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(慶尚南道)固城郡
訪問日:2014年10月中旬
大韓民国(慶尚南道)固城郡 ~ 郡内人口 6万人、一人当たり GDP 39,000 USD(慶尚南道 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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固城郡を地場にした 小伽耶国と、古墳時代の日本 へやってきた 渡来人たち
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松鶴洞古墳群
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固城邑城 と 旧市街地
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韓国の伝統家屋 がたくさん残る 旧市街エリア
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固城倭城の 城壁跡
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【倭城ネタ】 固城倭城
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統営 と 朝鮮水軍の 拠点跡(李舜臣博物館)
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海外防衛要塞の 跡地「所乙非浦城」
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地元愛の 印「年次別の 同郷会事務所」
筆者は、
泗川バスターミナル
より固城市入りした(乗車時間 40分、3,700 won)。
この街の歴史は古い。
恐竜の足跡が多数、同市内の海岸線に残ることでも有名で、街中にはいろいろ恐竜のモニュメントが設置されていた(下写真左)。自称、「恐竜の故郷」と号しているらしい。海岸部には広大な「恐竜博物館」も開設されているという。
また
、
朝鮮半島の三国時代にあって、当地には小国群を形成した伽耶諸国の一部の 小伽耶(ソガヤ)という独立国が建国されていた。当時、他の伽耶諸国として、駕洛、大加耶、阿羅伽耶、古寧伽耶、 星山伽耶など、合計 6か国あったらしい
。
このうち、固城一帯に形成された 小伽耶(ソガヤ)は、5世紀ごろに交易、商業の中継国家として栄えたとされる。倭国と 百済(半島西海岸一帯)との海の中継地点であり、また他の伽耶諸国との陸路での中継地点となった(下写真左)。特に、朝鮮半島でも穀倉地帯であった羅州平野と日本列島との交易の中継地として、活発な人、モノの移動があったようで、この三か所ではいずれも似たような文物が発掘されているという。
特に、古墳建設や埋葬品、土器類などは日本全国で(特に九州地方に多い)、朝鮮半島南部(馬韓や百済国)と同じ文物が発見されており、日本への文化伝播や人の移住などが行われていたことは容易に推察される。
しかし、小伽耶時代の豊かな古墳や土器文化は、
百済によって占領されてしまって以降
、パタリと終焉してしまったようである。以後は、古墳も築造されなくなったという。「海の民」と呼ばれた小伽耶の住民らは、ここから海へと逃亡し、日本に移住し、日本の国家支配層へ大きな文化的影響を与えたに違いない。 特に、小伽耶(ソガヤ)国の朝鮮語発音は、飛鳥時代、特に日本の中央朝廷で権力を握った「蘇我」氏と発音が似ていると感じるのは、筆者だけではあるまい。 半島より移住してきた当時は、渡来人が持つ先進技術を日本の中央政界に伝えていくことで、政権中枢へと食い込むことができたと思われる。
なお
、現代の埋め立て以前、海岸線はもっと固城市域の内陸部まで入り込んでおり、当時から
李氏朝鮮時代
末期までの固城付近は、固城城のすぐ目前まで海岸線が広がっていたよう である(トップ写真右)。
固城バスターミナルから、堂々たる 巨大古墳群(松鶴洞古墳群)がすぐに見えたので、 下車後、筆者の高揚感は早々と沸点に達していた。まずは、 バスターミナルから出て右手の巨大古墳を散策してみた。上写真。
この巨大古墳の裏側に、固城歴史博物館があった。日本にも大きな影響を与えた古墳築造に関し、 古代朝鮮時代の古墳建設現場の模型が展示されていて、視覚的に勉強になる。上写真。
この巨大古墳以外にも、街中にポコポコ山盛りの古墳跡を見かけた。 中には、教会と幼稚園を兼ねた敷地内にも、普通に古墳が保存されており、ちょっとビックリした(上写真)。
この古墳群とバスターミナルから、南へ約 10分ほど行くと、
固城邑城
があった一帯に行きあたる。
しかし、邑城の城壁などは全く残されていない。かろうじて、かつて城壁であったであろう箇所に遊歩道が引かれていたぐらいだった(下写真左)。
また、古城エリア内のアーケード街には Traditional Marketと銘打たれており、唯一、この地名が旧市街地であった名残を訴えているようであった(下写真右)。
下の写真は、旧邑城エリア内で目にした風景である(下写真左)。日本の警備会社 SECOMは、韓国でも大いに活躍しており、たまたまこの日、SECOM社の緊急出動車が旧市街地内に停車していた!現代自動車製だった。下写真右。
また
、韓国の伝統的家屋に必須の、低い石積み柵で庭や敷地を区分けするスタイルが、旧市街地内でチラホラと目にできたのもよかった(下写真)。
無人と化した旧家も所々見られた。下写真。
この邑城の最南端の角に、日本軍が朝鮮側の邑城を修築して建造した
固城倭城の石垣跡
を発見した。
固城倭城
固城博物館に、かつての倭城の石垣跡を撮影した写真が残されていた。つまり、
李氏朝鮮
末期の当時まで、倭城の石垣部分が残されていたことを意味する。
その中の石垣の一部が、この古城エリアの南側にわずかに残されていた。 この傾斜角度と角部分の石積みは間違いなく日本城郭のものである。下写真。
その反対側の道路にも一部の倭城石垣が残されていた(下写真)。
かつては、ちょうどこの真下当たりに海岸へつながる船着き場が設けられていた。
この
固城倭城
は、もともとあった固城邑城の部材を使用する形で、 1597年、
吉川広家
ら毛利勢の武将たちが築城したもので、完成後、立花宗茂らが駐留した。
1598年の泗川の戦いの折
、ここから、立花宗茂らは
泗川新城
に籠る島津軍へ救援を申し出ているが、
島津義弘
は断り、自力で明・朝鮮連合軍を打ち破っている。
【 倭城ネタ 】
固城倭城
海岸まで 500 mの距離にあった朝鮮側の 固城邑城(その石積み城壁は、周囲 1,070 mほどあった)を改修して日本軍が使用したものと考えられている。
吉川広家
と桂元綱などの毛利方の家臣が城の改修工事を担当し、
宇喜多秀家
、
藤堂高虎
などがさらに増築を加え、小早川秀包、立花宗茂、高橋統増、筑紫広門 などが守備に入った。毛利吉成も本来はこの城の守備担当であったが、後に秀吉の命により
西生浦城
へ転任している。
もともと固城邑城や旧市街地の前面には古代より海岸線が広がっており、
李氏朝鮮時代
には船で南門と直結した運河が掘削され、 船着き場が設けられていた(上絵図)。朝鮮の役後、住民らは倭城の大部分を破却し、その部材を邑城の再建に 使用したものと推察される。
また、この固城の海岸線の南側にある統営半島の先っぽ
統営
に、朝鮮水軍の水軍基地跡があり、今日、
李舜臣
博物館が開設されている。ここも視察したかったが、今回は時間がなく断念した。
下の古地図にある通り、李氏朝鮮時代、固城から東側の半島を南下して「統営」へ行くまでに、関所が設けられており、東から西の海岸線までを結ぶ長城タイプの要塞であったらしい。
また、固城郡の西の半島には、朝鮮山城の
所乙非浦(ソウルビポ)城跡
がある(下地図内の赤丸)。
李氏朝鮮時代の前期に築造された兵営所で、倭寇襲来に備えた兵士の駐留基地がその起源とされ、後に大幅な城壁が造営され、周囲を海に囲まれた堅固な要塞へと進化されていったという。ここも時間の都合上、訪問を断念せざるを得なかった。
下の写真は、固城の街歩きの最中、目に留まったものである。
下写真左は、歴史博物館に展示されていた小伽耶国時代の領主像。肩の鎧部分など、日本の甲冑につながる要素を感じるのは、筆者だけであろうか。朝鮮半島の伽耶諸国と日本との文化的つながりを強く感じさせられた
博物館
だった。
また下写真右は、同郷会の事務所入り口。誕生年ごとに同郷会事務所がある!!写真のものは、甲午の 年(1954年 と 2014年)生まれの固城同郷会と、癸巳の 年(1953年 と 2013年)生まれの同郷会事務所であった。日本にはない風習である。
筆者は、固城市外バスターミナルから、
晋州市
内へと直接、バスで戻った。乗車時間は 45分、4,500 Won。
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