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当研究会 情報
日本の城 から
≫
長野県 松本市
訪問日:2019年9月上旬
長野県 松本市 ~ 市内人口 24万人、一人当たり GDP 380万円(長野県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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室町時代中期の 居館スタイル「渚城」跡と 常徳寺
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【豆知識】渚城史から見る、揺らぐ 信濃守護・小笠原家 ~ 井川館から 林城へ ■■■
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北日本を実感した、奈良井川。南から北の 日本海へ向けて流れていた
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完全に住宅街に埋没していた、荒井城(清水ヶ城)跡
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【豆知識】荒井城 ~ 深志城(松本城)を築城した 島立貞永の本拠地 ■■■
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江戸時代後期~明治前期に隆盛を極めた「犀川通船」と その港町「巾上」
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松本城の大手門と 外堀(女鳥羽川)エリア ~ 千歳橋から 大名町通りを進む
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二の丸 正門「太鼓門」と 天守閣一帯の 今昔
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かつての藩主邸宅、松本藩政庁(明治初期の筑摩県庁)を司った、二の丸御殿の 今昔
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四方全面が石垣積みだった 本丸曲輪、すべて土塁だった 二の丸と 三の丸曲輪
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道路ど真ん中で保護された 神木と 松本神社 ~ 藩主・戸田家の氏神だった 五社
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いよいよ二の丸から 本丸曲輪へ登城
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日本最古の木造天守は 人知の結晶だった
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【豆知識】松本城と 松本市の歴史 ■■■
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新旧の開智小学校が 並び立つ、松本城北郊外
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かつて 女鳥羽川(外堀)沿いに立地した、開智小学校の記憶
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【豆知識】藩主・戸田家の菩提寺であった 全久院の廃寺建物時代 から 擬洋館へ ■■■
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かつて武家屋敷が並んだ 三の丸跡地を進んで、松本城とお別れする
15:45
甲府駅
発の中央線 下り(松本行 普通電車)に乗って、松本へ向かった(17:35着)。途中、茅野、上諏訪、下諏訪などを通過した。
かつて甲斐の 武田信玄・勝頼父子が、信州や奥三河方面へ出兵する度に使ったルートである
。
松本駅で下車すると、先程まで滞在していた甲府盆地に比べ、気温の低さにビックリした。夜の駅前電光掲示板には 23度と表示されていた。
この日は、168ホテルに投宿した。下写真はホテルからの眺め(翌朝)。
翌朝、チェック・アウトすると、ホテル向かいにある伊勢町通り沿いの「中央公民館(Mウイング。上写真右に見える灰色ビル)」へ直行し、無料自転車を借りる。ここは保証金や費用もなく(身分証の提示のみ)、無料で自転車が借りられるという、すごい性善説の自治体だった。
ただし、くれぐれも閉店前の 17:00までに返却するように、と何度も念を押された。
自転車のカギを渡されて、裏手の駐輪場に置いてある自転車を自分で解錠し出発する。
ここから
、伊勢町通りを西進する。
JR線路下をくぐり、直進するとすぐに巨大な川に行き当たる。田川だ。
昨日の
甲府
まで北から南へ流れていた河川が、田川では南から北へ流れている様にビックリした。もう北日本なんだと実感させられた瞬間だった。
この河川を渡って、すぐに脇道を左折する。この道路沿いにある常徳寺の門前に(上写真)、渚城跡の 記念碑(松本市渚 2丁目)が立てられていた。下写真。
ここまでで松本市中心部から自転車で 10分弱の距離だった。上写真の全体がかつて城内だったわけである。
なお、この常徳寺であるが、戦国時代真っただ中の 1542年、信濃国守護に就任したばかりだった 小笠原長時(1514~1583年)により、創建されたものという。彼は 1550年7月の武田信玄の信濃侵攻により松本盆地を追われ、
武田氏
滅亡後に再び当地に帰り咲いた武将である。
室町時代中期の 1390年代後半、信濃国守護に就任した直後の 小笠原長秀(1366~1424年)が、信濃守護所・井川館(今の 松本市井川城)に入城すると、直後より国人らに対する統制を強めたため、彼らの反発に遭い、大塔合戦が勃発する(1400年)。これに大敗した長秀は信濃から落ち延び、
京都
、下伊奈(長野県の南端部)を流浪するも、最終的に国人衆の要求を飲んで守護職を辞任し、家督を 弟・小笠原政康(1376~1442年)に禅譲する(1406年)。その後、長秀が自身の隠居城として築城したのが、この渚城というわけであった。
周囲を 奈良井川、田川、穴田川など複数の河川に囲まれ、絶えず水の流れに漂う様から「渚城」と命名されたという。
しかし、その規模と装備は守護所の井川城館にも劣ぬレベルで(一辺約 180 mの方形)、 四方を水堀で囲んだ厳重なものだったという。中央のやや高台に本丸が開設され、 この周囲にも水堀が廻らされるという徹底ぶりであった(下絵図)。 その本丸跡地が、現在の内城公民館の敷地一帯と推定されている。
小笠原長秀の死後(1424年)、渚城には小笠原一門の島立氏が入居していたようである。
以後、信濃国守護・小笠原長棟(1492~1549年。小笠原長時の実父)が、信濃守護所を林城へ移転させる 1520年ごろまでの 90年間、井川館の支城として使用されることとなった。そして信濃国守護所の移転にともない、林城の支城として 深志城(今の松本城) が新たに築城されると、渚城は解体され資材は深志城へと転用されていったという。
1530年以降、完全に廃城となると、渚城跡地の本丸西外に常徳寺が創建されたわけである。
江戸期には村の中央にあった古城跡にちなみ、「庄内組渚村」という地名になり、昭和初期に「渚内城」へ改称される。 村を東西に横断する飛騨街道は、松本城下の伊勢町口から野麦峠を越えて高山へ至る主要街道 であり、その沿線上にあって村も栄えたという。
1913年、城跡の北東角より南西角へ新道が開通したことで(上地図の点線ライン)、現在、 城跡は三角形に分断された格好となっている。
そのまま渚 2丁目の交差点を直進し続けると、続いて
奈良井川
を渡る(下写真。奥は上流側で、奈良井橋上から撮影したもの)。 正面に見える陸橋は、松本電鉄・上高地線の鉄道橋。
このまま奈良井川を下っていくと、梓川と合流して犀川を成し、川中島で千曲川と合流する。 最終的に信濃川となって、新潟で日本海へ注ぎ込むわけである。
そのまま
西進し、橋を渡り終えた直後の交差点を右折する。車が一台通れるぐらいの狭い道路だった。ちょうど、道路入口に「荒井城跡」の案内板が立っていた(下写真左)。ここまでで、先ほどの渚城跡から自転車で 5分弱。
そして、狭い道路沿いに進むと、荒井城(清水ヶ城)・土塁跡の土盛りがひっそりと住宅街に残されていた(上写真右)。
下写真は、古城エリア一帯を眺めたもの。
その脇には、地元出身の 柔道家・清水正一(1912~1989年)氏の記念碑が設置されていた(下写真左)。 戦前、戦中、戦後にわたり、日本体育大学、
慶応大学
、
東京大学
などで柔道の指導に あたった人物で、戦後には 全日本柔道連盟理事、東京学生柔道連盟会長、講道館指導員・審査員、 国際柔道連盟審査員委員会委員などを歴任したという。
その向かいには、プレハブの 柔道場「滴水館」が建てられていた(下写真右)。
鎌倉時代末期の 1333年、足利尊氏率いる畿内平定軍に 参陣していた、信濃国松尾エリア(今の 長野県飯田市)の 豪族・小笠原貞宗(1292~1347年)は、 そのまま
尊氏の六波羅探題襲撃に加担して
、鎌倉幕府滅亡戦で功を挙げたことから、 翌 1334年、信濃国守護に任じられる。直後より、自身の本拠地を鎌倉時代からの
松尾城
(今の 長野県飯田市)から井川館(今の 松本市井川城)へ移転させる。その際、 同時に引っ越ししてきた小笠原家一門の島立氏により、小規模な居館が造営されたものが、この「荒井城」というわけだった。
1489年、その末裔の島立貞永がこの居館を大改修する。
1520年頃、信濃国 守護・小笠原長棟(1492~1542年)が防衛性を重視し、松本盆地の東郊外の山中に林城を築城して、 新たに守護所とすると、周囲に付城、支城群を建造することとなった。その一環で 深志城(今の松本城)が新築されることになり、この 荒井城主・島立貞永が築城工事を担当、そのまま深志城在番を委ねられる。
1523年ごろ、深志城代にあった島立貞永に代わり、孫の島立貞知がこの荒井城主を正式に継承する。 信濃中部で勢力圏を保った 守護大名・小笠原長棟も 1542年に死去すると(すでに信濃国内は群雄割拠状態で、 一国をまとめる力を有していなかった)、その 子・小笠原長時(1514~1583年)が守護職を継承するも、1550年7月、
武田信玄
の信濃侵攻を受け、深志城や林城とともにこの荒井城も落城することとなった。以後、そのまま廃城となったと考えられる。
なお、小笠原家の主城となった林城であるが(上写真は、松本城脇にある市役所庁舎の屋上から東郊外を眺めたもの)、筑摩山地の西側に突き出した尾根上に造営された中世の山城で、 大城と小城の二城で構成されていたという。堅堀や多くの曲輪群など、山城の特徴的な構造を現在も残しており、県指定史跡となっている。
さて写真撮影後、そのまま自転車で国道 158号線「野麦街道(古くから、信濃と飛騨を結ぶルートの主要道の一つで、野麦峠を越えることから命名されている)」へ出る。これを直進して、松本駅まで戻った(下写真左)。
途中の奈良井川上で、先ほど往路で渡ってきた奈良井橋を撮影する(下写真右の後方に見える橋)。
そのまま再び田川を渡って東進すると、
巾上(ハバウエ)
という交差点に至る(下写真)。ちょうど、JR線路の下をくぐる一つ手前の交差点で、緩やかな坂道となっている通りだ。
ここで、女鳥羽川沿いに小規模な 記念公園(巾上緑地)を発見する。下写真。
記念公園を訪問してみると、かつて船着き場や交易集落があったエリアの名残りという。
道路脇というロケーションもあってか、誰も気に留めないような小公園だった。公園横から女鳥羽川へ下りる階段も付設されていた(上写真左 中央)。
小公園内には、石尊大権現を祀った石碑と祠が保存されていた(上写真右)。 もともとは、女鳥羽川と田川が合流する岬の先端に建立されていたという(1833年~)。
松本城下から危険の多い峠を徒歩で越えて出立する旅人や、 犀川の流れを往来する舟人たちの安全を願って開設されていた、との案内だった 。舟人の海路安全の守護神である石尊大権現を、大山阿夫利神社 (今の 神奈川県伊勢原市にある大山。古代から人々の厚い山岳信仰を受けた名刹) より勧進したものという。
この松本市巾上町あたりは、昔から松本城下の西の玄関口として、野麦街道や犀川通船の船着き場などとして栄えた交易集落地区であった。
江戸時代後期、松本城下と善行寺平を結ぶ犀川通船という水路輸送ルートが、藩からの公認を受けると、 それまでの各宿場町が独占した陸路交通だけだった信濃中部の交易ルートが多様化されることとなり、 輸送効率を飛躍的に上昇させたのだった。
この河川交通便は「犀川通船」と称され、信濃国の山岳地帯を流れる犀川に端を発する、一大水運(河川舟運)事業へ成長 していくわけである。江戸時代後期の 1822年、信濃国筑摩郡庄内組白板村の 折井儀右衛門、宮渕村の赤穂勘右衛門、水内郡新町村の大内源之丞らの共同請願により、 1832年1月28日、12年の曲折を経て江戸幕府から許可され同年 8月に正式スタートされる。当初、松本城下から 上水内郡・新町(現在の信州新町)の区間を通航し、約 60 kmを 7時間で下るという時間短縮を成功させると、後年、さらに航行ルートは延伸され、 善行寺平までの直通が許可されたのだった。
その始発の船着き場が、この小公園の対岸に立地していたわけである。
ちょうど 女鳥羽川と田川、奈良井川の合流地点に立地し(下絵図)、最終的に信濃川を通じ、新潟・日本海へ出る河川交通のゲートウェイを成したのだった。
1872年に明治政府により松本藩が廃止されると、幕藩体制下で長年、議論を巻き起こした善行寺街道各宿場町との独占的約定も 破棄され、ヒト、モノの移動が自由となり、水路便がますます活用され、松本城下の 起点・巾上町は大いに賑わったという。
1876年10月、犀川通船開設の許可を幕府から得た折井儀右衛門の子孫にあたる折井良吾が、改めて通船問屋を設立し、松本と長崎方面との水運事業にまで拡大させると、船着き場を旧松本城の大手門があった千歳橋にも開設して、より松本市街地からの利便性の向上を図っている。 また同時期、同じく幕府へ請願を出して許可を得た赤穂勘右衛門の子孫にあたる赤穂益作も、松本城下の新橋に新たに船着き場を設け、松本市中心部からの集客をねらっていくこととなる。
こうして当初、両社は競合関係にあったが、1890年に合併し通船会社を興して独占企業化する。しかし、1903年に 鉄道(篠ノ井線)が開通したことで衰退がはじまり、1938年に犀川沿いに自動車道路が完成したことで完全廃止され、その歴史的な使命を終えるのだった。
なお、「巾上」の地名であるが、1651年の検地帳に初見され、近世期の庄内村の西半分を占めていたという。幅(巾)は川の土砂のたい積や浸食により作られた階段状の地形を指し、 この「巾」の地形が田川によって形成され、その「上」に立地したことに由来するようである。昭和初期まで「幅(巾)上」という町名が存在したが、今は消滅している。
見学後
、坂道を下って JR線路をくぐり、再び、ホテル前の伊勢町通りに到着する。
そのまま市街地を東進し、突き当りを北上する。ここは「大名町通り」という通りで(下写真右)、松本市内のビジネス街のようだった。「大名町通り」を直進すると、松本城正面に至るわけである。
この「大名町通り」の南端が、女鳥羽川を渡る 橋(千歳橋)であった。上写真左はその千歳橋から外堀石垣を撮影したもの。現在、この川沿いは往時の名残りを保存すべく、江戸風の木造家屋や柳の木が植えられるなど、整備が行き届いていた。
先述の「犀川通船」を営んだ「巾上」の港町は、この下流域に位置したわけである。
そして女鳥羽川にかかる「大名通り」沿いに、かつて枡形スタイルの大手門があった(上写真右の右側)。現在、この右奥に、明治初期に建立された「四柱神社(天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神 の四神を 同時に祀る)」が立地する。
下写真は、大手門正面(南方向)から見た、往時の風景。この時はまだ、四柱神社は存在していなかった。
大手門は、天守がある本丸へ至る 3か所の枡形門の一つで、女鳥羽川を挟んで南に広がる城下町から 城内(三の丸)に入る正門に相当していた。石垣と塀で囲まれた 四方形デザイン(「枡形」と通称された)で、南西隅に二の門、北側に一の門が配されていた。大手門を通ると、東西に有力家臣の屋敷地が並ぶ大名小路で、武家町が続いていた。
16世紀後半の 石川数正(1533~1593?年)・康長(1554~1643年)父子の治世時代、天守を建てるとともに城郭を囲む堀を整備しており、このとき、大手門も造られた。最終的に 1871年の廃藩置県後に取り壊され、また総堀は 1878年以降、順次埋め立てられたという。大手門取り壊しの際、解体された石垣や、塀に使用されていた瓦や建築材が、そのまま堀に捨てられ埋め立てに供されたらしい。
下写真は、大手門を西方向から見た、往時の風景。
なお、この外堀を成した女鳥羽川であるが、松本城の築城に際し人工的に掘削されたもので、もともとは松本城の西側を流れていた河道を、城郭の造営にあわせて東回りに大きく変更させたという。
そのまま大名町通りを北上し、松本城正面前のコンビニで休憩した。
国宝
・松本城前だけあって外国人らの利用も目立つ、珍しいコンビニだった。お店の西隣には、松本市観光事務所が入居していた。
さて一休み後、松本城の東面にある松本市役所庁舎へ向かう。その向かいには、1999年に復元された太鼓門が壮麗な姿を見せつけていた。下写真。
もともとは 1595年頃に築かれ、江戸期を通じて朝 6時~夕方 18時まで開門されていたが、明治初期の 1871年早々に取り壊されてしまったという。北側門の石垣上には太鼓櫓が置かれ、時の合図、登城の合図、火急の合図等の発信源として重要な役割を果たしていた。
また、この太鼓門前の土橋は、門側の幅が狭くなる「鵜の首」と呼ばれる形をしており、敵兵の進攻を遅らせる工夫が凝らされているという(上写真左)。
そのまま向かいに立地する、昭和期の小学校校舎みたいな古い鉄筋コンクリートの市役所建物に入り、エレベーターで 5Fまで上り、さらに階段で 7Fまで移動すると、屋上から松本市の 360度パノラマが見渡せる設計だった(無料)。 屋上部分のプレハブはサウナ状態かと思っていたら、きちんとクーラーも行き渡っていて快適だった。
下写真は、この庁舎屋上から見た松本城。右手前に先ほどの太鼓門、その後方に天守閣が見える。中央の箱型建物は、市立歴史博物館。いずれも二の丸内に立地する。その後方には通り雨が降っている最中のエリアが見渡せる。
下写真は、往時の松本城。中央左に太鼓門、その後方に天守閣が見える。太鼓門の右横に見える黒っぽい屋根瓦の邸宅が、藩主御殿である。この外堀の外周には家老屋敷が並び、さらに外側で盛り土した土塁と総堀に取り囲まれていた。
下写真は、先ほどの市庁舎屋上から
二の丸御殿エリア
を眺めたもの(下写真中央の緑地広場)。
そのまま市役所建物を出て太鼓門をくぐり、この二の丸御殿跡地を訪問してみた。
往時には、巨大な屋敷がここに建設されていた。下写真。
この二の丸御殿であるが、天守の完成後に建設された 本丸御殿(城主の居城と 政庁を兼務)が 1727年に焼失されると再建されなかったため、藩主邸宅および政庁として幕末まで利用された屋敷であった。部屋数は約 50、総面積 2,176 m2を有したが、時とともに政庁としては手狭となり、一部の役所機関は三の丸内にも開設されたという。
なお、この松本城内には三御殿あり、本丸御殿と二の丸御殿、そして 古山寺御殿(現在の博物館の位置にあった)が建造されていた。二の丸御殿は明治時代も 筑摩県庁(松本藩から改編)に転用されたが、1876年に全焼すると、その跡地には松本裁判所が建設される。1978年に裁判所建物が三の丸へ移築されたのを機に発掘調査が行われ、1984年に現在の仕様で復元が整い史跡公園として公開されたのだった。下写真の通り、御殿の部屋ごとにそのままのサイズで各用途が解説されていた。
特に、いちばん内堀に近い「書院」からの眺めが印象的だった(上写真右)。かつて、ここから藩主や側近、来客、女中らが見る天守閣は絶景だったことだろう。
下写真は堀端ギリギリまで移動して見た、本丸曲輪と天守閣。
下写真は、本丸曲輪(左岸)と 二の丸曲輪(右岸)との間にある
内堀
。
下写真左は、二の丸御殿の北面に立地する木橋。下写真右は、この木橋から見た 内堀、本丸曲輪。江戸時代当初から、二の丸御殿周辺も石垣は組まれなかった。
下写真は、二の丸御殿周辺の土塁と中堀。
そのまま二の丸を後にし、本丸北面の内堀を通って天守エリアへ進む。
本丸曲輪のみ、四方を完璧に石垣で囲まれていた(
下写真左
)。
そして、一つ目の信号で松本神社前の交差点に到着した。
交差点に鎮座する神木を発見する(上写真右)。道路の真ん中にあって、大事に保存されていた!
下写真は、北城門から見た三の丸と 本丸曲輪、天守閣エリア。北門後方に立地する「五社」が、現在の松本神社に相当する。五社とは 藩主・戸田家出身の祖先 5名を「五神」として祀ったことに由来する。戸田家の氏神として藩士全体からも篤い帰依を集めた。
さて、いよいよ西側の庭園を通過し、松本城の天守閣に接近する。
下写真
。
正面から堀沿いを進む。かなり小柄な天守閣にビックリした。堀の水深も浅く、餌付けされた鯉たちが寄ってくる。
江戸期、二の丸の西側入り口前には、簡易な社の若宮八幡社が設置されていた(下写真の中央)。今でもこの小島は現存していた。その創建は古く、荒井城主の島立貞知が 祖父・貞永(深志城の築城者で、そのまま城代を務めた)を祀り、城の鎮守としたことに由来する(1520年代)。
そのまま細長い二の丸曲輪を半周回って、本丸正門(黒門。櫓門と枡形から成る巨大な城門で、本丸防衛の要であった)前に至る。下写真左。
なお、松本城内には駐輪場がなかったので、天守見学時には二の丸にあった博物館前に停めた。天守入場料とセットで 600円で博物館見学もできる。本サイトで度々、掲載している松本城模型はこの博物館で展示されていたもの。なお、松本城天守の保存に関する、地元有志の市川量造や小林有也たちの奮闘物語ビデオは、
Youtube
でも見られる。
国宝重要文化財だけあって、外国人の訪問が多いのが印象的だった。ちょうど後ろから外国人団体客が本丸ゲートで受付していたので、混雑に巻き込まれる前に、足早に天守閣を目指す。
本丸曲輪は思ったよりも広大であった(上写真右)。明治期には博覧会場となり、その後は中学校が開設されていた。全国でも非常に珍しい跡地の利用法が強く印象に残った。
明治維新後、旧物破壊思想の下、松山城天守も売却、破壊の運命にさらされていた。天守が競売されるのを憂えた市川量造らの努力により、幾多の困難を克服して天守は無事、解体前に買い戻される。しかし、その保存にまで資金が続かず荒廃が進むばかりであった。 その後、本丸曲輪に入居した 松本中学校長・小林有也は身近で進む廃墟化を憂え、地元に呼び掛けて 1901年、天守保存会を設立し、12年がかりで明治の大修理を終え、天守を倒壊危機から救ったのだった。
そんなエピソードを思い浮かべながら、靴を脱いで天守閣の内部へと上がる。 6階分の階段を上るわけだけだが、狭く急な構造に古の知恵が詰まっていた。そして、ラスト 2階分は階段が一か所しかなく、登りと下りは皆さん、道を譲り合いながらの移動だった。特に巨体の欧米系の観光客は通路の狭さに苦労されていた。
1593~94年の完成という 5重6層の木造天守は日本最古を誇る。厳しい雪国を 430年もの間、耐え抜いてきた屋台骨に感謝したい。下写真左。
なお、下写真右は天守 3階部分。この天守閣は外からは五重に見えるが、内部構造は六階になっている。これは、この 3階部分が外から見えないためで(窓がない)、最も安全な場所となっていた。戦時には秘密の階として機能し、ここに武士が集結したという。
天守最上階にはテラス形式の展望台はなく、狭い窓から外を覗き込む、というスタイルだった。四方を見渡すにつけ、松本市が盆地であることを実感できた。
下写真は、天守閣の北面を遠望したもの。写真中央部に木々が生い茂る緑地部分がある。ここが先ほどの道路中央に神木を有した松本神社である。その前の道路沿いに内堀が見える。
また、その脇を北へとまっすぐ続く道路の先に、開智学校の旧校舎が頭を見せる。
当初
、長野県上田にあった信濃国府が松本盆地に移ったのは奈良時代末期~平安時代の頃で、ちょうど国家の奨励策により私有地が拡大し、中央の貴族と結託した地元有力者層による大規模な土地開墾と荘園経営がスタートしたタイミングでもあった。こうして初期荘園が出現する一方で、奈良時代に確立されていた律令制は形骸化していく。やがて荘園領主のもとに結集した集団は武装化をはじめ、武士団の形成へつながっていく。
こうして武士が台頭した鎌倉時代、信濃国の守護家は、
最初は比企一族が 務めていたが、執権・北条家によって滅ぼされると
、そのまま北条家が 守護職を継承し、そして鎌倉幕府滅亡後は、室町幕府下で小笠原氏が任命されることとなった。
戦国時代で乱世が広がると、松本平中央に位置する井川館を 本拠地(「信濃国・府中」と通称された)とした 信濃守護・小笠原氏は、より防衛力の高い松本平東部の山岳部に拠点を移す(1504年)。その山頂に林城を新たに築城すると、家臣らを林城を取り囲むように配置し、支城を建造させて防衛網を整備したのだった。その一環で 家臣・島立貞永によって築城されたのが 深志城(今の松本城)で、林城の前面を固める重要な役割を担うことを期待されていた。
この当時、今の二の丸東側に集落地が形成されており、その西方一帯には沼地が広がっていた。深志城はこの集落地と沼地の 間部分(今の 市立博物館あたり)に築造されたと考えられる。
1550年7月に
武田信玄
が 信濃守護・小笠原長時を追放し松本平を占領すると、林城は使わず、この深志城を信濃中部の安曇郡、筑摩郡の支配拠点に定める。直後より、城郭の強化工事が着手された。後世の松本城にみらえる「馬出し」と呼ばれる出入口は、この武田氏の築城術に特徴的なもので、武田時代から徳川時代にかけて武田遺臣らが城郭設計に携わっていたことを伺わせる。
なお、このとき追放された 小笠原長時(1514~1583年)と 息子・貞慶(1546~1595年)は流浪の旅に出、上杉謙信や織田信長など各地の大名を頼って旧領奪還を図ることとなる。
1582年3月に武田氏が滅亡し、6月に本能寺の変が勃発して旧武田領が大混乱となる中、徳川家康のもとに身を寄せていた小笠原貞慶が旧臣らを動員して信濃府中へ侵攻し深志城を再占領すると、33年ぶりに父祖の地を回復する。
同年 7月の天正壬午の乱で徳川家康が 甲斐、信濃を併合すると
、そのまま徳川家臣に帰参する。この時代に、貞慶は深志城を松本城へ改称し、安曇郡、筑摩郡支配の安定化を図っていく。民心を安定させ支配を強固とするために、対抗勢力を一掃するだけでなく、積極的に寺社への寄進や安堵も行ったという。
あわせて、大規模な城域の拡張工事と城下町の整備に乗り出す。武家を城内に、商人や職人を城下町へ集住させるとともに、その周辺に寺社を配して防護の役割を担わせるようにした。こうして松本城下町の原型が小笠原貞慶の時代にできあがるが、町割りはまだ名ばかりで、家並みはまばらであったという。
この時代、豊臣秀吉が台頭すると、小笠原貞慶は秀吉の命により 息子・秀政(1569~1615年)と
徳川家康の 長男・信康の忘れ形見
であった 娘・登久姫(峯高院)との間に縁戚関係を結ばせ、徳川の譜代とさせていた。
1590年、秀吉によって徳川家康が関東移封させられると、松本城主だった小笠原秀政も家康に従って下総に転出する。直後より、秀吉は小牧・長久手の 合戦(1584年)を機に、 家康方から秀吉傘下へ寝返っていた 家臣・石川数正(1533~1592年)を 松本城主(10万石)に封じる。
数正は、もともとの深志城本丸だった場所に 古山地 (こさんじ) 御殿(今の市立博物館の場所)を建設し家族を住まわせ、二の丸曲輪の整備から城普請を着手するも、
間もなく秀吉による朝鮮出兵の事前準備が開始されると
、数正は 息子・康長(1554~1643年)と共に、肥前名護屋への 参陣を命じられ、その名護屋の陣中で病死するのだった(享年 61)。
このタイミングでも、同時並行で松本城の普請工事が 進められており、沼地を埋めてる形で 本丸、二の丸の造営が完了していくことになる。 そして、家督を継承した石川康長が名護屋から帰国すると、1593年から 3年かけて 天守三棟(天守、渡櫓、乾小天守)の建造を進めたと推定されている。この時に完成した五層六階の天守は分厚い壁で仕上げられ、鉄砲狭間が多く設けられた設計であった。さらに、鉄砲の射程距離を考慮して内堀幅が作られており、本格的な鉄砲戦に備えた戦闘用の城としての構えを見せる。
天守建造と同時並行して、総堀の拡張や城下町の整備も大規模に進められた関係上、領民の大動員が行われ相当な酷使があったといわれる。その様子の一端を、太鼓門玄蕃石にまつわる伝説が伝える。
関ヶ原合戦
では徳川方に味方したため所領を安堵され、石川康長はそのまま松本城の築城工事の続行していく。しかし、当時の 8万石レベルの松本藩にはあまりに巨大な普請工事であった。
こうして 20年近い年月をかけた大工事を経て、3重の 水堀(内堀、外堀、総堀)と土塁を巡らした曲輪群の縄張りが完成し、上級家臣の屋敷群を配した三の丸の整備も終了すると、総面積は約 39万 m2に至り、総延長 3.5 kmの土塁上には隙間なく土塀が築造され、厳重な 口(枡形と 馬出し)を有する城門が四方に設けられる堅固な城塞が出現したのだった。なお現在、国宝指定されている天守五棟の残り 2棟(辰巳附櫓と月見櫓)は江戸時代初期の 1634年ごろに 藩主・松平直政が増築・完成させたものである。
しかし、築城工事を主導し、民衆らの怨嗟を一身に受けた石川康長は、父が豊臣方に寝返った経緯から外様大名として取り扱われ続け、最終的に 1613年、
大久保長安事件への関与
、開発した新田の未申告、無届の城普請、家中騒動などの理由で改易となり、豊後(大分県)佐伯へ配流させられる。そのまま大名に復帰することなく、佐伯で 89年の生涯を閉じる。改易の背景には 父・石川数正の家康からの離反が尾を引いていたと指摘されているが、真実は歴史の闇である。
なお、この石川康長時代に進められた、三の丸外周の城下町整備であるが、南から北へ通る善行寺街道に沿って城下町を割り、主に北側に武家町、南側に町人町を配した。その外側、特に東面に寺院や神社がおかれ、城下町を守る役割を担わしていた。
なお身分制に基づく居住区分は厳格で武士と町人の混住はなく、武家屋敷地は木戸の内と外に分けて中級と軽輩の居住区とし、町人地は 親町(街道沿いメインストリート地区)3町、枝町 10町、 24小路に区分し、身分や職業別に住まわせた。
明治時代に入り松本藩が廃止され松本県が新設されると、そのまま藩庁であった二の丸御殿が県庁として利用され続ける。最後の松本藩主であり、藩知事として執政を司った戸田光則は、このとき華族となり
東京
へ移住してしまう。それからしばらくして、松本県は別の諸県と合併され筑摩県へ改編される(1871年)。筑摩県の県庁もそのまま二の丸御殿が継承される。 この時、筑摩県長官として当地の赴任したのが薩摩藩出身の 永山盛輝(1826~1902年。在任期間は 1871~1875年)で、教育を立県の指針として文明開化政策を進め、開智学校の設置などに尽力することとなる。
1876年に至ると、もともとの信濃国を一つの県とする動きが地元で活発化する。筑摩県庁のある松本と、長野県庁のある長野市が県庁所在地で立候補したが、同年 6月に 二の丸御殿(筑摩県庁舎)が火事で焼失してしまったため、県庁は 善行寺町(今の 長野市)に決まり、新生・長野県がスタートして今日に至るのだった。
続いて
、松本城公園北の閑静な住宅街を貫く道路を自転車で北上してみた。そして、正面には松本市立開智小学校の広大な校庭と新校舎が広がっていた。後方には国の 重要文化財に指定(2019年5月~)されている開智学校の旧校舎が見える。
いよいよ、開智小学校の旧校舎前に到達する。ここは入場料 300円で、敷地に入るゲートから徴収される厳格さだった。庭園すら歩かせてもらえない徹底ぶり。
下写真左は旧校舎前の庭園柵から、先ほどの松本市立開智小学校を見たもの。
代わりに、その旧校舎横にあった旧司祭館に入ってみる(下写真右)。入館無料。
板敷の床がミシミシいうわけでもなく、なんか復元された感がありありであまり感動しなかった。寝室、食堂など、いずれも部屋は狭いな。。。。といった印象程度。
明治時代の洋式住宅で、長野県内に現存する最古の洋館という。
フランス人の オーギュスタン・クレマン神父により 1889年、カトリック松本教会の宣教師用住居として、松本城内三の丸北部の家老屋敷があった地蔵清水に建設されたもので、後に開園するテレジア幼稚園の庭に立地したという。以後、100年近くにわたり松本カトリック教会の宣教師たちの住居として使用された。アーリー・アメリカン様式を備えた下見板張りの西洋館の各部屋には暖炉が配備され、1・2階ともにベランダを備えている。
なお、1901年に司祭に就任したギュスターブ・セスラン(Gustave Cesselin)神父が、同年から 27年の歳月を費やし、日本で初の日仏辞典を編纂した建物として特に有名である。
旧司祭館のように外壁に下見板を用いる建築法は、アメリカから日本に伝わったと言われる。移動と開墾を繰り返す開拓時代に適した建築スタイルとしてアメリカで発展した下見板建築は、まず日本の北海道に伝わる。明治初期の北海道開拓には、アメリカ人の技師団が関わっていたため、アメリカ式の下見板建築が多く建てられたという。その後、東北地方でも下見板建築が増えていき、日本の北から徐々に広がっていったとされる。旧開智学校の校舎のような漆喰を主とした壁よりもメンテナンスが簡単だったことから、1887年ごろからは下見板スタイルが全国で主流となっていく。
また、ベランダは幕末から明治初期に日本に入ってきたコロニアル建築の要素の一つで、欧米人が東南アジアやインドに入植した際、亜熱帯の気候に対応するために生み出した洋風建築スタイルで、広いベダンラが特徴とされる。日本にも、長崎、
横浜
、神戸の開港地で建設されるようになり、全国に広がる。しかし、寒冷な気候に開放的なべランダは合致しなかっため、このベランダ窓には後にガラス張りの窓がかぶせられたという。
1989年にカトリック教会側から松本市に寄贈されると、1991年に現在の旧開智学校の隣地に 移築・復元され、同年12月より松本市旧司祭館として一般開放される。1994年3月には松本市から、 2005年3月28日には長野県から文化財指定を受けた。
そして再び、松本市立開智小学校をぐるりと半周する形で戻り、そのまま自転車で三の丸曲を南北に貫通する西通りを南進して、西堀公園前の交差点から西町通りに入り南下していると、外堀を成した女鳥羽川を再び渡る(下絵図)。いよいよここから城外ということになる。
ここで
女鳥羽川
にかかる橋は中央大手橋という名称で、一見すると、かつての大手門だったような印象を与えるが、上絵図のように、往時には橋すらなかったポイントだ。
下写真左は、中央大手橋から東側を見たもの。先に見える橋が旧大手門の位置に相当する千歳橋。
この中央大手橋脇に旧開智学校があった、という石碑を発見する(上写真右)。現在の旧開智学校校舎は 1966年に移築されたもので、もともとはこの外堀沿いに立地したわけである!
中央大手橋の西隣の開智橋までの一帯を敷地としていた。下写真の中央部。
下古写真は、往時の開智学校。
外堀沿いの西端一帯はもともと
寺町
で、複数の寺院が集められていたエリアだった。その中で最大規模を誇ったのが全久院で、藩主・戸田家代々の菩提寺を務めた古刹であったが、維新後に松本県知事を継承していた 戸田光則(1828~1892年)が 1871年に自ら率先して菩提寺を廃止し(後に復活され、今も郊外に現存する)、その建物を仮校舎として小学校を新設する。同年、松本県が筑摩県へ改編されると、戸田光則は華族となって
東京
移住することになり、新たに筑摩県令として 永山盛輝(薩摩出身)が赴任してくる。
この戸田光則による全久院廃寺の再利用が、翌 1872年の学制発布以前に手掛けられたことから、後にその跡地に 正式開校(1873年5月)する開智学校が「小学校教育発祥の地」として日本史に刻まされることとなったわけである。
この廃寺の建物が 5年ほど使われた後、筑摩県令・永山盛輝の号令により全久院の建物は破却が決定され、1875年4月~ 1年間の工事を経て、翌 1876年4月に洋風スタイルの開智学校校舎が完成することとなる。
この校舎は地元の 大工棟梁・立石清重(1829~1894年)によって建築された擬洋風建築で、中央部の八角塔は 時計塔・太鼓櫓などと呼ばれ、色ガラスなど端々に文明開化の要素が盛り込まれるなど、当時流行った擬洋風建築の特徴を各所に保持していた。
当初は二階建ての教室棟を逆 L字型に配し、延べ面積 2,653 m2、児童収容数 1300人の規模であった。建設費約 1万1千円のおよそ 7割が松本全住民の寄付によって賄われたという。
この開智学校は明治時代、単なる小学校にとどまらず、初期から中期にかけて 師範講習所、中学校、女学校、幼稚園、書籍館(図書館)、子守教育所、後期には 記念館(博物館)、盲人講習所などとしても使用され、それぞれ分離発展し今日に至っている。
正式開校から 90年後の 1963年3月に廃校となり 90年の歴史を閉じると(これより前の 1961年3月に校舎が国の重要文化財に指定されていた)、 1964年8月に解体されて現在地に 移築・復元され、1965年4月から一般公開されているわけである。
現在の松本市立開智小学校から、この旧校舎跡地までの移動ルートは
下地図
の通り。
なお、かつて家老など 上級武士(藩主に謁見が許された、100~200石以上レベル)らの侍屋敷や松本藩の 役所(郡所・作事所など)等が軒を連ねた三の丸跡地を直進中、発掘調査現場を発見した(下写真左)。
一帯は完全に宅地開発されてしまっており、もはや往時の武家町の屋敷などは一切、残されていないが、住宅街を貫く直線道路網が当時の区画整理された名残りを大いに今に伝えていた(下写真右)。途中、古そうな銭湯もあり、明治期以降に庶民空間へと変化していった様子を物語る存在に思えた。
なお、松本城 三の丸一帯、また外堀外の城下町一帯には今でもたくさんの井戸跡が残されており、水が豊富な都市だったことがうかがい知れる。
そのまま勢いにのって、自転車で JR松本駅前周辺の市街地をサイクリングしてみた。駅前のバスターミナル・ビル上にはショッピングフロアがあり、最上階にはサイゼリアや餃子の王将が入居していた。
軽く昼食後、18切符を使って 16:41発の大月行の列車に乗車する。大月駅で一回乗り換えただけで、そのまま
御茶ノ水駅
に帰着できた(21:39)。
帰路の車窓から、高い山々に電線の鉄塔が連なっている様を見て、何か不釣り合いな印象を受ける。これは鉄塔が低いのではなく、周囲の山が高すぎて鉄塔が小さく遠くに見えているのだな。。。。と痛感した次第である。また長野の山深さがもたらす天候は独特で、あちこちで霧や夕立雲が立ち込めているのが見えた。
甲府
や
東京
は暑かったが、ここ松本は終日、涼しかった。
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