BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年11月中旬 『大陸西遊記』~


岐阜県 不破郡 関ケ原町 ~ 町内人口 0.8万人、一人当たり GDP 281万円(岐阜県 全体)


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  関ヶ原合戦の 両軍戦死者らを合同埋葬した 東首塚と西首塚
  徳川家康の四男・松平忠吉 とその義父・井伊直政の 陣地跡地
  北国街道沿いにあった 田中吉政の 陣地跡(徳川家康最後の 陣地跡、戦後の首実検の地)
  細川忠興の 陣所跡 ~ 合戦時、自分でデザインした鎧を着ていた!
  秀吉の軍師役だった 父を持つコンビ、黒田長政 と 竹中重門の 陣地跡 ~ 岡山烽火場
  関ヶ原の激戦地 ~ 黒田隊・竹中隊・細川隊・加藤隊 vs 石田隊(島左近、活躍の地)
  石田三成の 陣所跡 ~ 笹尾山から 東軍陣地、西軍陣地を見渡す
  感動の 笹尾山交流館(関ケ原観光協会)~ 甲冑で遊べる!
  宇喜多秀家の 旗印「児」とは??
  島津義弘の 陣所跡(北国街道沿いの小池村)と 一択のみ残された「敵中突破」作戦
  小西行長の 陣所跡 ~ 1598年11月の 朝鮮出兵最後の 順天倭城合戦の古傷は深すぎた。。。
  西軍副大将・宇喜多秀家の 陣所跡
  【豆知識】地図から読む 関ヶ原の夏 ~ 1600年8~9月 ■■■



投宿先の「岐阜駅」から JR線下りで西進し、「関ヶ原駅」で下車する(35分、510円)。下写真左。
関ケ原町 関ケ原町

から出ると、正面に「駅前観光交流館」があり、中はお土産物屋になっていた。ここから線路沿いに坂道を進むと(上写真右)、線路反対側に「東首塚」と「供養堂」があった。下写真。

関ケ原町 関ケ原町



関ヶ原盆地では、東西両軍 15万余りともいわれる兵力が結集していた。戦死者ははっきりしていないが、8,000もの数に上ったと考えられている。
合戦当日 14:30、友軍に対し追撃停止命令を下した家康は、早速、戦後処理に取り掛かる。まずは、その 本陣(陣場野)に持ち込まれる敵将らの首実検を行いつつ、協力してくれた東軍諸将らの戦功をねぎらい、そのまま同日夜は当地で野営する。翌日、戦いで破壊された神社の修復や、戦場に残されたおびただしい数の遺体処理を、関ヶ原など西美濃一帯を領有していた 菩提山城主・竹中重門(1573~1631年。秀吉の軍師・竹中半兵衛 の子)に委ねる。重門は、その命を受け遺体を埋葬し、東西二か所に墓地を造営したのだった。
また一方、重門は合戦後も領内の残党狩りを進め、9月19日に伊吹山中で 西軍の 将・小西行長 を捕縛する手柄を挙げ、後に幕府旗本 6000石に取り立てられる。以後、竹中家は江戸期を通じ、全国の大名と同じ参勤交代を許された名門一家として幕末まで継承されていくこととなる。

現在、この敷地内には首級墳碑が残る。これは 1817年、関ヶ原宿本陣の主を務める古山兵四郎が歴史の風化を危惧して建立したものだが、その墳墓は長年の風雨により、かつての円形型をとどめておらず、玉垣に囲まれそびえるスダジイの古木が残るのみとなっている(上写真左の奥に見える巨木と石柵)。


ちょうどこの一帯は合戦当初、徳川家康の四男・松平忠吉(徳川秀忠の同母弟。1580~1607年)と、その舅である 井伊直政(1561~1602年。徳川四天王の一人)が布陣したエリアでもあった。この 丘陵斜面上(現在の JR関ヶ原駅付近まで)に、兵 6,000名で陣を展開していた。下地図。

松平忠吉(20歳)はこの戦いが初陣で、井伊直政(39歳)が後見役を務める形であった。関ヶ原に布陣した徳川家直属の兵力は、家康本隊の約 3万、他に 本田忠勝 の約 500のみ。徳川秀忠の別動隊は 中山道 の途上にあり、間に合わなかった。このため、先鋒は 福島正則 に任されていた。しかし、徳川家が先陣を切ることが重要と考えていた直政は、午前 8時頃、忠吉と共に数十騎を従え、福島隊の脇を進み、抜け駆けする。 正則の 家臣・可児才蔵(吉長)に咎められるが、直政は、初陣の忠吉に合戦見学させるためと弁明し、そのまま 宇喜多秀家 隊に近づくと、濃霧の中で威嚇射撃を受けることとなり、双方による鉄砲戦が繰り広げられる。
抜け駆けされたと慌てた福島隊も続いて宇喜多隊に発砲し、戦いの火蓋が切られたというわけだった。戦いは東軍圧勝で幕を下ろすが、直政と忠吉は戦いの終盤に戦地から脱出する 島津義弘 隊を百余騎で追撃するうち、狙撃を受けて負傷してしまう。

関ヶ原合戦後、松平忠吉は尾張・美濃両国 52万石を与えられ清洲城を本拠地とするも、先の合戦での鉄砲傷が原因で 28歳で死没する。また、井伊直政は石田三成の 旧領・近江国佐和山(今の 滋賀県彦根市)18万石を与えられ、旧東軍大名家らとの戦後処理に尽力するも、同じく先の合戦での鉄砲傷がもとで 42歳で死没する。

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ここから道なりに北上すると(下写真左)、より前線に陣取っていた 田中吉政 の陣地跡に至る(下写真右)。ちょうど 北国街道 沿いの要衝に位置し、西軍の島津隊と向き合っていた。合戦終盤に、この島津隊が北国街道を南下し、敵中突破を図ることとなる。
上地図は、当日午前 8時ごろの布陣図。

関ケ原町 関ケ原町

ちょうど島津が 北国街道 を南下した時、その街道沿いには徳川家康本隊が前進し、布陣していた。井伊直政らが島津の追撃戦で負傷したことが伝えられると、家康はここで追撃中止を命じ(14:30ごろ)、翻って 石田三成小西行長宇喜多秀家 ら主要メンバーの捜索に集中させるのだった。
この家康が最後に陣取った跡地は、現在、陣場野公園として整備されている(下写真)。

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半日たらずで合戦に大勝した徳川家康は、この本陣に友軍から次々と持ち込まれる敵方の武将首を検分しながら、各将を慰労したという。夕方から再び雨が降り出す中、翌日には全軍、近江の三成本拠地である佐和山城 への進軍を誓い、この日夜は大谷吉継の陣所に設けられていた捨小屋で一夜を明かす。
この本陣での首実検の折、家康は陣中の床几に腰掛けたとされ、後世、その跡地が床几場として整備される(下写真)。現存する正面中央の土壇と周囲の土塁や松は、1841年に幕府の命を受け、この地の 領主・竹田家(13代重明)が築造したもの。

翌日、家康は 地元領主・竹中重門に実検後の武将首や戦場に残る遺骸を集めて手厚く葬るよう託し、近江へと出発するのだった。この時に建造された墓地が先の東首塚と西首塚というわけである。敵味方を問わず戦死者を弔うのは戦国時代の慣習とされ、死者への表敬の儀礼であり、また疫病対策にも重要であった。

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田中吉政(1548~1609年)は、約 3,000の兵を率いて細川忠興や 黒田長政、加藤喜明、筒井定次(筒井順慶 の養子)らとともに 石田三成(1560~1600年)と戦い、その軍の壊滅で戦功を挙げる。
合戦後、家康が逃走した三成らの探索を諸軍に発していた中、田中吉政の部隊が、古橋村(滋賀県長浜市)の洞窟に潜んでいた三成を捕縛する大功を挙げる。笹尾山の陣地から脱した三成は馬にも乗らず、徒歩で伊吹山中の密林をさまよい、この洞窟に一人隠れていたのだった。
この時、不慣れな水と食事で腹痛に悩まされていた三成に、吉政は同じ近江出身で親しい仲だったこともあり粥を勧めるなど丁重に遇したという。そして、吉政と面会した三成はその謝礼として太閤秀吉から拝領し、最後まで愛用していた 脇差「切刃貞宗」を吉政に譲渡している。

その後、三成は 大津城 の城門脇に座らされ、10月1日(現在の暦で 11月6日)に 京都 六条河原で処刑されるまで生き晒しにされる。対して、吉政はその手柄を認められ、筑後 32万石を与えられて大名となるのだった。



続いて、道路向かいにある歴史民俗資料館を訪問してみる。入館料 350円を支払い見学していると、数十分おきに団体客が訪問しては、ボランティアの案内人が一生懸命、合戦の案内をお話されていた。さすが、日本屈指の歴史スポットだけあって、老若男女問わずの訪問が途切れないようだった。
ただし、ほほ全訪問者は 1F部分だけ見て、そそくさと退出されていた。 2F部分の展示は 中山道 やその 宿場町「関ヶ原」に関する近世資料コーナーだったので、1Fの合戦ビデオ解説などに比べれば渋めだったが。。1F部分はコンパクトな展示ながら非常に工夫が凝らされており、歴史のロマンを体感するのに十分だったのは間違いない。合戦当時の各武将の旗印や鎧のレプリカも展示されていた。

退出時、資料館フロントで自転車を借りる(550円)。
資料館を出発すると坂道を登り、住宅街の一角にある細川忠興の陣所跡を訪問する。相川沿いに布陣していたという。下写真。

関ケ原町 関ケ原町


細川忠興(1563~1646年)は、父・幽斎(藤孝。1534~1610年)と共に、当代一流の文化人として知られ、利休七哲の一人にも名を連ねている。忠興は豊臣恩顧の有力大名であったが、石田三成 とは仲が悪かったと言われ、始めから徳川家康に与した。
1600年7月、家康が会津征伐のため 大坂 を留守にすると、三成らはこれを好機と見て挙兵し、自らの陣営に諸将を引き込むため、大坂に居るその妻子らを人質に取ろうとした。しかし、忠興の 妻・玉(ガラシャ。明智光秀の三女)はこれを拒絶して自ら命を絶つ。さらに、父が守る 田辺城(京都府舞鶴市)も西軍によって包囲されてしまい(2ヵ月の籠城戦を戦い抜いて、9月18日開城)、三成への憎悪の念はますます深まったとされる。

戦いの当日は約 5,000の兵を率い、中山道 から 黒田長政、竹田重門らが布陣する岡山烽火場の麓で、相川の南岸あたりに布陣していた。戦いが始まると、黒田・竹中隊らとともに笹尾山の石田隊めがけて果敢に攻め立て、最終的に潰走させることに成功する。細川隊だけで、首級 136を挙げたという。戦後はその功により、豊前小倉藩 39万9000石の大封を得た。
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また、細川忠興自身も多芸多才で、甲冑趣味でも知られる。当日は自身が考案した「越中頭形兜」を被っていたとされ、その姿は関ヶ原合戦図屏風に描かれている(上絵図)。後には、将軍・徳川秀忠からも甲冑デザインの注文を受けたとされる。



そのまま国道 21号線(関ヶ原バイパス)に向かう。丸山交差点にあったコンビニで少し休憩してから、一つ南の瑞竜の交差点から山道を登っていく。
下写真右の左脇に見える丘が、岡山烽火場の跡地である。

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この岡山烽火場の斜面上には、黒田長政、竹中重門が布陣していた。下写真。
この 両名(当時 32歳、27歳)は、それぞれ 父親(黒田官兵衛竹中半兵衛)が秀吉の軍師を務めた幼馴染で、東軍側で開戦の狼煙を上げる役目を司っていた。

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山麓から細い路地を登っていくと、山麓ギリギリまで民家があった。

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坂道の途中を左折すると(北野神社の裏手)、深い竹藪へと突き進む。下写真。

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北野神社の竹藪を通り抜けた地点から、岡山烽火場(丸山のろし台)跡を振り返る(下写真)。

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ここから先は サイクリング遊歩道(東海自然歩道)となっており、途中から土砂道となった。昭和にタイムスリップした気分に浸れた。
中田池(下写真)、小栗毛池、八幡池などを通過する途中は道幅の細い箇所もあったが、綺麗な空気で胸がいっぱいになった。ここは、野鳥公園も兼ねており、愛好家らの写真撮影用の観察舎やデッキも整備されていた。

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野鳥公園を通り過ぎると国道 21号線の橋下をくぐって、反対側のエリアに出てくる。一面、なだらかな丘陵斜面が続く水田エリアだった。
その田圃のど真ん中に、「関ヶ原の激戦地跡」の記念碑が立っていた。下写真。

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ここは、前方の笹尾山に陣取る石田三成隊へと攻め寄せる東軍を、三成隊が 大砲(大筒)をぶっぱなし、また白兵戦で攻防した場所である。

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なお当時、三成隊が 大垣城 から移送させてきた大砲は小型のもので(上写真)、射程距離は 100~200 m程度と、ちょっと大型の鉄砲として利用していたようである。もちろん、我々がイメージする着弾して破裂するタイプではなく、大きめの鉛球を発射するだけだったので、直接的な殺傷能力は持ち得なかった。しかし、敵の火縄銃(命中距離 50 mほど)が届かない距離から発射し続け、迫りくる敵軍の気勢を削ぎつつ、実際はひるんだ敵に対し、直接的な切り込みで応戦していたと考えられる。

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当初は、その切り込み隊を石田隊の先鋒・島左近が担当し、攻め寄せる 黒田長政 や細川忠興ら東軍を幾度も押し返す活躍を見せたが、上写真の右端の丘陵斜面から忍び寄った長政の家臣、菅六之助(菅正利)の射撃で島左近が負傷させられると、これ以降、善戦していた石田隊も徐々に押し込まれていくこととなる。島左近はそのまま生死不明となる。

左近はこの前日 9月14日には、杭瀬川の戦いで東軍の 中村一栄(?~1604年。駿府城主・中村一氏 の実弟で、当時は 沼津・三枚橋城主であった)らの軍勢を破り、その存在感を改めて東軍方に見せつけたばかりだった。

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上写真は、西軍諸陣へ攻め込む東軍目線で戦場を見たもの。

下写真は、この激戦地から 小西隊、島津隊、宇喜多隊、小早川隊(松尾山)の諸陣を見たもの。北から南にかけて緩やかな丘陵斜面になっていることが分かる。

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下写真は、石田三成 陣営があった笹尾山の山麓から東軍諸陣を見渡したもの。数万もの東軍がここに攻め寄せていたのだった。

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下写真は、石田三成 本陣があった笹尾山の中腹から、関ヶ原盆地一帯を眺めたもの。

関ケ原町

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戦場全体が一望できるベストなロケーションの笹尾山は有名な訪問スポットらしく、車で来ていた何組もの観光客とすれ違った。

下写真は、同じく笹尾山から西軍諸将の陣所を眺めたもの。

関ケ原町

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さて、続いて笹尾山東隣にある 笹尾山交流館(関ケ原観光協会が運営)を訪問してみる。かつての関ヶ原北小学校校舎をそのまま再利用したもので、背の低い手洗い場や教室棚などは懐かしさいっぱいだった。
下写真左の男子用便器には、「と、殿一歩前へ・・・」のメッセージ。

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入口すぐにあった旧職員室スペースは土産物屋、写真コーナーとなっており、また奥の教室群は肝試し部屋やチャンバラ・グッズが展示されていた。特に、用意されていた甲冑や火縄銃は自由に遊べるようになっており(上写真右)、ついつい興奮して重たい兜をかぶり続けてしまった。あの装備で長時間の戦闘は相当にきつかったことだろう。

土産物屋には関ヶ原合戦の参加武将の旗印が列挙され、アイスクリームやコーヒー、お茶等に軍旗デザインを施してくれるサービスもあった(家紋ラテ 400~500円)。この中で、宇喜多秀家の「児」の旗印がやたら気になった。。。。

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南天満山に布陣した 宇喜多(浮田)秀家(1572~1655年)は、 岡山 出身で「児」を家紋とした。
宇喜多氏が先祖と称する「児島高徳(?~1383年)」の「児」を、旧字体で大書したものを旗印にしている。児島高徳とは建武の親政の頃の人物で、隠岐の島に流される後醍醐天皇を自分一人でも奪還しようとしたという、半ば伝説上の人物である。創作説や太平記作者説があるが、戦前教育では楠木正成や 新田義貞北畠顕家 についで、格好の教材とされた有名人であった。

かくして、西軍最多の 17,000の兵を率いて五段に構える宇喜多軍は、西軍の主力部隊を成し、東軍先鋒の福島隊と一進一退の攻防を展開して関ヶ原合戦のメインを飾る。
宇喜多秀家はこの時、29歳にして西軍副大将を務め、西軍をけん引して戦線を采配したのだった。さらに、午後に入って裏切った小早川隊、脇坂隊が大谷隊を突破して宇喜多隊へ襲い掛かると、「秀秋のみならず、毛利の輝元 は約を違えて出馬せず、南宮山の秀元は傍観するのみ。しからば、我は討死して故太閤の御恩に報ずべし」とゆるぎない覚悟を表明し、応戦する。
しかし、北隣に布陣していた 小西行長隊は 2年前の朝鮮の役からの ダメージ(順天倭城の戦い。1598年11月19日終結)から回復しておらず 力尽きて戦線が崩れると、3方向から迫られる形となった宇喜多隊もついに潰走に追い込まれるのだった。
秀家は戦後、薩摩・島津家で匿われるが、ついに家康のもとへ身柄を引き渡されると、八丈島へ配流となる。秀家とその家族はその地で帰農しながら、地元の代官や神主らと懇意となり、一族は土着化していったという。本家のみ「宇喜多」姓を継承し、分家はすべて「浮田」姓を名乗った。現在もその子孫が数多く、同島に残っているという。

なお、関ヶ原合戦図屏風では「浮田秀家」と描かれている(上絵図)。この屏風絵に描かれた東西両軍の武将数は全部で 113名であり、その中でも福島隊が 15名、宇喜多隊が 8名と、両軍の中でも最多を数えた。



ひと通り休憩後、交流館を出ようとすると、通り雨が降ってくる。仕方ないので、しばし資料館内で待つことにした。一時的に雨が小降りとなったので、出発する。
最後に資料館を振り返ってみると、虹が出ていた。下写真。

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さて、ここから笹尾山より続く丘陵斜面の坂道を下り、県道 365号線(薩摩カイコウズ街道)を渡って、集落エリアに入り込む。
その奥にうっそうの巨木が茂る神明神社があり、この裏手に島津義弘の陣所跡があった。

合戦時、薩摩隊 1000名弱を率いた 島津義弘北国街道(下写真の手前の道路)をおさえるため、この小池村の守護として祀られていた神明神社の境内に本陣を置く。やや高台にあり、また既に井戸や一定の柵が張り巡らされていたため好適地と判断し、戦勝を祈願する意味でも境内に布陣したのだった。戦後もそのまま当地には神明神社が存続されたが、1853年に火災に遭って隣地へ社殿が移転されたという。それが現在の境内で、以前の社殿の礎石は、今でも島津陣地内の井戸脇に残っているそうだ。
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島津陣所は特に丁重に整備されており、郷里・鹿児島県の有志によって建てられた石篭や供え物がたくさんあった(下写真左)。先に続く細い林道は、往時の島津脱出ルートをイメージして整備されたものだろう。

また、上写真左の後方に見える山は北天満山で、その山麓には 小西行長 隊が布陣していた。陣地跡にて旗指物が高々と掲げられていた(下写真右)。

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正午過ぎに小早川隊が寝返り西軍に襲い掛かると、すぐ南の小西隊に続いて宇喜多隊も潰走し、ついに石田隊の笹尾山も陥落する。
西軍唯一の残存部隊となってしまった島津隊は、後方の 北国街道 が東西両軍の軍兵で大混乱となる中、前方の 伊勢街道 を目指して血路を開く賭けに出る。これが現代にまで語り継がれる「敵中突破」作戦であった(下資料)。

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再び 神明神社正面に戻り、向かいあった 平和公園(関ヶ原合戦 400周年を記念して平和の社が設置されていた)前を通って、小西隊の陣所前まで移動する。
下写真の右手の緑地帯が神明神社と島津陣所跡、左手の山が 小西行長 が布陣した北天満山。

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この北天満山から梨ノ木川が流れており、ここにも関ヶ原合戦の激戦地に関する解説板が設けられていた。下写真。

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合戦時には、この下流方向から東軍が攻め寄せてきたわけであり(下写真)、梨ノ木川は早々に血で赤く染まったに違いない。

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下写真は、小西行長隊と 宇喜多秀家 隊の陣所を望んだもの。
まさに、この宇喜多隊へ向けた 福島正則 隊の攻撃で、大激戦がスタートしたわけである。

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いよいよ雨足が強くなってきたので、松尾山や大谷吉継の陣所跡などは訪問できず、仕方なく県道 365号線へ戻り、陣場野公園を経て民俗資料館へ逃げ込んだ。

気温も急低下しており雨も止みそうにないので、そのまま自転車を返却し、徒歩で関ヶ原駅まで帰ることにした。
駅では乗車まで時間が少しあったので、駅前の国道 21号線へ出てみた。かつて 中山道の 宿場町「関ヶ原」があった地区である。不破関跡や西首塚なども見学したかったが、そのまま帰路に着いた。。。
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 地図から読む 関ヶ原合戦

1600年6月16日、大坂 にいた家康は会津上杉討伐のため、北関東へ出発する。
大坂を離れた家康を追討すべく、その隙をついて石田三成が挙兵したわけであるが、実際には家康によって挙兵に誘い込まれたとも指摘されている。

また別説では、五大老の一人で豊臣家と親戚関係にあった 宇喜多秀家 や、三奉行衆の 増田長盛、長束正家、前田玄以、そして大谷吉継らの方が、家康と懇意にしていた石田三成を誘ったという解釈も示されているという。後世になって三成が悪玉に挙げられたのは、この家康との友情を裏切ったこと、そして有能な官吏であったため西軍リーダーとして采配を振るうようになったことが指摘されている(大坂に滞在中だった、諸大名らの妻子を人質に取るなど)。

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7月25日、前日に三成挙兵の一報を受けた家康は急遽、上杉討伐軍の諸将を集めて「小山評定」を開き、反転して三成討伐が決議される。
8月5日、江戸城 に引き返した家康は、豊臣政権内の諸将の反目や政治的矛盾を利用し、豊臣恩顧の武将の多くを東軍に引き入れるべく、城内にこもって手紙攻勢を進めることとなる。

その間に、福島正則池田輝政山内一豊 らの先発隊は東海道を急ぎ引き返し 8月14日に最前線基地となっていた清州城に入城する。 8月23日にわずか一日で岐阜城を攻略すると、そのまま長良川渡河戦で石田三成軍ら守備隊を撃破する。ついに先発隊は 大垣城 を臨みつつ、東山街道(後の中山道)の要衝であった 交易集落地・美濃赤坂(現在の 岐阜県赤坂町)に布陣する。 8月26日には、石田三成宇喜多秀家小西行長島津義弘 ら主力部隊 2万が籠城する大垣城を包囲する。
暴走する福島ら先発隊からの督促もあり、ついに 9月1日、徳川家康も 江戸 を発ち、11日に清州城、13日に岐阜城、そして 14日正午ごろに美濃赤坂の東軍前線基地に到着する。

家康が最も恐れていたことは戦線が西へ移動して畿内、さらには 大坂城 下に至ることであった。豊臣秀頼が出陣してくると東軍結束の大前提が失われるため、できるだけ畿内から離れた場所で先発隊を留め置くことにこだわったのである。こうして急ぎ東海道を移動し、美濃赤坂で東軍諸将と合流した家康であったが、 大垣城 攻めで長期戦となることは不利と判断し、南宮山の 毛利・吉川隊 や松尾山の小早川隊への工作を進めつつ、軍を 三成の 居城・佐和山城 へ向けて西へ進めることに決定する。

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一方、石田三成は 8月11日に 大垣城 に入ってから、諸軍らを伊勢や美濃一帯へ派遣し、各地の城を制圧していた。そん中、いよいよ徳川家康が 9月14日正午に美濃赤坂に到着したのだった。
島左近や 島津義弘 は盛り上がる東軍の士気を粉砕すべく、同日の夜襲を進言するも三成に却下され、逆に守備に有利な大垣城を出て、14日深夜に 東山道(中山道) 沿いの関ヶ原盆地に移動してまうのだった。

一方、東軍も西軍の動きに呼応し、翌 9月15日(現在の暦では、10月21日)早朝 6:00ごろに陣を前進させ、午前 7時ごろには、家康も桃配山に陣取ることとなる。

なお、この桃配山は約 1000年前の壬申の乱において、大海人皇子もこの山に陣を置いた伝説があり、ついには天皇中心の強固な体制を築いたというエピソードにあやかって、家康もこの地に陣を敷いたと考えられている。

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前夜からの大雨も止み、濃霧が立ち込める関ヶ原盆地。その霧も朝 8:00前には晴れ出し、いよいよ戦いの火蓋が切って落とされる。

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東軍の先鋒・福島正則 隊を出し抜き、井伊直政 隊が宇喜多隊に発砲し遭遇戦が始まると、福島隊も宇喜多隊へ発砲し、突撃を敢行する。
西軍は地形を利用して東軍を誘い込むように布陣しており西軍が有利な様相だったが、積極的に戦っていたのは 石田三成宇喜多秀家小西行長、大谷吉継らごく一部でしかなかった。総兵力で西軍は東軍を上回っていたが、合戦不参加の諸将が多いことが露見してくる。

西軍に与しながら、事前に東軍に内通していた松尾山の 小早川秀秋 は去就を決めかね戦況を傍観するだけで、また南宮山の毛利秀元は、やはり東軍に内通した一族の 吉川広家 に進路をふさがれ、南宮山 麓の安国寺恵瓊ら諸隊も動くことができない状態であった。小池村に布陣した島津義弘に至っては、専守防衛の姿勢で敵味方構わず討ち払っていた。

それでも、黒田長政 らの猛攻を幾度も押し返した石田隊をはじめ西軍諸将は善戦し、正午ごろまで一進一退の攻防が続いていた。焦った家康は東軍の前線を鼓舞すべく、午前 11時ごろに本隊を引き連れて桃配山から陣場野に前進してくる。
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なお当初、松尾山には西軍方の 伊藤盛正(?~1623年)が先に着陣していた。本拠地の 大垣城 を三成らに提供し、自身は交通の要衝・関ヶ原を見下ろす松尾山に陣地を構築していたが、ここに 小早川秀秋 隊が押し入り占拠してしまったのだった。小早川隊は堅固に築城されていた山城陣地をさらに補強し、これに立て籠って全く動く気配を見せなかったわけである。業を煮やした家康は小早川隊の陣に向けて誘いの発砲を打ちかけたと言われる。

ついに小早川隊が松尾山を駆け下り、西軍に襲い掛かると、周囲の脇坂隊や小川隊らもこぞって造反したため、善戦していた大谷吉継隊も支え切れず壊滅する(下絵図)。ここに形成逆転が生じる。

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正午過ぎ、家康は総攻撃を命じ、朝鮮出兵(順天倭城の戦い)の古傷が響く 小西行長隊 が早々に崩れ、三方を囲まれる形となった宇喜多秀家隊も潰走し、最後まで残って陣地に立て籠っていた石田三成隊も敗走を始めるのだった。

西軍総崩れの中、最後に残っていた島津隊は、当時すでに 北国街道 は西軍の逃走兵、東軍の追撃軍で大混雑しており、やむなく前進して家康の本陣を横切り敵中突破にて伊勢方面へ脱出することになる。
桃配山に連なる巨大な山・南宮山 に布陣していた毛利隊も、最後まで参戦することなく陣を引く。

こうして、東西両軍の激戦はわずか半日程度で幕を閉じ、激しい追撃戦が展開されていたが、14:30ごろに家康が追撃中止の命令を発し、関ヶ原合戦は終幕する。夕方から戦場に無数に散らばる遺体の処理が進められることとなった。

関ケ原町

この一連の戦いの様子を描いたのが、上の 関ケ原合戦図屏風(6曲1隻)である。
これは幕末 1854年になって井伊家が絵師に描かせたもので(合戦直後に家康が描かせた合戦絵図を基に制作された)、自軍の赤備え・井伊隊が中心に描かれている。屏絵は、右手から時間を追って描かれ、左手端が当日夜で終わりという時間軸を兼ねたデザインとなっている。
左上のこじんまり陣所だけ描かれた 部分(戦勝の一夜)は、合戦当日の夜、家康が大谷吉継の陣所跡地で一夜を過ごしたことを示している。

翌日、三成の本拠地・佐和山城 へ向けて進軍する徳川家康は、出発前に、東西両軍まとめての合葬を指示する。同時に、戦場となった関ヶ原周辺地域には禁制が出され、従軍した雑兵の乱暴狼藉を禁じ、農民の工作を保証し、治安の回復が図られることとなった。
この合戦後、家康は西軍諸将のうち 宇喜多秀家 など 88家を改易にし、毛利輝元 など五家の所領を大きく削る一方、畿内から東海道沿いの要衝に徳川家やその親族、さらに譜代大名らに割り当てて東国支配を盤石なものとした。
名実とも天下の覇者となった家康が 江戸 に幕府を開いたのは、これより 2年半後の 1603年2月のことであった。



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