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訪問日:20--年--月--旬
滋賀県 大津市 ③ ~ 市内人口 35万人、一人当たり GDP 335万円(大津市 全体)
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坂本城跡(本丸跡石碑、坂本城址公園、供養塔「明智塚」)
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西教寺(光秀 供養塔、妻・煕子や一族郎党の墓)、総門(坂本城 城門)、客殿(伏見城)
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聖衆院来迎寺(織田信長の最古参家老・森可成の墓)
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西国街道 と 中堀跡
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公人屋敷(旧岡本邸)、穴太積の石垣、日吉馬場
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日吉大社、神宮寺山城跡(1570年10~12月、志賀の陣の折、浅井・朝倉連合軍 陣城跡)
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比叡山延暦寺(東塔地区、西塔地区、西川地区)
寺院や比叡山坂本ケーブルカーの営業時間も短いので、この日は朝早めにホテルを出た。
大津市中心部の「びわ湖浜大津駅」
から京阪石山坂本線で西進し、終点の「坂本比叡山口駅」で下車する(16分、240円)。
この駅北側にある「坂本観光案内所(営業時間 9:30~16:30。大津市坂本 6-1-13)」で、まずは自転車をレンタルする。電動アシスト付自転車のみしかなく、1時間 250円、 1日(4時間以上)1,000円ということで、最初の 1~2時間のみレンタルし、北郊外の寺院 2ヵ所と坂本城跡を訪問してから、自転車を返却し、比叡山登山を決行することにした。レンタル自転車は電話で事前予約できる。
なお、
比叡山坂本ケーブルカー往復チケット付の 一日周遊券(1,800円)であるが、路線バスの待ち時間など無駄になり得るが、購入しておいて損はない。 あくまでも ケーブルカー往復(1,660円)のみ購入するよりも、神社拝観料割引などで 3か所以上を巡れば、トクする計算になっている。
まず最初に、北郊外に位置する西教寺と聖衆来迎寺の 2ヵ所を訪問する(共に、拝観料要)。
県道 47号線沿いにある西教寺(下地図)には、元々、明智光秀(1516 or 1528~1582年)自身が、戦死した部下らの供養のため、寺に供養米を寄進した際に送った寄進状の現物が保存されており、生前から深いかかわりがあったことが確実視されている。
戦国時代当時から、比叡山延暦寺の天台宗山門派とは一線を画す、天台宗真盛派の総本山として君臨しており(現在でも、全国に 400以上の末寺を有する)、
織田軍に協力的だった天台宗寺門派の 三井寺(園城寺)と共に、比叡山焼き討ちの際には軽微な被害で見逃されていた可能性が高い
。戦役以降も、明智家から厚い帰依を受けて保護され、本能寺の変後に坂本城が落城する当日(1582年6月15日)、明智家から寄進されたという坂本城の陣鐘が今も残っているという。また坂本城落城後の 6月18日、重臣の 妻木広忠(1514~1582年)が、明智光秀の供養塔はじめ、光秀の 正室・煕子(ひろこ、妻木広忠の長女。細川ガラシャを産んだ)や、一族郎党の墓を建てた後、その墓前で自刃したという。以降、妻木氏の菩提寺も兼ねることとなった。
さらに境内には、坂本城の城門を移築した 総門(巨大な薬医門スタイル)や、
伏見城
から移築した桃山様式の客殿も現存する。その他、国の登録有形文化財、重要文化財指定を受けた、多数の建造物群も必見。
その後、琵琶湖へと下る直線道を東進し、車塚橋を過ぎた直後の場所にある「聖衆院来迎寺(大津市比叡辻 2-4)」を訪問する。上地図。
ここの白壁の塀を巡らせた表門も、坂本城の城門を移築したものという。特に、
境内には志賀の 陣(1570年9月)で戦死した 森可成(織田信長の最古参の重臣)の墓も立地する。翌 1571年9月11日深夜に比叡山焼き討ち作戦が決行されると、坂本の門前町も焼き払われたわけだが、森可成の墓があったことから、この聖衆来迎寺だけは難を逃れたという
。
続いて、琵琶湖畔沿いに国道 558号線を南進すると、「坂本城 本丸跡石碑」と「坂本城址公園」に至る(上地図の中央下、緑文字)。公園はかなり小さいもので、復元された 石垣(高さ 1 m弱)、解説板、光秀の銅像が設置されているだけだった。
なお、本当の本丸跡は、北隣にあるキーエンス社の研修所辺りという(上地図)。脇のあぜ道から湖畔へ出ることができるが、平時には水が並々とあるだけである。琵琶湖が水不足のタイミングで、湖底に沈む石垣が露出することがあるそうだ。
続いて坂本城域を一周巡るべく、内堀、中堀、外堀沿いをサイクリングしてみた。本丸の北西角あたりに、明智一族の 供養塔「明智塚」が残っていた(上地図、下地図)。
この城跡から、比叡山の山脈一帯を写真撮影してみた。
この山脈沿いこそ、1570年9~12月の志賀の陣の際、織田信長軍と対峙した、浅井・朝倉連合軍が陣城群を構築していた場所である
。
平安時代~戦国時代にかけて、この「坂本」の地には、比叡山延暦寺 ~
三井寺(園城寺)
へと続く、巨大な天台宗系の門前町が広がっていた。ただし、天台宗でも複数の宗派に分裂されており、その配下の門前町どうしが一体性を有するものだったかどうかは、不明である。
特に、この琵琶湖西岸は、北陸から
京都
へ至る 陸路(北国街道)、水路交通の最短ルート上に位置しており、非常に栄えた交易集落となっていたという。
1570年12月より、
宇佐山城
主となっていた 明智光秀(1516 or 1528~1582年)は、翌 1571年9月11日深夜、比叡山延暦寺焼き討ち作戦を陣頭指揮し成功させると、そのまま信長により琵琶湖西岸の 支配(5万石)を委ねられる。その直後より、領内で最大集落地であり(琵琶湖水運の支配も兼ねる)、かつ比叡山延暦寺への監視が最も効率的だった坂本の町に、新たに城郭と城下町を整備することとなる。
特に町を焼き討ちされた近江地元民らの反信長、反光秀意識は高揚しており、その統治に手を焼いたと考えられるが、光秀は善政を施し、住民らの支持を得る努力を怠らなかったという。
早くも 1572年3月、光秀は一族と共に城内に移住し、同年中に天守閣、本丸を完成させると、翌 1573年には三の丸の造営まで完了されることとなる。宇佐山城から建物部材などを転用したため、工期を短縮できたと考えられる。
これと併せて、西近江支配を盤石とすべく、周囲の 木戸城、田中城(比良城)、石山城、今堅田城 などを攻略して軍事的支配権を確立させつつ、そのまま北近江まで回り込み、
1573年9月1日の浅井氏滅亡へと追い込むのだった
。
なお、完成された坂本城であるが、その堀は琵琶湖につながっており、城内から直接、船に乗り込めるようになっていたという。光秀が
安土城
に出向く際、坂本城から乗船し、そのまま対岸へ移動していたとされる。
宣教師 ルイス・フロイスは、著書『日本史』の中で、「明智の築いた城は豪壮華麗で、信長の安土城に次ぐ城である」と言及しており、壮麗な城郭であったことが窺い知れる。
その後も、信長により各地の兵役に駆り出された光秀は、苦労して丹波を手に入れると、1580年、そのまま
丹波・亀山城
を新たな居城に定めるも、引き続き、家族は坂本城にあって、一族の本拠地として維持していたようである。
1582年6月2日の
本能寺
の変後、光秀は坂本城に入城して、
安土城
や近江一帯の諸城を接収しつつ、近隣土豪や国人らに協力を呼び掛けるも、期待通りの兵力と支持が集まらないまま、
6月13日、山崎の合戦に臨むこととなる。わずか一日の戦闘で敗走した光秀は、いったん勝竜寺城に籠るも
、 夜間に抜け出し、本拠地の坂本城を目指して間道を撤退中に、
土民の襲撃を受け落命するのだった
。
翌 6月14日、
安土城
の留守を守っていた光秀の 甥・明智秀満(1536?~1582年)は、
山崎の敗戦
を知ると、すぐに光秀の救援へ向かおうとするも、すでに
瀬田
や
大津
一帯の陸路は、羽柴方に組した近江国人らによって封鎖されていたため、騎馬ごと船に乗船し、坂本城へ帰還したと伝えられている(左馬助の湖水渡り)。
そして同 14日夜、羽柴方の 武将・堀秀政(1553~1590年)らに坂本城を包囲され、本丸まで追いつめられると、同日、秀満は明智家の家宝や貴重な品々を目録とともに羽柴軍に譲渡し、自ら光秀の妻子らを刺殺した後、城に火を放って自刃して果てることとなる。
焼失してしまった坂本城は後に修復され、丹羽長秀(1535~1585年)に与えられるも、
翌 1583年に賤ケ岳の戦いに秀吉が勝利すると
、秀吉方に組した丹羽長秀は
越前(123万石)
に移封される。以降、福知山城から 杉原家次(1530~1584年)が、西近江の 領主(3万2000石)として入封するも、翌年に病死すると、1584年以降、五奉行の 筆頭・浅野長政(1547~1611年)が坂本城に入ることとなる。以降、城下町はさらに発展したという。
しかし、
大坂城へ繋がる街道守備を重視した秀吉により、1586年、浅野長政に大津城の築城命令が下ると、同時に坂本城の廃城が決定される。この時、坂本城の建物の多くが大津へ移築され、住民らも大津に転居したという。そのまま浅野長政が大津城主を務めた(1587年まで)
。
こうして破却された坂本城であるが、上絵図にある通り、江戸時代に入っても、その一部の石垣は残存していたようである。
1979年以降に度重なる発掘調査が行われ、二の丸、三の丸の概要が明らかにされている。
そのまま自転車に乗って、「坂本比叡山口駅」前の坂本観光案内所に戻り、これを返却する。続いて、付近の寺社町や 公人屋敷(旧岡本邸)、穴太積の石垣、日吉馬場を散策しながら、比叡山の登山口まで西進した。
比叡山中学&高校(私立。偏差値 68)の脇にある「ケーブルカー坂本駅」に到着後、比叡山坂本ケーブルで山頂まで一気に移動する(先の観光案内所で割引チラシがあるかどうか確認したい)。乗車時間 11分(距離 2,025 m)、片道 870円(往復 1,660円)。他の施設入館料割引券付の往復チケット 1,800円もある(路線バス、比叡山巡拝料、西教寺などの拝観料の割引あり)
。
なお、時間と体力があれば、比叡山中学&高校の後方にある「日吉大社」も訪問してみたい。
この後方の山が、志賀の陣の折、浅井・朝倉連合軍の陣城があった場所である(神宮寺山城跡)
。また、ケーブルカー上からの写真撮影も忘れずに。
比叡山の山頂に到着後、歩き疲れるまで山中の名所を巡ってみたい。
延暦寺の巡拝料 1,000円要(先のロープウェイ往復チケット 1日券により、800円へ割引あり)。
ロープウェイを降りると、最初に至る「東塔」エリアこそ、比叡山延暦寺の 本部(根本中堂、本堂)が立地し、奈良時代末期、最澄(767~822年)が初めて修行道場を開設した地という。さらに自然歩道を奥へと進むと、釈迦堂を中心とした西塔エリア、弟子の 円仁(794~864年)によって開かれた横川エリアへ至るわけだが、道中に漂う厳粛な空気は、訪問者の心身を清めてくれる印象だった。
なお、延暦寺は比叡山の山上地区と山下地区に大別されており、山上地区は先に触れた 東塔、西塔、横川エリアで構成され、山下地区は坂本の門前町を指し、現在の日吉大社が延暦寺の鎮守社、滋賀院が本坊として機能していたという。
最澄(767~822年。伝教大師)は、奈良時代末期、現在の大津市坂本で、高級官吏の家に誕生する。
7歳で近江国分寺に入り、仏門の勉学に励み出し
、 18歳で
東大寺戒壇院
へ留学し、順調に官僧として進級していく。 19歳になって郷里の坂本に戻り、西にそびえる比叡山中に 草庵(現在の東塔エリアにある根本中堂。下古絵図)を建て、修行に励んだことが、比叡山延暦寺の発祥とされる。
そんな中の 794年、
桓武天皇により都が 京都・平安京へ遷都されると
、多くの宗教勢力も
京都
やその近郊へ移転することとなるも、まだまだ
奈良盆地に形成された南都仏教が絶対的な権勢を誇っていた
。
24歳のとき、最澄は修行入位という僧位を授与され、弟子たちを持つようになる。最澄自身もまた、当初はこの南都仏教の法華経派に属していたが、37歳の時、弟子らと共に唐へ留学し、翌年に天台宗の経典を写経して持ち帰ると、天台法華宗を樹立し、平安京の朝廷から公認を得ることとなる。以降、比叡山延暦寺は天台宗のための道場となり、その総本山となって修行僧らが全国から集うようになる。
彼らの中から、以後の仏教界に大きな影響を残すこととなる、円珍(814~891年)、円仁(794~864年)、慈円(1155~1225年)、源信(942~1017年)、法然(1133~1212年)、栄西(1141~1215年)、親鷲(1173~1262年)、一遍(1239~1289年)、道元(1200~1253年)、日蓮(1222~1282年)などの傑僧を輩出するわけである。下系図。
その後、
京都では平安京が大成し絶対王都として安定してくると
、都の鬼門を守備する寺院として、比叡山延暦寺は朝廷から多くの寄進を受けるようになり、寺勢を増すこととなった。こうして政治の中枢に近接することで、仏教界の中心集団へと躍り出たわけである。
その後、比叡山系一帯で伽藍が拡大され、広大な寺域を持つにようになり、全盛を誇った平安時代末期には、三塔・十六谷・三千坊を数えたと言われる。
この過程で門下の派閥対立が激化し、
三井寺(園城寺)の寺門派
、西教寺の真盛派などが分派されていき、比叡山延暦寺に残ったグループは山門派と呼ばれるようになる。
そして室町時代後期、豪族や武士以外にも、農民や宗教勢力も武装するようになり、比叡山延暦寺は一大勢力となって
京都
に強い影響力を与える存在となっていた。その過程で、浅井・朝倉連合軍と組するなど政治権力も帯びるようになり、これと対立した 織田信長(1534~1582年)によって一山焼き討ちに遭ってしまうわけである(1571年9月11日深夜)。
以降、寺勢は下火となってしまい、信長が存命中はその復興が許可されなかったが、豊臣秀吉(1536~1598年)、徳川家康(1541~1616年)の治世下で大いに支援を受け復興され、多くの諸堂が再建されていくこととなる。この時代に建立された建物群が、現在、国宝・重要文化財の指定を受け現存するわけである。
1994年には、世界文化遺産に登録されている。
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