BTG『大陸西遊記』~日本 兵庫県 佐用町~
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兵庫県 佐用町
訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~
兵庫県 佐用町 ~ 町内人口 1.5万人、一人当たり GDP 289万円(兵庫県 全体)
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上月城跡、上月歴史資料館
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仁位山城跡
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丸山城跡、早瀬城跡(早瀬白山神社)
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佐用城(福原城)跡
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高倉山の秀吉本陣跡、円光寺砦跡、浅瀬山城跡
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江戸時代の 宿場町「平福」~ 本陣&陣屋跡、木村酒造場酒蔵跡、武蔵初決闘の場、郷土館
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利神城跡、山麓の武家屋敷跡、御殿屋敷跡(南石塁)
主目的地の一つである「上月歴史資料館」が土日祝日しか開館していないということで、 訪問日を冬季快晴の週末に定めることにした(登山も含むため、冬季が安全)。
運行本数が少ない JR姫新線を利用するので、時刻表をしっかり見計らって、 一日のスケジュールを立てていく。
JR姫路駅
発 8:16の「播磨新宮」行で出発し、 終点・播磨新宮駅で乗り換えて(8:48着)、 8:50発の「上月」行に乗車する。終点の上月駅には、9:27に到着できた。 1時間半弱の所要時間で、運賃は 990円だった。
この日の行程としては、下地図の通り。赤ライン → 青ライン → 黄色ライン の順。
まずは、上月駅の南側にある「上月歴史資料館」と「上月城跡」を訪問後に、対岸にある「仁位山城跡」 も登頂し(赤ライン)、再び麓に降りて対岸を見ながら北上し「丸山城跡」を訪問する(青ライン)。 ここから東へ「早瀬城跡」、「福原城(佐用城)跡)」を訪問していく(黄色ライン)。この南側に見える山が高倉山で、 第一次、第二次上月城合戦の際、羽柴秀吉が本陣を置いた山である。この移動途中で、度々、旧・出雲街道も通行することになった。
さらに余力を見て、智頭急行線に乗って「佐用駅」から北へ移動し、「平福駅」で下車後、江戸時代の 宿場町「平福」エリアを散策しつつ、 麓から利神城跡を遠望し帰路に就く、という予定を立ててみた。
なお、
佐用町内でもレンタサイクルはあるが
、 移動ルート的に出発地には戻らない ”前進あるのみ” の行程だったので、 徒歩と電車を駆使することにした。
早速、上月駅南口を出て 10分ほど歩くと「上月歴史資料館」に到着する(下地図)。ここで、 歴史解説パネルなどを写真撮影しつつ、近隣の城跡案内地図をもらうことができた(土日祝のみ開館、200円)。 その脇には、尼子氏の供養塔が設置されていた。
早速、すぐ南隣にある登山口から、上月城を登ってみる(高低差は 100 mほど)。15分ほどで登頂できたが、 登山道はかなり狭く、落ち葉が敷き詰められて滑りやすかった。 途中に小さな腰曲輪を経由しつつ(あちこちに「堀切」「石垣」「空堀」などが点在していた)、 尾根に出ると大きな曲輪がいくつも連立している構造が体感できた。 標高 192 mの 山頂部(荒神山)にある主郭部の面積は、東西約 23 m、南北 20 mほどで、 中央部には 城主・赤松氏や戦死者らの 供養塔(250回忌時に建立 ー 1825年、 自刃した 城主・赤松政範の 末裔・大谷義章が設けた慰霊碑が残存している形)が設置されていた。
歴史資料館まで下山する一周ルートで、50分強ぐらいだった。下地図。
上月城は 2か所あり、北の太平山と南の荒神山それぞれに同名の城塞が存在していた。両者ともに、佐用川と千種川の合流点、 および出雲街道沿いに位置する、水陸交通の要衝を支配するための拠点であったと考えられる。 また、美作国と備前国との国境ギリギリに位置する播磨国の最西端ということもあり、 軍事的にも重視されたことから、早くも鎌倉時代末期に 軍事要塞「上月城」が建造されたわけである。
鎌倉時代後期、播磨佐用庄を本拠地とする 赤松則村(円心。1277~1350年)は、 村上源氏の流れを組む名門の家柄で、
鎌倉幕府
の命により
六波羅探題
に出仕し、その警護役を任されていたとされる。 なお、この赤松姓は則村が初めて名乗ったものであり、もともとは山田姓であったという。 鎌倉時代初期、山田則景が源頼朝から佐用荘地頭職を得て播磨へ下向し、 その子の 一人・山田家範が赤松村に移住したことから、100年の時を経て地名の赤松姓を名乗るようなったとされる。
播磨佐用庄の地頭だった 赤松(山田)則村は、最初、後醍醐天皇(1288~1339年)による倒幕の檄に呼応せず、 むしろ幕府軍として働くも(元弘の乱。1331年6月~1333年7月)、 1333年1月に後醍醐天皇の 皇子・護良親王(1308~1335年)の令旨が発せられると倒幕派に傾き、 一門衆を連れて畿内各地を転戦することとなる。 同年 4月には
鎌倉
より派兵されてきた足利尊氏の軍をも撃破し、
最終的に討幕派に回った尊氏らと合流して六波羅探題を滅ぼすことに成功する
。
この鎌倉時代末期の動乱時、本拠地・播磨佐用庄の防備強化が図られ、 山田則景の 子・上月次郎景盛が 大平山(樫山)に 城塞「上月城」を築城し守備についた、 と伝えられている。 そして、2代目・上月盛忠か、3代目・義景か、4代目・景満かの治世下で、谷を挟んだ南隣の荒神山へ上月城が移転されたわけである。
尊氏が室町幕府を開くと、赤松則村はその重鎮として 播磨、備前、美作三ヶ国守護を任され、 幕府四職の 1つを兼務するまでに厚遇を得ることとなり、 則村の曾孫にあたる 赤松満祐(1381~1441年)も同じく
京都
に近侍し将軍を補佐していた。 そんな中の 1441年6月末、恐怖&独裁政治を進める 6代目将軍・足利義教を暗殺したことから(嘉吉の乱)、 幕府軍の追討を受けることとなり、
同年 9月に赤松氏宗家は滅亡し(城山城にて一族郎党が自刃した)
、 同時に上月城 5代目城主・上月景家も敗死し、上月家宗家も断絶してしまうのだった。下地図。
その後、満祐の 従孫・赤松政則(1455~1496年)が
応仁の乱に際し、細川勝元を補佐し西軍方に組したことから
、 1488年、播磨、備前、美作三ヶ国守護に返り咲くことに成功する。 以降、本拠地を
城山城
から置塩城へ移し、播磨の支配体制を再建させていく。
しかし、その 子・赤松義村(?~1521年)、孫・晴政(1495~1565年)の治世は安定せず、 備前守護代だった 浦上村宗(1498~1531年)が台頭し、 領内は守護派と守護代派に分かれて内戦状態に突入する。こうした中で、 中国地方に北と南から勢力を伸長させた尼子氏と大内氏の影響力が浸透するようになり、 播磨の国人衆はさらに尼子派、大内派に分かれて混沌状態を深めていくのだった。
この赤松氏再興の時代、もともと置塩城主だった 赤松政元(政之。生没年不詳)が上月城主へ異動することとなるも、 前述の通り、赤松氏本家が体たらくとなり(本家当主は 実弟・赤松晴政が継承していた)、 代わりに西播磨 5郡 16万石を支配して「西播磨殿」と呼ばれるまでに台頭する。
しかし、山陰の 覇者・尼子晴久(1514~1561年)が播磨へ侵攻してくると(第一次播磨侵攻。1537~38年)、 この上月城も落城し、西播磨一帯は尼子領へ組み込まれることとなる(城主・赤松政元は城を捨て落ち延びた)。 尼子氏はその後も西部戦線で大内氏と抗争を続けたため、なかなか播磨支配まで手が及ばす、 再び播磨に混乱が生じると、1555年に第二次播磨遠征に着手するも、大内&毛利の支援を受けた赤松氏残党の抵抗も激しく、 1561年1月に尼子晴久が死去すると、その影響力を喪失することとなった。 こうした混沌期の 1557年ごろに上月城の奪還も叶ったようで、上月城に再び 赤松政元、 政範父子が帰還することとなり、引き続き「西播磨殿」と称されていくことになる。
その後も、大内&毛利軍や宇喜多直家らによる国境侵犯は繰り返され、ついに 1575年、 宇喜多軍の総攻撃によって上月城が攻め落とされると、赤松政範(?~1578年)は再び落ち延びるも、 宇喜多直家の説得により、その軍門に下るのだった。政範はそのまま上月城主を任され、 妹を直家の 舎弟・宇喜多広維(備前・沼城主。現在の
岡山県岡山市
東区沼。下地図)へ嫁がせて姻戚関係を結ぶこととされた。
しかし、間もなくの 1577年11月、織田軍 15,000を率いる羽柴秀吉が侵攻してくると、竹中半兵衛、黒田官兵衛の束ねる先鋒部隊 3,000により、 支城の 福原城(佐用城)、福岡城、広岡城、榎城(百々蔵城、海田城)などが蹂躙され、 本拠地の上月城までをも取り囲まれるに至る(第一次上月城の戦い。同年 11月27日、秀吉本隊も到着し、高倉山に本陣を構える)。
これに対し、主君・宇喜多直家は早速、宇喜多広維を総大将とする 3,000の援軍を派兵する。 援軍は急いで三石を通過し、11月30日正午ごろに上月城の南 1.5 kmにある「下秋里」に到着し陣を張るも(冒頭地図参照)、 秀吉は即行で 黒田官兵衛、堀尾吉晴らを差し向けて迎撃し、そのまま山道を押しに押して備前国境まで追い返してしまうのだった。 この時の戦闘は文字通り、夕刻までの終日に及ぶ肉弾戦となったようで、両軍に大きな被害が出たとされる。
宇喜多の援軍排除に成功した翌 12月1日、秀吉本隊は上月城攻めを敢行し、水の手の占領に成功すると、 籠城軍は戦意を喪失し、城主・赤松政範は降服を申し出ることとなった。しかし秀吉はこれを拒否し、 12月3日、最後の総攻撃に着手すると、城主・政範は妻ら一族郎党 50人と共に自害し、 城内に残った将兵らはことごとくなで斬りにされ、捕虜となった 女&子供 200人余りも、美作、備中国境にて処刑され、 見せしめとして 磔、串刺しの刑に処せられている(こうした地獄絵図から、地元では上月城一帯は 自害谷、地獄谷とも呼称されてきたという)。
秀吉は上月城の城代として
尼子勝久、山中幸盛(鹿介)らを配置し、尼子旧臣らへの中継拠点とさせつつ、 国境警備を任せる(反毛利に闘志を燃やす尼子再興軍なら、毛利方へ寝返ることは無いとの読みもあったとされる)
。 とりあえず、但馬、播磨の掃討戦を終えた旨を報告すべく、秀吉本隊は
近江・長浜城
へ帰還し、翌 1578年正月、
安土城
にて信長に年賀を述べた後、3月に播磨へ引き返してくるのだった(このタイミングで
「加古川評定」
が発生することになる)。
しかし、この秀吉不在の間に備前国境に集結した宇喜多勢は巻き返しを図り、上月城の再攻略に成功すると、家臣の 上月景貞が配置される(尼子勢は上月城から脱出した)。これに対し、播磨に戻った秀吉は、再び 25,000もの大軍で上月城へ迫ると、黒田官兵衛、山中鹿之助らの活躍で宇喜多方の援軍排除に成功し、再び、上月城を孤立無援化させる。最終的に、家臣・江原親次(?~1598年)の内応により城に火が放たれると、城内の守備兵 1,500は大混乱に陥り、そこへ秀吉軍の一斉突入を受けて落城してしまうのだった。城主・景貞は負傷しながらも何とか城外へ脱出し、わずかな手勢を率いて高倉山の秀吉本陣へ切り込みを決行するも撃退され、千種川を挟んだ南対岸の 櫛田(上段地図)の山中にて自刃または討死したとされる。
この城外への脱出のタイミングで、上月景貞の 正室(妙寿尼。1545~1613年)と 2人の子が縁者の協力を経て黒田官兵衛の陣へ移送されることとなった。妙寿尼は黒田官兵衛の 妻・照福院の実姉であり、そもそも景貞は官兵衛の義兄にあたる人物だったという。以降、官兵衛は秀吉の許しを得て 3人を黒田家で引き取ることとし、最終的に黒田家が 豊前・中津城主、
筑前・福岡城主へと出世していくと、共に九州へ移住し、その墓所も現在、福岡に現存するという
。
戦後、上月城主には 尼子勝久、山中鹿之助らが再び配置され、守備兵 3,000が付けられる。
自領喪失と兵力消耗に苦心した宇喜多直家は、直ちに毛利方へ援軍を要請し、 吉川元春、小早川隆景ら毛利先鋒隊 23,000と、宇喜多軍 15,000も加わり、総勢 5万の大軍で再び上月城へ迫ることとなる(3月18日に上月到着)。 さらに 総大将・毛利輝元も 3月12日には
吉田郡山城
を出発し、4月中旬には備中松山城に入り、後詰とした(兵力 28,000)。
毛利軍は、すでに秀吉方が構築していた付け城や陣城網を占有して、さらに強化工事を施し、秀吉の来援に対抗する準備を進めていく。
上月城ピンチの報を受けた秀吉は、信長へ救援要請を発すると、信長も大部隊の派兵を即決する。 この時、先発隊の荒木村重の軍が先に
姫路
入りすると、秀吉は村重と共にあわせて 1万の軍勢を連れて姫路より急行し、 再び高倉山に陣取るも、毛利軍の大兵力と、自身が構築した 付け城、陣城群がことごとく占領された様子に直面し、 全く手も足も出せない現実に愕然とする。
秀吉軍は追加の援軍が来るまで、高倉山から 佐用、三日月の山々にかけて、夜はかがり火をたき続け、 昼は無数の旗や幟で大軍に見せかけて、上月城守備部隊を鼓舞し続けるのが精一杯で、何らの軍事行動を取ることも不可能であった。 5月上旬に毛利軍が高倉山の秀吉本陣へ奇襲をかけたことはあったが、基本的に両軍はそのままにらみ合いを続けるだけに終始する。
5月14日には毛利軍が準備した大砲が上月城へ撃ち込まれると、城の櫓や塀が各所で破壊され、城中には多数の死傷者も出たという。 この砲弾は 200年後の 宝暦年間(1751~1764年)に上月城二の丸跡から掘り出されたといい、 重さ 約五百匁(2 kg)もあったという記録が残されている。
ちょうどこのタイミングで、三木城の別所長治らの挙兵の知らせに秀吉は驚愕し、 急遽、播磨入りしていた織田方の救援軍は加古川一帯に展開し、別所軍に備えることとなった。 こうした東西戦線ピンチの中、秀吉は 50騎ばかりの供回りを連れて、高倉山の陣中を抜け出し(6月16日)、 安土城の信長のもとへ直談判に出向く。最終的に上月城を捨て、三木制圧に集中すべしとの命を受けた秀吉は、 再度、播磨へ急行し、加古川に着陣中の織田信忠本隊に三木城周辺の支城制圧を依頼しつつ、 自身も高倉山へ戻り、そのまま撤退準備に取り掛かるのだった
。
この撤退を察知した毛利軍は、熊見川の河畔で待ち伏せ作戦を展開し(6月21日早朝)、 秀吉軍の渡河の途中で突然、鉄砲射撃を浴びせると同時に切り込み隊も突撃し、最終的に川の両岸に分かれて大規模な矢戦へと発展するも、 そのまま秀吉軍の撤退を許すこととなった。
完全に孤立無援となった上月城では脱走兵が続出し、いよいよ尼子勝久らは降伏を決断し、 ここに
尼子再興軍
は壊滅するわけである(7月3日)。総大将・勝久は自刃し、
山中鹿之介は捕らえられて毛利本陣への護送されるも、 途中で処刑されてしまう
。以降、上月城も廃城とされたようである。
続いて、上月城東の対岸にある「仁位山城跡」を訪問してみた。「仁井の陣山」とも別称される。
南東の麓からアスファルト舗装の林道が整備されており、車や自転車でも登れるようになっている。 かつて西の峰にテレビ塔があった当時の名残りという。
登山途中で、道沿いに畝状竪堀跡の起伏を眺めることができた。 他にも、構土塁、曲輪、堀切、横堀、虎口 などが残されていた。 もともと佐用川が大きく蛇行して流れる張り出した岬のような地形に立地したことから、 守備にも適する地形となっており、主な防衛遺構も高倉山から尾根が連なる東面側に集中していた。
展望台となっている 山頂部(標高 233.3 m / 高低差 140 m)からは、上月城よりも高い地点にあるため、 上月城の主郭まではっきり見通せる絶好のロケーションであった。 また北側には「利神城」跡が、南側には「円光寺砦」跡の遠景を臨めることができた(上地図)。
築城年代は不明とされるが、1577年11月末に羽柴秀吉が赤松政範の籠る上月城を攻めた際(第一次上月合戦)、 包囲する陣城群の一つとして造営したと考えられている。上月城とは目と鼻の先にあり、攻城方にとっては重要戦略ポイントとなったことだろう。
逆に翌 1578年4月の毛利軍による攻城戦では(第二次上月合戦)、尼子勝久、山中鹿之介らが籠もる上月城に対峙する陣城群の一つとして、 毛利軍がこの砦跡を占有し、安藤信濃守を配置して畝状竪堀などでさらに補強させたと考えられる。なお、この安藤信濃守であるが、 因幡国・岩美郡白地館(今の 鳥取県岩美郡岩美町)主で、毛利方の大動員により 因幡国(守護・山名国豊)から派遣された部隊であった。 この戦いで戦功を挙げた記録が残されている。彼の実兄は安藤釆女正といい、岩美郡半滝館(今の 鳥取県岩美郡岩美町)主を務めており、
1581年の鳥取城の戦い
に参戦して羽柴秀吉軍と戦い討死している。
この東尾根伝いに、上月城救援に駆け付けた秀吉軍の布陣する高倉山砦が立地しており、これに対峙すべく東斜面に重点的に防衛網が施されていたという。
麓まで下山後、対岸に戻らずにそのまま北上し、JR姫新線の踏切を越えて佐用川沿いを進む(下地図)。幕山川との合流地点から再度、 上月城を写真撮影しておいた。一つ目の橋を渡って国道 373号線に至る。
このすぐ正面に見える小丘が「丸山城跡」であった。北側に通る「旧・出雲街道」からアスファルト道路が頂上部まで続いているので、 簡単に登れる。下地図。
特に往時の城郭遺構は残されていないが、出雲街道沿いの中継集落を直接的に支配した赤松氏関連の城塞で、 川の合流ポイントともあって、水陸の要衝を抑えたと考えられる。置塩城を赤松家宗家に譲り、 上月城へ異動した赤松政元によって造営され、その 孫・赤松正澄(?~1578年)が城主を務めていた時に、 羽柴秀吉による上月城攻めに遭遇し(1577年11月末)、落城に追い込まれたようである。
そのまま国道 373号線を少し東進すると、「早瀬」の集落地に入り込む(上地図)。 集落の中央部に「旧・出雲街道」が走っており、 そのまま直進すると早瀬公民館前を通過する。「旧・出雲街道」はここを南へ直角に曲がるわけだが、 この北側へ向かい「早瀬白山神社」を目指すことにした。
登山口にある害獣防止ネット扉を自力で開け、急斜面の階段を登っていくも、頂上部は「早瀬白山神社」の境内が広がるだけで、 特に早瀬城跡の遺構は見つけられなかった。上地図。
この早瀬城であるが、上月城へ転入し「西播磨殿」として君臨した赤松政元が造営した城塞とされ、 その 子・赤松政直が守備したという。羽柴秀吉による上月城攻めに際し(1577年11月末)、 上月城主だった 実兄・赤松政範と共に上月城へ詰めるも、 一族郎党ことごとく自害して果てることとなった(同年 12月3日)。
翌 1578年4~7月の毛利軍による上月城攻めでは、尼子十勇士(尼子十勇十介)の一人、 寺本生死之助(寺本半四郎)が早瀬城に籠るも瞬く間に攻め落とされ、 そのまま毛利方の陣城網の一つに転用されたと考えられる。
いったん「上月駅」まで戻り、東隣の「佐用駅」までの一駅分を姫新線で移動してもよかったが、 せっかくの古戦場エリアなので、当時の人々の記憶を追体験すべく、国道 373号線沿いを東進し、 佐用川を遡る形で「佐用城(福原城)跡」まで歩くことにした(上地図)。3 kmほどの徒歩移動となった。 川の対岸にそびえる巨大な山が高倉山で、第一次、第二次上月合戦に際し、秀吉が本陣を置いた山である。
すると、国道 373号線沿いに「佐用城防災公園」があった。この一帯が 佐用城跡(福原城跡)というわけだった。 現在、主郭土塁跡の上に福原霊社が祀られており、その脇に城跡の解説板が設置されていた。 その後方の道路は空堀跡という。
佐用城(福原城)の築城年代は定かではないが、鎌倉幕府が滅亡した直後の 建武年間(1334年〜1338年)に、 佐用範家が段丘上に築いたとされる。この佐用氏は赤松一門衆で、その後は福原隼人が在城している。
1577年11月末、羽柴軍が西播磨へ侵攻してくると、先鋒隊を司った 黒田官兵衛&竹中半兵衛の攻撃を受ける。 この時、黒田、竹中らは現在の「白雲山・慈山寺」に陣を構えたと伝わっており、 12月1日の猛攻撃の結果、時の 城主・福原則尚(助就とも?)は多くの犠牲者を出した後、 自ら城に火を放ち自刃して果てたという。 現在、城跡の主郭部に設置された福原霊社は、この福原則尚の首級を祀ったものとされる。
なお、「慈山寺」は秀吉が本陣を置いた高倉山の麓に立地し、高倉山への登山口となっていた。 当時、多くの秀吉軍が出入りしたスポットだったと考えられる。 現在は、城郭を彷彿とさせる白壁と石垣を装備する寺院で、 地元の人々の守護神として厚い信仰を集めているという。
そのまま東進し「佐用駅」に到着できた。
時間と余力があれば、ここから智頭急行線に乗車し、北へ移動して「平福駅」まで行ってみたい(乗車時間 5分、240円)。 ほとんど列車はないので、発車時間に要注意! 最終手段は、駅前からタクシー利用しかないだろう。。。
土日、祝日ともに同じ 12:31発、
13:41発
、 14時台なし、 15:36発
なお、この辺りで腹ごしらえが必要な場合は、佐用駅の西側にある佐用川沿いに「イオン MaxValu 佐用店」があるので、 食料調達も可能。電車内など、移動の合間に栄養補給と休息をとる!
「平福」の地は、かつて因幡街道随一の賑わいをみせた宿場町で、現在でも 町屋や 古民家、土蔵群、代官所跡、本陣跡 などが残る(上地図)。 開館時間に間に合よう、現地では真っ先に 平福郷土館(牢屋敷跡)を訪問してみた。 その後に旧市街地を散策していく。
なお、この宿場町の東隣に迫る 巨大な山(標高 373 m)の頂上部には利神城跡が立地し、 現在でも 本丸、二の丸、大坂丸などの石垣群が残存しているらしいが、 登山道が全く未舗装なため、一般客の登山は禁止中という。事前に佐用山城ガイド協会へ予約すれば、 最小人数 2名から登山できるらしい(ガイド料 参加者 1人あたり 3,000円。毎週火曜日と日曜日のみ)。
このため、筆者の当地での主目的は、山麓に残る武家屋敷跡地となった。のどかな田園地帯に、 御殿屋敷や武家屋敷時代の石塁跡が部分部分に残存する様が、「兵どもが夢のあと」のようで、 なかなか感じ入るものがあった。下地図。
最後に、佐用川にかかる金倉橋まで移動し、 13歳の宮本武蔵が新当流の 有馬喜兵衛(兵法者)に決闘を挑んだ場所、と伝えられるスポットを訪問してみた(下地図)。 なお、この決闘は有馬喜兵衛が自ら高札にて挑戦者を募集していたことから始まる逸話だが、 実際の決闘場所ははっきりとは分かっていないという(1596年)。 現在の史跡指定スポットは、かつての河原の刑場跡地ということもあり、集落地から離れた立地となっていた(下地図)。 こうした背景から、死者の供養のため、六地蔵を設置されているとのことだった。
鎌倉時代末期、足利尊氏よりも先に打倒鎌倉幕府のために挙兵していた 赤松則村(円心。1277~1350年)は、 畿内各地で幕府軍と交戦を続ける中で、 幕府方の援軍として
鎌倉
から駆け付けた足利尊氏軍をも撃破する。その後、
倒幕に反転した足利尊氏らと合流し
、
京都の六波羅探題
を壊滅させると、その手柄により播磨守護職に任じられる。
しかし、間もなく後醍醐天皇と足利尊氏が対立すると、後者に組して播磨国の山岳部を利用したゲリラ戦法で新田義貞軍を迎え打ち、 九州で尊氏が大軍をそろえるまでの時間稼ぎに成功する(1336年2~5月)。 こうして播磨まで戻ってきた尊氏軍は湊川で楠木正成を敗死させ(5月25日)、 6月に
京都
を奪還することとなる。しかし、ここで開設された足利尊氏による 室町幕府(1338年~)も不安定で、 足利兄弟間の争いや家臣団の分裂、さらに南朝との抗争が激化し、その度に 赤松則村(円心)も畿内への出兵を繰り返したのだった。
こうした不安定な時代にあった 1349年、赤松一門衆の 別所敦範(あつのり)が白旗城の北の守りとして利神山に山城を建造する。 以来、因幡街道の中継集落を抑える領主拠点として機能するも、1441年9月に嘉吉の乱に伴う幕府軍の侵攻により、 播磨の赤松宗家が滅亡すると、その戦火の中で別所氏本家も壊滅する。
その後、赤松一門の末裔らが播磨各地で挙兵し、播磨国を併合していた山名宗全と軍事衝突を繰り広げる中で、 別所一門に属した別所治定が利神城の奪還に成功し、4代目城主に返り咲く(1467年)。
しかし、1537~38年、1550~61年の 出雲・尼子晴久の播磨侵攻により落城、 さらに 1575年の 備前・宇喜多直家の軍事侵攻を受けて、赤松氏は 佐用郡、
赤穂郡
一帯の支配権を喪失したのだった(「西播磨殿」として君臨した、上月城主・赤松政範は宇喜多家の軍門に下ることとなる)。下地図。
しかし、播磨平定戦を進める織田軍を率いた羽柴秀吉軍が、1577年11月末、播磨西端の上月城まで侵攻してくると、 宇喜多軍から援軍を受けていた 上月城主・赤松政範(?~1578年)を敗死させ(1578年1月)、
尼子勝久をリーダーとする尼子再興軍
に城を預けることとなる。 この戦役で、黒田官兵衛の部隊に配属されていた 山中幸盛(鹿助)らが活躍し、利神城も攻略されたと考えられている。
しかし、同年 4月に失地奪還に燃える 毛利&宇喜多連合軍が上月城へ攻め寄せてくると、尼子軍は壊滅し、 上月城、利神城を含む 佐用郡、
赤穂郡
は宇喜多領へ再併合され、再び播磨国から切り離されるのだった。上地図。
1600年9月の関ヶ原合戦により
、備前&備中&美作の 大大名・宇喜多秀家が改易されると、播磨、備前の国境がようやく回復され、 佐用郡や赤穂郡などの西播磨エリアが播磨国側へ返還されることとなる。翌 10月、
播磨 52万石の大名として池田輝政
が、
備前&美作&備中(東半分)には小早川秀秋
がそれぞれ入封する。
以降、輝政は
三木城
、
船上城
、
高砂城
、
龍野城
、 利神城、
赤穂城
を支城とし、各地に 親族を派遣して播磨国の支配体制を固めていくわけだが、この時、利神城を任されたのが、 甥の 池田由之(1577~1618年。輝政の 父・池田恒興が 長男・元助と共に小牧長久手の戦いで戦死すると、 元助の長男で 8歳だった由之を輝政が養育していた)であった(平福領 23,300石)。 由之は早速、自らの居城として利神城の大改造に取り掛かり、山頂に壮麗な三層の天守閣がそびえたつ総石垣の城塞を完成させる。 その雲を衝くがごとく威容から「雲突城(くもつきじょう)」と称されることとなった。
同時に、山麓には 城主屋敷、武家屋敷を配置し、街道沿いに町人町を設けるなど、城下町の建設にも尽力する。
しかし、その万全の備えを目にした池田輝政が、幕府から警戒されることを恐れたため、天守等の建造物の破却を命じたとされる。
最終的に 1615年6月の一国一城令により、利神城自体が完全に廃城となったため、 城下町としての役割も早々に終えることになるも、その後も因幡街道有数の宿場町として機能し続け、 陣屋や
鳥取藩
本陣が置かれていたという。最盛期には、南北 1.2 kmにわたり、 300戸余りの家々が立ち並び、その約 8割が屋号を持つほどの商人の町として繁栄し、 昭和初期まで因幡街道および佐用の中心集落として君臨したという。
帰路は、智頭急行「平福駅」から終点の「上郡駅」まで移動してみた。 1時間に 1本ほどしか運行されていないので、時刻表をしっかり確かめて乗車したい(土日、祝日時刻表より)。
17:30発 → 17:54着 (24分)上郡行 18:52発 → 19:16着 (24分)上郡行
18:03発 → 18:46着 (43分)上郡行 19:25発 → 19:59着 (34分)上郡行
もしくは 5分の乗車後、先程の「佐用駅」で姫新線に乗り換えることもできるが、 乗継接続が非常に悪い(佐用駅発 17:34 or 18:48 or 19:49、土日、祝日時刻表)。 このため、終点の上郡駅まで乗り続け、 ここで JR線(山陽本線)に乗り換えて
姫路駅
まで戻るのがベストかと考えた。
なお、平福 → 姫路間を往来する 高速バス(佐用平福 プリンセスバード号)も存在するが、 一日 2便しかない
(鳥取 ⇔ 姫路間 の高速バスの中継ポイントになっている)
。 バス発着所は、平福の旧市街地よりやや北側にある、高速道路インターチェンジ沿いにあり、やや距離がある。
8:19発 → 9:24着、 16:19発 → 17:24着(平日、土日祝すべて同じ)1,740 円
ちなみに、
姫路駅(北口)
→ 佐用平福行のバスも一日 2本ある。
高速バス・プリンセスバード 鳥取大学前行
。
10:30発 → 11:35着、 18:30発 → 19:35着(平日、土日祝すべて同じ)1,740 円
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