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日本の城 から
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神奈川県 三浦市
訪問日:20--年--月--旬
神奈川県 三浦市 ~ 市内人口 4.5万人、一人当たり GDP 320万円(神奈川県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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三崎城跡
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海南神社(相州 三浦総鎮守。源頼朝自らの手植えと伝承される樹齢 800年の大銀杏が残る)
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北条湾、源頼朝の 別荘「三崎の 三御所(椿の御所、桃の御所、桜の御所)」跡
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城ヶ島、城ヶ島大橋、城ヶ島砲台跡
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新井城跡(京急油壺温泉 キャンプパーク)、油壷湾
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衣笠城跡、畠山(衣笠城攻めの際、平氏軍として参陣していた 畠山重忠が布陣した山)
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沿岸の 砲台遺跡群
投宿先の
大船駅前
か、
横浜駅前
から、京浜急行久里浜線で 終点「三崎口駅」へ移動する(横浜駅 → 三崎口駅、50分、運賃 580円)。現地では三浦半島南部を散策後、路線バスを乗り継ぎながら北上し、
横須賀市街地
経由で戻るルートを組んでみた。
横須賀市や三浦市内では、三浦半島の沿岸をサイクリングするのが人気なようで、レンタサイクル料金は高めの設定だった(普通自転車 6時間 2,200円 SEA-Bike横須賀中央ステーション)
。このため、路線バスを駆使する方が安上がりとなった。
下地図は、
三浦市内の京急バス路線マップ
。
終点「三崎口駅」で下車後、そのまま京急バスに乗車し、さらに三浦半島の先端部を目指す(かなりの本数の路線バスが運行されているので、時刻表の確認は不要だった)。そのまま県道 26号線(横須賀三崎線)をドライブし、バス停「天神町」で下車する(約 15分ほど。上路線図)。ここまでは、ひらすら乗り物を乗り継いでの移動となった。
バス下車後、そのまま県道を離れ、「城山町」の住宅街を南進すると「三崎城跡」前の路地に出る(下地図の緑ライン)。かつて 三浦市立三崎中学校(2014年3月閉校。その後、一時的に三浦市福祉会館が入居していた)があった敷地で、旧グラウンドを取り囲む状態で、往時の土塁が残存していた。なお、この校舎建物は築 50年近くにもなり、耐震性の問題から放棄されたようだが、未だに費用捻出に苦慮し、撤去工事が着手できていないという。その他、この路地の並びにある三浦市役所や三浦市体育館、青少年会館も同様で、耐震性の問題から早期建て替えが議論されている問題エリアらしかった。
そして、この三浦市役所の第二駐車場の近くに、三崎城址碑と案内板が設置されていた(下地図)。
この 高台地区(標高 30 m弱)は、これら公共用地として早くに土地開発されてしまっている関係上、城跡の全貌把握は不可能な状態だったが、下の古地図をなぞって散策していくと、所々に城郭遺構が確認でき、パズルのピースをあわせるように楽しめた。特に、旧グラウンドに残存する土塁列の一部には盛り土部分があり、かつての物見台跡や 搦め手跡とされる(今は慰霊塔が建つ。上地図、下絵図)。さらに、光念寺の境内でも、土塁、土橋、堀切跡が見られた。
最後に、この城山地区の路地をさらに西進すると、県道 26号線と再合流するわけだが、この屈曲した坂道が往時の「大手口」跡ということだった。下絵図。
三浦氏は、もともと桓武平氏の一門として家柄も高く、平安時代後期から三浦半島と周囲の海域を支配し、在地領主や海賊、水夫らを束ねて一帯の海上交通を抑え、相模国で最強ともいえる財力、武力を有する地場豪族として広く知られる存在となっていた。当初は半島中央部に建造した衣笠城を本拠地としていたが、平安時代末期以降、油壺湾の先端部にある新井城に拠点を移し、南東 2 kmに位置する三崎城と対岸の城ヶ島に、配下の 水軍部隊(三浦水軍)の拠点基地を設けて、半島支配を継続することとなる。
1180年8月に源頼朝が伊豆で挙兵すると、源氏(前九年の役の功績により、源義家から三浦半島を下賜されていた)に恩があった三浦氏も協力することとなり、そのまま幕府建国の功臣として君臨していく。しかし、鎌倉時代中期に至り、ついに 執権・北条氏の粛清ターゲットに定められ、 1247年6月5日の宝治合戦を経て、三浦氏 本家(当主・三浦泰村。1184/1204?~1247年)も滅亡に追い込まれることとなる。
以降、一門出身だった 佐原盛時(生没年不詳)が、三浦本家の家督を継承し(三浦盛時へ改称。下家系図)、その旧領支配を認められる。盛時の 母・矢部禅尼(1187~1256年。三浦義村の娘)は最初、3代目執権・北条泰時(1183~1242年)の正室として嫁ぎ、長男の 北条時氏(1203~1230年)を出産後、離縁して同じ三浦一門の 佐原盛連(?~1233年)と再婚し、盛時らを出産した経緯から、盛時と時氏とは異父兄弟の間柄にあった。時氏が 28歳で死去し、その子の 北条経時(1224~1246年)が 4代目執権、弟の 時頼(1227~1263年)が 5代目執権と就任する中で、母・矢部禅尼の縁により、彼女の孫にあたる北条経時・時頼兄弟とは当初より親しい間柄にあり、合戦前から懐柔されていたと指摘される。しかし、これ以降の三浦氏は、それまで幕府中枢に有した地位までは継承されず、一御家人に押し込められたようである。
盛時は引き続き、新井城-三崎城の両頭体制での半島支配をそのまま維持することとし、同時に三崎城を大規模改修して、はじめて城郭らしい構造にしたと考えられている。
そのまま三浦氏は半島統治者として鎌倉幕府滅亡まで生き残り、室町時代に入っても相模国屈指の在地勢力として、長らく 相模国守護、守護代のポストを任されてきた。しかし室町時代中期に、北条早雲が伊豆国から相模国へ進出してくると、必然的に相模の 名門・三浦氏と対立することとなる。
こうして 1510年より両者は戦火を交えるようになるも、三浦軍が一方的に押し込められる展開が続き、ついに 1512年には 本拠地・新井城での籠城戦に追い込まれるのだった。以降、当主・三浦義同(三浦道寸。下家系図)は子の 義意(下家系図)とともに、 3年にわたる籠城戦を戦い続けるも(新井城の戦い)、1516年には兵糧も尽き、援軍も期待できない中、ついに城兵は討って出て全滅に至る。道寸父子も自刃し、名門三浦氏は完全に滅亡に追い込まれるのだった。この時、根切りにされた三浦一族の血で、湾内の海が油の壺のように真っ黒に染まったことから、今に伝わる 地名「油壺」と呼称されるようになったという。
なお、このタイミングで、水軍拠点の三崎城も落城したわけだが、一部の部隊が囲みを破って対岸の城ヶ島へ逃れ、最後まで抵抗したことが伝えられている。亀崎、鈴木、下里、三富、出口を名乗る者を中心とする残党が、三崎の船を全て城ヶ島に持ち去って立て籠ったため、攻めあぐねた早雲は、
鎌倉の 有力寺社勢力(鎌倉五山の筆頭)である建長寺と円覚寺の両和尚に調停を依頼し
、ようやく講和に持ち込めたという。以降、この残党は「三崎十人衆」と呼ばれ、北条旗下の水軍に編入されることとなる。これらの苗字は今も三崎エリアで継承され、その末裔と考えられている。
こうして北条早雲は、ついに三浦半島を含む相模国の完全併合に成功すると、そのまま房総半島へ渡海し、里見軍と抗戦するも、翌年に至り撤退することとなる。いったん内政に力を注いだ早雲であったが、1519年に 64歳で死去すると(死の直前だった 1519年、早雲が三崎城に足を運んだ記録が残されている)、2代目・氏綱がさらに 武蔵国、房総半島への勢力拡大戦争を継承していくのだった。この過程で、新井城、三崎城にさらなる補強工事が施され、房総半島の里見氏に対抗する重要前線基地となっていく。
以降、幾度も里見氏と抗戦し、時には房総半島へ渡り、また時には三浦半島へ攻め込まれる一進一退の攻防戦が繰り返される中で、三崎城や城ヶ島の水軍拠点が一時的に攻め落とされ、三浦半島南部が里見領に併合されることもあったという。最終的に 3代目・北条氏康がこの半島を奪還すると、
紀州
から招聘した 海賊&交易商人の 梶原景宗(1533~?)を船大将として採用し、里見氏や
駿河の武田氏
との海戦を続行していくこととなる。
1556年10月、里見義弘の率いる 水軍(兵船 80艘)が襲来すると、三崎城主だった 梶原景宗、富永三郎左衛門、遠山丹波守らが応戦し、城ヶ島・三崎の海上でこの里見水軍を撃退した記録が残されている。
1562年には里見水軍が城ヶ島に上陸すると、北条軍は三崎城に陣を構えて海戦となったようである(三崎三浦海戦)。
1567年、4代目当主・北条氏政は、伊豆・韮山城主だった実弟の北条氏規に、伊豆&三浦水軍を一元管理させるべく、三崎城主も兼任させる。こうして 1590年、豊臣秀吉の小田原征伐戦が勃発すると、氏規は韮山城に籠城し、三崎城は家老の山中上野介が守備することとなる(下地図。なお、この戦役中、船大将の梶原景宗は小田原城下の海上守備を任せられていた)。最終的に小田原落城により、三崎城も開城降伏する。この時の戦火で、城ヶ島にあった神宮寺の社殿が焼失した記録が残されている。
以降、関東地方に徳川家康が入封すると、三浦郡は徳川氏直轄領となる。
実際には、徳川水軍の トップ(船奉行)だった 向井正綱(1556~1624年)が、相模国・上総国の両岸に 2000石を与えられ、三崎城代を担当する。こうして、北条時代の水軍拠点がそのまま徳川水軍に継承されることとなった。1594年には、三浦郡全域の検地が強行され、自立心の強かった半島住民に完全支配が浸透されていったようである。
その後、新井城、三崎城は廃城となり、1602年には神宮寺が城ヶ島より三崎側へ移転されている。
同じ路地をそのまま西進すると、先程の県道 26号線に戻る。ちょうど、この交差点に「海南神社(無料、開園時間 10:00〜16:00)」が立地していた。相州三浦総鎮守を務めた古刹で、祭神は藤原資盈と藤原盈渡姫の夫妻という。
藤原広嗣の子孫とされる藤原資盈は、平安時代中期の役人であったが、朝廷内の権力闘争に巻き込まれる形で九州へ左遷される途中、嵐にあって船団が難破し、相模国三浦郡へ流れ着いた後、そのまま地元有力者に祭り上げられて三浦郡を統治した人物という。死後、そのまま当地に埋葬され神格化されたのだった。
鎌倉時代初期には、源頼朝が度々、三崎の地を訪問しており、その度に当地の総鎮守を訪問したと考えられる。こうした背景もあり、現在、境内には、頼朝自らの手植えと伝承される、樹齢 800年の大銀杏が保存されている。
三崎 ~ 源頼朝や 小田原・北条氏が愛した風光明媚な土地
この海南神社は、平安時代中期に中央朝廷での政争により地方へ左遷される途中、この相模国三浦郡まで流れ着き、そのまま当地を支配することとなった 藤原資盈(ふじわらのすけみつ。藤原鎌足の 11代目孫。九州太宰少弐の職位にあって、朝廷に対し反乱を起こした藤原広嗣の五代目孫。この反乱後、広嗣の属した藤原式家は朝廷で”窓際族”に追いやられていた)と、その 妻(盈渡姫)を祭神として祀る。
清和天皇の 治世下(56代目天皇。在位期間:858~876年)、名門・大伴氏当主の 伴 善男(811~868年。当時の官位は大納言)は天皇との外戚関係で権力を牛耳る藤原家排除を企図し、まずは自分の一つ上の官位にあった 右大臣・源信(嵯峨天皇の子)を排除すべく、謀反の噂を朝廷へ上奏する(源信と伴善男は、個人的にも不仲であった)。この源信排除の策謀に藤原資盈が加担しなかったことから、朝廷工作をしかけた伴 善男により、筑紫国へ左遷されることとなるのだった。
この移動途中に、一行は暴風に遭って三浦半島に漂着してしまう(864年11月)。この時、無事に上陸できたのは、藤原資盈父子三人と 郎党五十三人だけだったという(なお、資盈の嫡男の船は房総半島に着岸しており、現地で現存する鉈切大明神は、この資盈の嫡子を祀ったものと伝承されている)。
その後、資盈は高貴な血統から在地領主の長に祭り上げられ、そのまま京に戻らず土着することとなった。以降、ライバル関係にあった房総半島側の海賊団を手なずけ、地元民らに畿内の最先端の漁法などを教えて地元文化の開花に大きく貢献するなど、善政を敷いたという。こうして地元で大いに崇拝を受けるも、間もなくの 866年に没することとなった。その亡骸は海に沈められ、花暮海岸に祠が建立される。
それから 130年後の 982年、花暮の祠を本宮とする立派な社殿が造営されると、地元・三浦郡の 守り神(総社)となっていくわけである。
なお、京都から藤原資盈を追放した伴 善男であるが、その後も藤原氏排除をねらい、応天門の変(866年旧暦 3月)を起こすも、結局、朝廷内から追放され、伊豆国へ流罪となった後(同年 9月)、2年後の 868年にそのまま失意のうちに死去し、名門・大伴氏は完全に没落することとなるのだった。
平安時代も後期に至り、前九年の役が勃発すると、朝廷より派遣されてきた 源頼義・義家父子に協力し、三浦為通(1010?~1083?年)も奥州反乱の鎮圧戦に参陣する。戦後、その戦功により相模国三浦郷を与えられると、以降、居城を衣笠城に定めて、相模三浦氏の始祖となるわけである。その子の 三浦為継(1049~?)が、三浦郡の総社となっていた「海南神社」に社領を寄進し、社頭を改築して三浦家の祈願所に定めることとなる。
そして 1180年、その孫の 三浦義明(1092?~1180年)が、三浦家の氏神となっていた海南神社を参拝し、伊豆で挙兵した源頼朝に味方するか否かを占ったとされる(「神事狐合」ー白と赤の狐を闘わせて源平の争覇を占い、白狐が勝ったことから、神意により源氏方についたと伝えられている)。結局、この頼朝による最初の挙兵は失敗し、三浦義明の籠る衣笠城も攻め落とされ、残った三浦一族は海路、房総半島へ脱走するのだった(当時、すでに高齢だった義明は長距離移動も困難だったことから、衣笠城で自刃して果てる)。
その後、同じく房総半島へ逃亡してきた源頼朝と合流した三浦義明の子・三浦義澄らは、そのまま平家討伐や奥州藤原氏の討伐に加勢して、頼朝の鎌倉幕府開府に尽力し、幕閣の中枢として君臨していくわけである。
鎌倉の大倉御所に本拠地を構えた頼朝は
、ちょうど一日の旅程で到達できる風光明媚な三浦半島や 三崎、城ヶ島を好んで訪問しており、地元領主だった三浦義澄も、度々、同行したものと推察される。最終的に頼朝は、この地に自身の別荘まで設けることとなる。
鎌倉幕府の 公式記録『吾妻鏡』には、頼朝は一条高能を伴って三浦に渡海し、三崎の津に山荘建設に着手した(1194年8月)、と言及されている。その際、足利義兼(1154?~1199年。源義家の 孫・源義康の長男で、足利氏本家の 2代目を継承していた)、北条時政(1138~1215年。北条政子の父)ら多くの有力御家人らも随行し、後には妻の政子、長女の大姫、長男の源頼家らも足を運んだという。
こうして三崎には源頼朝により 3つの 別荘(「三崎の三御所」と通称される)が建設されるわけだが、それぞれ「椿の御所」、「桃の御所」、「桜の御所」と称されていた。
特に「椿の御所」は、晩年の源頼朝が寵愛した妾のために建てた山荘であった(1194年8月)。当時、邸内は椿がたくさん植えられ、椿の花に埋まる程であったという。この妾は、1999年に頼朝が死去すると、頼朝の菩提を弔うべく、建長寺(鎌倉五山の筆頭)の旭永に大椿寺を開山させ、自身も尼となって妙悟尼と名乗り、そのまま当地で三十余年の余生を過ごしたと言い伝えられている。
現在、三崎の港町とは北条湾を挟んで大浦側にあり、そのまま 大椿寺(三浦市向ヶ崎11-1)として継承されている。バス停「椿の御所」より徒歩 2分の場所に立地する。下地図。
また、「桃の御所」は相模湾側、歌舞島と呼ばれた付近、現在の「見桃寺」の敷地にあったという。「桜の御所」はその中間、現在「本瑞寺」となっている場所にあった。下地図。
なお、「三浦郡の 総鎮守・海南神社」であるが、頼朝が三崎に滞在した際、度々、足を運んでいたと考えられる。その過程で、頼朝は自らイチョウの苗木を植えたと伝承されており、現在、本神社の「神木」として、雌雄二株の大銀杏が保存されているという(樹齢約 800年目)。この乳根のある方には、母乳の足りない女が祈りをこめて触れると母乳が出るようになる、と言い伝えられてきたそうだ。
以降も風光明媚な三崎の地には、北条早雲や氏康など、多くの戦国大名が足を運んでいる。江戸時代中期の 1719年、「海南神社」は三浦半島全体の総鎮守に定められている。
見学後、再び県道 26号線を南進していくと、いよいよ海岸線にたどり着いた。そのまま沿岸の繁華街地区を愛でつつ(上地図)、先程の「三崎城跡」下まで進んでいく。ここは「北条湾」という、細く奥まった天然の良港となっており、三浦氏、北条氏の水軍基地として有効活用された場所だったはずである。上地図。
そして時間的余力があれば、眼前に浮かぶ離島「城ヶ島」へも渡ってみたい。特に「城ヶ島大橋(1960年に完成)」まで登り、この高所から城跡や港町を写真撮影してみたい。徒歩で散策できればいいのだが。。。
鎌倉時代初期、源頼朝が当地に好んで滞在した折、城ヶ島と 三崎の宝蔵山一帯に数千株という大量の桜を植え込み、両岸を桜に囲ませた上で、この間の海峡に船を浮かべて宴を催した、と伝えられている。
その桜が生き続けたのか、戦国時代後期にも北条氏康親子が桜見物のために 3日間、三崎に滞在し静養した記録が残されている。彼らが目にした海峡を、まさに眼下に収める絶景ポイントが、この大橋というわけだった。
そのまま大橋を渡り切れば「城ヶ島」へ至る。島の東端には「城ヶ島砲台跡」という 幕末~太平洋戦争中に構築されていた戦争遺跡が残っているらしいが、往復にかなり時間がかかりそうだったので、今回は訪問せず。
1899年、要塞地帯法の成立により、三浦半島全域が要塞地帯に指定されると、城ヶ島の東半分にも砲台陣地が建設されることとなる。
最終的に、1922年2月のワシントン海軍軍縮条約により廃艦となった 準弩級(旧型)戦艦「安芸」(1911年3月、
呉海軍工廠
で建造)上に装備されていた 第一号、二号砲塔 2基(砲塔は 25.4 cm 45口径)を取り外し、さらに改良して当地に設置されたという。この 2基の最大射程距離は 24,600 mにも及び、房総半島対岸にあった 洲崎第一砲台(巡洋戦艦「生駒」の前部主砲塔を転用した砲台陣地)まで届くもので、東京湾要塞の第一関門を構成したのだった(上地図)。また砲台陣地にはカモフラージュのために屋根がかぶせられ、周辺には偽民家が建てられるなどしていたという。
なお、全砲身が撤去され鉄の塊だけとなっていた「安芸」の船体は、1924年に戦艦「長門」、戦艦「陸奥」による実弾標的として艦砲射撃され、野島崎沖(大島の南)で沈没することとなる。
終戦後の武装解除により、砲台陣地にあった砲身や砲塔が撤去されると、 1958年に城ヶ島公園として整備される。しかし、砲台陣地の 地下施設(観測所や弾薬庫 など)はそのまま放置された状態で残存しており、全く手入れされていない戦争遺跡として知られる。ただし、砲座跡が駐車場花壇に転用されるなど、地表部分はかなり改修されてしまっており、往時の様子を想像することは不可能となっている。特に、城ヶ島公園第一展望台は、砲側観測所跡地が整地されたものという。
再び、三崎側へ戻り、そのまま北条湾の対岸まで移動した後、
その道路沿いの バス停「椿の御所」か「向ヶ崎町」で、終点「三崎口駅」へ戻る 路線バス(京浜急行バス)に乗車する(1時間に 2~3本あり)
。
そして、
途中のバス停「油壷入口」で下車後、別の路線バス(三 4)に乗り換え、終点の「油壷温泉」へ移動する(1時間に 1~3本あり)
。もし、バスの接続が悪い場合は、迷わずタクシーを使いたい。せっかくなので可能な限り、運転手さんから何か地元ネタを仕入れたい。
バス停終点で下車後、「京急油壺温泉キャンプパーク(水族館「京急油壺マリンパーク」が 2021年9月末に閉館した後、2022年1月にキャンプ施設としてリニューアル・オープンした。10:00~16:00のみ開園、入場無料)」を目指して前進する(徒歩 5分)。駐車場北側の海沿いに、最後の 城主・三浦義同と義意父子の墓と、新井城址の石碑が設置されていた。
なお、この途中に「引橋」という地名があるが、かつての大手口跡という。半島を分断する形で堀切が掘削され、移動式の城門橋が架けられていたとされる。
そして、 半島の一番奥にあった 本丸(主郭)跡地は、現在、
東京大学
臨海実験所ということで、立入禁止だった。この中に「内の引橋」と称されるポイントがあり、主郭部分の城門跡だったと考えられている。ハイキングコース沿いの道路から、敷地内に残存する 空堀と櫓跡、土塁を見通すことができる。下地図。
新井城は小網代湾と油壺湾に挟まれた小さな 半島(岬)上に築かれており、三方向に広がる海岸線は絶壁という、天然の要害となっていた。三浦道寸(義同)はこの城に 3年間も籠城し、北条早雲の攻撃に耐え抜いたわけだが、最終的に 1516年に落城することとなる。
築城時期の詳細は不明であるが、1247年に発生した宝治合戦により、鎌倉幕府 5代目執権・北条時頼(1227~1263年)が相模の 名門・三浦氏本家を滅ぼすと、三浦一門出身の 佐原盛時(生没年不詳。時頼とは叔父ー従弟の関係にあったことから、戦前より北条氏に懐柔されていた)が三浦家の家督を継承することとなり、そのまま三浦半島の領有を承認される。その際、領内にあった城塞網を再建する中で、この新井城の修復も進め、そのまま自身の居城に定めた、と考えられている。
その後、幕末まで三浦家は存続し、室町時代には鎌倉公方や 関東管領・上杉氏に臣従し、時に相模国守護や守護代を任される名門一族として君臨するも、室町時代中期に至ると、養子と実子問題で後継者争いが起こり、養父・三浦時高(1416~1494年)を誅殺して、三浦義同(1451/1457?~1516年)が家督を簒奪することとなる。
しかし、この時、相模国西部の大豪族だった小田原城の大森氏でも家督継承で家内騒動が勃発しており、相模国の東西に勢力を張った両雄が弱体化するタイミングが重ねってしまう中、そこに伊豆国を占領したばかりだった 北条早雲(1456?~1519年)が食指を伸ばしてくるわけである。まずは大森氏をだまし討ちにして、その所領と小田原城を奪い取ると(1498/1505?年)、つづいて相模国東部の 雄・三浦氏との間で戦端が切られるのだった。下地図。
この時代、大森氏と三浦氏の主家である 関東管領・上杉氏の家中も内紛状態にあり、漁夫の利をねらうがごとく、北条早雲は三浦義同の居城だった岡崎城を急襲し(1512年)、さらに逃亡した義同を追って
住吉城(神奈川県逗子市。実弟・道香が守将を務めていた)
も攻め落とし、いよいよ三浦半島内に押し込めることに成功する。その後、三浦氏の残存兵力は、新井城(嫡男・義意が守将を務めていた)と三崎城に立て籠るわけだが、両城は天然の要害だったことから、早雲は短期決戦を諦め、長期戦に切り替える。こうして
1513年10月、三浦半島の付け根に玉縄城を築いて、次男の 北条氏時(?~1531年)を守将に配置し
、半島への交通路を完全に断つ兵糧作戦に出るのだった。
ようやく 1516年に至り、武蔵国守護・扇谷 上杉朝興(1488~1537年。三浦義同とは親族関係にあった)が大規模な援軍を派兵してくるも、早雲は新井城の包囲に 2,000騎を残し、玉縄城北方に 4,000~5,000 騎を配置して、上杉軍の侵入を防ぐ。こうして援軍の希望も完全に絶たれた 三浦義同・義意父子は、ついに城門を開いて全軍突撃し、ことごとくなで斬りにされるのだった(義同・義意は自刃)。
このとき討ち死にした三浦一族とその家臣の遺体により、港一帯の海が血に染まり、油を流したように見えたことから「油壺」と呼ばれるようになったという。
以降、新井城は北条氏の支配下におかれ、残存兵力は
玉縄城
の管轄下に組み込まれて、「玉縄衆」を構成することとなる。新井城代には横井氏が配置され、北条水軍の一角を担うこととなった。その後、対岸の房総半島から襲来する里見軍と、度々抗戦する中で、北条氏は水軍部隊を三崎城と
浦賀城
に集結させるようになり、新井城の役割は薄れていったようである。最終的に 1590年の豊臣秀吉による小田原征伐により、完全廃城となる。
「新井城跡」を見学後、
始発 バス停「油壷温泉」 から、「三崎口駅」行の 路線バス(三 ④)で、直接、終点まで移動する(1時間に 1~3本あり。「三崎東岡」行)
。
そして、バス停「油壷入口」から 終点「三崎口駅」まで戻り、「JR横須賀駅」行の 路線バス(須 ⑥、須 ⑦、須 ⑧)に乗り換えて、バス停「衣笠城址」を目指した
。下路線図。
バス下車後は大善寺を目指す。この階段を登り本堂の裏手へ移動すると、衣笠城跡の案内板に行き当たる(徒歩約 15分)。しかし、平安時代末期の原始的な山城跡というだけあって、特に遺構は残っておらず、整地されていたであろう曲輪跡と、物見岩という岩が保存されているぐらいだった。
近くの衣笠山公園は桜の名所として有名で、日本さくら名所 100選の 1つに選出されている。
桓武平氏の 子孫・平忠通を父とし、相模国の鎌倉郡村岡郷一帯の所領を継承していた村岡為通が
、源頼義・義家父子に従い、前九年の 役(1051~1062年)で奥州遠征に参陣すると、その功績から三浦半島一帯を下賜される(以降、三浦為通と名乗るようになる)。そして入封直後に半島の中央部に衣笠城を築城し、ここを居城に定めたと考えられている(1060年代)。以降、衣笠城は 為継・義継・義明の四代にわたり、三浦半島統治の中心拠点となった。
しかし、平安時代もいよいよ末期となった 1180年8月、源頼朝が伊豆で挙兵すると、三浦家 当主・三浦義明(1090年代?~1180年)もこれに呼応して反平家で挙兵するも、頼朝らが石橋山の戦いで早々に敗退してしまったため、平家の大軍が三浦半島へ殺到し、この衣笠城を強襲することとなる(衣笠合戦)。
この時、
その平氏軍の中には、若干 17歳の 畠山重忠(1164~1205年)も参陣しており、京都務め中だった父に代わって武蔵国秩父より出陣していた。この畠山軍は相模国の中央あたりで、頼朝と合流しようと図った三浦軍と遭遇し、これを追って杉本城や住吉城を落としつつ、衣笠城まで迫ってきたのだった。畠山重忠の母親が三浦義明の娘だったことから、畠山重忠はあまり積極的な戦闘を望んでいなかったが、鎌倉地方での遭遇戦から、そのまま三浦軍を衣笠城まで追い詰める役回りを担ってしまったようである
。
この時、衣笠城はまだまだ中世初期の原始的な山城で、深山川と大谷戸川を天然の堀としつつ、山の斜面沿いに複数の曲輪が段々に構築された程度のものであった(上絵図)。現在の滝不動と大善寺がある一帯に三浦氏の居館が設けられ、その裏山の斜面が根小屋スタイルの避難用城塞となっていたようである(標高 95.1 m)。
すでに高齢だった三浦義明自身はこの戦闘で自刃して果てるも、その子の 三浦義澄(1127~1200年)ら一族郎党はこぞって対岸の房総半島への脱出に成功し、同じく現地に逃亡中だった頼朝一行と合流して、再挙兵へ踏み切るわけである。無事に
鎌倉幕府が開府されると
、三浦氏は新たに新井城を本拠地に定め、幕府重鎮として君臨していくこととなる。
なお、この衣笠城から北へ 2 kmの場所に「畠山(標高 205 m)」という山があるが、ここが衣笠城攻めの際、畠山重忠が本陣を置いた場所と言い伝えられている(下地図。神奈川県三浦郡葉山町)。
見学後、
再び バス停「衣笠城址」から 路線バス(須 ⑥、須 ⑦、須 ⑧)に乗車し、終点の「JR横須賀駅」へ向かうことにした(乗車時間 20分ほど)
。
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