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日本の城 から
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兵庫県 たつの市
訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~
兵庫県 たつの市 ~ 市内人口 7.2万人、一人当たり GDP 289万円(兵庫県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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龍野城跡
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鶏籠山城(龍野古城)跡、龍野歴史文化資料館
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城下町、旧脇坂屋敷、家老邸跡、武家屋敷資料館、監視武家屋敷、三木露風 旧邸&生家跡
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小宅寺(播磨龍野藩主歴代墓所)、堀家住宅(徳川一橋家領 庄屋)
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宿場町「觜崎宿」、脇本陣、出雲&因幡街道、寝釈迦の渡し跡、觜崎磨崖仏、觜崎ノ屏風岩
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城山城跡、祇園嶽城跡、馬立1号墳(姥塚古墳)
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曽我井城跡(新宮町)、宮本武蔵修練の滝
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新宮宮内遺跡(弥生時代の集落遺跡)、新宮陣屋跡
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香山城跡、香山廃寺跡地
龍野城とその城下町は有名な観光スポットなので、これは午後~夕方に回すとして、 午前中は ”知る人ぞ知る” マイナースポットを果敢に巡ってみることにした。 というのも、地元のレンタサイクル・サービスが 3時間以内コースと 6時間コースしかなく、 しかも返却時刻が 16:00までという時間制限がある中、 必然的に午前中に自転車利用し、返却後の午後をマイペースな徒歩散策に当てる、 という組み合わせにならざるを得なかったのが実情である。
また、この日は JR姫新線沿いの 本竜野駅、東觜崎駅、 播磨新宮駅一帯を巡る予定なのだが(下地図)、 そもそも運行本数が少ないローカル路線なので、 電車待ち時間などを節約するためにも、 やはり揖保川沿いの史跡散策には自転車利用が必須と考えた次第である。
レンタル自転車は 3台しか常備されておらず(すべて電気自転車)、 予約不可という早い者勝ちスタイルだったので(要身分証)
、 とりあえず冬季平日の早朝からスタートすることにした。
JR姫路駅
発 9:09の「播磨新宮」行で出発し、本竜野駅で下車する(9:29着)。
この駅 1F部分に「たつの観光案内所」があるので、自転車レンタルの手続ついでに、史跡巡りのための情報収集を進めた(営業時間は 9:00~12:30、13:30~17:00)
。 特に、これから自転車で向かう揖保川沿いの史跡スポットの情報収集に努めた。 龍野藩主・脇坂家墓所(小宅寺)、堀家住宅(徳川一橋家領庄屋)、寝釈迦の渡し跡と 觜崎宿(因幡街道の宿場町)、城山城跡、祇園嶽城跡、宮本武蔵修練の滝、香山城跡、新宮宮内遺跡(古代の竪穴式住居など)、古墳群、出雲街道 など。下地図。
最終目的地を上地図北端の「香山城跡」とし、13:00過ぎには自転車を返却する必要があるので、12:30には復路に入る算段で行程を練ってみた。電動自転車なので、体力もほとんど使わずに楽々移動できた。
まずは JR姫新線の線路東側へ移動し、金輪山を目指す(上地図)。
この山裾に、龍野藩主・脇坂家の祈願所という「小宅寺」がある(菩提寺は、龍野城下町内にある「如来寺」)。 しかし、実際の歴代藩主の墓所はすべて 青原寺(東京都中野区上高田 1-2-3)にあり、 幕末~明治維新を生きた 9代目藩主・脇坂安宅(1809~1874年)と、 10代目・脇坂安斐(1840~1908年)の墓のみが、この 祈願所「小宅寺」に埋葬されているという、不思議な組み合わせであった。 激動の幕末期を乗り越え、明治まで生きた二人は子爵に列せられるも、自らの旧領で葬られることを選んだというわけなのだろうか。
脇坂安宅(8代目藩主・脇坂安董の長男)は、父の代で譜代大名入りすると、 幕臣として 寺社奉行(1845年)、
京都所司代(1851年)
などを務め、1857年には老中にまで昇進した人物である(外国掛を担当)。 翌 1858年7月にアメリカとの間で日米修好通商条約を締結する際、朝廷との調整役を担当するも、結局、朝廷の合意が得られないまま、
大老・井伊直弼
とともに、「大日本帝國外国事務老中」の肩書きで勝手に署名してしまうのだった(下絵図)。
以降、幕府中枢メンバーとして開国反対派勢力の粛清政策を進めるも(安政の大獄)、 1860年3月に桜田門外の変で 大老・井伊直弼が暗殺されると、 井伊政権を支えた幕閣らも徐々に中央政界を去ることとなり、安宅も翌 1861年に老中を辞職し、 翌 1862年には家督をも 安坂安斐(もともとは 伊勢国津藩主・藤堂高猷の四男であったが、 早くに子を無くした脇坂家へ養子に入っていた)へ譲って完全に引退する。 藩主を継いだ脇坂安斐は
長州征伐
などへ参戦するも、 薩長による倒幕戦争の際には新政府軍にいち早く恭順し、会津戦争にも参列している。
廃藩置県直後には華族は
東京
在住が義務付けられ、その後、その義務も廃止された後も、 華族の多くは東京暮らしを続けたわけだが、脇坂安宅・安斐父子は旧領の龍野で暮らすことを選んだ、 珍しい華族だったという。 安斐の 孫・脇坂安之は、地元の 龍野菊一醤油会社(日本 5大手醤油メーカーの一つで、現在のヒガシマル醤油)の重役を務めたとされる。 現在の末裔は、不動産管理・運営、警備事業を営んでおられる(兵庫県西宮市)。
再び JR姫新線の線路西側へ戻ると、目前の住宅地内にある「堀家住宅(徳川一橋家領 庄屋)」を訪問してみた(下地図)。
国の指定文化財であるが個人所有物件ということで、内部見学は不可能だった。 敷地内には、主屋 1棟、座敷 2棟、蔵 12棟、付属建物 5棟、門 3棟などが残り、 ほとんどが江戸時代中期に建てられたものという。 堀家はもともと龍野藩の村方三役の一役を務める 大地主(豪農)であったが、 1747年に日飼村が
一橋徳川家
の所領となると、その庄屋を任されたことで、 ますます権勢を振るったようである。現在、一つの敷地内にまとまって江戸時代の建物群が残る稀な例として、 全国的に貴重な文化遺産となっている。
ここから揖保川沿いの道路をまっすぐ北上していくと(上地図)、出雲&因幡街道沿いの宿場町だった「觜崎宿(はしさきやど)」エリアに到着した。
姫路
から北西へ延びる街道で、三日月宿(
兵庫県佐用郡佐用町
)から 因幡街道と出雲街道へ枝分かれすることになる。 なお、その途中の 千本宿(兵庫県たつの市)では、日本全土を測量した 伊能忠敬(1745~1818年)が宿泊した陣屋が現存する(1814年)。
北から 三日月宿 → 千本宿 → 觜崎宿 → 飾西宿 →
姫路
へと続くルートで、大河・揖保川を渡河するポイントに発達した街道町となっており、 今でもあちこちに古民家が残っていた。この中には、本陣(松原五郎右衛門家)と 脇本陣の立派な門も現存し、 見ごたえ十分だった。
また、この北側には 觜崎磨崖仏、觜崎之屏風岩という不思議な場所があるというので(下絵図)、立ち寄ってみた。 揖保川の急流によって削りとられた山が岩壁をさらけ出し、その崖面に 5体の石仏と地蔵が彫刻されているという。 そのうちの 1体には銘文も添えられており、1354年10月に 藤原某(解読不能)の何回忌かの追善供養の為に彫られたものということだった。 室町時代までの美作道、江戸時代の 因幡&出雲街道沿いにあって、揖保川渡河の安全を祈願する場所として(寝釈迦の渡し)、 往来する人々の信仰を集めたという。現在、兵庫県指定史跡となっている。
そもそも、この 地名・觜崎(はしさき)の由来であるが、 揖保川の東岸に連なる山が鶴の 嘴(くちばし)のように見えたことから「鶴嘴山」と呼ばれ、 その嘴の先に立地する集落だったことから「觜崎(はっさき)」と呼ばれるようになったという。 また、この山は釈迦が寝そべっているように見えたことから「寝釈迦山」とも別称され、それが川の渡し名として存続しているわけである。 そして、川の東岸に「觜崎宿村」、西岸に「觜崎村」という集落が発展したのだった。
この揖保川沿いは 縄文時代、弥生時代より人類の生息が確認されており、山裾には数多くの古墳が点在し、 古くから一定の文明圏が確立されてきたと考えられる。このエリアを支配すべく、 鎌倉時代初期、 山田則景が源頼朝から佐用荘地頭職を得て播磨へ下向した際、この村上源氏の流れを組む 名門・山田一門が大挙して西播磨一帯に入りこみ、 各集落の地頭、荘園の管理者などに就いたことから土着化が始まったとされる。
この則景の子の 一人・山田家範が赤松村に移住したことから赤松姓を名乗るようになり、 播磨・赤松氏が形成されていくこととなる。同様に 1218年に越部下庄の地頭として 山田(赤松)清則が入植すると、 美作道沿いの古くからの要衝を支配するため、付近に 城館「柴摺城」を造営し拠点としたのだった。 以降、5代にわたって領主を歴任したことから、「觜崎」姓を名乗るようになったという。
鎌倉時代末期に挙兵し幕府軍に敗れて隠岐島に流されていた御醍醐天皇が島から脱出し(1333年3月)、 地元豪族の協力を得て 船上山(鳥取県)合戦に勝利して京へ凱旋する際、 この美作道を通過し觜崎宿で休憩をとった記録が残されている。 彼はその後、
姫路
にある書写山円教寺に参拝し、海路で
京都
へ戻ったわけである。
その後、後醍醐天皇と足利尊氏が対立して南北朝時代が始まると、 播磨守護を任された 赤松則村(円心。1277~1350年)・則祐父子(上家系図)は幕府方に組して畿内各地を転戦し、 その功績から幕府 4職の一つを任される重鎮となっていく。そんな戦乱渦中の 1352年頃、 2代目・赤松則祐(1314~1372年)が古代から残る城山城を 10年以上もの歳月をかけて大改修し、本拠地に定めることとなる。
これに伴い、城山城の麓に 居館&政務所(守護所)が設けられ、「越部守護屋形」として 赤松則祐・義則父子(上家系図)が 2代続けて拠点としたことから、 その目前の渡河ポイントとなった 街道町「觜崎」も大いに賑わったと考えられる。
しかし、 義則(1358~1427年)の長男である 赤松満祐(1381~1441年。上家系図)が、 恐怖&独裁政治を進める 6代目将軍・足利義教を暗殺したことから(1441年6月末、嘉吉の乱)、 同年 9月、山名持豊、細川持常らを主力とする幕府軍の追討を受けることとなり、四方より大軍が播磨へ侵攻してくる。 当主・赤松満祐は 本拠地・坂本城(今の
兵庫県姫路市
書写字構江)を放棄し、 要害の 地「城山城」へ逃げ込むと、 但馬より侵攻してきた山名持豊ら幕府軍に完全包囲される。 この時、山名持豊は觜崎村の西福寺に本陣を置いたとされる。 同時に、觜崎(右衛門二郎)則重が城主を務めていた柴摺城館も幕府軍に蹂躙され、 則重らは城山城へ逃走したと考えられる。
最終的に 10日ほどの籠城戦の末、城山城は総攻撃を受けることとなり、 赤松満祐は他の一門衆 69人と共に自刃して果てるのだった(既にほとんどの将兵は脱走してしまい、 一族郎党のみが残されていたと考えられる)。 以降、播磨、美作、備中三ヵ国は山名氏の支配下に組み込まれることとなった。
その後、応仁の乱の戦功により、播磨、美作、備中 3ヵ国守護に返り咲いた赤松氏であるが(当主は赤松政則。上家系図)、 戦国時代を通じ、尼子氏、毛利氏、宇喜多氏、織田氏らの侵略を受けて弱体化していく。 特に、美作道は秀吉軍が
鳥取城攻め
、
上月城攻防戦
などで何度も往復しており、 この 街道町「觜崎」も何らかの役割を担ったと推察される。
江戸時代に入り、
播磨 52万石の大名として池田輝政が入封すると
、順次、因幡街道(上地図)や 出雲街道が整備され(特に因幡街道は、山陰側では「上方街道」と呼称され重宝されたという)、 幕府公認の宿場町制度により「觜崎宿」に本陣や陣屋などが開設されることとなる。また、瀬戸内海へ通じる揖保川舟運の拠点ともなり、 播磨北部、西部と畿内を往来する物資や荷物が積み下ろされるとともに、「寝釈迦の渡し」にて渡河待ちの人流も盛んとなっていく。
なお、当地の本陣は松原五郎右衛門家が歴任し、1814年には断続的に全国測量を続ける 伊能忠敬(1745~1818年)が投宿した記録も残されているという(建物自体は現存せず)。 この時代、”播磨の 宿村(しゅくむら)” と別称されるほど繫栄したようである。 なお、宿場町「觜崎」は 1617年に林田藩の管轄となり、以後、幕末まで継承された。
ここから揖保川西岸へ渡ってみる。
正面に見える巨大な山が 亀山(標高 458 m。下絵図 ⑨)で、室町時代前半期に 守護家・赤松氏が本拠地を置いていた「城山城」と、 その 支城「祇園嶽城跡」があった場所である。 ここの登山はかなり過酷なので、正面からの写真撮影にとどめておいた。
また、この山麓エリアには赤松氏居館があり、室町時代初期のころの 守護所「越部守護屋形」が開設されていたとされるが、 その位置ははっきりと解明されていない。「馬立古墳群」が点在する「新宮町馬立」一帯か、 現在の主な集落地である「新宮町市野保」辺りに立地していたのかもしれない。
なお、この「新宮町馬立」は、山の斜面沿いに 32基もの古墳群が点在する「馬立古墳群」遺跡があることで有名で、 今回はその中の最大サイズを誇る「姥塚古墳」のみ訪問してみることにした(下絵図 ②)。 この古墳群の中でも盟主的な存在だったと考えられており、 直径 18 m、高さ 5 mの 円墳(墳丘は 2段構成)で、横穴式石室の中まで見学できる状態だった。
そのまま山麓部を南北に通る 一般道「姫路新宮線」を北上すると、栗栖川を渡り JR姫新線を越えて「新宮宮内遺跡」に到着できた。
西播磨を代表する弥生時代の集落跡地として、史跡公園となっていた(入場無料)。
この 新宮町新宮・宮内一帯には、縄文時代から平安時代に及ぶ集落遺跡が複数、発見されている。 円形や方形の竪穴式住居、溝を巡らせた墓、並行する多数の大きな溝をはじめ、 大量の土器や 石器、分銅形土製品なども出土しているという。 この集落地が最大規模となっていたのは、2000年あまり前の弥生時代中期ということで、 当時の竪穴式住居が復元され一般公開されているわけである。
さらに揖保川沿いに北上を続け、「新宮町香山」を目指す。
この地は、山と川で囲まれる閉鎖的な土地柄で、主要な街道も近くに無く、 独自の文化を発達させた地区であり、当地を支配したリーダーの城館が「香山城」というわけであった。ただし、築城時期などの詳細は一切不明で、 度々、地元の風土記などにその存在が言及される程度だったが、その 城主・香山氏一族の最期ははっきりと伝わっているという。 すなわち、
1577年10月からの羽柴秀吉による西播磨侵攻戦に際し(第一次上月城の戦い)
、香山氏は 長水城主・宇野氏に組して戦うも、 秀吉軍の 先鋒隊・黒田官兵衛の攻撃により落城に追い込まれ、 一族郎党は北にある長水城まで落ち延びていったという。 江戸時代に至り、当地に残る香山氏の末裔らが本家の人々の弔いのために建てた墓が現存しており、 目下、たつの市新宮町牧に残る文化遺産となっている。
城館自体は、大歳(おおとし)神社の北と南に分けて、 その山裾一帯に造営されており(北郭、南郭と通称されていた)、今でも物々しい数の石塁群が残っているものの、 本格的な山城というわけではなかったようである。下絵図。
また、古くは「かこやま」と呼称された記録が残っており、 この香山城跡近くには 奈良・平安時代に建立されていた香山廃寺跡地が保存されていた。 この辺りから霊水が湧き出て、湯屋ができ薬師湯として賑わったとされるが、 今は寂れた井戸が残されるのみとなっていた。
いよいよ復路に入る。 ここから自転車を返却すべく、JR本竜野駅まで南下することにした。
途中、時間があれば「新宮陣屋跡」や、揖保川東岸へ渡って「東山公園」、「宮本武蔵修練の滝」、 「曽我井城跡」などにも立ち寄ってみたい。 基本は、揖保川沿いをまっすぐ直進するだけにした。
その道中、東觜崎駅を過ぎて本竜野駅までの間に、 スーパー「コープこうべ コープ龍野」「業務スーパー 新たつの店」があったので、 おにぎりやパン類を調達しておいた。なんとか 13:00前までに駅へ帰着できた。
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自転車返却後、今度は徒歩で駅西口を出発し直進していると、国道 179号線に合流する。
そのまま西進すると、揖保川にかかる「龍野橋」に出た。今回は、これの一本北にある歩行者専用の「龍野旭橋」まで歩き(下地図)、 ここから揖保川を渡河することにした。時間節約のため、歩きながらランチを食べて体力回復を図った。
とりあえず、「龍野旭橋」上から上流一帯を写真撮影しておく。 先程、自転車で往復してきたエリアは、古代から中世にかけて揖保川沿いに 田畑、集落と街道が発展し、 山頂には山城群や烽火台等が軒を連ねた一大文明圏を形成していたわけである。
そのまま対岸に到達すると、この一帯の地名が「龍野町本町」であった。 かつての龍野藩城下の町人町が広がっていたエリアというわけである(駅から徒歩 15分弱)。 今でも、あちこちに風情ある旧市街地の町並みが残っており、「播磨の小京都」との異名を取るだけのことはあった。上地図。
旧城下町内では、武家屋敷資料館、三木露風生家、三木露風旧邸跡、 旧脇坂屋敷、霞城館、監視武家屋敷 などが点在していたが、
まずは山裾にある「龍野歴史文化資料館」を目指すことにした(9:00~17:00、毎週月曜日休館、200円)
。 ここで地元の歴史を学習した後、西隣の龍野城跡を見学する。
本丸御殿、多聞櫓、埋門、西門、隅櫓、白壁 などが復元され(1979年)、無料見学が可能となっていた。 現在、コンパクトにまとまって立地しているが、江戸期には 3倍の数の建物群が存在していたという。 見学無料の本丸御殿内には、模擬鎧があり自由に写真撮影できた。
続いて、本丸御殿の 西側(本丸隅櫓の奥)に、背後の 鶏籠山(龍野古城)へ続く登山口があった(無料配布の案内地図が置いてあった)。 早速、登山をスタートしてみる。特に階段もなく、テープマーキング沿いに急坂や崖が続く山道を進む、 結構、本格的なハイキングとなった。ここが往時の大手道といい、着物や 袴、 草履で登っていた当時はもっと大変だっただろうと妄想しながらの登山であった。 無事に二の丸跡に到着すると、段曲輪や 石垣、横堀跡などが所々に現れ出した(下絵図)。
連郭式山城で二の丸の次が、本丸であった。鶏龍山の 頂上部(標高 218 m)まで、30分ほどのハイキングとなった。下絵図。
また北面の一段下には八幡宮があり、そこへの参道が本丸の東側を回って東へと伸びていた。 この参道の一部に石段があり「古城の石段」との解説板があった。 これに連なる曲輪部分にも野面積みの石垣や土塁が残り、 さらに下へ堀切や竪堀が伸びていた。なお、これら本丸周辺の曲輪には大量の瓦の破片が散乱していた。
下りは搦手口である紅葉谷道を選択することにした。やや遠回りルートではあったが、緩やかな坂道を利用できた。 ちょうど、その出口の山麓辺りが、かつての武家屋敷エリアというわけで、今でも閑静な雰囲気が漂っていた。 その中心通りが「旧・因幡街道」というから、当時は多くの人々が往来していたと思われる。
この辺りの町名は「龍野町中霞城」といい、前述した 三木露風旧邸跡、旧脇坂屋敷、 家老邸宅跡、武家屋敷資料館 などが集中して立地しており、夕方の閉館時間までじっくり散策してみた。
なお、龍野城から移築された本丸埋門と 冠木門(東門)が浄栄寺に、大手門が因念寺にそれぞれ現存しており、 これらも見学したかったが、両寺院は JR山陽本線側の「竜野駅」近くに立地しているため、遠過ぎて断念した(下段地図)。
縄文時代、弥生時代、古墳時代を通じ、早くから地域文明圏が形成され、 さらに西国街道と日本海側への街道が十字に交わる交通の要衝でもあったことから、 播磨地方において中心的なエリアとなってきた歴史がある。
663年、大和朝廷が朝鮮半島へ出兵し、百済連合軍を支援して 唐・新羅連合軍に対抗するも、 白村江の戦いで大敗を喫すると(下地図)、西日本各地に城塞拠点を構築し、唐・新羅の侵攻に備えることとなった。 この時、この西播磨の中心エリアを守備すべく、亀山の山頂に古代山城が築城されたと考えられている(前述の「城山城跡」)。 これにあわせて、付近の山々にも烽火台や見張り台、補助的な城塞などが構築された可能性が高く、 特にこの峡谷エリアの南端に位置した 鶏籠山(けいろうざん。標高 211 m)にも、何らかの防衛施設が築造されたことだろう。
最終的に大陸軍の侵攻は杞憂に終わり、時と共にそれらの防衛施設は放棄されていくと、以降、山岳寺院や山賊らの拠点などに転用されたようである。
そして時は下り、応仁の乱を経て室町時代後期に至ると、 播磨の支配権を喪失していた赤松氏が再び守護として復帰することとなり(1488年、赤松政則)、 この西播磨各地の支配拠点や防衛ネットワークが再整備されていくこととなった。
当時、赤松政則の長男で庶子だった 赤松村秀(1493~1540年。上の赤松氏家系図参照)が、 赤松一門衆だった 塩屋城(今の たつの市御津町。下地図)主・宇野政秀(1502~1570年)へ養子に出されており、 当初は宇野村秀と称したという。宇野(赤松)政秀は、 この養子のために鶏籠山の山頂に龍野古城を築城すると(1499年)、 宇野村秀を城主に配置させたのだった(下地図)。 なお、当時の山城は戦時の避難施設の機能が強かったことから、平時には山麓部分に何らかの居館も設けていたと考えられる。
その後、養父・宇野(赤松)政秀が死去すると、 宇野(赤松)村秀は塩屋城主を継承し、自身の 子・政秀(1510?~1570年)を龍野城主に置く。 しかし、政秀が 1570年に死去し、間もなくその 長男・広貞も亡くなると、 9歳だった末子の 政広(1562~1600年)が城主を継承することとなり、 いよいよ領地維持が困難となっていく。この間に、 山陰の 覇者・尼子晴久(1514~1561年)の 播磨遠征(1537~38年と 1555~1561年)や、 大内&毛利軍の播磨進出、
小寺政職やその 家臣・黒田職隆&官兵衛父子との姫路平野をめぐる 抗争(青山・土器山の戦い。下地図)
、 宇喜多直家の西播磨進出などが重なり、 幼主・赤松政広の時代には全く勢力を失っていたのだった(この頃、
摂津の荒木村重
に人質を出して服属し、その庇護に頼るほどに没落していた)。
1575年10月20日には、先に織田信長に帰順していた 小寺政識、
別所長治
と共に上洛し、 織田信長に拝謁するも(この時、赤松政広は 15歳になっていた)、 翌 1576年3月に 毛利・宇喜多軍が播磨に再侵攻してくると、戦うことなく開城し、毛利方へ寝返ってしまうのだった。
続く 1577年10月、羽柴秀吉率いる織田軍が西播磨平定戦に乗り出すと、 赤松政広は同様に戦わずに龍野城を明け渡し、家老・平井貞利の 所領・平井郷佐江村(竜野市揖西) に蟄居してしまう。再帰順により旧領安堵を願い出るも、その支配力を問題視した秀吉により却下され、 代わりに秀吉直属の 家臣(石川光元、後に 蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政 らが継承)が城代を担うこととされた。 この間に石垣積みの近世城郭へと大改修され、現在の基本構造が完成されたと考えられる。
その後の赤松政広であるが、秀吉の中国遠征軍に組み込まれ、蜂須賀正勝の与力として各地を転戦することとなる。 それらの戦功により、1584年、
但馬・竹田城主
に封じられる(22,000石)。 以降も秀吉の直臣として、九州征伐から 小田原戦役、
朝鮮出兵
などにも参加している(この頃、斎村政広へ改姓)。 最終的に
関ヶ原合戦に際し西軍に組したことから
、家康により切腹を命じられてしまうのだった。 その 弟・赤松祐高(1559~1615年)は改易後に流浪し、
大坂の役で豊臣方として参陣し
、戦後に播磨まで逃げ延びるも、 捜索の手が及び自刃して果てている。
1600年9月の関ヶ原合戦
後の翌 10月、
池田輝政が播磨 52万石の大名として入封すると、姫路城を居城とし
、龍野城には外戚家臣だった 荒尾成房(1556~1630年)が配置される(1万石)。1613年1月に輝政が死去すると、 輝政の 長男・池田利隆(1584~1616年)が播磨藩主を継承したので、その家老であった 池田長明(1606~1679年)が龍野城代を務めることとなった。
その後、龍野城主として 本田政朝(在任期間:1617~1626年)、小笠原長次(1626~1632年)、岡部宣勝(1633~1636年)、 京極高知(1637~1658年)らが入封した後、1658~1672年まで一時的に天領となって幕府直轄地に組み込まれる。 そして 1672年、信濃国飯田より 脇坂安政(1633~1694年)が 53,000で入封し、以降、脇坂家が幕末まで統治することとなったわけである。
日暮れ時までじっくりと城下町を散策後、本竜野駅まで戻り、JR姫新線で
姫路
へ帰着することができた。 1時間に 2本ずつあり(16:15発、16:46発、17:17発、17:48発、18:22発、18:55発)。所要時間 21分、240円。
もしくは、わざわざ鉄道駅まで戻らなくても、城下町エリアから直接、 路線バスに乗って
JR姫路駅
まで戻る方法もある。 揖保川にかかる メインの橋「龍野橋」の西岸側の最初の信号を、 北へ 70 mほど川沿いを進んだところに、 始発スポット「龍野」、次の 停留所「龍野橋」が連続してあるので、 ここから 神姫バス「姫路行」に乗車できる。所要時間 44分、730円。
16:30発 → 17:28着(JR姫路駅 北口)平日 17:24発 → 18:22着(JR姫路駅 北口)平日
16:12発 → 16:59着(JR姫路駅 北口)土日祝日 17:28発 → 18:17着(JR姫路駅 北口)土日祝日
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