BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年6月下旬 『大陸西遊記』~


愛知県 豊明市 ~ 市内人口 24万人、一人当たり GDP 400万円(愛知県 全体)


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  名鉄・前後駅から 沓掛城跡まで歩く(45分、旧東浦街道) ~ 今川本隊の 移動ルート
  旧鎌倉街道 と 旧東浦街道との 交差点 ~ 若宮地区
  沓掛城前の バス停 ~ 名駅・豊明駅への 路線バス・ルート と 時刻表
  三方を丘陵地帯に囲まれた 沓掛城 ~ 総面積 東西約 290 m、南北約 234 mの 大城郭
  沓掛城本丸跡 と 大手門跡
  城内で最も高い地点だった 諏訪曲輪跡
  【豆知識】沓掛城(沓懸城)の歴史 ■■■
  【豆知識】桶狭間の戦い と 沓掛城の運命 ■■■



名古屋駅 から名鉄線の快速列車に乗って、前後駅 へ移動する(乗車時間 20分、400円)。

ネット情報で豊明市が無料レンタサイクルをやっているというので、前後駅前の三菱東京 UFJ銀行ビルの 4Fにある同市出張所まで行ってみたが、即日レンタルはダメというので、歩くことにした。別に有料でも構わないので、事前予約&無料という手続主義にこだわらず、天候を見て訪問日を決める方もいるだろうし、松竹梅の発想で「有料ー当日限定台数」「無料―キャンセル不可―台数保証」「無料―保証金前決済ー当日返金ー台数保証」など、複数の選択肢が用意されてもいいのではと思った。

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駅前のすぐ北側を走る旧東海道を横切り(上写真左)、一直線に伸びる旧東浦街道を北上するルートで(上写真右)、まさに今川軍本隊が移動した道筋に相当する。最終目的地の沓掛城跡まで、駅前広場から 45分で到着した。下地図。
道路沿いには所々に路線バスのバス停が目に入り、とりあえず北上する路線バスに乗車してみる手もあったが、意地でも歩き続けた。

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結果的に、ここで歩いた経験により、桶狭間戦場 のだいたいの距離感がつかめることとなり、また道中の起伏もしっかり体感することができた、と塞翁が馬の精神で受け止める。
下写真は道中にあった三崎水辺公園と荒巻水辺公園のあたり。緩やかな 起伏が続く丘陵地帯の上、河川が近くにないためか、ため池がたくさんあった。

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1560年初夏の当時は武装していた上、デコボコの悪路で移動も困難だったと考えると、沓掛城跡からこの駅前まで 1時間はかかっていたのだろうか。
下の地図は、 6月12日(旧暦 5月19日)当日の今川軍の移動ルートを示す。早朝に沓掛城を出発し、 だいたい 2時間の徒歩移動で、おけはざま山 に昼食休憩のため向かったわけである。もし、正午ごろに 織田勢が今川本陣を襲わなければ、当日午後にも先鋒隊が 鳴海城 救援に到達し、織田方の 付け城「中島砦」と 「善照寺砦」 に最初の攻撃が加えられていたことだろう。この日、今川軍本隊は大高城へ入る予定だった

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下写真は、旧鎌倉街道と旧東浦街道との交差点。交差点左には広大な駐車場を有する ローソンが店を構える。

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この旧鎌倉街道を越えて、さらに北上すると最初の峠坂に二つの寺院があった。 沓掛諏訪神社(下写真左)と聖應禅寺である。
特に、下写真右の聖應禅寺では、写真右端に見える小さな小屋に三十三観音の木像が 安置されており、コンパクトに観音霊場を巡礼したと同じ霊験が得られる施設となっているという。
実際、この高台は沓掛城の城下町の西端にあった寺社エリアの一部だったようで、 かなり古い由緒あるエリアだと思われる。

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この峠を越えるとすぐに沓掛城前の バス停 があった(下写真左)。沓掛城跡公園(下写真右)まで、ここから徒歩 1分ほど。

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沓掛城前のバス停からは、どうやら 2時間に一本の割合で、地元路線バスが 名鉄豊明駅(前後駅の東隣の駅)との間を往来しているらしい(下写真)。

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沓掛城跡への往路は、当時を妄想しながら徒歩で歩いてみる価値はあると思うが、帰りも同じ距離を歩くとなると、次の訪問地への体力を消耗してしまうので、上の豊明駅行のバスを待つか、もしくは、再び旧東浦街道を南下して前後駅をめざしながら、途中のバス停で南方面行のバスを待つのがよいと思う。
筆者は往路も復路もバス時間を把握していなかったので、帰りの道中、ちょうど中間地点の二村台の 交差点(巨大な豊明団地群が広がるエリア)で、 複数のバス路線が重なるポイントまで何とか移動し、ここで 2分ほど待っているとちょうどバスが来たので、前後駅まで乗車することにした(3駅、所要時間 6分、190円)。

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さてさて、目標ポイントの 沓掛城跡 であるが、 全体的な地形としては、東西北の 3方面は丘陵地帯の起伏で囲まれており、 南側のみ開けた平野部が広がっている様子だった。この 400 m南側を旧鎌倉街道が 通っており、城下町が広がっていたと考えられる。

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その三方の丘陵エリアから南面の平野部にまたがって侍屋敷が連なり、その外周に外堀を巡らせるという、 かなり大規模な城郭であったことが分かっている。その総面積は東西約 290 m、 南北約 234 mもあったという。

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現在、堀や土塁が存在したであろう土地の起伏は何となく残っているものの、住宅地と田畑に囲まれて、相当に遺構が消失してしまっていた。
下写真は、かつて本丸だったという芝生広場。中央部には井戸跡が残されていた。

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その周囲には堀跡が残り、高低差がはっきりと見分けられる。

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下写真は芝生広場の南側。ちょうど本丸へ入る大手門跡という。

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下写真は 諏訪曲輪 と呼ばれる土塁跡。当時、城内で最も高台であった場所だ。
神道信仰から 諏訪大明神(軍神、風の神、狩猟の神、稲作の神の兼ねる)を祀っていたのだろうか。

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下写真は、城跡の南西部にある慈光寺から諏訪曲輪を見たもの。ちょうど土塁下は 駐車場エリアになっていたが、当時はここに空堀があり、土塁の曲輪はもっと高くそびえたっていたことだろう。

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桶狭間の戦いの後も、沓掛城は尾張東国境の要衝として重視され、大規模に 拡張工事が施されていたという。
しかし、沓掛城と城下町を支えた旧鎌倉街道は、室町時代に入ってかなり荒廃が進んでいた。 この時代、海岸線が徐々に後退し海外部で広大な平野が誕生しており、人々は海岸沿いに 誕生した新しい平坦ルートを通行するようになったためであった。江戸時代に入り、 この海岸線の新ルートが東海道として整備されると、旧鎌倉街道はその姿を消すこととなった わけである。
室町時代末期の桶狭間の戦い当日、今川軍は目の前にあった 旧鎌倉街道(鎌倉往還)を 西進せず、わざわざ大回りに南下して、桶狭間の丘陵地帯 の谷間道を 通っていることからして、旧鎌倉街道はもう機能していなかったのだろう。



 沓掛城(沓懸城)の 歴史

鎌倉時代末期の 1320年ごろ、地元豪族の近藤宗光の居城があったと推察されている。 鎌倉街道と東浦街道との交差点に位置する丘陵地帯を統括する 意味で、地元の集落地を束ねる存在だったと考えられている。
以後も近藤家が当地を支配し、その 9代目当主・近藤景春の統治時代の 1551年末、 織田信秀 に反旗を翻し今川方に寝返った 鳴海城 主の山口教継の調略により今川方に組する こととなる。

1559年、今川方の 譜代家臣・浅井政敏が沓掛城主として派遣されると、近藤景春は 近隣の 子城「高圃城(薬師ヶ根城)= 沓掛城から東へ徒歩 10分ほどの距離」へ転出され、 ここを守備した。

1560年、桶狭間の戦い で今川義元の本陣が崩壊すると、城主・浅井政敏も 駿河へ撤退してしまう。直後に近藤景春が城主に復帰するも、2日後に 織田方の軍勢に攻めらて沓掛城も落城し、そのまま近藤一族は滅亡する。

戦後、桶狭間戦の恩賞として、その働きを最も評価された簗田政綱が城主に 配される。尾張の東部国境の要として、直後から沓掛城は大規模改修工事が施される こととなった。

その後、簗田政綱は信長の近畿進出に随行し、1570年の近江・浅井氏との戦い1574年の長島一向一揆の制圧1575年には加賀一向一揆の鎮圧戦 へと 奔走し、そのまま加賀国の統治を委ねられることとなり、本拠地が沓掛城から 転出される。その後、加賀では一揆が立て続けに続発し、これに激怒した 信長により蟄居を命じられる(以後、柴田勝家が投入される )。1579年に不遇の中、病没している。

さて、簗田政綱の転出後には織田信照が城主として入城し、すぐ後の 1577年には 川口久助が交代で着任する。
1600年の関ヶ原の戦い で、川口久助は石田三成方の西軍に組したため領地没収となり、 その身柄は伊達政宗の下で蟄居とされる(1606年に恩赦が下され、幕府旗本となる)。そのまま沓掛城は廃城となった。

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 桶狭間の戦い と 沓掛城の運命

1560年6月5日(旧暦 5月12日)の梅雨期、今川義元は 25,000兵を 率いて駿府の 今川館(今の駿府城跡)を出発する。この日は藤枝で投宿し、 翌 6月6日には 掛川(懸河)、6月7日には 曳馬(今の浜松市)、6月8日には 吉田、6月9日には岡崎、 6月10日には 池鯉鮒(今の知立市)、そして 6月11日(旧暦 5月18日)に尾張領内に入り、この沓掛城に到着している。上地図。

同日午後に沓掛城内で諸将を集めて軍議が開かれ、早速、先鋒隊が 大高城 へ出発されることとなった。同日夕刻、 織田勢に包囲されていた大高城へ、松平元康(後の徳川家康)が 兵糧入れに成功する。

そして、運命の日の 6月12日(旧暦 5月19日)早朝 3:00~4:00ごろから 松平元康が約 1,000の兵を率いて、織田方の 丸根砦 への攻撃を開始する(午前 10:00過ぎに落城)。

午前 9:00過ぎに今川義元本隊も沓掛城を出発し、正午前に おけはざま山 に到着する。
このとき、沓掛城には今川方の譜代家臣・浅井政敏が守将を務め、守備兵 1,500が 配されていた。
午後 14:00ごろに 桶狭間の決戦 で義元が討ち死にすると 今川本隊は一気に本国へ逃げるように逃亡してしまい、沓掛城内の今川方も撤兵してしまう。
旧城主の近藤景春がその空の沓掛城を接収し旧領を回復すると、この混乱に 乗じて勢力伸長を図り、織田方の刈谷城を攻撃するも(まだまだ大軍勢を有した今川方は再起して、 軍を尾張へ再派遣するものと、誰しも考えていた。。。しかし、新当主・今川氏真は仇討ち合戦を実行せず)、 信長軍が沓掛城へ攻め寄せるとすぐに帰陣して迎撃するも落城し(6月14日)、戦死に追い込まれるのだった。



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