたらしい。 この城は、熊川城の西の備えとすべく建造されたらしいが、その詳細は史書に記録が残されていないという。
また、戻るときは往路をそのまま引き返し、315番バスか、305番バスで、熊川高校前から乗車し、鎮海中心部へと帰還できる。だいたい 30分ぐらいの乗車時間。
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