BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年2月上旬


和歌山県 和歌山市 ② ~ 市内人口 20万人、一人当たり GDP 411万円(和歌山県 全体)


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  かつて、和歌山駅前にあった 環濠集落型の城塞「太田城」
  太田城の メインゲート「大門」と「大門橋」 ~ 現在の大門川
  東面の濠跡 と 太田城方の精神的支柱だった 日前国懸神宮
  太田城の 主郭部跡 ~ 来迎寺 と 徳川頼倫公直筆の「城址」石碑
  太田城方の 供養塚「小山塚」
  籠城軍と共にあった 毘沙門天の今
  太田城の水攻め と 堤防遺跡
  太田城開城 と 戦後処理 ~ 全国初の刀狩令 と 和歌山城の築城
  【豆知識】 信長や秀吉に抵抗した 紀州の地縁集団 ~ 武器商人、海賊、水軍傭兵部隊 ■■■
  幕末期に建造された 紀州海岸沿いの 砲台陣地群 ~ 総計 30数ヵ所
  雑賀崎台場(カゴバ台場)遺跡 と 算木積みスタイルの石垣
  番所庭園(番所ノ鼻)と 台場跡



 太田城

かつて、和歌山平野の中央部に、「太田城」という環濠集落型の城塞があった。素掘りの濠を外周とし、その土で内側に土塁を構築し、その上に土塀を連ねた典型的な中世式の城塞で、城内には 民家、集会所、寺社や市場などを含む、惣構えスタイルの設計となっていたという。

下地図は、当時の太田城の城域を、現在地図上に描いたもの。
北側のみ二重の濠が設けられて防備が強化されているものの、内濠、外濠の区別はなく、あくまでも集落地全体だけを取り囲んでいたことがわかる。
当時、一般的だった中世領主の居館を守る城館スタイルとは違い、平安時代末期から 中央政権(幕府や朝廷)の介入を遮断し、地縁住民らの自治をメインに運営されてきた紀伊国の社会構図を象徴する住民主体の城郭設計となっていたことがわかる。
ただし、環濠集落内でも 三ノ丸、二ノ丸、主郭などの曲輪分けが施されていたという。

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紀ノ川沿いや和歌山平野には、同時代、似たような環濠集落型の城塞や、寺院を改造した要塞、山城砦など大小たくさんの軍事拠点が存在し、強固な郷土意識でつながった 地侍や農民、僧兵らによって一帯が自治運営されていたわけだが、そのうちの一つに過ぎなかった、この土着の 環濠集落砦(太田城)が一躍、日本史の表舞台に登場することとなったのが、1585年4月の羽柴秀吉の大軍勢による水攻めだった。
太田城の水攻めは、対毛利戦の 備中高松城(岡山県)、対北条戦の 忍城(埼玉県)とともに、日本三大水攻め戦に数えられる大規模な攻城戦で、10万余りの秀吉軍が、地侍と農民ら老若男女あわせて 5,000人(うち戦闘員はわずか 1,000名たらず)が立て籠る太田城に攻め寄せるという、秀吉の紀州征伐の最後を飾るクライマックスの 攻城戦 だった。

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当時、太田城は東西 250 m、南北 200 m四方で、外周に水濠を巡らし、東面と南面に城門を有していた。そして、大門川に面した 東門(大門と呼ばれた)がメインゲートとなっていた。
上写真は、現在の大門川。

かつて、ここには 東門(大門)と大門橋があったが(下写真左)、開城後に撤去されて、この太田城跡地から西約 1 kmにある 大立寺(和歌山市橋向丁)へ移築され、 この 山門(和歌山県指定文化財)として再利用されているという。

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上写真右は 和歌山太田郵便局。ちょうどこの前の道路に水濠が掘削されていた(下地図)。

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上地図の右下端に見える「日前国懸神宮」は、かつてこの太田城エリアの住民らの精神的支柱となっていた寺院だが、秀吉軍が城を包囲すると真っ先に焼き払われた。

秀吉軍との直接対決で、その名を全国にとどろかせた太田城も、現在、一帯は駅前という好立地もあり早くから宅地開発が進み、その城郭遺構は全く残されていない。
下写真左は和歌山東年金事務所の一帯。かつての城内東端にあたる(上地図、太田公園付近)。
下写真右は、和歌山駅前に立つ、籠城軍のリーダー太田左近像。

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この住宅街のど真ん中にあって、かなり広い 土地(大部分は墓地)を有する 来迎寺 と玄通寺が、太田城の 中心部(主郭)と伝えられる場所である。下写真。
なお、下写真右の結晶片岩の 石碑「太田城址」は、紀州徳川家 15代目当主の 徳川頼倫(1872~1925年)の直筆という。

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ちょうど来迎寺の 裏手(東側)に巨大な石塚が立っており、太田城が開城した際、53名が打ち首になった地元代表者らを供養した塚とされる。下写真左。
この小山塚を含め、当時、処刑後の遺体は 3箇所に分けて埋葬され、それぞれに塚が設けられていたという。

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ここが城跡と知らない限り、どこにでもある平凡な住宅街としか思えないだろう。
しかし、地元にはわずかながら、地名にその名残が刻み込まれていた。上写真右の来迎寺正面にあった電柱には、「オオタジョウ」の地名が振られていた。さらに、現町名の太田町、大橋川、太田川なども、この名残であろう。

また、このエリアには、太田の姓を持つ方々が多数居住され、家屋の表札にたくさん同じ苗字を見かけることになる。寺院内の墓地も、数多くが太田姓の墓標だった。当時の雑賀衆の人々の末裔に間違いない。
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上写真は住宅の中に埋もれるようにして設置されている毘沙門天。 1577年の織田信長による紀州遠征で織田方に組した太田城勢に対し、その翌 1578年に他の雑賀衆が報復攻撃した際、城外にあった総光寺が焼失してしまう。その際、本尊にあった本毘沙門天が太田城内へ持ち込まれ、当城の守護神として安置されることとなる。1585年の秀吉による総攻撃の際も、太田城内にて籠城する住民らの精神的支柱となっていたと考えられる。

なお、現在の太田城跡地の北東約 700 mには、秀吉軍が水攻めの際に築いた堤防跡が残っているという(下地図参照)。

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1582年の本能寺の変後、翌 1583年に賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破り、さらに翌 1584年9~11月に小牧・長久手の戦いで 織田信雄・徳川家康連合軍と対峙し、畿内を中心に着々と全国平定を進める秀吉にあって、紀州は徳川家康や四国の長曾我部氏と組んで抵抗する重要な敵対勢力となっていた。

紀州勢が秀吉方の最前線基地だった 岸和田城重要都市・堺本拠地・大坂城(築城工事中で、12歳の若き 宇喜多秀家 も在番していた)などを攻撃し、その存在感を見せつけると、ついに 1585年4月、秀吉自ら紀州征伐に出陣することとなる。

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他方、和歌山平野部の地侍や 農民ら(大田党と通称される)は、太田左近宗正を総大将として、約 5,000人が太田城に立て籠もり、十万余りの秀吉軍を迎え撃つこととなった。

太田城方が大量の鉄砲を駆使して奇襲作戦を繰り出し、頑強に抵抗したため、秀吉軍は城から 300 m離れた地点に(当時の鉄砲の射程距離は 50 m、弓矢が 200 m前後だった)、総延長約 6~7 km、高さ約 4~ 6m、基底部幅約 34 mにも及ぶ大規模な堤防をわずか 6日間で築き上げ、水攻めを行ったわけである。
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上写真左のように、土や石が満載された土嚢や竹籠を積み上げて、その間に木材や竹で杭を打って水圧で押し流されないように補強し、上部に土を盛り上げて建造したと考えられる。
その大量の土砂や石材は堤防内側の土地や一帯の農地を掘削して捻出しており、周囲の自然環境は大いに変更を加えられたと思われる。戦後、これらの資材は 秀長の和歌山城築城 の資材へと転用されたことだろう。

3週間に及んだ持久戦の後、4月22日、ついに太田佐近ら中心人物の武将 50余名が自刃して首を差し出すことを条件に、他の者は助命されたと言われる。

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一か月強の進軍で紀州全体を平定した秀吉は、当地で全国に先駆けて刀狩を実施し、 実弟の羽柴秀長を紀伊国に配して、直接支配を強化することとなる。この直後に築城されるのが 和歌山城 であった(秀長自体の居城は 大和郡山城 で、新築の和歌山城には城代が配置された)。

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 なぜ、紀州の土着地縁集団は時の権力者、織田信長や豊臣秀吉に抵抗し得たのか?

紀ノ川の河口部に広がる和歌山平野には、古代より人々の居住が確認されており、和歌山駅の 東側一帯(和歌山市黒田の南側一帯と太田) には、弥生時代からの 集落地遺跡(太田黒田遺跡)が発掘されている。その規模は巨大で、 東西約 500 m、南北約 700 mにわたる環濠集落であったという(下地図)。

昭和の発掘調査で、 弥生時代の竪穴式住居跡 18軒をはじめ、各時代の溝、井戸、廃棄穴など多数の生活遺構が発掘され、 長期間にわたって集落が営まれていたことが証明されている。

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奈良時代に使用されていた井戸跡からは和同開珎、万年通報あわせて 46枚が 出土し、さらに後世の鬼瓦や宋銭なども発見されており、 古代より綿々と土着住民の生活空間が存在し続けたようである。 河川、海上交易都市として繁栄し、常に和歌山平野の中心を担ってきたものと考えられる。

日本の首都が、飛鳥地方や 奈良大阪京都 にあった時代から、その南の玄関口に位置した和歌山平野はかなり早くから 製鉄、水運、水利、造船、貨幣経済、各種土木工事などの先進文明の影響を受け、列島各地に水上交通ネットワークを作り上げて、それら畿内の先進文明を全国へ拡散させる仲介役も担ったのだった。

この紀ノ川沿いの和歌山平野一帯の住民らの先進文化への親和性、他地方との人的、物的交流ルートは子々孫々と受け継がれていく。あわせて、平安時代以降、畿内や高野山には多くの巨大寺院が寺社領を有し、武士や朝廷などの権力者が手出しできない空間を作り上げていたこともあり、その影響を受けて、村々の代表者からなる自治が広く行われ、自主独立の気運がもともと高かったと考えられる。

この和歌山平野で生活してきた 住民ら(海運・農業・漁業従事者から成る)の子孫らが、後に「雑賀衆」と呼ばれる土着の地縁集団を形成し、室町時代、戦国時代に大名支配を拒否した世代へとつながったわけである。
雑賀衆は種子島まで行って鉄砲を購入し、それを早速、自分たちでも模倣品を作って量産に成功したことでも有名で、 と並び、全国に鉄砲を売って各地の戦争をあおる武器商人でもあったわけである。もちろん、自衛のため武装もし、海賊行為を行う者もあった。瀬戸内の村上水軍 とも親交があったことは知られており、信長の石山本願寺戦争 では傭兵集団として織田軍を苦しめている。

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また、戦国期の主な軍船であった安宅船の製造には巨大な材木が必要で、紀州の山奥から木々を切り出し、造船業も盛んだったという。それらの戦艦をも全国の大名に売る、筋金入りの武器商人だったわけである。小田原・北条氏に雇われた紀州出身の 海賊(武器商人)梶原景宗(1533~?)などが有名である

雑賀衆は各地区に住む数百人単位の住民らで構成されており、それらが徒党を組んで連合体として、時の権力者であった秀吉や信長に抵抗したのだった。なお、和歌山平野の雑賀衆は、その自主独立の気運の高さから、周囲の別集団との連携も悪く、敵の敵は味方という感じで、時機により秀吉や信長などの権力者集団に追随して、別集落を襲うことも度々あった。この分断状態が最終的に雑賀衆の運命の灯を消し去ることを早めてしまうわけなのだが。

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太田城に籠城した 雑賀衆一派(宮郷エリアの住人。俗に太田党と通称された)は、周囲の雑賀衆が秀吉方に屈服させられ、また帰順してしまった中で完全に孤立無援となり、秀吉軍の水攻めをまともに食らうこととなる。



 雑賀崎砲台跡 と 番所公園

現在も 雑賀崎や雑賀町、雑賀屋町などの地名が、和歌山市内の南西部の海岸線沿いに残る。

商都・大坂 の南回り太平洋航行ルートの要衝である紀伊水道に直接、面しており、紀伊半島沿いの複雑な地理関係を熟知した彼らは戦国時代、まさに海賊、時に傭兵集団、時に武器商人となって航路全体を牛耳っていたわけだが、江戸期に入ってもそのまま当地に居住し続け、引き続き、航路運営や漁業で生計を立てていたのだろう。

今回、筆者は自動車で雑賀崎~和歌浦の海岸線を訪問してみた。絶壁の海岸沿いにそそり立つ急斜面に囲まれた谷間に形成された集落地は、エーゲ海に臨むギリシャの港町をほうふつさせる絶景だった。
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この複雑かつ長大な海外線沿いに、外国船の接近が重なった幕末期、たくさんの 砲台陣地(台場)が建造されることとなる。
和歌山城を守るように、紀州藩は 1854年、 加太から 大崎(下津町)までの城下近海を 7区画に分け、それぞれの担当者として 7名の家臣に命じ、その持ち場の要所に台場を築かせたのだった。建造された台場陣地は合計 30数か所にも上ったという(下地図)。
実際には財政事情から、機能しそうな砲台基地を作り上げることができず、ずさんな工事となったらしい。農民らの自主的な協力で大規模な台場が建造されていった山陰地方 とは、まったく住民らの気質や意識が異なっていた点がおもしろい。

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そうした突貫かつ、手抜き工事で急ごしらえされた紀伊藩の台場陣地の中で、この雑賀崎台場跡は防塁壁や砲座などの遺構が非常に鮮明に残っているということで、2010年、和歌山県から県指定文化財に選定されているという。

下写真 は和歌山城下から海岸エリア全体を眺めたもの。幕末期、この海岸沿いには砲台陣地がひしめいていたことになる。先の雑賀崎台場跡は赤丸の岬部分に立地する。

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そもそも和歌山の海防は、藩祖・徳川頼宣(治世:1619~1667年)以来、農民と漁民を動員して「浦組」という組織で構成されており、5代目藩主・徳川吉宗の 治世下(1705~1716年)でさらに強化され、和歌山城の西から熊野までが「いろは・・・・やま」の記号で区分けされ、さらに明確な守備任務が課せられていた。

この体制をさらに上塗りする形で、1854年正月から開始されたのが、 7区画分担制による台場建造であった。現在もその遺構が確認できる 雑賀崎台場(別名:カゴバ台場)遺跡と 元番所台場(現番所庭園)であるが、実際には詳しい築造時期や作業工程は不明で、実態は全くつかめていないという。

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上地図は雑賀崎台場遺跡の全容であるが、実際に砲台陣地に入ってみると、平坦に整備された中央広場と、周囲の防塁壁がきちんと目視できるレベルにあった。
下写真の左側が台場主郭で、一段低くなっている右側の曲輪が方形壇である。

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台場主郭は思ったよりこじんまりしていた(下写真)。
同様の台場陣地を 30箇所以上も即席で建造しなければならなかったわけだし、苦肉の策で捻出した時間と労力が充当された当時の人々のつらい境遇に思いを馳せずにはいられなかった。

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下写真は、方形壇の石垣。
算木積みスタイルで小さな結晶片の石材が組み上げられており、石垣の四つ角部分が長短の組み合わせで石材が交互に積まれた、江戸期特有の築城技術が援用されているという。

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下写真は台場主郭の下に残っている長さ約 20 mの石垣。同じく算木積みスタイルの石垣だが、小石や木材、土砂が積み上げられた臨時の土塁といった感じ。洋式艦船からの大砲の直撃を食らえば、全く無力だっただろう。

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下写真左は台場陣地の南面、下写真右は北面。
南面には複雑な海岸線が連なる紀伊水道の絶壁と島々が見渡せる反面、北面は和歌山平野に面する砂浜へと直結されており、その先に 和歌山城と城下町が一望できた

地元では、この雑賀崎は「トンガの鼻」と通称されており、雑賀崎台場遺跡は「カゴバ台場遺跡」と呼ばれていたという。「カゴバ=篭場」のことで、その昔、紀伊水道に魚をおびき寄せるために、この岬の北面に餌となる魚類を籠に入れて泳がせていた習慣から、地元で地名として定着していたらしい。
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雑賀崎台場遺跡(カゴバ台場遺跡)のすぐ南に見える、海に突き出た平面な 台地上(下写真)には、別の台場陣地が建造されていた。
続いて、この岬の台場陣地跡を訪問してみる。

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ここは、「番所ノ鼻」と呼ばれる岬で、紀州藩の見張番所と台場陣地が配されていた。
周囲は民宿や旅館が集積する温泉郷集落の感じだったが、その寂れ具合は隠しようもなかった。

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下は幕末期の「番所ノ鼻」の様子。

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現在、番所庭園としてきれいに整備された芝地と植木の庭園なのだが、近づいてみると、海岸リゾート地のゴルフ場に見える。さらに驚いたのは、その入場料の高さだった。入園料 500円、駐車料金 600円というではないか。遠目からの写真撮影で、とりあえず退散することにした。

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これらの岬上はもともとデコボコの岩盤が表出する地形だったのだろうが、台場陣地の建設時に、土砂できれいに整地されたという。その土砂には椀や鉢、瓦などの破片も多数含まれ、文字通り、なんでもかんでも集められて突貫工事が進められたことがうかがえる。
下写真は、番所庭園側から雑賀崎台場遺跡が立地する岬「トンガの鼻」を眺めたもの。

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