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日本の城 から
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訪問日:20--年--月--旬
滋賀県 長浜市 ② ~ 市内人口 11.4万人、一人当たり GDP 333万円(滋賀県 全体)
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小谷城(月所丸・大嶽城・福寿丸・山崎丸 など)、大嶽城
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小谷城戦国歴史資料館、小谷城跡ガイド館「浅井三代の里」
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中島城 & 丁野山城
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丁野の里 ~ 浅井家発祥の地、浅井氏 居館跡
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河毛城跡(浅井氏の家臣で、地侍・河毛氏の居館跡)
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虎御前山城(織田信長以下、配下の各将の陣所跡が点在)と 虎姫時遊館(資料館)
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雲雀山砦
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伊部館跡(浅井氏の家臣で、地侍・伊部氏の居館跡)
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尊勝寺城跡(平野神社、称名寺。浅井氏の家臣で、地侍・大橋氏の居館跡)
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宮部城跡(豊臣秀吉の 古参家臣・宮部継潤の出身地)
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姉川の古戦場
宿泊先の長浜駅前
から JR北陸本線で北上し、河毛駅で下車する(7分、200円)。
河毛駅構内にある、長浜観光協会(河毛駅コミュニティハウス 営業時間 6:30〜17:00)で、自転車を借りる。電動アシスト自転車は終日 1,000円、普通自転車は 500円で、保証金 800円要
。
当地の最大観光スポットである小谷城は、駅前(浅井長政と お市の方 夫婦像が出迎えてくれる)から 20分ほどのサイクリングで到着できるわけだが、あまりに有名な観光地なので今回はスルーし、あえて小谷城以外の 城塞跡、城館跡、陣城跡、古戦場を巡ってみることにした。
まずは、駅北側にある中島城と丁野山城、そして「浅井家発祥の地」の 3か所に立ち寄ってみた(上地図の上半分)。
中島城と丁野山城は、もともと同じ小山上の尾根続きにある、兄弟要塞であった。東面の農道部分から登山し、5分ほどで尾根道に到達すると、右側 80 m先の山頂部が「中島城」で(山麓からの高さ 30 m、標高自体は 133 m)、左側 330 m先の山頂部が「丁野山城」となっていた(山麓からの高さ 60 m)。山は訪問者のために木の伐採が定期的に行われており、苦労なく踏破できる。
さて、浅井長政が築城したという中島城であるが、地形をうまく利用し、二か所の曲輪が造営されていた。現在も、これらを取り囲む高さ 1.5 mほどの土塁や、虎口、堀切、土橋などがはっきり残存する。
また、丁野山城の方であるが、虎口を有する主郭部分は 20 m四方と広く、周囲には空堀が巡らされていたようである(土塁は現存せず)。さらに南北に腰曲輪が配置され、その外周部にも堀切と竪堀が残っている。
中島城 と 丁野山城 ~ 浅井家 3代の栄枯盛衰の縮図
鎌倉時代初期より近江守護家を代々継承してきた佐々木氏であったが、鎌倉時代中期に京極氏と六角氏に分家されて以降、近江国の北と南に分かれて勢力圏を形成し、度々、武力衝突を繰り返すようになっていた。その北近江の大名・京極家の家中にあって、浅見氏に続き、第二位の勢力を有した国人一族が「浅井氏」であった。浅井家のもともとの地盤は、丁野の里(現在の 長浜市小谷丁野町)と考えられており、特に 浅井亮政(1491~1542年。下家系図)が当主となって以降、浅井氏が歴史の表舞台に躍り出るようになる。
1518年、浅井亮政は自らの里を守備するため、丁野山城を築城する。 1523~1524年には小谷城も築城するなど、北近江の各地に城塞群を建造し、着実に地盤を固めつつ、南近江の六角氏からの攻撃をしのいだ。この時代、浅井家を支援したのが、北隣・越前国の 戦国大名・朝倉氏であった。
しかし、亮政の跡を継いだ 久政(1526~1573年。下家系図)の時代になると、六角氏の反属国と化し、実子の 長政(1545~1573年。当時は賢政という名前であった。下家系図)も、六角氏の人質に取られる有り様であった。しかし、
1563年に勃発した六角氏の お家騒動(観音寺騒動)の混乱の中
、北近江の諸勢力を糾合して六角氏から完全独立を果たすと、近江を南北二分して、再び、抗争を繰り広げていくこととなる。この間、越前・朝倉氏との同盟関係はますます強化されていった。
こうした中、六角氏は
美濃の斎藤氏
に接近し、北近江を挟撃することを合作するようになると、浅井氏も斎藤氏と敵対する尾張の織田家と友好関係を結ぶようになり、こうして浅井長政と お市の方(上家系図)との縁談同盟が成立するわけである(1567年9月)。その後、
織田信長は美濃の併合に成功し
、足利義昭を迎えて
京都上洛
を目指すと、浅井氏もこれに協力して、長年の 宿敵・六角氏の排除に成功するのだった。そのまま信長は室町幕府の再建を成就するも(1568年10月)、 1570年4月下旬の金ヶ崎の戦いを期に、浅井長政と対立することとなり、
同年 6月末の姉川の戦いを経て
、信長の浅井攻めが本格的にスタートするわけである。
それでも、足利義昭が主導した信長包囲網により、
東の武田信玄
、
畿内の石山本願寺
、
比叡山延暦寺
などの協力もあり、浅井長政は有利に戦況を運ぶも、
比叡山の 焼き討ち(1571年9月30日)
、
武田信玄の 病死(1573年5月13日)
などが重なり、浅井・朝倉連合軍は次第に孤立していく。この間も、信長は木下秀吉に命じて北近江の諸勢力の調略と勢力切り崩しを進めており、いよいよ満を持して 1573年8月、信長自身が出陣して小谷城攻略戦に臨むのだった。
これに対し、越前・朝倉氏からも援軍が派遣され、小谷城の北の 支城・大嶽城と、西の支城・丁野山城に籠城することとなる(この時、丁野山城を支援する目的で、浅井長政によって同じ尾根上に築城されたのが、中島城であった。家臣・中島【宗左衛門】直親に守備させる)。しかし、間もなく両城ともに落城すると、総崩れとなった朝倉軍を追撃して、信長本隊もそのまま越前まで遠征し、同月中にも一乗谷で朝倉氏を滅亡させてしまう(この時、長男・信忠を小谷城攻めに残留させていた)。
同盟者だった朝倉氏を失った浅井長政は、いよいよ小谷城に追い詰められ、同月末についに小谷城も落城し、翌 9月1日、浅井長政は本丸で自刃して果てるのだった。
そして、この丁野山城・中島城の北側にある集落が、かつての「丁野の里」であった。現在、小谷丁野町自治会館(長浜市小谷丁野町 808)前に、「小谷城主・浅井家発祥の地」に関する解説板が設置されている(下写真)。
浅井氏はもともと、近江国の 守護・佐々木氏、後にその分家として北近江を支配した京極氏に使えた、地元出身の有力国人で、その居館がこの地にあったと考えられている。下剋上により、浅井氏を北近江の戦国大名化させた浅井亮政の代まで、この地に居住していた。その後、
南近江の六角氏
との抗争が激化する中で、小谷城を築いて拠点を移すも(1525年ごろ)、度々、六角軍の攻撃を受け、小谷城も一度、落城している。こうした近江の動乱のため、浅井氏はのうのうと平野部で居館生活が送れず、中世三大山城の一角と称される「小谷城」を造営せざるを得なかったわけである。
続いて、いったん河毛駅前まで戻り、そのまま南側の河毛城跡を訪問してみる(冒頭地図)。現在は、集落地(湖北町河毛)の南に広がる田園地帯のど真ん中に、小さな社だけが残存するのみとなっている。かつての城域は、JR北陸線の線路で分断されているという。
国人出身だった浅井氏に仕えた、地侍・河毛氏の居館跡。浅井氏家臣で奉行職を務めた、河毛三河守清充の名が史書に出てくる。浅井氏滅亡後、河毛氏は羽柴秀吉に仕え、後に
京極高次
の家臣となっている。
河毛氏が「大字」河毛エリアを支配した地侍であったように、近江地方ではこうした「大字」 1~3地区ごとに、最低一つは地侍の居館が設置されていた。彼らはその地名を姓に冠し、そのエリアの村人や商人らを支配したわけだが、ここまで細分化された地縁の強さは、国内の他の地方では見られない事例である。「大字」丁野、「大字」河毛、「大字」宮部、
「大字」石井、「大字」服部、「大字」相撲庭
など。
そのまま東進し虎御前山を通り過ぎると、県道 365号線との交差点で、いよいよ小谷城の 入り口(清水谷の入口)に到達する。この奥に設置された 小谷城戦国歴史資料館、小谷城跡ガイド館などの資料館も立ち寄ってみたい。上絵図。
小谷城への登山であるが、曲輪群や 城塞網(小谷城・月所丸・大嶽城・福寿丸・山崎丸 など)を歩くと、優に 4時間はかかる長大コースなので、今回は辞めておくことにした。 5月のゴールデンウイークと 11月の連休中のみ、山麓から有料の定期バスが運行され、小谷城の中腹部まで乗車させてくれるという。
小谷城はすでに有名過ぎて、多くの愛好家が登山されているので、特に写真撮影のための登山は不要かと思われた。それよりも周囲の陣城群など、自転車でしか訪問困難なスポットを巡る方が有意義かと考えた。下地図。
こうして県道 365(265)号線をそのまま南下していくと、雲雀山の裾野を掠める。この山頂に築城されていたのが、「雲雀山砦」であった。上地図。
戦国時代当時、小谷山の南を迂回する北国脇往還道が、この雲雀山の真下を通過していた(下地図)。雲雀山は、ちょうど小谷山から波状に広がる尾根の一つに位置し、小谷城の出丸的な存在であった。
姉川の合戦後
、姉川北岸に押しやられた浅井軍は、一門の浅井大学之介を「雲雀山砦」に入れて守備を固めるも、1572年夏から織田信長が本格的に小谷城を包囲すると、「雲雀山砦」はかなり早い段階で織田軍の攻撃を受け占領されてしまう。以降、後方の虎御前山と共に、織田方の最前線基地として逆活用されることとなった。
現在、山全体には古代から残る多数の古墳群が見られるものの、山頂付近の城塞遺構はほとんど視認できない状態となっている。
続いて、雲雀山の西隣にある伊部町を訪問し、地侍の 居館跡「伊部館跡」を訪問する。
この伊部氏の居館は、小字「鍛冶屋田」の一角にある、「大屋敷遺跡」と呼称された場所にあったと推察されるも(上地図の中央やや下「伊部地区」の赤ライン)、今は、完全に水田として開墾されてしまっており、城館の遺構は全く皆無であった。
伊部氏は、古くから浅井郡伊部村を支配した一族で、浅井氏に仕えた伊部清兵衛の居館跡と考えられている。
近江地方は、こうした地方豪族の居館跡が各地に点在し、その姓と地名がリンクして共同体意識の非常に強い土地柄であった。
浅井氏時代から 街道「北国脇往還」沿いに立地し、城下町の一部をなして、栄えた商業エリアとなっていた。上地図の通り、往時には田川を経由して琵琶湖とも直結されており、今でも「船場辻跡」の石碑が残されている(上地図の赤ライン)。浅井氏滅亡後、小谷城の城下町が琵琶湖畔の
長浜城
下へ移転されても、街道「北国脇往還」沿いの宿場町として「伊部村」は存続し、江戸期もそのまま継承されたという。
次に、やや南東方向にある「尊勝寺城跡」も訪問してみる。上地図の右下端。
現在、平野神社と称名寺との間に広がる水田内に、城館跡の土塁遺構が忽然と残る。さらに、平野神社の境内と北隣の民家内にも、土塁と堀の一部が残存する。周囲に広がる水田は、堀跡の一部だったと考えられる。
資料によれば、尊勝寺集落地の西端に位置する平野神社と称名寺の境内を含む、東西約 330 m、南北約 290 mサイズの広大な城域を有し、複数の方形の居館が連結されたような設計であったという(特に称名寺は、浅井氏に与して織田信長に反抗した 一向宗・湖北十ヶ寺の一つで、その境内に「多賀古屋敷」と呼ばれる居館跡が立地していたことが分かっている)。
その集合城館は、平野神社の東側を大手門とし、称名寺の東側に広がる集落全体を包み込んでいたという。この 城郭寺院&集落城塞を、地侍の大橋氏が支配し、浅井氏に従っていたわけである。
これより以前の 1525年、
南近江の六角氏
が浅井氏を攻撃した際、その陣所が尊勝寺集落地に開設されたようで、この時に大規模に陣城が造営されたのかもしれない。
次に、少し西へ移動し、北陸自動車道(高架)下の道路を南進して、宮部城跡を目指してみる。
なお、この前に、虎御前山の南麓にある「虎姫時遊館」を訪問してみた(営業時間 9:00~17:00)。夕方で閉館してしまっては残念なので、先にこの資料館で虎御前山城やこの周辺の史跡などについて情報収集しておいた。下地図。
再び、高速道路下へ戻り、宮部城跡を訪問してみるも、一帯は宅地と田畑が広がるだけで、館城の遺構は全く残っていなかった。
わずかに宮部神社の境内に、「宮部城址」の碑や、
宮部継潤(1528?~1599年)
の解説板、田中吉政(1548~1609年。浅井郡宮部村の出身だった。
関ケ原合戦で東軍に組し
、筑後国・柳川城 32万石の藩主となる)の解説板があるのみであった。なお、この境内を流れる用水路は、かつての堀跡と考えられ、現在、太鼓橋が架かっている。
豊臣秀吉の古参家臣となる、宮部継潤(1528?~1599年)の 故郷
宮部継潤は、もともと土肥孫八といい、近江国坂田郡醒ヶ井の 国人・土肥氏の家に誕生するも(父は 土肥真舜)、長男ではなかったことから、少年期に
比叡山
へ送られ、出家する。その後、郷里に戻り、浅井郡宮部村の湯次神社の 僧侶・宮部(善祥坊)清潤の養子となると、以降、宮部(善祥坊)継潤と名乗ることとなった。
そのまま宮部神社を継承すると、寺院を城塞化して徐々に武装化しつつ、地元の 戦国武将・浅井氏に仕えるようになる。ただし、この頃の宮部城は、あくまでも、寺院と屋敷を土塁で取り囲んだだけの簡易なものだったという。
しかし、1570年6月末の姉川の 合戦後(下地図)、姉川南岸の浅井領が駆逐されてしまい(
佐和山城主・磯野員昌
や、鎌刃城主・堀氏の降伏など)、いよいよ宮部城が最前線ラインとなってしまう。1572年夏以降、本格的に浅井攻めを進める織田方に対し、継潤は劣勢の浅井氏に不安を覚えるようになっていく。
こうした中で、織田信長から浅井攻めの
最前線基地・横山城
を任されていた 羽柴秀吉(1537~1598年)の調略を受け、織田方へ寝返ることとなる。この時、秀吉は人質として、甥の秀次を宮部城へ預けると、継潤も裏切りの証明として、姉川南岸の 国友城(近江国における一大鉄砲産地だった)を攻撃するも、逆に狙撃されて負傷してしまう。そのまま宮部城は浅井軍の攻撃を受けるも、秀吉軍の援軍もあって何とか撃退に成功するのだった。
その後、秀吉は宮部城を姉川北岸の最前線拠点に定めつつ、さらに浅井氏の 居城・小谷城の喉元にあたる「虎御前山」に陣城(付城)を建造することとなる(1572年9月頃)。以降、この虎御前山城と横山城との中継拠点として、宮部城の重要性が増していくと、秀吉は宮部城に大規模な補強工事を施し、土塁城壁の外周に堀を掘削して、五百川の水を引き入れ水堀を装備させたのだった。以降、この外堀を成した河川は、木戸川と呼称されることとなる(この外堀跡は、現在も用水路として付近に残る)。
さらに秀吉は、虎姫山と宮部城との連絡ネットワークを安全かつ密にすべく、道幅 6.4 mもある軍道を整備する(全長 1.5 km)。この軍道の東側面には高さ 3 mの土塁が延々と増築され、敵の接近を寄せ付けない工夫が施されていたという(現在、宮部~三川の集落地を結ぶ道路のうち、溝跨村~西林村に残る一直線の道路は、この土壁付き軍道の名残りと指摘される)。
こうした秀吉による大規模な土木工事と調略により、徐々に押し込められていった浅井勢だったが、翌 1573年8月に至っても、丁野山城や山本山城などは健在で、引き続き、小谷城から琵琶湖までの東西ラインは維持されていた。しかし、同月、織田信長自身が本隊を連れて小谷城攻めに到着すると、その総攻撃の前に、丁野山城や大嶽城に籠っていた朝倉軍が敗走し、そのまま越前国まで追撃した織田軍により朝倉氏自体が滅ぼされてしまう。同盟者を失った浅井氏は完全に孤立してしまい、ついに翌 9月1日、小谷城の落城と共に滅亡に追い込まれるのだった。戦役後、その功績を評価された秀吉は、信長から旧浅井領を与えられ、琵琶湖畔に
長浜城
を築城することとなる。初めて城持ち大名となった秀吉は、以降、自らの家臣団構築にまい進し、宮部継潤は家中 4番目の禄高で雇用されることとなった(1番目は実弟の秀長、2番目は浅野長政、3番目は蜂須賀正勝)。
その後も、宮部継潤は羽柴秀吉の与力として各方面へ従軍し、ますます信頼を勝ち取るようになる。特に 1577年から秀吉が対毛利戦のため 播磨・中国地方へ出兵すると、継潤は副将の羽柴秀長を補佐して大いに活躍する。以降、但馬国・豊岡城 2万石、さらに
因幡国・鳥取城五万石の統治を任されるようになり
、秀吉が畿内にあって明智光秀や 柴田勝家、滝川一益、織田信勝・徳川家康らと天下分け目の死闘を続ける中で、西の毛利氏の抑えとして、地味ながら、銃後の守り的な役回りを粛々とこなし続けたのだった。
豊臣政権が安定期に入って以降も、九州平定戦、小田原征伐、
朝鮮出兵
などで秀吉を支え、晩年は秀吉の近侍として仕えつつ、その最期を見届け、翌 1599年3月25日、老衰により死没するのだった。
そのまま姉川古戦場を訪問する。
現在、姉川にかかる野村橋一帯が、最も激戦ポイントだったという。上地図。
姉川沿いを軽くサイクリングした後、再び高速道路下を北上し、小谷城下まで戻ってくる。
そして、いよいよ織田軍が本陣を構えていた、虎御前山城を登山することにした(上絵図)。
南面の山麓にある矢合神社に登山口があり、山頂の尾根沿いに、南から 滝川一益、堀秀政、織田信長、佐久間信盛、羽柴秀吉、柴田勝家の陣所が残る(標高は 219 mだが、山麓からの高低差は 110 mほど)。特に、滝川一益陣所跡の直前にある NTT鉄塔までは舗装道路が敷設され、 緩やかな傾斜が続いて キャンプ場(丹羽長秀・蜂屋頼隆の陣所跡)や 展望台が配されていることから、史跡の保存状態も悪い。しかし、この NTT鉄塔より先は、未舗装ながら安全な登山道が整備され、ここから続く 堀秀政、織田信長、羽柴秀吉の陣所跡では、土塁や空堀などの遺構がよい状態で見られる。所々に案内板も設置され、訪問者に優しい歴史散策ハイキングコースとなっていた。
しかし、柴田勝家陣まで行くと、そこからまた南端まで戻らねばならず(ここから北端へ下山もできるが)、自転車を置いたままだったので、秀吉陣所から引き返すことにした。
なお、虎御前山の斜面上では、複数の古墳群を目にすることができる。織田軍は、こうした古墳の遺構をうまく転用して、陣城群を構築していたようである。
1570年6月末の姉川合戦後
、勢いに乗った 織田・徳川連合軍は、浅井長政らが逃げ込んだ小谷城にも攻撃を加えるも(この時、初めて信長は虎御前山に本陣を置いた)、その堅牢さから攻略不可能を悟り、翌日、連合軍はいったん姉川南岸へ撤兵することとなる。
以降、織田軍の前線基地は、姉川の合戦直後に開城させた
横山城
に置かれ、羽柴秀吉が城番として配置される。その後も、毎年のように信長軍は浅井勢との交戦を継続しつつ、秀吉もまた浅井勢への調略を繰り返し、前述の宮部城などの開城を成功させていく。
そして、1572年7月27日、小谷城下へのアクセスを高めるべく、信長より虎御前山に陣城の建造命令が下される。タイミングとしては、南近江の一向一揆を鎮圧した段階で、いよいよ北近江の浅井氏攻略に本腰を入れ始めた時期であった。秀吉が監督した城塞建設は、早くも 8月9日頃に完成を見る(当初は山頂部に簡易な城塞を設け、後で尾根伝いに城塞群を増築していった、と考えられる)。
いよいよ翌 1573年8月、この虎御前山の陣城に信長本隊が着陣すると、すぐに総攻撃がスタートし、9月1日、浅井長政を自刃に追い込み、小谷城攻防戦が終幕するわけである。以降、この陣城は放棄されることとなった。
小谷城とは谷間を隔てて 500 mほどの至近距離にあり、小谷城下への見通しが利く好立地にあった 虎御前山(標高 219 m)は、南北幅約 500 m、東西幅約 300 mという、独立した丘陵山系であった。この南北に長く延びる山の尾根上に、複数の陣城が数珠つなぎに造営されていたわけである。
織田信長が滞在したという山頂の砦には、現在、南側に設置されていた外枡形虎口が残っている。また、小谷城に最も近い北端の曲輪群は、羽柴秀吉の陣といわれ、四方を取り囲んだ土塁や堀切、竪土塁もくっきり残存する。また、信長本陣の南隣に位置していた堀秀政陣跡には、大小 5本の堀切が今も視認できる状態で残る。
この日、浅井村にある 浅井歴史民俗資料館(週末のみ開館)や、姉川対岸にある 国友鉄砲ミュージアム(戦国~江戸時代にかけて、
堺の町
とともに、鉄砲生産地として栄えた)に関しては、訪問を断念した。長浜滞在は 3日では足りず、一週間ぐらい、じっくり時間を取った方がよいと思われる。
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