BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年6月上旬 『大陸西遊記』~


島根県 松江市 ①(中央エリア) ~ 市内人口 20万人、一人当たり GDP 270万円(島根県 全体)


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  宍道湖 と 中海との間を流れる 大橋川の今昔
  江戸時代の松江城 と 城下町 ~ 大橋川沿いには 豪商の屋敷が並んでいた
  中堀(今の京橋川)の 今昔 ~ 武家屋敷 と 町人エリアとの 境界線
  松江城 三ノ丸跡地 と 島根県庁
  松江城 城下町の今昔
  松江城 ニノ丸(下ノ段)内にある 護国寺と民家
  松江城 ニノ丸(下ノ段)の 米蔵 や 武家長屋の跡地
  松江城 ニノ丸(上ノ段)の 太鼓櫓 と 本丸ルート
  松江城 侍屋敷エリアに残る 鉤型路の路地
  【豆知識】松江城 ■■■
  荒隅城(洗合山城)
  関ヶ原直後に入封した 堀尾氏の新城郭建設 の ロケーション選定秘話



JR 松江駅北口にある 観光センターでは、レンタサイクル・サービスが提供されていなかったので、 駅南口のシャミネ駐車場内の 駅レンタカー(松江営業所 9:00~18:00)で、自転車を借りることにした(終日 300円)。

出発後、間もなく 宍道湖 と中海との間を流れる 大橋川 を渡ることとなった(新大橋)。下写真。

松江市 松江市

ここは、江戸期から島根、出雲地方の重要な航路を成しており、 城下町への積み荷搬入や卸売りは、特権商人らによって独占されていたという。


 【 松江藩の 城下町 】

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この 大橋川 の北岸が、かつての武家屋敷エリアであり、一部の豪商の屋敷も 立地していた。これに対し、南岸は一般商人らの区画となっていた(上写真)。

上の写真左側には、庭付きの邸宅が並んでおり、当時の豪商の権勢を誇る様子が伺える。海峡に面する屋敷には小さな波止場も設けられており、自由に小舟で海峡へ出ることも可能で、城下町で花火大会が開催される折は、 藩主がこれら豪商宅に足を運んでは、船を出させて花火鑑賞を楽しんだという。
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下写真は、大橋川を越えた北岸にあった 中堀跡(京橋川)。東京橋の付近。今日、遊覧船の発着所になっていた(下写真左)。堀川のギリギリまで張り出す民家の軒先が生々しい。

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この中堀と大橋川との間は、江戸期には豪商の邸宅エリアが広がっていたわけであるが、今では夜の飲み屋街となっていた。
そして、中堀と内堀の間には、家老屋敷や侍屋敷が広がっていたわけである。現在は、官庁街の様相を呈する(下写真=地名は「殿町○○番地」)。

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ここから、西へと針路を変えると、旧三ノ丸跡地に立地する 島根県庁 が見えてくる(下写真左)。

県庁の中庭には、松平直政(1601~1666年。徳川家康の 次男・結城秀康の三男。つまり、家康の孫)の銅像が立っており、ちょうど 大阪冬の陣 で真田丸を攻めている最中の、14歳当時のものという(下写真右)。
この県庁前のバス停が、殿町一丁目だった(上写真右)。

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そのまま内堀沿いを移動し、松江歴史館(入館料 510円)へ立ち寄る。松江城や城下町の歴史が、最新デジタル技術を駆使して解説されていた。 内容が充実しすぎて、1時間半も見入ってしまった。また、館内ではボランティアの方がいろいろお話してくださって、非常に 勉強になった。

松江市

松江の城下町は第二次大戦中、米軍の空襲を受けなかった おかげで、江戸期の町割りがそのまま現在も継承されたという、 全国でも珍しい県庁所在であること、また、ガイドさんが子供の頃、 城下町の水辺ではしじみは簡単に取れたこと、ご自身の実家が床下浸水で何度か宍道湖 の水害を受けたこと、などのお話を伺えた。
この博物館で、佐陀川の掘削 について知ることとなり、ちょうど午後から満願寺城へ出向くので、あわせて 見学してみることにした。


 松江城

あまり長居もしていられず、自転車をそのまま歴史館の駐輪場に停めたまま、 松江城内に入ってみる。
下写真は歴史館付近の内堀の様子。木造の 架け橋(宇賀橋)がいい味を出していた。上写真右。

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内堀と二ノ丸にかかる北側の 城門(北惣門橋、上写真左)から入城し、馬洗池を通過して、本丸北門から天守閣を目指すこととした。

途中、二ノ丸から北側へ移動し、護国神社に参ってみる。そこで驚くべき光景を目にすることとなった。
なんと、この内堀の城内で、護国寺の正面に民家が 2軒建っていたのだ(下写真)。どのような経緯でこの場所に家を持てたのか、非常に興味をそそられた。実にうらやましい。

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さて、この二ノ丸(下ノ段)であるが、江戸期、ここには米蔵や武士らの長屋が並んでおり、明治期以降は野球グラウンドなどに使用されていた そうである。現在は、きれいに芝生で整地された空間が広がるだけとなっていた(下写真右)。

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下写真左は江戸期当時の様子。二ノ丸には城門橋以外に、陸続きとなっていた出入り口があり、それが 馬溜跡(かつての馬小屋群)である(下写真右)。現在、ここは主に観光客が登城する際のメインゲートとなっていた。

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そのまま 二ノ丸(上ノ段)を通過し、本丸正門まで一直線で登ることができた。 何段にも石垣が重なる合う様は、見応え抜群だった。下写真。

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二ノ丸(上ノ段)には、復元された太鼓櫓や洋風の興雲閣が立地していた(下写真)。
上で紹介した、三ノ丸跡地にある島根県庁を臨んだ写真は、この太鼓櫓内から撮影したものである。

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なお、松江城 はかなり小ぶりの城郭だったようで、天守閣も小さい上に、本丸も本当に狭かった。天守閣の入場料は 580円。

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ここでもあまり長居はできず、 続いて 荒隈城(洗合山城)へ駒を進めることにした。
その移動途上で、鉤型路(かぎがたろ)の路地に出くわした(上写真)。侵入者らを直進させないように、わざと複雑に都市設計されていた江戸期の町割りの 名残りという。

そのまま西進して侍町を突き抜け、小高い丘が連なる丘陵エリアへと向かった。


その屋根瓦の重なり具合が、優美に天へ飛び立つ鳥の群れのように見えたため、松江城は 千鳥城との異名も持つ。山陰地方で惟一、現存する天守閣を有し、しかも、その建築様式が 戦国時代と江戸時代の過渡期らしく、両者を折衷した極めて珍しい歴史遺産として国宝指定を受けている。

この松江城から 宍道湖 一帯にかけて、 尼子氏と毛利氏との激しい抗争を繰り広げた現場であり、その集大成 として建造された城郭とも言える存在であった。

松江市

尼子時代、現在の松江城が位置する亀田山上には、中世の山城である 「末次城」が立地し、宍道湖から中海に至る水道を支配していた。また、その北方には要害の 山城「白鹿城(尼子十旗の筆頭格)」が配置され、二段構えで 水道エリアを抑えていたわけである。

この末次城や白鹿城は、第 2次 月山富田城 の戦役の渦中にあった 1563年に落城し、毛利方に占領されることとなる。
この攻撃に際し、毛利元就 は尼子軍の水運を妨害し、また長期戦に備えるべく、宍道湖畔 に複数の臨時要塞を築城していくわけである。そのうちの一つが、 下記の 荒隈城(洗合山城)であった。

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下写真左の阿羅波比神社は元々、洗合山上にあったが、戦役渦中の 1562年に毛利軍によって山麓の現在地へ移転されたものという。以後も、歴代の松江藩主によって大切に保護されてきた。

松江市 松江市

右上は、清光院。洗合山に連なる最東端に位置する。1600年より現在の地に移転されてきたという。境内の墓地には、松江藩の儒学者、芸術家、武術家らの墓碑がたくさん安置されている。また、1879年に第一回島根県議会の会場となった場所でもある。



 荒隈城(洗合山城)

現在、城跡地に天倫寺が立地する(下写真)。松江市の西側に広がる低い丘陵地帯の南端に位置し、かつては洗合山と通称され、現在は南平台と呼ばれている場所である。

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宍道湖 に面する丘陵地帯の南端ということで、 南面は急斜面に加工されていたようである(下写真左)。 ただし、どこにも解説板は設置されておらず、下調べがなかったら城跡とは 分からない場所だった。

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境内は、寺院建立のため大幅に土地改変されており、 一部に土塁や側溝の跡かと思わしき部分もあったが(上写真右)、どこからどこまでが往時の遺構か 全く分からない状態だった。 下写真左。
境内のすぐ南側には、宍道湖 が広がっていた(下写真右)。

松江市 松江市

なお、歴史に「もし」があったのなら、松江城はここに築城されたかもしれなかった。

関ヶ原の戦役後遠江・浜松藩(12万石)から 松江藩主(24万石)へ 加増・入封した 堀尾吉晴・忠氏父子は、最初、月山富田城 に入城する。しかし、山城の麓で、しかもかなり内陸部に位置していたため、 近世風城郭と城下町建設に不向きで、すぐに 交通、商業、武家屋敷の開設に都合のよいロケーションの選定が行われることとなる。

このとき、戦国時代を生き抜いた 猛将・堀尾吉晴 は、この洗合山に残されていた武名高い毛利元就造営の陣城跡を大改修することを主張するも、その息子で当主を継承していた 堀尾忠氏(1578~1604年)は、 小規模な藩領に大城郭の建造は困難で、しかも広大な丘陵エリアに築城すると、 天守や櫓群の見栄えもさえなくなることから、 より小規模な亀田山の南端に位置する末次城跡地の再開発を希望するのだった。下絵図。

そうした渦中、堀尾忠氏が領内の視察途中に毒蛇にかまれて 27歳で早世してしまうと (1604年)、父の堀尾吉晴は息子の遺志を尊重し、末次城跡地の大規模改修に踏み切ることとなったわけである。

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かつて、亀田山の山裾は湿地帯となっており、そのまま 宍道湖 畔と沼地などに囲まれていた。その大橋川の中州エリア「白潟」には、室町時代よりすでに水運交易の 集落地が形成されていたという。

松江城の築城に際し、まずは亀田山南端を切除する形で、山を掘削し、堀を開通させることとなる。この工事が最も大変だったようで、あとは発生した土砂を周囲の湿地帯の埋め立てに転用し、まずは二ノ丸一帯の道路を整備し、堀や石垣を築造して、天守閣を完成させる(ここまでで実に 5年を要した)。天守閣の完成後、藩主は松江城へ引っ越しを果たし、その直後の 1611年、69歳で 堀尾吉晴 は死去することとなる。以後、孫の 堀尾忠晴(12歳。1599~1633年)が 2代目藩主を継承するのだった。
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なお、この松江城が築城されるまで、洗合山と亀田山との間には大きな干潟が存在し、 両山をツートップとして入り江が形成されていたという(上段絵図)。なので、毛利と尼子の抗争時代、荒隈城と末次城は直線的に存在していたわけではなく、 水軍による移動が必要な距離感を保っていたことになる。

毛利元就白鹿城 攻めに際し、当地に大陣地を構築した際、京都 から公家らを呼んで茶会などを催したり、周囲の商人らがモノを売りに市を立てることを許可するなど、 将兵らの慰安のための余裕が持てたのも、こうした自然の防衛ラインが確保 されていたためであった。

しかし、松江城の築城工事で、巨大干潟は西側の外堀へと形を変え、それ以外の地域は侍屋敷として開発された後(上古地図)、 現在の平和な住宅街へと変貌を遂げていくこととなった。

しかし、江戸期を通じ、松江の城下町は、何度も増水などで床下浸水の被害を受け、また地盤沈下なども加わり、過去に 5回も盛り土を施して、その地盤維持に苦慮したという。

さてさて、古城エリアの散策後、一畑電車の線路と 宍道湖 沿いをさらに西へと駒を進める。

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宍道湖の先に、次なる目的地・満願寺城 が見えてくる(上写真)。ここも、同時期に毛利軍によって築造された 陣城群の一つというわけであった。

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