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日本の城 から
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神奈川県 鎌倉市 大船 / 藤沢市
訪問日:20--年--月--旬
神奈川県 鎌倉市 大船 / 藤沢市 ~ 藤沢市人口 44.5万人、一人当たり GDP 320万円(神奈川県 全体)
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玉縄(甘縄)城跡、玉縄歴史館、龍寶寺(玉縄北条氏 墓所)、小坂家長屋門、七曲り坂
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玉縄首塚(里見軍が鎌倉など 東相模一帯を襲撃した際、応戦した北条方諸将を弔った塚)
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江戸時代の玉縄藩 陣屋跡(陣屋坂もす公園、陣屋坂公園)
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二伝寺砦跡、二伝寺(桓武平氏の 一門・村岡氏の五輪塔が現存)、城護山 円光寺
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村岡城(村岡砦、高谷砦)跡、村岡城址公園、三日月井跡、長福寺、旧・鎌倉街道
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御幣山城(大谷城、御幣山砦、おんべ山砦、藤沢城)跡、御幣公園
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天神山城跡、北野神社(山崎天神、州崎社)
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洲崎古戦場跡、泣塔、等覚寺(北条氏 供養塔)、梶原景時 供養塔
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長窪の切通し、高野の切通し、木曾塚(木曽義高の墓)、北条泰時 墓所
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円覚寺(JR北鎌倉駅)
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長尾砦跡
神奈川県東半分の訪問に際し、基本的には
横浜駅前
に投宿していたが、ホテル代が最安値となる日曜日のみ、大船駅前まで移動し、「相鉄フレッサイン 鎌倉大船駅東口」に投宿してみた。翌月曜日に駅周辺を散策してみたい(当地には博物館系は無いので、休館リスクは心配なかった)。
そのまま一泊だけして、同日夜に再び
横浜駅前
へ戻るか、そのまま連泊するかは、臨機応変に対応したい。神奈川県中部や 西部エリアのホテル(スーパーホテル湘南藤沢や戸塚店も含む)は結構、値段が高く、東海道線上ではこの大船駅前のホテル群が最も穴場的存在だった。
さて大船駅周辺の視察であるが、本来は自転車をレンタルしたい移動距離なのだが、この駅前にはレンタサイクル店は無かった。というわけで、早速、駅前から徒歩で「玉縄(甘縄)城跡」を目指すことにした。下地図。
柏尾川を渡った地点のやや南側に「玉縄首塚(甘縄首塚)」があった(上地図)。これは、房総半島の里見氏が
鎌倉エリア
へ上陸し、一帯を荒らし回った 際(1509年の大永鎌倉合戦)、戦死した北条方の将を弔った塚ということだった。この史実を刻印した石碑が脇に併設されていた(1968年建立)。
さらに西進し、「龍寶寺」の麓にある「玉縄歴史館(9:00~15:00。年中無休。見学料 200円)」を訪問してみる(駅から徒歩 10分ほど)。 2020年8月に 地元有志「玉縄城址まちづくり会議(2006年結成)」によって開館された資料館で、玉縄城のジオラマ模型や 復元図、出土した遺品などが展示されていた。
また、その後方に「龍寶寺」の境内が広がっており、玉縄北条氏の菩提寺ということで、かつては山上に避難用城塞を兼ねる形で造営されていたらしいが、近年になって麓へ社殿が移転されたという。境内には、今でも玉縄北条氏一族の供養塔が保存され、山の斜面上には腰曲輪跡地と思わしき地形が複数、残っている。
もう少し西へ歩みを進めてみると、民家の一部となっている「小坂家 長屋門(江戸時代、この植木村の名主を務めた 旧家の名残り)」脇を通過し、「うえきこどもの家 植木子ども会館」に至る。この脇の路地が「七曲り坂」という登り道になっていた(急坂で幾度もクネクネ折れ曲がっていることに由来。下絵図)。途中に「虎口跡(防衛のために、通路を L字型に設計した城門跡)」「武者だまり 跡(複数の武者が詰めた平坦な地形)」などが保存され、解説板が設置されていた。城の東面から本丸へ至る登城道であったらしい。下絵図。
坂道を登り切ると、両脇には土塁と木柵が構築され、攻め上がってくる敵を迎え撃つ工夫が施されていたようである(上絵図)。
その脇に太鼓櫓跡という高台があり(上絵図)、小さな緑地公園として整備されていた(先の民間団体「玉縄城址まちづくり会議」と 地元市役所の協力により保存されたもの)。また、この太鼓櫓跡の眼下には「焔硝蔵(火薬庫)跡」や「切通し跡」が残存するという(下絵図)。
そのまま道なりに進むと「大手門跡」に行きつく(上絵図)。この後方には巨大な山頂部がそびえ立っているわけだが、本丸跡地は現在、清泉女学院高等学校(偏差値 58)となっており、立入禁止だった(内部見学には事前に学校側からの許可が必要、との注意書きあり)。
この校内に「諏訪壇」という場所があり、当時は本丸の東端にあった長方形型の土台で、玉縄城の 最高地点(標高 62 m)であったことから、見張り台が設置されるとともに、城の 守護神・諏訪神社が祀られていたと考えられている(上絵図、下絵図)。また、敷地内部には堀切や小曲輪などの地形も現存するという。
そして、校門前に安置されている巨石は、玉縄城遺構の一部と伝えられているという。
本丸跡地は見学できないので、仕方なく、丘陵斜面にあった バス停「陣屋坂上」をそのまま下っていくと(この一帯の地名は「城廻」だった)、「陣屋坂もす公園」「陣屋坂公園」が点在する。これらは、江戸時代に山麓部分に開設されていた玉縄陣屋跡に由来するという。北条氏時代には、城主の居館があったエリアだったことが分かる(上絵図)。
なお、城跡のあちこちに古地図や解説板が設置されており、当時の縄張り図と現在の地形を見比べながら散策を堪能できた。 特に 1963年に学校施設が誘致されて以降、全く保存や発掘活動が行われないまま、多くの土地が整地され宅地開発されてしまい、残存していた地形や遺構も破却されてしまったという。現在は自動車の往来も非常に多いエリアとなっていた。それでも、周囲では「早雲台」「城山」「城廻」「関谷」などの地名が継承されていた(下地図)。
なお、城跡の西端には「ふわん坂」という坂道があり(下地図)、急傾斜の坂の両側にかつては坂道を見下ろす平場があり、斜面上の防御構造がはっきりと視認できる地形だったらしい。
鎌倉時代、
幕府本部「鎌倉府」の切通し
郊外にあって、鎌倉街道が柏尾川を渡河するポイントに位置したことから、何らかの軍事施設や集落があったことは明らかであり、これに伴う簡易な城塞が既に丘陵上に開設されていたと考えられる。
そして時は下って戦国時代初期の 1498年、5年がかりで伊豆占領に成功した 北条早雲(1456?~1519年)は、すぐに相模侵攻を開始し、だまし討ちにより大森氏の小田原城を早々に奪取すると(1495?/1505?年)、さらに東相模まで食指を伸ばし、相模三浦氏と対立し合うこととなった。この時、関東管領・上杉氏が相模国、武蔵国の守護職を兼務しており、その親族である 三浦道寸(義同)が三浦家当主として養子に入っていたことから、両者は連携して早雲に対抗したため、かなりの長期戦を強いられるのだった。
1510年、早雲は三浦半島の付け根に「住吉城(今の神奈川県逗子市)」を築城し水軍拠点を設けるなど、三浦氏の勢力圏切り崩しを図るも、道寸によって奪取されてしまい
、さらに 岡崎城(今の 神奈川県伊勢原市大句)まで西進されて、ここに道寸が自ら本拠地を構えて北条氏と対峙することとなる(同時に、この城に大森氏の 当主・大森藤頼を保護し、小田原城を含む旧領奪還を支援しようとしていた)。しかし 1512年8月、早雲が岡崎城を攻め落とすと、一気に三浦半島北部まで勢力圏を拡大する。
こうして三浦半島の新井城、三崎城に三浦軍を追い込んだわけだが
、両者ともに堅城だったことから攻めあぐねてしまう。その間に武蔵国側から上杉軍が南進し挟撃してくることを恐れた早雲は、玉縄城など複数の拠点を構築して、両者の交信、補給ルートを断ち切る作戦を立てるのだった。
こうして、玉縄城(城主として、次男の 北条氏時【?~1531年】を配置)が本格的に整備されたわけだが、東を流れる柏尾川を外堀として活用しつつ、城下の川湊から船で相模湾まで出ることができ、緊急時にすぐに対応できるルートも確保して、上杉方に備えたのだった。早速の翌 1513年、上杉方から派遣されてきたた
援軍・太田資康(江戸城主・太田道灌の嫡男)
を迎撃し、敗死に追い込むことに成功する。
その後も、上杉軍を一歩も三浦半島に入れることなく、三浦氏の残党を孤立させ続け、ついに
1516年、新井城の三浦道寸らを全滅に追い込むこととなる
。こうして相模国を完全併合した早雲は、すぐに対岸の房総半島まで攻勢をしかけていくわけだが、
武家の聖都「鎌倉」
に近い玉縄城は、引き続き、北条一門が城主を務める重要拠点としてキープされ続け、「玉縄北条氏」と称されることとなる(なお、玉縄城は時に甘縄城とも別称された)。
その後、初代城主・北条氏時(?~1531年。下家系図)が 1531年に急逝すると、早雲から家督を継承していた 2代目当主・北条氏綱(1487~1541年。下家系図)は、自身の 三男・北条為昌(1520~1542年。下家系図)を玉縄城主に送り込むも、まだまだ 12歳の少年だったことから、重臣の大道寺盛昌や福島綱成などを補佐役に付けつつ、氏綱自らも小田原城と 玉縄城を往復して見守ることとしていた。しかし、その為昌も 1542年に急逝してしまうと(23歳)、長らく城代として補佐してきた福島綱成(1515~1587年。氏綱の娘婿でもあった。下家系図)が「為昌の養子」という形で北条家に組み込まれ(直後に北条綱成へ改名。ただし、実際の年齢は綱成の方が上であった)、3代目城主に就任する。以降、綱成の 子・氏繁(康成。1536~1578年。下家系図)、氏繁の 子・氏舜(?~1581?年。下家系図)、その 弟・氏勝(1559~1611年。下家系図)へと、4代にわたって城主が継承されていくわけである。
なお、この 2代目・北条氏綱(1487~1541年)の治世時代、相模国からさらに武蔵国へ侵攻を開始するものの(
1524年、武蔵国南部の江戸城を奪取
)、これが 関東管領・上杉家のさらなる反発を買い、小弓公方・足利義明、
甲斐・武田氏
、房総半島の里見氏らの周辺勢力も加勢して、四方を敵に囲まれる絶体絶命のピンチに陥ってしまう。
そんな四面楚歌だった 1526年11月下旬、房総半島から里見軍が鎌倉に乱入し(この戦火で、鶴岡八幡宮が焼失する)、相模国東部を荒らし回る
。この時、玉縄城主だった北条氏時は、戸部川(今の柏尾川)の河畔で防戦し、無事に里見軍の撃退に成功している。
そして、3代目・北条氏康(1515~1571年)の治世下で、ついに長年の宿敵だった 関東管領・上杉家を駆逐すると、関東平野の大部分を支配下に置くこととなった。しかし、最後の 関東管領・上杉憲政から家督を譲られた
越後の上杉謙信
が、1560年に関東侵攻を開始すると、多くの関東武士らが上杉軍に帰参してしまい、北条勢力は大きく減退することとなる。翌 1561年には本拠地の小田原城を包囲されるも、堅城であったことから、上杉軍の撃退に成功する。この包囲戦の最中、
鎌倉の鶴岡八幡宮
へ参拝した上杉謙信は、ついでに鎌倉近くにあった 玉縄城(城主は北条綱成)の攻撃も検討したようだが、軍備不十分ということで、玉縄城攻めは見送られたとされる。その際、謙信が「この城、当国無双の名城なり」と称えた、という記録が残されている。
1569年秋には、駿河侵攻で対立した武田信玄が関東侵攻してくると、関東平野の各地を荒らし回ることとなる
。この時、付近を通過した武田の別動隊により、堅城だった玉縄城は素通りされ無傷だったが、藤沢にあった支城の 大谷城(御幣山城)が攻略された記録が残されている。
そして 1590年、豊臣秀吉による小田原征伐戦が勃発すると(上地図)、 4代目玉縄城主だった北条氏勝は最前線の山中城守備を委ねられるも、圧倒的な兵力差の中(3,000 vs 68,000)、わずか半日で落城してしまう。氏勝は 700騎ばかりの残兵を引き連れて小田原城を素通りし、居城の玉縄城へ帰還して籠城準備に取り掛かる。この時、北条家 5代目当主だった北条氏政は、本城に立ち寄らなかった北条氏勝の行動に大いに不信感を募らせたという。
秀吉の命で先鋒を司っていた徳川家康は、小田原城を越えて武蔵国や上総国、下総国の攻略戦に取り掛かるわけだが(上地図)、その前に立ちふさがったのが、北条氏勝の玉縄城であった。
玉縄城を包囲した徳川家康は、大応寺(今の龍宝寺)の 住職・福島良達(氏勝の叔父)を通して降伏勧告を出し、3月29日の山中城の戦いで圧倒的兵力差を見せつけられていた氏勝もこれを受諾し、降伏・開城することとなる(4月22日)。その後、家康は 古田重然(古田織部。1543~1615年。この時、秀吉からの目付け役として徳川軍に従軍していた)、瀬田正忠(1548?~1595年。古田織部と共に茶人大名。同じく秀吉から目付け役として従軍指示を受けていた)らを留守城代に配置しつつ、北条氏勝を水先案内人として随行させ、さらに各地を転戦し、各城主らに無血開城を説かせて大いに活用することとなった。
北条氏の滅亡後、関東地方に徳川家康が入封してくると、相模国は家康の知恵袋である 側近・本多正信(1538~1616年)が管理支配することとなり、玉縄城主には 水野忠守(1525~1600年)が配置される。
北条氏勝はそのまま徳川家臣団に組み込まれ、下総国の岩富城 1万石を与えられて 岩富藩(今の 千葉県佐倉市)を立藩する
。
その後、1615年の一国一城令により、玉縄城は解体され廃城となる(1619年)。しばらくそのまま放置されていたが、長年、幕府の勘定方を司ってきた功績により、2代目将軍・徳川秀忠が 長沢松平家(徳川家の一門)当主の 松平正綱(1576~1648年)に 玉縄藩(22,000石)を立藩させると、玉縄城の南山麓にあった北条時代の城主館跡地に玉縄陣屋が建設され、ここに松平家の居館兼政庁が開設されることとなった。以降、2代目・正信(1621~1693年)、3代目・正久(1659~1720年)へと継承されるも、 1703年2月に 上総国・大多喜藩への移封を命じられたため、そのまま玉縄藩は廃止となり、陣屋も破却されるのだった。
その後、1792年に老中・松平定信が江戸湾防備のため、玉縄城の再利用を計画するも、海から距離があったことから実現しなかったという。
続いて、玉縄城の南 800 mにある「二伝寺砦跡」を訪問してみる(上地図)。ここからは、藤沢市域に入る。
現在、砦跡の麓に二伝寺(藤沢市渡内 3-1)が立地する。境内には、村岡氏の 五輪塔(平将門の 叔父・平良文=村岡五郎、平忠光、平忠通ら三代の墓石。当地に入封して以降、村岡姓を名乗っていた)や 一般墓地が広がり、それらの地形が往時の腰曲輪跡なのか、後世になって整地されたものなのか、全く不明な状態となっていた。また、地元で「二伝寺坂」と呼ばれる旧道が残されているが、途中で行き止まりとなっている。
ちなみに、二伝寺の北隣には「城護山 円光寺」が立地する(上地図)。その名からして、玉縄城と関係しそうな存在だった。なお、かつて玉縄城と二伝寺砦の間には「相模陣(上地図の”相模陣ふき公園”あたり)」と呼ばれた谷があり、藤沢~鎌倉へ通じる街道が通っていたという(現在の県道 302号線。上地図の白ライン)。この街道沿いに集落や寺院、見張り台などの防衛施設があった名残りなのかもしれない。
1512年に北条早雲が玉縄城を築城した際、眼下を走る鎌倉街道を抑えるべく、谷間の向かい側の高台上にも簡易な城塞を建造したと考えられ、それがこの二伝寺砦というわけだった。当初は、三浦半島の封鎖作戦の一翼を担う重要な役割を課されていた。
なお、この城塞名の元となっている「二伝寺」であるが、すでに鎌倉時代後期、
鎌倉
にあった光明寺の末寺として小規模な寺院が街道沿いに開設されていたようである(上地図)。当初、この境内を改造する形で、北条早雲・氏時父子が街道封鎖のための城塞を整備したことから、社殿が山麓に移転され、改めて伽藍が造営されたと考えられる(1505年)。その後、鎌倉街道を完全支配すべく、向かいの丘陵地帯に「玉縄城」が築城されることとなったわけである。鎌倉時代より、鎌倉西郊外の 戸部川(今の柏尾川)の水運で栄えた川湊があったようで、もともと一定規模の集落が形成されていたと考えられ、この街道一帯には鎌倉幕府により何らかの役所機関か防衛施設が開設されていた可能性が高い。それらの跡地を北条氏が転用、再拡張したと推察される。
なお、この「二伝寺」の山麓移転に際し、地元有力者だった福原忠重が積極的に関与したと伝えられている。
しかし、1590年に北条氏が滅亡すると、玉縄城の支城ネットワークは廃止され(上写真)、二伝寺砦も放棄されたと考えられる。
その他の支城群として、長尾台砦、龍寶寺砦、岡本砦(今の大船観音寺)、高谷砦(村岡砦、村岡城)などがあったが(上写真)、これらも現在、遺構は全く残っていない。特に詳しい実地調査も手掛けられず、人の手が入るままとなっている。
さらに南進し、「村岡城(村岡砦、高谷砦)跡」に立ち寄ってみる。上地図。
現在、村岡城があった丘陵は、広いグラウンドを備えた 運動公園&子供広場「村岡城址公園」となっている。園内には立派な 城跡碑(村岡氏の末裔と自負する、
連合艦隊司令長官・東郷平八郎
の直筆)が設置されているが、完全に地形改造が加えられており、全く遺構は残っていない。また城址碑の脇に「三日月井跡」の碑もあるが、あくまでも解説にとどまるもので、本来の井戸は、公園北東隅にあったという。この園内からは玉縄城を一望でき、遠景を撮影するにはベスト・スポットだった。
公園周辺も全方位的に宅地開発されており、往時の面影は全く感知できない。なお、公園南にある長福寺の正面には、かつて鎌倉街道が通っており、その名残りだけは今の住宅街にも残されていた(上地図の白ライン)。
村岡城の北東に位置する二伝寺には、平(村岡)良文、忠光、忠通の 3代の供養塚が現存する。下家系図。
この 平良文(村岡良文。生没年不詳)は、平高望の子ということで皇族出身者であった。
そもそも 平高望(生没年不詳)は、 桓武天皇の皇子の 一人・葛原親王(786~853年)の 三男、高見王(生没年不詳)の子で、皇族の一門として
平安京
で生活していたが、889年、宇多天皇により”平”姓を下賜されて臣籍降下し、地方役人として上総介に封じられ、関東へ移住してきた人物であった。高望は上総介の任期終了後も、関東に土着する人生を選び、元皇族の血筋を武器に在地の有力層と婚姻関係を結び回り、以降、子々孫々にわたって関東一円の現地支配層に食い込んでいくこととなる。彼らの中から武力をもって自らの領地を開拓&自衛する勢力も現れ、武士が台頭してくるわけである。以降、この平高望の子孫らから秩父平氏、房総平氏、相模平氏(中村党、三浦党、鎌倉党)などが輩出され、坂東武者、坂東平氏と呼ばれるようになる。下家系図。
その子の 一人(五男)であった平良文は、側室の子であったことから、正当な血統上の子息とは扱われず、当初の関東赴任時には家族として帯同されることなく、そのまま京都に残されていたという。後に、関東で兵乱が勃発すると、その鎮圧軍の一将として関東へ派遣され、その功績と血統により、武蔵国の 熊谷郷村岡(今の 埼玉県熊谷市村岡)や相模国の 鎌倉郡村岡(今の 藤沢市村岡地区)に領地を分与され、定住していくこととなった。以降、村岡五郎(村岡良文)と称したようである。各所領内に居館を建設した際、この村岡の地にも居館を設けたようで、現在の長福寺周辺だったと考えられている。そして、後方の山に簡易な城塞を建造したものが、「村岡城」の起こりというわけだった。
なお、父・平高望の子の一人が 平良将(873?~?年)で、平将門(903?~940年)の父にあたる。つまり、村岡城を築城した 平良文(村岡五郎)は、この将門の叔父に相当する人物であり(下家系図)、共に関東兵乱で共闘した記録が残されている。最終的に、両者の関係断絶を図った朝廷により、平良文は陸奥守として鎮守府将軍に任じられ東北へ遠征中に、関東で平将門の乱が鎮圧されることとなる。その後、平良文は再び関東居住を許され、下総国に定住したとされる。
この平良文には 5人の子がおり、長男の平忠輔は早世していたが、平将門の娘・春姫を正室とした三男・平忠頼から千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏などが、五男・平忠光からは 三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏などが子孫として枝分かれし、さらに世代を経て多くの氏族が分岐して、「良文流平氏一門」を形成することとなる(下家系図)。ただし、この村岡姓を継承した人物もあったようだが、以降の村岡氏一族の消息は判然としていない。
その後、「良文流平氏一門」は関東に根を張る源氏一門に接近し、鎌倉景政(鎌倉景正。1069~?年。下家系図)は後三年の役で活躍した記録が残されている。彼は 平(村岡)忠通(下家系図)の曾孫とされ、村岡城の北隣にあった三日月山の麓に、景政の産湯の井と伝わる三日月井が伝えられている。なお、景政の死後、鎌倉党の主導権は一族の大庭氏や梶原氏が握ることとなり、村岡家や村岡荘がどうなったのかは定かではない。
特に
源頼朝が挙兵し鎌倉幕府を開府するにあたり
、一門の多くが協力したことから、鎌倉幕府内の有力御家人として「良文流平氏一門」が数多く名を連ねることとなる。下家系図。
次に村岡城が歴史の表舞台に出てくるのは、
1333年5月の新田義貞による鎌倉攻撃であった。新田義貞配下の軍がこの村岡城にも布陣していたことが言及されている
。
その後、再び記録が途絶えた後、戦国時代中期の 1512年に北条早雲によって玉縄城が築城されたタイミングで、これに連なる支城群の一つとして再整備され、「高谷砦」として再登場するわけである。そして、1590年に北条氏が滅亡すると、玉縄城本体だけを残し、すべての支城群は放棄されたのだった。
続いて、「御幣(おんべ)山城跡」に立ち寄ってみる。村岡城址公園からだと、まっすぐ西へ進むことになる(上地図)。
境川沿いに形成された高さ 30~40 mほどの河岸段丘(御幣山)の南端を切断する形で、簡易な城塞が設計されていたという(下地図)。城塞自体は段丘がやや低くなった地点にあり(高さ 15~18 mほど)、現在は 藤沢団地(藤沢市藤が岡 1丁目)として完全に開発し尽くされてしまっている。かつてあった御幣山自体も全く残存せず、付近にある「御幣公園」という名の公園のみが、往時の記憶を今に伝えるだけだった。
かつて、このエリアは相模国鎌倉郡大鋸町と呼ばれていた(今は 神奈川県藤沢市藤が岡)。
室町時代中期~後期にかけて、付近の遊行寺の門前町には、製材業者(大鋸引、おがびき)が多く住み着き、築城や建築の腕前を広く知られていたという。当時、製材の匠らは「大鋸(おおのこ)」とも別称されたことから、そのまま地名として定着したようである。
これより以前、平安時代中期ごろには「村岡荘」という地名であったという。坂東平氏の 祖・村岡良文(平良文)が付近の村岡城に居館を構え、所領地を支配していたことに由来する。この村岡氏は、後に 千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏、三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏などへと分家されていき、
鎌倉幕府の開府
に大きく貢献する一族となっていくわけである(上家系図)。
そして、「御幣山」の山名であるが、鎌倉時代に付近にあった感応院内の三島明神から白い気体が立ちのぼり、白い幣(神前に供える布)となって東南方向へ飛び去った、という言い伝えに由来するということだった。
そして、この御幣山の林の南端に城塞が建造されたのが、戦国時代の 1558年頃と考えられている。二伝寺砦や 高谷砦(村岡城)と並ぶ、玉縄城の支城網の一つとして築城されたようである。西隣に流れる境川を自然の外堀とし、丘陵上に幾段かの平場や堀割を設ける丘城であった。
北条家の 家臣・大谷帯刀左衛門公嘉が造営、および城主を司ったことから、大谷城と通称されていた。同時に御幣山砦、おんべ山砦、藤沢城なども呼称されたという。
なお、城主の大谷公嘉であるが、
1569年秋に武田信玄が関東侵攻した際、自身は主力部隊と共に小田原城に詰めていたため、武田の別動隊が御幣山砦を襲撃すると、そのままあえなく落城してしまったという
。また、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐時には、 上野国・西牧城(今の 群馬県下仁田町南野牧)にて、同僚だった武蔵国・青木城主(今の
横浜市
神奈川区高島台)多米周防神守ら共に籠城し、戦死している。この時も、御幣山砦は徳川軍の攻撃により簡単に落城してしまい、間もなく玉縄城主・北条氏勝も降伏することとなる。
この大谷氏も、もともと桓武平氏の流れをくむ渋谷氏の一門と考えられており、その領内に大谷氏の 居館(御所谷)や 大谷城(御幣山砦)などを建造し領地経営していたようである。
軽く付近を散策後、路線バスで JR大船駅前まで戻る(1時間に 3本あり。上地図)。そのまま湘南モノレールに乗って、一つ目の「富士見町駅」で下車する(下地図)。ここから住宅街の路地を進み、線路下を西へ入り、庚申塔を通過する。すぐに北野神社下に到着すると(下地図)、境内へ上がってみた。ここが「天神山城跡」というわけだった。本殿の裏手には、土塁の遺構が現存する。
なお、この北野神社は地元では「山崎天神」とも別称され、かつては「州崎社」とも呼ばれていたそうだ。鎌倉幕府が滅亡した直後の 1340年ごろ、北条氏の慰霊のため、夢窓疎石によって開山されたという。
1333年5月18日、
鶴岡八幡宮に近い巨福呂坂切通し
から出撃してきた最後の執権・北条守時の軍が本陣を置き、一帯に展開する新田義貞軍と対峙した場所と伝えられている。当時、北条守時の妹は足利尊氏の正室で、その鎌倉脱出を手助けしたこともあり、幕府中枢部からは内通の嫌疑がかけられるほど立場を悪くしていた。このため汚名返上を兼ね、自ら決死の覚悟で戦地へ打って出てきたわけである。ここから後述の「洲崎古戦場跡」へと繋がっていく。
境内エリアを見学後、再び湘南モノレールの線路下まで戻り、その真下を通る 道路(大船西鎌倉線)沿いを一駅分、歩く。次の 駅「湘南町屋駅」をさらに通過し、徒歩 5分ほどで深沢多目的スポーツ広場に到着する。その信号交差点の 1本手前の三叉路に「洲崎古戦場跡」の石碑があった。上地図。
一帯を軽く散策後、さらに一駅先の「湘南深沢駅」まで歩き、深沢多目的スポーツ広場内にあった「泣塔」と、駅前の等覚寺にある「北条氏 供養塔」も見学する(上地図)。そのまま駅から湘南モノレールに乗車して大船駅前まで戻った。この時、駅ホームや車中から、高めの視覚でこの古戦場跡一帯を撮影しておきたい。
鎌倉幕府最後の執権・北条(赤橋)守時、戦死の地
1333年、度重なる倒幕運動の鎮圧戦費捻出のため、幕府は追加徴税を催促する使者を全国へ派遣していた。同年 5月、この幕府からの使者を殺害し、完全に幕府体制下での立場を失うこととなった 新田義貞(1301~1338年)は、一族郎党わずか 150騎で挙兵し、地元の上野国新田荘を出陣すると(5月8日)、翌日には 越後や甲斐、信濃に点在する源氏一門らも結集して 9000騎となり、その後も参陣する武士団を加えながら大軍を形成し、 5月11~15日に 小手指原・久米川(埼玉県所沢市~東京都東村山市あたり)で幕府軍と激突する。これを突破後、さらに 武蔵国、相模国へと駒を進めていた途中の 5月12日、世良田で決起した 最有力御家人・足利氏一門(
鎌倉
を脱出した尊氏の 正室・登子や 嫡男・千寿王を含む)らも合流することとなり、いよいよ正当性を得た新田軍はさらに南進し、関戸の戦いでも大勝を収めると、ますます大軍に膨れ上がって鎌倉へと迫るのだった。
決起からわずか 10日たらずで、鎌倉郊外の村岡城一帯に布陣した新田義貞は、5月18日朝、三方から鎌倉への総攻撃をしかけるも、いずれも失敗し、逆に極楽寺坂切通しを攻撃していた大舘宗氏が幕府軍によって戦死させられるなどのダメージを受けてしまう。下地図。
しかし、
北の「巨福呂坂切通し」に展開していた幕府軍は、執権の 北条(赤橋)守時(1295~1333年。下家系図)が自ら部隊を率いたこともあり、逆に鎌倉郊外へと攻め出し、新田軍の 左翼・中央軍(大将は掘口貞満と大島守之)と野戦を演じるまでに前進してくる(直前に鶴岡八幡宮で戦勝祈願し、士気を高めていた)
。しかし、圧倒的な大軍を前に、朝から夕刻まで実に 65度にも及ぶ衝突を繰り返した結果、多数の戦死者を出して 300騎にまで戦力ダウンしてしまうと、いよいよ千代塚まで追い詰められた守時は、部下の南条高直や実子・赤橋益時を含む 90人以上と共に自害して果てるのだった。部下からは鎌倉へ引き返し救援を乞うように説得を受けるも、自身の置かれた境遇もあって(後述参照)、守時は戦場での死を選んだのだった。
現在、深沢多目的スポーツ広場(戦場の一部でもあった)の北端に残る「泣塔」は、彼らの供養塔と伝えられている。また、湘南モノレール「湘南深沢駅」近くにある等覚寺にも、この時に戦死した北条一門の供養塔が残っている。上段地図。
右翼軍では大将・大舘宗氏が討死するも、中央・左翼軍で執権・北条守時を討ち取った新田軍は、
その勢いで鎌倉の山ノ内へと雪崩れ込むべく、さらに仮粧坂(大仏切通し)や極楽寺切通しへ切り込ませるも、幕府軍も必死の抵抗を見せ、新田軍は 3日経っても鎌倉入りを果たせずにいた。しかし、引き潮のタイミングで沿岸部からの鎌倉進入の可能性を知った新田義貞は、5月22日、自ら本隊を率いて鎌倉突入を決行し、そのまま仮粧坂(大仏切通し)や極楽寺切通しの背後に回って幕府方の守備隊を蹴散らし、一気に友軍を引き入れて、鎌倉府へなだれ込ませたのだった。こうして、同日中に鎌倉の町は灰燼に帰し、北条高時(14代目執権。下家系図)ら一門は自刃して果てるわけである。
なお、最後の執権を務めた北条(赤橋)守時であるが、そもそもは六代目執権・北条長時(1230~1264年。上家系図)を祖とする赤橋系北条氏の当主であった。その邸宅が、鶴岡八幡宮の赤橋(現在の太鼓橋)付近にあったことから、「赤橋」と名乗っていたという。北条一門の中でも得宗家(上家系図の右端)に次ぐ高い格式の家柄で、父・北条久時(1272~1307年。上家系図)は
六波羅探題
の長官(1293~1297年)や幕府中枢の評定衆を務めるなど、幕閣を担った人物であった。
1307年に父・久時が急死すると、そのまま守時が 13歳で家督を継承し、従五位下・左近将監に叙任される。1311年には元服を機に評定衆にまで参画する(しかし、幕政の実権は、内管領の長崎円喜・高資父子と、外戚である安達時顕が牛耳っており、評定衆は形骸化していた)。こうして守時がとんとん拍子に出世コースを進む一方で、幕府内部では権力争いが繰り広げられており(1326年3月の政争嘉暦の騒動など)、北条得宗家が執権就任を避ける中、1326年4月、守時に強引に押し付けられる形で 16代目執権就任が決定されるわけである(31歳)。しかし、政治の実権は、出家していた北条得宗家(元執権)の北条高時、内管領・長崎高資らが独占したままであった。
なお、これより前の 1321年末、実弟の北条(赤橋)英時が鎮西探題となって
九州博多
に赴任し、九州地方の御家人管理を司ることとなった。彼は鎌倉幕府が滅亡する 1333年5月まで鎮西探題の長官を務め上げるわけだが、蒙古襲来後の九州御家人らの困窮と不満がうずまく現地にあって、鎌倉幕府を取り巻く危機的状況を誰よりも察知し、これを実兄の北条守時にも、事あるごとに伝えていた可能性が高く、特に 1333年に全国的に倒幕の挙兵が多発する状況で、守時自身も幕府の終焉を勘づいていたに違いない。こうした背景から、
鎌倉
に人質に取られていた足利尊氏の正室(守時の妹・登子)や子(後の足利義詮)の脱出に、裏で手を貸したと考えられる。
1331年と 1333年の後醍醐天皇挙兵に伴う追討軍の総大将として、足利尊氏(1305~1358年)が指名されるわけだが、これも執権・北条守時(1295~1333年)の義弟という姻戚関係が大きかったと言える。
最終的に足利尊氏は後醍醐天皇方に寝返り、 1333年5月7日に京都の六波羅探題を攻撃、陥落させたことから
、その義兄にあたる守時は、幕府最高実力者・北条高時や、内管領の長崎円喜・高資父子からの疑惑と叱責を受け、謹慎を言い渡されることとなる。さらに迫り来る新田義貞との内通も疑われていたことから、自身の疑惑と汚名をはらすべく、真っ先に出陣し戦死を選んだのだった。
守時の死後、代わりに巨福呂坂切通しを守備した北条貞将(1302~1333年。金沢系北条氏。上家系図)も、海岸からの新田軍突入後、北条高時らと共に東勝寺まで撤退する。多くが戦意を失い自刃を覚悟する中、高時からその血気を高く評価され、残りわずかとなった最後の瞬間に、17代目執権の指名を受けるわけだが、そのまま金沢系北条一門を引き連れて新田軍への突撃を敢行し、戦死することとなる。一方、高時らは東勝寺に火を放ち、自刃して果てていったのだった
。
もし、二泊に分けて現地散策する場合は、大船駅の東側一帯も巡ってみたい。「高野の切通し」「長窪の切通し」「木曾塚(木曽義高の墓)」「北条泰時 墓所」を訪問後、「円覚寺」まで足を伸ばし、JR北鎌倉駅から大船駅へ戻る。そして、大船駅北側にある「長尾砦跡(横浜市栄区)」も訪問してみたい(冒頭地図)。一説によると、関東管領上杉氏の宿老家臣の一角、長尾氏(後に上杉謙信を輩出する家系)の発祥地ということらしい。
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