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訪問日:2017年6月上旬 『大陸西遊記』~
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宍道湖に面する 陣城(野戦城塞) ~ 満願寺城跡
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満願寺城の主郭 と 空堀跡
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尼子氏 vs 毛利氏 ~ 毛利方の 島根半島奪還作戦
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佐陀川の 運河掘削 と 西潟ノ内、今昔
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常福寺 と 城山 ~ 毛利方 vs 尼子方 白鹿城攻防戦のはじまり
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巨大山城「白鹿城跡」への登山
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白鹿城の 各曲輪跡
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【豆知識】白鹿城 ■■■
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さらに 巨大な山城「真山城跡」~ 芥川龍之介も登山した
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【豆知識】真山城 ■■■
松江市街地
から 西へ自転車で進むこと 20分強、その宍道湖沿いの道路先端に「満願寺城跡」が見えてくる(
下写真
)。 ここも東隣の
荒隅城(洗合山城)
と同様、
宍道湖
に面する急峻な独立系の小山に築かれていた 野戦城塞(陣城)で、 宍道湖と中海を往来する尼子軍の水運交通を遮断、 制圧するために、湖畔の各要所に配置された毛利軍拠点の一つであった。
【 満願寺城 】
現在、この丘の中腹には満願寺が建立されており(下写真左)、その案内板に、ほんのわずかであるが城跡の説明が言及されていた。
筆者が訪問したとき、たまたま寺の住職さんが外で庭の手入れをされていたので、城跡について質問すると、寺の裏側まで案内してくれ、細い即席の山道を登ったところ(
下写真右
)、と教えられた。
即席の登り階段を上がりきると、狭い丘の頂上部には平坦な台地が広がっていた(下写真左)。だいたい、バスケットコートの半面ぐらいの面積だろうか。
また、小山は 2~3段に掘削されており、堀切や曲輪跡がはっきりと残っていた(下写真右)。
小山にいると、宍道湖の荒波がすぐ真下に打ち寄せる音が響き渡っており、まさに眼下が絶壁であることが伝わってくる。先の住職さんにも、真下まで崖が続いており、転落に注意するように何度も注意された。
実際、地面には落ち葉が広がっており、どこまでが台地部分で、どこからが崖なのか、まったく判別できず、ただ強烈な波の音だけが間近に聞こえるという、ぞっとする空間だった。 この絶壁は、横から見るとかなり内に抉られ、相当に波の侵食を受けているため、絶対に 崖ぶちには近づかないで、と何度も住職さんに警告されたわけである。
下写真右
。
この城塞も東隣の
荒隅城(洗合山城)
と同様に、毛利軍が尼子氏の本拠地、
月山富田城
を攻める 際(1562年~)、島根半島の 最大拠点「白鹿城(
尼子十旗
の筆頭)」からの富田城への水路、陸路の交通を遮断するために、北岸側に集中的に構築させた陣城群の一角 を成していた。荒隈城(洗合山城)とともに、
宍道湖
北側の占領と拠点確保が企図されていたということは、裏を返せば、南岸側は尼子氏の勢力がまだまだ残存し、毛利軍もうかつには拠点確保ができなかったことの証左と言えよう。
最終的に真山城まで築城し、白鹿城を攻略した後は(1563年)、島根半島での後方の憂いもなくなり、順次南下を進め、
十神山城
(
尼子十砦
)などを攻略していく。こうして、尼子方は宍道湖畔の拠点を完全に喪失し、山中の月山富田城内で孤立無援に陥ることとなった。
下写真は、満願寺城の山裾から
松江城
方面を臨んだもの。
【
佐陀川の運河掘削
】
江戸時代前期、
松江城
下から最短で日本海へアクセスできるように、山脈を切り開いて運河を通し、日本海の海水が直接、
宍道湖
に注ぎ込む形の大掘削工事が敢行される。
この結果、完成されたのが、下古地図の左端に描かれている 宍道湖と日本海をつなぐ運河で、途中に大きな西潟ノ内も見える。
現在も、日本海とつながっており、船での航行が可能という。佐陀川の河口部には、木製の味のある橋が架けられており(下写真)、その下には名物のシジミの殻がたくさん落ちていた。
佐陀川を少し北上した内陸部分にも、 多くの漁船が停泊しており(下写真)、土手沿いにもシジミの殻がたくさん散乱していた。
下写真左は、佐陀川と周囲の平野部。下写真右は、西潟ノ内の遠景。満願寺城跡から眺めたもの。
さて佐陀川を渡って、再び
松江市街地
へ戻ることにした。
同じ宍道湖沿いを進むのも面白くないので、市街地との間に横たわる緩やかな丘陵を突破することにした。
いろいろ迷ってしまったが、だいたいの勘で峠越えを完遂し、国道 37号線に到着できた。その道路沿いにあった「餃子の王将」で遅めの昼食を食べる。
そして、そのまま国道 37号線を北上し(上写真左は途中、
松江城
の外堀と交差したポイント。奥に松江城天守が見える)、途中から国道をはずれて住宅街の側道を直進し、みずうみ保育園や法吉ゴルフセンターの看板を東へ曲がって、あとは道なりに直進すれば、谷口の麓にある常福寺に到着できた。
上写真右は、この側道沿いにあった白鹿山城の正面登山口への案内板。
【
常福寺
】
早速、谷里の入り口付近(下写真左)にあった「常福寺」に立ち寄ってみる。
門前に、「芥川龍之介ゆかりの寺」「尼子氏ゆかりの寺」と銘打ってあるのだが(下写真右)、その背景などを解説する案内板が全くなかったので、ちょうど庭の掃除中だった住職さんに、その由来を質問してみると、「パンフレットがあるので、差し上げます」と言われ、貴重な資料を頂戴することができた。
下記は、そのパンフレットにあった解説文である。
白鹿山の麓にある曹洞宗白龍山「常福寺」は清光院の末寺で、開基・開山は不詳だが、もともとは 白鹿城主・松田一族の菩提寺という。
白鹿合戦の時、城主・松田左近の末弟で住職であった普門西堂が、常福寺丸(寺の後背の山)に砦を構え、二の 城戸(きど)の大将として奮戦、落城に際し、自刃して果てたと 伝えられている。
寺はこの合戦によって荒廃するも、1633年、清光院高巌永甫和尚が再建した。現在の本堂は明治 40年代に改築されたものという。
芥川龍之介が、友人の井川恭に招待され松江に滞在した折(大正 4年 ー 1915年ごろ)、 友人と二人でこの地を散策し、常福寺や真山城跡を散策した記録が残されている。
どうやら、この常福寺の裏山にも簡易な要塞が建造されており、毛利軍の白鹿城攻めの前哨戦が行われたということで、写真に収めておいた(下写真)。
小山ながら、その斜面はかなり急峻なものであった。
常福寺を出発し、谷口という名の通り、小さな北田川が山間部から流れ出してくる、谷あいの緩い坂道を登っていく(下段地図)。
途中に寂しい感じの登山口を発見した(下写真左)。ここが白鹿城の谷口登山口という。あまりに頼りない細い道だったので、最初は戸惑ったが、ここで諦めるわけにはいかないので、一人登山を決行した。
【
白鹿城
】
半信半疑ながら、草木の中へと分け入ってみると、それなりに人が通った跡の残る山道があり、一部には木製の階段も設けられていた。
夕方近い時間帯で、前日が雨天だったこともあり、山裾の草むらから、やぶ蚊がたくさん出てきた。 それを振り払いながら、山から流れ落ちる小川沿いに設けられた登山道を悪戦苦闘しながら登っていく。
現在、登山口は 3つ(下地図)ある。筆者は真山城との連続登山を視野に入れて、谷口方面からの登山を決行したわけである。下地図。
急な斜面を登り出してから、5~6分ぐらいで山の尾根に行き着く。ここには長谷口からの登山道ルートへの案内もあり(上写真右)、両ルートが合流するポイントのようであった。下地図。
この尾根は、白鹿山と小白鹿山との連結部分にあたり、ここが登山道の 5合目にあたる。そして、再び登り始めると、間もなく 7合目に到着した。この辺りから、曲輪跡らしい平面が現れてくる。この 7合目が、松江市の市街地を一望できた唯一のポイントだった(下写真)。
8合目にも
曲輪
らしい平地部が広がり、約 1~3 m程度ずつ、小さな平面部分が段々に連なっている地形を体感できた。他の曲輪への移動も快適にできるよう設計されており、城内空間が整っていたことが分かる。築城の歴史も結構、古いこともあり、そのあたりの利便性は最大限に工夫されていたのだろう。
そして、9合目と 10合目に本丸曲輪が広がっていた。山の頂上部分に位置し、最も広いスペースを有していた(下写真左)。また、簡易な祠が設けられていた(下写真右)。
登山口からここまでで、15分弱ぐらいの所要時間だった。
本丸曲輪内を一周巡っていると、その斜面はあまりに急峻で驚嘆させられた(下写真) 。
この白鹿城は、尼子十旗の筆頭格を成し、最も堅城であったとされる。籠城戦の最中、井戸の地下水を巡る鉱山師らの地面下の戦い、があったことは有名なエピソードとなっている。
下山はよりスムーズで 10分強で登山口に戻れた。往復で合計 30分程度の見学だった。
月山富田城
を本拠地とし、山陰・山陽
11か国
に号令したこともある尼子氏の最大の支城で、「
出雲十旗
の第一」と称されたのが、この白鹿城であった。 それは白鹿山(別名:白髪山、標高 154 m)の山頂に造営されていた、典型的な中世の山城であった。
城主・松田氏一族は、島根半島東部から中海、
宍道湖
の水運や、美保関(島根半島と
境港
の間の境水道)を支配した豪族で、この 水運通行税 (関銭)を徴収して強大化した地場勢力であったが、後に尼子氏の傘下に組み込まれることとなる。
1562年の
毛利元就
による 出雲侵攻の折、
富田城
防衛の最後の拠点となり、時の 城主・松田左近将監誠保(尼子氏の 当主・経久の孫娘の婿)はよく防戦するも、翌年秋、 遂に落城に追い込まれている。 頼みの綱を失った富田城もやがて毛利方へ開城し、 山陰の 覇者・尼子氏の滅亡を決定づけた存在となってしまうのだった。
山頂付近に 本丸、大井戸、月見御殿(本丸跡の一段下の平地)などの跡が残り、周囲は急峻な斜面に囲まれていた。
山頂
「馬場(本丸)」と伝承される山頂の平坦地には、 岩盤が露出した部分があり、かつて狼煙台か、物見台が設置されていたと考えられている。 現在、この攻城戦で落命した双方の将兵らの霊を弔う祠と地蔵尊が設置され、 春と秋に供養祭が営まれているという。
大井戸跡
直径は約 4 mもあった大井戸跡であるが、現在はほとんど 土砂に埋もれて浅くなり、窪地だけとなっている。毛利軍は城内のこの水源を絶つべく、 石見銀山の坑夫を大動員し、井戸底に向けて麓から坑道を掘り進めたと伝えられている。
水の手
山頂東側の急斜面の中腹に湧き水の流れがあり、「水の手」と称されてきた。 毛利元就はこれをたどって坑道を堀り進めたわけである。 この地下道作戦を知った松田方も山頂から穴を掘って迎え撃ち、 上から埋め立てたと伝えられる。
一の床、二の床、三の床
馬場(本丸)から南に下りた三段の 曲輪(防御陣地)を指す、ちょうど大手口の 守備に配置された防衛網であった。
大白鹿山
本丸の南西側にあった「二の城」の山で、城主の居館が 建てられていたと推定される。
社日山
白鹿山の南東側に張り出した山で、常福寺川(北田川)が流れる白鹿谷の入り口 にあたり、大手門と二の城とを見下ろす砦跡であった。山頂にある 社日(しゃにち)の小祠は、城主の鎮守の一つだったという。
その他、白鹿山の西から北方には小高丸、大高丸、玄武山、天狗山など険峻な峰が続き、いずれの山頂にも城塞が設置されていた(下地図参照)。また、尾根道は真山城内から島根町や美保関町方面へ通じており、食糧や物資の補給路であったとされる。
【
真山城
】
さて続いて、さらに谷里を遡り、 北田川の上流に築造されていた白鹿池を通り過ぎると(下写真左)、 道が東西に分かれていた。ここを案内板通りに東へ少し進むと、真山城登山口の 案内板が見えてきた(下写真右)。
ここは白鹿城に比べて、標高が倍以上もあり、登頂だけで 1時間は優にかかりそうだった。レンタサイクル屋さんが 18:00に閉店するので、登山は断念し、ここから
JR松江駅
まで直帰することにした。
それにしても、こんな谷間の細い道に、どうして自動車の往来がこんなに多いのだろうと不思議に思っていたら、どうやらこの真山城跡のさらに東隣に「ソフト・ビジネスパーク島根」 が誘致されており、その関係の車が通り抜けしているらしかった(下地図の右下)。
白鹿城攻略のために築城された、毛利方の 陣城「真山城(新山城)」であるが、 毛利元就が尼子氏を滅ぼした後も(1566年11月)、引き続き、城塞として利用されていたようである。尼子氏再興を掲げ、
山中鹿介らが島根半島に上陸し(1569年8月6日)
、最初に
忠山城
を占領して、対毛利戦争をスタートさせると、間もなくこの真山城も占領し、 この尼子再興軍の本拠地に定めることとなった。
しかし、最終的に布部山の 戦い(1570年3月20日)以降、勢力を失った再興軍は、本拠地としていた 真山城を放棄し(1571年9月8日)、同月中に島根半島の
鈴垂城
を経由して隠岐島へ脱出していくのだった(
そのまま織田信長の下へ帰参する
)。
白鹿谷
を挟んで、北東に位置 する真山の 山頂(256 m)に造営されていた「真山城」であるが、その築城時期に関しては 全く不明という。
毛利元就
の出雲侵攻の折、 毛利軍が白鹿城を攻撃した際、吉川元春がこの山を奪って布陣した記録が初見となっている。
白鹿合戦の後、元春はこの真山城に 多賀左京亮元信(元龍)を守将として配置するも、
6年後、尼子氏の 末裔・勝久を擁して尼子再興の旗揚げをした山中鹿介らが、隠岐から出雲へ上陸してくると、 この山城を奪取して本営に定めることとなる。しかし、鹿介らの奮戦空しく、1571年に再び、毛利勢に敗れて出雲から駆逐され、 以後、二度と旧領へ足を踏み入れることは叶わなかった
。
現在、山頂部の本丸跡地を筆頭に、 南面へ向けて 一の床、二の床、三の床と呼ばれる曲輪群や、野面積みの石垣が残存する。 特に本丸跡からの眺望はすばらしく、
宍道湖
や
松江市
、島根半島海岸や日本海を見渡せる、好立地として知られる。 この本丸跡地には、現在、御影石造りの「尼子勝久 記念碑」が設置されているが(台座の高さ 2.7 m、 碑石の高さ 1.52 m)、これは 1923年、山麓の常福寺の 住職・小川龍山師ら、熱心な尼子信奉者たちと 多くの賛同者らによって建立されたものという。
そのまま
松江市街地
を経由し、30分ほどで駅前まで戻ることができた。
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