BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2019年11月中旬 『大陸西遊記』~


愛知県 豊橋市 ~ 市内人口 39万人、一人当たり GDP 400万円(愛知県 全体)


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  豊橋駅から 吉田城の旧城下町エリア(東海道筋)をサイクリング ~ 牟呂用水 と 水上ビル
  多米街道 ~ 豊鉄市内線(豊橋鉄道)沿いに 二連木(仁連木)城跡 を目指す
  丘陵斜面上に建造された 二連木城の土塁や曲輪跡は 見応え抜群!
  【豆知識】二連木城の歴史 ~ 今橋城(吉田城)との地元紛争 と 武田信玄の襲来 ■■■
  【豆知識】二連木城の今昔マップ と「大口」公園の由来 ■■■
  二連木城跡近くに立地した、古城稲荷神社の壮観さ
  吉田城下町の 東惣門脇に設置されていた、秋葉山常夜燈 の由緒
  吉田城跡(豊橋公園)に残る 土塁、空堀、茶道師範・山田宗偏の 邸宅跡
  吉田城で唯一、石垣化されていた 本丸曲輪と 空堀を歩く
  藩主専用の船着き場 から 本丸曲輪・鉄櫓へ登る
  市役所 13Fの展望スペースに展示されていた、近代豊橋の資料 ~ 陸軍第十八連隊の誘致
  【豆知識】東三河国の 要衝・今橋城時代 ~ 牧野氏 vs 戸田氏、松平家 vs 今川家 ■■■
  【豆知識】家康の治世下、酒井忠次が 24年間 城主を担当 ~ 武田氏との抗争を経て ■■■
  【豆知識】池田輝政による 吉田城の大拡張工事と 江戸時代 9家22代の譜代大名家 ■■■
  旧城下町の 西惣門と 湊町(吉田大橋)の 今昔
  豊川市・伊奈城跡への 50分のサイクリング ~ 豊川と 豊川放水路 を越えて
  巨大土塁 と 広大な田園地帯 が見どころ、伊奈城跡
  【豆知識】伊奈城 ~ 徳川家「三つ葉葵の紋」ゆかりの地 ■■■



豊橋では、駅西口から徒歩 3分の「ニュー東洋ホテル 1」に投宿した。
翌日、 JR豊橋駅構内にあった観光案内所で、地元豊橋市にある史跡について助言をもらう。スタッフの方はこなれた様子で、スマートな案内と助言に非常に感銘を受けた次第である。ここで、夕方に訪問することになる「伊奈城跡」の存在も発見できた。
遠いところでは、豊鉄奄美線の終点駅「三河田原」まで行くと、田原城、田原市博物館、民俗資料館などがあると解説されたが、当地には一日しか滞在しなかったので、訪問は諦めた。この他、JR飯田線沿いには野田城、長篠城、設楽原(長篠古戦場跡)などもあり、次なる豊橋再訪を誓う。
なお、JR豊橋駅の改札前には、「日本最大級の自動車輸出入港 三河港」について、簡単な紹介コーナーも開設されていた。東京大阪 のほぼ中央に立地する三河港は、日本産の自動車を世界へ、また欧米産の自動車を 輸入(国内シェア 50%)するゲートウェイになっている、とのことだった。

さて、駅東口を出て徒歩 5分弱にある「エコチャリ豊橋駅前大通店」で自転車を借りた(終日 500円、保証金 4,000円が別途要)。

豊橋市 豊橋市

なお、この豊橋ビル商店街の下には農業用水の牟呂用水が流れ(上写真右)、その上に約 800mに渡って蓋をし、9棟から成る 3~5階建ての鉄筋コンクリートの 低層アーケード街、事務所、公共団地群が建設されたものだった(1964~67年)。その立地から、水上ビルと通称されるようになる。上写真左。
もともとは引揚者や戦災者らが戦争直後に豊橋駅前で開いていた闇市を、市が神明町に移転し青空市場へ改編させ、最終的にこの用水路上に蓋をしてアーケード街へ整備し入居させた、という背景をもつ。実際、昭和の香りがムンムン漂うエリアだった。

早速、自転車で水上ビル沿いを東進し大池通りとの交差点を右折して、前田町の交差点から北上すると、国道 1号線との 交差点(豊鉄市内線「東八町」駅あたり)に行き着いた。

豊橋市 豊橋市

その一つ手前の道路が旧東海道で(上写真)、周囲の地名にも往時の城下町の名残りが色濃く刻まれていた。大手町、上伝馬町、関屋町、魚町、花園町、広小路、鍛冶町、談合町、曲尺手町、呉服町、中世古町、八町通、八百間通りなど。
ここから東海道は、国道 1号線沿いにさらに東へと続いていた(下写真左)。
ちょうど東八町交差点に巨大な陸橋があったので、写真撮影にはもってこいだった(下写真右)。

豊橋市 豊橋市

東海道を少し走り、西新町の交差点を北上して、豊橋鉄道(豊鉄市内線)沿いの多米街道(国道 4号線)に入る。ここは道路幅が狭いにもかかわらず、市電、自動車、自転車、歩行者が同時に並走する危険地帯だった。特にびっくりしたのは、市電が道路ど真ん中に停車し乗客が乗り降りしているので、都度、脇を走る自動車は乗客の動きに気を配らないとダメ、という共存関係にある光景だった。地元民でなければ、脇を走る市電に見とれて下車してくる乗客まで気回らないリスクがありそうだ。

豊橋鉄道の市電沿いを 5分程度移動すると、「競輪場前駅」を左折する。そのまま 住宅地(町名は仁連木町。下写真左)を 5分弱ほど北上し、豊橋競輪場 手前を西進すると、うっそうと木々が茂る大口公園に行き着いた(下写真右)。ここが「二連木(仁連木)城跡」である。

豊橋市 豊橋市

この 古城公園 は思ったより広く、また城郭遺構と類推し得る地形が至るところに残されていた。

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上写真左は、「二連木城」の石碑。公園広場には緑地帯が広がり、散歩空間になっていた。
その広場の西面と北面には土塁と斜面が残っており、見応え抜群だった(上写真右)。

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北面の土塁斜面の下は(上写真左)、小さな球技広場になっていた(上写真右)。

豊橋市 豊橋市

球技広場に隣接する遊具広場まで移動し、再び坂道を上がって緑地広場を目指すと(上写真左)、老人福祉センター脇に出る(上写真右)。
下地図の赤ラインは、本日の散策ルート。

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周囲も含め全体として、北へと下る丘陵斜面の勾配が非常によく残っており、往時の地形を実体感できる遺跡だった。下古絵図 にある通り、かつては北面と西面の低地一帯には川と田んぼが広がっていた。


 二連木(仁連木)城

戦国時代初期の 1493年、戸田宗光(1439?~1508年)によって築城される。
戸田氏はもともと知多半島一帯を所領とする土豪で(本拠地は田原城。下地図)、三河守護・一色氏の弱体化に伴い北上して勢力を拡大していく。その過程で、もともとの在地領主だった土豪らと衝突が生じ、特に同じく一色氏の家臣であった牧野古白と紛争を繰り返すようになる。そうした不穏な空気の中、新領地の防衛を企図して建造されたのが本城であった。

この戸田氏の勢力伸長に対抗すべく、当時、東三河地方の中心都市であった「今橋」の防衛を企図し、牧野古白も今橋城を築城する(1505年)。両城は 2 km弱の至近距離にあり、血みどろの紛争に明け暮れた後、翌 1506年に牧野古白は完成間もない今橋城を攻められ、自害に追い込まれる。

豊橋市

その戸田氏も 1547年、本拠地の 田原城(現在の 愛知県田原市田原町巴江)を今川義元に攻められ滅亡に追い込まれる。しかし、この時の二連木城主は戦死した戸田康光の次男・戸田宣光で、父と離反し今川家に臣従したため今川配下の武将として戸田家は存続する。以後、今川義元により松平家の与力に組み込まれる。

1560年5月の桶狭間合戦後、松平元康(徳川家康)が独立し西三河を平定すると、当初は今川氏真に従った戸田氏も間もなく松平家に帰順する。1565年、松平家康が今川方の 城代・小原鎮実(1546年から城代就任。後に花沢城主となるも、武田の駿河侵攻に遭い落命)の守る今橋城を降伏、開城させると 酒井忠次(1527~1596年)を入城させ、二連木城の戸田氏をその与力に組み込む。以降、二連木城は東三河の最重要拠点・今橋城の支城としての役割を期待されていくこととなる。

1571年、武田信玄が奥三河から家康領へ侵入すると、酒井忠次の守る吉田城(前年の 1570年6月、家康がその居城を岡崎城から浜松城へ移し、対武田との最前線基地としたことにあわせ、陸路交通が整備され豊川に橋がかけられる。これを機に今橋から改名された)を攻めるも堅城で攻めあぐねたため、その支城であった二連木城を包囲する。
慌てて 遠江・浜松城 から家康本隊も援軍にかけつけると、吉田城主・酒井忠次が出撃するも二連木城の救援かなわず落城させてしまう。しかし、短期間の武威行動を目的とした武田軍はそのまま二連木城を放棄し信濃方面へ撤退していった。翌 1572年秋に今度は遠江北から侵攻した武田信玄は年末に勃発した三方ヶ原の戦いで家康本隊を潰走させると、そのまま三河、遠江の国境分断を企図して 再度、吉田城へ迫るところで 信玄の病が悪化し、野田城攻略がなる前に甲斐へと撤退するのだった

1575年4月に武田勝頼軍が長篠城を包囲するも堅城で攻めあぐねたため、武田軍は周囲の支城へ圧力を加えるべく、二連木城や吉田城一帯を荒らしまわり、徳川家康本隊の出陣を誘うも家康は 遠江・浜松城 から動かなかったため、長篠城側へ戻っていった。
この翌月、まさに設楽原の戦いが勃発し、ようやく 織田・徳川連合軍と白兵戦ができるといきり立った勝頼軍は大敗を喫してしまうのだった。この瞬間から武田と徳川のパワーバランスが一気に崩れ、以後、二連木城や吉田城は戦火に巻き込まれることはなくなる。

1590年、徳川家康が関東移封となると、二連木城主・戸田康長(1562年~1633年。 大坂の役 が終了した 1617年、 信濃・松本藩 7万石に加増移封され出世していく)も、武蔵国東方(今の 埼玉県深谷市)1万石の大名として移住し、吉田城には 池田輝政 が 15万2千石で入封する。直後より吉田城の大改修工事が着手されると、二連木城は破却され、その城郭資材はすべて新吉田城へ移築されたものと推察される。

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二連木城は朝倉川を臨む段丘端に築かれ、約 600m2の本丸をはじめ、本丸北に蔵屋敷、東に二の丸、さらに二の丸を取り囲むように東曲輪と南曲輪が配置されていた。それぞれは土塁と堀で隔てられていたという。
現在、公園となっている場所は本丸跡で、老人福祉センターのある二の丸跡、そして本丸周辺に空堀や土塁の一部が残っている。

なお、この二連木の地名であるが、かつて一帯に楡(にれ)の大木が茂っていたことに由来するという。
下写真は豊橋公園にある市役所庁舎 13Fからの眺め。眼下には吉田城跡が広がる。両城の距離は 2 kmもない、目と鼻の先。
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明治末期の 1911年、初代豊橋市長・大口喜六(1870~1957年。下写真)が二連木城跡地を買収し、個人的な果樹園とした。彼は翌 1912年に 5年間務めた市長職を辞し、以後、衆議院議員として 東京 生活を送ることとなる。そして太平洋戦争後、公職追放となった大口喜六はこの地を仮住まいとして 6畳3間ほどの平屋を建て、風樹庵と命名して居住したという。その後、大口氏の一族が邸宅を継承するも、1961年に豊橋市が買収し「大口公園」として開放されると、1977年の再整備工事を経て今日に至る。

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続いて、その南側にある稲荷神社を訪問する。こんな住宅街のど真ん中にあって敷地が異様に広く、また深紅の壁面が目立っていたのでビックリした(下写真左)。旗指物には「奉納・正一位古城稲荷大明神」と記されていた。二連木城時代、ここは城の守り神として、城主や家臣団、城下町の人々の厚い帰依を寄せられていたに違いない。

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再び、多米街道(国道 4号線)に戻り、豊橋駅方向を目指す(上写真右)。途中、「東田坂上駅」から「前畑駅」までの坂道は爽快だった。

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そして旭橋を過ぎ、先ほどの 陸橋地帯(東八町交差点)に戻ってくる(下写真左)。自転車だと 10分もかからない距離だった。上地図の赤ライン。
ここで旧東海道に設置されていた常夜燈が復元・保存されていた。下写真右

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 吉田中安全秋葉山常夜燈

秋葉山常夜燈とは、江戸時代に盛んになった火伏せの神・秋葉信仰のために、秋葉山へ参詣するための街道沿いに設置されたもので、後世になって、火伏せの神への信仰や地域内の安全を願って町や村自身も自らのために燈篭群を建立するようになる。本来は一晩中、明かりを点けていたという。

当地に残る常夜燈は、江戸後期の 1805年に吉田城・東惣門に近い 今新町(今の西新町)の東海道から本坂通への分岐点に、吉田城下での度重なる大火に対する安全祈願などを理由に、吉田惣町の寄進によって建てられたものという。
以来、「新町の大燈篭」として吉田宿の名物となるも、三河地震(1944年)による倒壊とそれに続く戦火にあって残骸が放置されてきたという。この状況を憂えた常夜燈保存委員会により、1980年に豊橋公園内に移築、復元されていたが、2001年(東海道宿駅制度制定 400周年の節目)、江戸期の本来あった場所に近い現在地に再移転されたという。

豊橋市

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この常夜燈は、下から基壇・基礎・竿・中台・火袋・笠・宝珠の各部位から成り、基壇の一部・火袋・宝珠については 1980年の再建時の復元という。基壇以外は一石を整形されたもので、竿は上下に蓮弁が彫り出され、その間に「秋葉山」・「常夜燈」、やや小さく「1805年5月吉日」の文字が彫りこまれている。

また常夜燈の高さは 5.03 mで、石材は岡崎市北部の細川地区周辺で産出される伊奈川式花崗岩と考えられている。豊橋市内には 70余基の秋葉山常夜燈が確認されているが、高さ 5 mを超えるものは他に例がない。また、常夜燈建立の時期や場所が明確で、その経緯も詳細に記録されており、歴史的に見ても非常に貴重という。


ここから北へと進路を変え、一つ目の交差点を左折する。うっそうと茂る緑地公園が 吉田城跡(豊橋公園) と目星を付ける。

この公園脇に 山田宗偏(1627~1708年)の邸宅跡という記念碑を発見する(下写真左)。江戸時代前期の茶人で、1655年に 初代三河吉田藩主・小笠原忠知(1599~1663年。信濃・松本藩の 初代藩主・小笠原秀政の三男)の茶道師範となって仕えるようになると、吉田城内に屋敷を与えられたという。

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そのまま公園内にある市美術博物館を訪問してみる。ここで歴史の展示物を見たかったが、特別展開催中は一時閉鎖されてます、ということで見学できなかった。。。
それにしても、博物館の周囲には見事な土塁や空堀が残されていた(上写真右)。

三ノ丸会館側へ移動する。ここにも空堀、土塁跡が残り、なんと自由に足を踏み入れてもよかった。感動の城跡公園だった。下写真。

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本丸曲輪の空堀や石垣はさすがに大規模に建造されていた(下写真)。ここも自由に下りることができ、この開放っぷりに感謝、感謝。

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本丸空堀に下りてみて、一周回ってみることにした。それにしても、かなりの高さを誇る土手と石垣が連なっており、実に壮観だった。
途中、横に生えた巨木が気になった(下写真の奥)。頭を下げて下をくぐってきた。

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本丸西面の空堀には、見事な石垣が残っていた。下写真。
下写真左に見える櫓は、再建された鉄櫓。

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そのまま空堀を北端まで行き着くと、豊川 沿いまで出た(下地図の黄色ルート)。川の流れはかなり速かった。
と、その脇に急な石階段が目に飛び込んでくる(上写真右)。ここから本丸へ直結されているらしく、往時は藩主が船移動する近道ルートだったという。下地図の黄色矢印部分。

急な石階段は段差が大きく、昔の武士は袴で登り下りも大変だっただろうと妄想しながら、最頂部まで上りきると本丸曲輪が眼前に広がる。四方の周囲には低いながら石垣や土塁が残っており、なかなか見応えがあった。

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この本丸曲輪に、現在、唯一の城内建造物として 1954年に復元された 鉄櫓(くろがねやぐら。江戸期、天守閣のなかった吉田城内にあって、天守の役割を担う高さ 15 m、石垣 9 mの櫓)が立地していた。内部は博物館となっており、見学無料だった。
この櫓上から本丸曲輪や豊川、その背後に広がる豊橋平野が一望できた。下写真。

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続いて、午前中に豊橋駅構内の観光案内所で助言をもらっていた三の丸跡地に立地する市役所庁舎 13Fの展望スペースに行ってみる。下地図の黄色部分。
豊城中学校の校舎の横にあった市役所は広々とした建物で、地下にはコンビニまで併設されていた。1F入口脇の休憩スペースで食事もできるようだった。

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13Fでは市内観光の解説などもあった。地元伝統の手筒花火の展示コーナーでは、ハッピを着て実物の手筒花火を体感することができた。

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市役所を後にすると、庁舎前に広がる二の丸、三ノ丸跡地一帯を散策してみる。中堀と外堀は完全に埋め立てられており、だだっ広い緑地公園となっていた。
どうやら戦前まで城内全域が陸軍第十八連隊基地となっており(上地図)、一般公開されていなかったらしい。今でも、放置された軍事施設の遺構の一部が残されていた。

続いて、NHK豊橋支局と市役所脇を通って、県道 247号線沿いから豊川を目指してみた(下写真左)。途中、豊城中学校脇に赤レンガ造りの「歩兵第十八連隊 西門」が保存されていた(1959年9月、国道 1号線工事のために移築、復元されたものという)。下写真右。

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吉田大橋から豊川、鉄櫓、古城地区を一望する(上写真左)。写真右に見える高い建物が市役所庁舎で、ここの 13F から吉田城跡を遠望したのだった。



 吉田城

この地は、15世紀頃には今橋と呼ばれる交易集落が形成され、東三河一帯の流通拠点として重要都市に成長していた。16世紀に入ると周囲の豪族 ー 宝飯郡の 一色城(今の 豊川市牛久保町)を拠点とする牧野氏、渥美郡の田原城を本拠地とする戸田氏、西三河の松平氏、駿河の今川氏 ー らが覇権を争うようになる。

特に、東三河にあって今川氏をバックに頼る牧野氏と、新興勢力の戸田氏との抗争は泥沼化し、その中間地点にあった 重要都市「今橋」を巡って、両者は度々、戦端を開くようになる。ここに至り、牧野古白が今橋城を築城する(1505年)。これが吉田城の前身となるわけだが、当時の今橋城の縄張りは不明な点が多く、往時の本曲輪は現在の 吉田城・本丸と三の丸会館の間にある金柑丸跡を中心とする一帯だったと推定されている。

しかし、牧野古白自身は築城の翌 1506年、戸田氏に攻められ討死してしまう。その後、生き残った牧野氏一門は牧野城、牛久保城など豊橋平野北部へ潰走するも、引き続き戸田氏に抵抗し、最終的に今橋城を奪還する。
途中、遠江まで勢力を拡張させていた今川氏からの斡旋もあり、牧野氏と戸田氏は一時停戦したものと推察される。

豊橋市

こうして今川氏の関与が東三河へ浸透しつつある頃、西三河を制圧した 松平清康(1511~1535年。徳川家康の祖父)がそのまま東三河の併合を企図して 今橋城(牧野氏)や 二連木城(戸田氏)へ侵攻し両城は攻め落とすと、そのまま牧野一門、戸田一門は松平家に帰参する(1529年)。松平家が東三河に触手を伸ばすということは今川家への宣戦布告を意味したが、この頃、今川家の絶対君主だった今川氏親が死去し(1526年)、14歳だった 長男・今川氏輝(1513~1536年。義元の兄)が家督を継ぐも、実質は母の寿桂尼が後見人として政治を司っていたタイミングで、今川家からの軍事介入はなく無難に過ぎる。

一方、三河統一を成し遂げた松平清康は長年、敵対してきた 隣国・尾張の織田信秀と雌雄を決すべく、美濃・斎藤道三と手を組み南北から尾張へ侵攻する。しかし、清康は同盟者の裏切りで暗殺されると(森山崩れ。1535年)、当主を失った松平家は大混乱となり、独立を模索する者、再び今川家へなびく者が現れる。
この頃、内政で手一杯だった今川家も花倉の 乱(1536年)を制した今川義元が国主となると、いよいよ対外政策を再活性化させる動きを見せる。こうして三河国に割拠する国人らに帰参を求めると、西三河の松平広忠もその傘下に入るべく、息子の 竹千代(後の徳川家康)を人質として送り込むのだった。これに抵抗した今橋城の戸田宣成は 1546年、今川軍に攻められて落城し、自決に追い込まれている。
以後、今橋城は今川方の直轄支配を受け、駿河から城代が派遣されることとなる。

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しかし、1560年5月に桶狭間合戦で今川義元が戦死すると、松平元康(徳川家康)は城主不在となっていた岡崎城へ勝手に帰国してしまい、西三河で独立する。
今川氏と断交し織田信長と同盟した家康は順調に西三河地方を平定し、1562~63年にかけては上ノ郷城、牛久保城、今橋城を攻撃するも、西三河で勃発した一向一揆鎮圧のため、いったん東三河戦線からの撤退を余儀なくされる。
1564年に一揆勢の鎮圧を終えると、家康は再び東三河へ攻勢に出る。今川方の 城代・大原鎮実の守る今橋城の攻撃戦では永禄下地合戦として 10ヵ月にわたる戦いで勝利し、翌 1565年に城を占領すると、信頼のおける 重鎮・酒井忠次を今橋城主に据えて東三河地方を完全掌握するのだった。酒井忠次の夫人は徳川家康の 伯母・碓井姫(光樹院)で、徳川家康の家臣で城が与えられたのは酒井忠次が初めとされる。以後、1565~1588年の 24年もの間、吉田城主を務めつつ、他方で家康に従い、駿河の今川攻め に参加する一方、 武田信玄の吉田城攻めを受ける など戦いに明け暮れ、 1575年の長篠の戦いでも活躍して徳川四天王の筆頭・家康第一の功臣として称えられることとなる。

また当時、今橋城周辺では西三河方面に対する備えのため、豊川に橋が架けられていなかったが、武田信玄の三河、遠江侵攻に対抗すべく、領国内の交通の便をはかるために 1570年、関屋口に土橋が築造される。これが吉田橋の始まりとされる。この頃に、今橋城も吉田城へ改称されたと考えられている。

そして翌 1571年、武田信玄が東三河侵攻を開始すると、三河北部から大軍で攻め入った武田勢は足助、作手の各城を落とし、続いて 野田城、二連木城、吉田城などを攻撃する。
最初、前線の支城であった二連木城を守った酒井忠次であるが、苦戦に陥り吉田城に撤退し籠城する。吉田城はなかなかの堅城であったことから信玄も城攻めをあきらめ、周囲の長沢城や牛久保城などを攻撃して 甲斐 へ帰還する。信玄の三河侵攻の目的は西上作戦の前哨戦であり、武威行動であった。

翌 1572年、信玄は 2万の大軍で遠州方面から侵攻し、三方ヶ原へおびき出された家康軍を潰走させるも(下地図)、年末には体調を崩した信玄は翌 1573年春に甲斐へと再撤退するのだった。
1575年5月の長篠合戦で武田の攻撃部隊が壊滅すると、以後、三河方面での武田軍の侵攻はなくなり、最終的に 1582年3月に武田家自体が滅亡する。
豊橋市

1590年に家康が関東へ移封されると、続いて 池田輝政 が 15万2000石で入城し、 11年間にわたり吉田城主を務めた。輝政は早速、吉田城を近世城郭へと大改造すべく工事に着手し、城下町の整備がスタートする。 ところが、輝政は 10年後の 1600年の関ヶ原合戦 後に 播磨姫路 に国替えされる。

輝政以降、江戸時代を通じて吉田城には 9家 22代の譜代大名が入封したが、前期は転封が激しく、中期以降は 松平(大河内)氏が城主となり幕末を迎えることとなる。なお、特に江戸前期において吉田城主への就任が出世の登竜門ともいわれ、多くの譜代大名が入封を希望するほどであったが、いずれも小規模な石高だったため、輝政によって大拡張された 城地(84ヘクタール)の石垣工事が未完のまま明治に至るのだった。
結局、吉田城内でも石垣があるのは本丸部分だけで、他の郭は土塁のまま放置されたわけであるが、その本丸石垣ですらも全国普請で大工事が進められた大阪城や 名古屋城 の築城工事で余った石材などを一部、譲り受け、吉田城へ運ばせて石垣に使用するという、後付け的な作業に終始されたのだった。

なお、輝政が描いた縄張りは豊川や朝倉川を背に本丸を基点とし、二の丸、三の丸を前面と側面に配した半輪郭式の「後ろ堅固の城」と称されるものであった。しかし、この縄張りの欠点は、河川を背にして戦う背水の陣となり、さらに背後からも渡河され、本丸を直接攻撃されやすいことにある。このため、吉田城・本丸は後に腰曲輪も追加増築され、石垣もより高く強固なものへ再整備されて、それらの弱点を補う補強工事が手掛けられている。

1869年、最後の城主・大河内信古は版籍奉還を受け入れ、新政府から藩名替えを命じられ吉田藩主から豊橋藩知事となる。1873年に廃城令が発せられると、以降、城郭や武家屋敷などは破却され、順次、官公庁用地として利用されることとなる。 1885年には 日本陸軍 名古屋鎮台 の歩兵第 18連隊の屯営となり、1945年第二次大戦終結まで陸軍省の用地として、普段は一般人の入場は認められなかった。豊橋公園として今日のように一般開放されたのは 1949年という。
なお最初の吉田城・大手門は 1674年、本興寺(今の 静岡県湖西市鷲津)の惣門として移築され現存する。湖西市の文化財に指定されているという。

また、吉田城・本丸に建造されていた本丸御殿であるが(1622年完成)、 1707年の宝永の大地震で倒壊して以降、再建されることはなかった。この本丸御殿には 3代目将軍・徳川家光が 江戸 から 京都 への往来途中に数度、投宿している。
なお、この大地震では二の丸から三の丸に至る 建物、櫓、門をはじめ、石垣や土塀がことごとく破壊されたという。

豊橋市

また吉田の城下町は 1663~1690年の間に整備がほぼ完了する。
藩士の居住地域であった武家屋敷は 12の小路で町が形成され、さらに下級の足軽らの屋敷は、上級家臣(藩主と謁見できるクラス)の武家屋敷とは堀で区分された城外の東西 2か所に配置されていた。

吉田の宿は 東海道 ができた当初からの宿場町で、江戸日本橋 から 34番目に位置する。宿は東海道沿いの町を表町 12町、東海道に南にある町を裏町 12町といい、計 24町で構成された。表町には本陣が 2軒、脇本陣が 1軒、旅籠屋は 65軒(1802年の記録)あった。宿場町の戸数は約 1000軒で人口は 5,000~7,000人ほどであったという。吉田宿の中心は本陣が立地した札木町であった。

街道筋は東から吉田城・東惣門の南を通過し、吉田城の総堀に沿って続き、吉田城・西惣門西側を北上し、幕府直轄の橋である吉田大橋で豊川を渡り、次の 御油宿(今の豊川市御油町)へとつながっていた。軍事上の観点から曲がり角が多く作られており(下地図)、今日でも曲尺手町という町名が現存している。



再び市役所脇の交差点(西八町)に戻り、巨大な陸橋を自転車を引いて渡る。
ここから進路を変え、蒲郡街道(国道 23号線)沿いに西へ直進する。下地図。

豊橋市

途中で、再び 旧東海道 と交差した(下写真左)。
その交差ポイントに、西惚門の解説板が設置されていた(下写真右の右手に見える瓦屋根)。

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この西惣門は、かつて東海道筋の坂下町と上伝馬の間に設置されていた。惣門の左側に番所があり、12畳の上番所、8畳の下番所、4坪の勝手があり、さらに駒寄せの空き地 17坪があったという。

旧東海道 は、ここから吉田大橋を経て 御油宿(今の豊川市御油町)へと続く。湊町という地名が、往時の記憶を今に伝える(上写真右)。
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ここから延々、50分 ほどかけ自転車で豊川市との市境ギリギリにある、「伊奈城跡」を目指すことにした。川を二本越えるだけだが、自動車では感じづらい橋両端の上り坂、下り坂が大変だった。あとは、おおむね平坦な土地だったが、交通量が多く神経を使うルートだった。

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上写真左は、豊川にかかる渡津橋を渡った辺り。かつての川辺は、写真のような湿地帯が一面に広がっていたに違いない。

上写真右は、その西隣に流れる豊川放水路を渡る前芝大橋。ヨットハーバーが脇に設けられていた。
なお、この豊川放水路であるが、度々、増水により水害をもたらせてきた豊川に 1965年7月、新たに別の河道が掘削されたものである。愛知県豊川市行明町末広で分水されている。

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さて、豊川放水路を越えると、豊橋市の北西端にある前芝町に至る。上地図の赤ルート。
そのまま田園地帯のど真ん中を走る直線道路を進むと、豊川市域に入る(下写真)。附近は農地エリアで、見たことのない鳥がたくさん生息していたのが印象的だった。

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しかし、この細い道路は度々、ダンプカーなども往来しており、自転車移動は大変だった。
なんとか前方に見える伊奈町の集落を目指す(下写真左)。

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伊奈町 の集落地に入りこみ、さらに北を目指して路地を進むと、一面に農地が広がる。この先に、ぽつんと高い木々が並ぶ緑地部分を発見する(上写真右)。

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近づいてみると、ここが城跡だった。上写真。
現在、本丸の部分が「伊奈城趾公園」として整備されており、巨大な土塁跡が残されていた。また、模擬櫓が建てられていたが、中に入れなかった。下写真。

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代わりに、土塁上に登ってみた。ここに城跡を示す石碑が設置されていた。下写真。

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現存する土塁は、高さ 3m弱、頂上部の厚さ 1 m(底辺 3 m)ぐらいの規模で、結構なスケールだった。戦国中期の平城を今に伝える貴重な遺構という。下写真左。
この土塁遺構のすぐ裏に 牛舎(花ケ池牧場。下写真右)があり、周囲 500 mぐらいに異臭を放っていた。
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 伊奈城

室町時代中期の 1440年、本多定忠・定助が伊奈村を平定し、この地を拠点と定めて築城したのが伊奈城である。以後、約 150年間、伊奈本多氏の居城であり続けた。
1590年の徳川家康の関東移封にともない、 8代目城主・本多康俊(1569~1621年。長らく吉田城主を務めた酒井忠次の子)も、下総国小篠 5000石に移封となり、廃城となった。彼は 大坂の役 後、近江・膳所藩 の初代藩主となる。

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なお、上絵図に見える通り、南面には大きな河道があり、城下まで大船がアクセスできた。その水際に「馬出」「深田」の記載があるが、伊奈城の南面には土塁や堀はなく、文字通り、水田を外堀として利用する設計だったという。
さらに本丸東面の堀底には逆茂木と呼ばれる木の杭が等間隔で打ち込まれ、バリケード役を担っていたことも、発掘調査から明らかになったという。

また、この城は徳川家の「三つ葉葵の紋」ゆかりの地として知られる。

1529年、西三河一帯を平定し勢いに乗る 岡崎城主・松平清康(徳川家康の祖父)はそのまま東三河の併合も企図し、今川氏をバックに有した牧野氏が籠る 今橋城(今の吉田城)を攻撃する。この時、当時の 伊奈城主・本多正忠も清康軍に加勢しており、その先陣をきって今橋城の東門を破り城を攻め落とす大功を挙げる。
戦後、正忠は清康を伊奈城に招いて凱旋の祝宴を開き、城内花ヶ池にあった水葵の葉に酒の肴を盛って清康に出した。すると清康は大そう喜び、葵の紋を家紋とする本多氏の協力で勝てたこともあり、これを吉として葵の紋をもらって松平家の紋としたというわけである。
この記述を裏付けるように、岡崎市の随念寺に残されている清康の肖像画には、「立葵の紋」が描かれている。このように、本多家から松平家の家紋となった「立葵の紋」が、徳川家康の代に「三つ葉葵の紋」となったと考えられている。

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さて、帰路につく。帰りは道順の目星もついており、自転車でスイスイ帰れた。
豊橋駅前の市街地に入った途中、デニーズがある 交差点(絹田ガード西)を南進すると、花田町の坂道を登りきったところに JR豊橋駅があった。さらに南進し、八通町の交差点を左折して直進する。新幹線高架下を通り抜けると、東海道本線の線路前に到達した。ここは陸橋となっており、エレベーターに自転車を持ち込んで上がり降りできるようだった。皆がぶつけまくっているようで、内部は傷まぶれだった。
駅北口側へ渡り終えると、2分ほどで自転車を返却できた。保証金を返してもらい、ホテルで荷物を回収後、続いて 浜松 へ移動した。


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