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日本の城 から
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三重県 桑名市
訪問日:2019年11月中旬 『大陸西遊記』~
三重県 桑名市 ~ 市内人口 15万人、一人当たり GDP 320万円(三重県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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名古屋 と 四日市(三重県・最大都市)に挟まれた ベットタウン・桑名の静か過ぎる駅前
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桑名城の外堀 と 寺町の今 ~ 寺町アーケード通り、京町見附跡、旧東海道、通り井
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寺町に鎮座する 本統寺 ~ 長島一向一揆戦争の再起拠点 と 幕末動乱の生き証人
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桑名城の 今昔マップ
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城下町筋に残る 旧東海道と古地図 vs ひど過ぎた桑名市博物館
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いよいよ九華公園に入場 ~ 復元された蟠龍櫓、七里の渡し跡、一の鳥居、旧東海道
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【豆知識】七里の渡し と 蟠龍櫓 ■■■
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戦争末期に大空襲を受け焦土となった 旧城下町筋を、旧東海道から見る
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海道の 名城・桑名城の名残りが残る 中堀、内堀界隈 ~ 多聞橋 と 舟入橋
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三の丸、二の丸、本丸跡地 を散策する
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「春日さん」 ~ 桑名の 最高神「桑名宗社」
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【豆知識】桑名城 ■■■
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【豆知識】江戸末期、旧幕府方の主軸となった桑名藩 と 藩主・松平定敬 ■■■
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国重要文化財の 六華苑(旧諸戸家住宅)と 外堀跡
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木曽三川の一角・揖斐川を 自転車で渡河!
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【豆知識】輪中 ~ 宝暦治水 と 明治改修 ■■■
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長島地区の地元資料館 兼 和食レストラン「又木茶屋」
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長島城跡 と 旧東海道(陸路ルート)跡、その城下町筋
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長島城の今昔マップと、唯一現存する 城郭遺構・蓮生寺山門
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長島藩主・増山家の 重臣・久我家の邸宅跡 と 長島一向一揆の リーダー「願証寺」の今
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【豆知識】伊勢・長島の 歴史 ~ 一向一揆王国 から 長島藩へ ■■■
名古屋駅
から JR関西本道で桑名駅に到着すると(30分、
350円
)、早速、投宿予定のス-パーホテル桑名駅前店で荷物を預け、そのまま駅前にあった「桑名市物産観光案内所」で地図や地元情報をもらい、自転車をレンタルする(一日 300円)。
なお、この案内所が 1Fに入居する 駅前商業ビル「桑栄メイト」は昭和を象徴するようなレトロさで、薄暗い空間に小さな商店街がたくさん軒を連ねていた。その中にはハンバーガー屋さんから喫茶室、チケットショップまでひと通り、そろっていた。基本的には閑散とし半シャッター街化した駅ビルだったが、唯一奮闘するお店があった。2F 餃子専門店で、この日も 5~6組のお客が列をなしていた。 1Fの観光案内所で列の理由を問うてみると、「おいしいで有名です」ということだった。結局、筆者は一口も試すことなく、桑名を去ることとなったが、最後まで気になる餃子屋さんだった。。。
早速、レンタサイクルを走らせ駅ビル向かいのサンファーレ北館脇のローソン横から東へ直進する。国道 1号線を横断し、真新しい桑名市総合医療センターや 総合スーパー・アピタ桑名店を横目に、平坦な道をスイスイと自転車で 5分ほど進むと寺町の一角に到達した。
下写真
。
下写真は、その寺町沿いに流れていた外堀川。沿道は遊歩道に整備されていた。
上写真は北方向、下写真は南方向を眺めたもの。
この外堀川のすぐ西脇に、寺町アーケード通りが整備されていた(上写真の左端にアーケード街の入り口が見える)。往時には、外堀のすぐ外側に寺町が配置されていた名残りである。その門前町として栄えた商業エリアがアーケード街となっているわけであり、今でも一帯は 北寺町、南寺町という地名で、往時の記憶を伝える。
下写真は、外堀川から東方向を見たもの。
往時には、東海道沿いの大繁華街地区だった町人エリアだ。写真の道路沿いに通行人が歩いている交差点が旧東海道で、かつて京町見附があった跡地という。
写真左下の広場は京町公園で、かつて桑名市役所が立地していた場所だ。
自転車を引きながら、寺町アーケード通りを散策してみることにした。
下写真左は、寺町アーケードの東端を出て、八間通りを渡ったところ。
下写真右は、復元されていた外堀川の一部。
なお、上写真左の左端に見える立方体の構造物は、かつての井戸跡を模したもの。町人ご用達の水汲み 井戸「通り井」という。
江戸時代、桑名藩が道路中央に井戸を設けて住民らの生活用水とさせていた。この井戸の 枡枠(ますわく)は取り外し可能だったようで、特に
東海道
沿いの通り井は、大名行列の度に取り外されたという。
下写真左は、さらに
外堀川
の跡地を東へ進んだもの。すでに埋め立てされてしまっているが、その跡地は遊歩道として延々と続いていた。このまま東進すると、「六華苑」裏の運河までつながっているわけである。
上写真右は、寺町アーケード沿いにあった本統寺と、浄土真宗の 宗祖・親鸞(1173~1262年)像。
本統寺
親鸞が 開顕(かいけん)した浄土真宗であるが、その本流となった 宗派「真言宗大谷派」の本山が
京都・東本願寺
であり、それ以外の全国の寺は別院として支部扱いされる。その宗派ピラミッド構造は戦国期には一向一揆の大動員という形で結実された。
当地に本統寺が開山されたのは、この長島一向一揆戦争と大きな関わりがある。
東本願寺第 12代法主・教如(
石山本願寺
戦争で信長と戦った顕如の長男で、徹底抗戦を主張していた。本能寺の変直後の 1582年6月27日に穏健派の 父・顕如と和解するも、 1593年に秀吉により強制隠居させられる。最終的に 1603年、本願寺はこの穏健派 vs 強硬派グループの因縁がもとで東西に分裂することとなる)の 息女・長姫(当時 9歳)を住職として開山され(1596年)、北伊勢・長島方面で信長によって徹底弾圧された浄土宗の門徒たちを再興させ、鼓舞することが当初の目的であり、ここ桑名別院は三重県内の真言宗大谷派の 念仏・聞法の中心道場として位置付けられることとなる。寺名を本統寺と定められるも、地元では「ご坊さん」と通称され続けた。
明治初期、新政府軍が桑名城に迫ると、在番家臣団は無血開城し降伏する。直後より、家臣らが集団謹慎で押し込められたのが、 この本統寺であった。
なお江戸時代、俳聖・松尾芭蕉(40歳。1644~1694年)が 1684年の『野ざらし紀行』の初旅の折、当寺に一泊する。これを歓待した当時の 住職・大谷琢恵(俳号:古益)が芭蕉と同門の俳人であったことから句会が催され、その時に芭蕉が詠んだ句が「冬牡丹、千鳥よ雪の ほとときす はせを」であり、後世、これを記念し、境内に句碑が建てられることとなった。
しかし、江戸期に設置されていた当初の句碑は何らかの理由で紛失されてしまっていたため、1937年に表門脇に再建されるも、1945年7月17日と 24日の両日における桑名大空襲によって境内全てが灰燼に帰したので、焼け残った句碑は現在の場所に移される。1968年に桑名市の 文化財(史跡)に指定された。
下地図は、ここまでの移動ルート(
赤色ライン
)。
さて、外堀川沿いを戻る形で自転車で南進し、中央通り(県道 504号線)まで至ると、左折してみる(上地図、黄色ライン)。すると、一本目に
旧東海道
があった(上地図の灰色太線)。その道路沿いを北上してみると、「鍛冶町」の解説板があった(下写真左)。旧東海道沿いの町人エリアだった名残りだ。そのまま少し前進すると、先ほどの寺町アーケード附近に戻った。この辺りが、先述の京町見附の跡地である。
その先の県道 613号線を渡って桑名市博物館を訪問してみた(
下写真右
)。
博物館前には、
旧東海道
より移築された 道標(「右京いせ道」「左江戸道」と彫られた石碑)が保存されていた(上写真右)。
なお、この博物館の北面の 道路(上写真右の中央に見える白壁)が、旧東海道である。
これほど立派な城郭遺跡や城下町、戦国史を有する桑名市であるが、その博物館の展示は貧相なもので、2Fに桑名城の城主年表や城郭絵図がいくつか無秩序に羅列されている程度だった。翌日に訪問した、南隣の
四日市博物館
とは雲泥の差だった。
下古地図の赤ラインは、かつての東海道筋を示す。
さらに最悪なことに、1F展示会場で開催中の 特別展見学料(この時は、伊藤小坡作品)も、常設展見学料と抱き合わせに購入させられた(500円)。
この売れないアイドルの興行手法、百貨店のバルクセール商法は何とかならないものだろうか?常連の桑名市民も気軽に特別展だけを見学したい気もなえさせられるだろう。ましてや、家族連れなら、その負担は倍々ゲームのようになる。受付や事務所スタッフが無用に多すぎる点も気になった。
とりあえず仕方なく観覧することとなった、伊藤小坡(1877~1968年)作品集であるが、古代日本から近世日本における故事や美人画などの歴史画を復刻させる作風スタイルで、奈良時代、平安時代の宮廷着や山内一豊妻の描写図などは確かに見応えはあったが、それにしても納得のいかない博物館だった。
この抱き合わせ商法は、他日、一宮市博物館(愛知県)でも遭遇し、もう我慢ならず入館を拒否してしまった!
さて自転車を回収すると、そのまま南隣の道路を東進していく。かつて、中堀があった跡地が道路となっていた。途中、内堀公園、立教小学校、貝塚公園、簡易裁判所前を通過し、揖斐川沿いに至る。その脇に古めかしい
赤須賀明社
があった。
揖斐川の土手をすこし北上すると、九華公園を通り過ぎて柿安コミュニティ-パークに到着した。ここから徒歩で復元された真新しい 蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)を目指す(上写真)。
内部は入場無料ということで、2Fまで上がってみた(開館時間 9:30~15:00、月曜休)。桑名城と城主・
本田忠勝
、そして水害対策史に関する簡単な展示スペースとなっており、主として揖斐川を見渡す展望台だった。
川沿いの本丸東面の堀は埋め立てられ、地形が大幅に変形されてしまっているが、七里の渡し 跡(上写真の 4階建てホテルの場所)と、それに続く
旧東海道
(下写真左)、中堀周辺(下写真右)は見事に保存されていた。
ちょうど、
七里の渡し
脇に巨大鳥居があり、これをバックに写真撮影するのが定番のようだった(上写真中央に
鳥居
が見える)。
七里の渡し
室町時代から桑名は、木曽三川上流、伊勢、尾張を結ぶ水陸交通の要衝都市として発展し、北伊勢の重要拠点の一角を成してきた。
1601年、徳川家康により
江戸
と
京都
を結ぶ
東海道
が整備されると、江戸から数えて 42番目の宿として桑名宿が開設される。この桑名宿と
東隣の 熱田宮宿(愛知県名古屋市熱田区)
の間は東海道唯一の海路として結ばれることとなり、海上で七里あったため「七里の渡し」と通称されていく。
七里の海上ルートは島を縫って進む複数の航路があったと考えられており、渡し船は 30~50人乗りの乗り合い船であった。また、桑名宿の旅籠屋は 100軒を越し、東海道では熱田宮宿に次いで多かったという。
江戸中期の 1780年代、この七里の渡し場前に東海道をまたぐように巨大な鳥居が建立される。これは、
十里の渡し として四日市宿が熱田宿との間で海上ショートカットを横行するようになり
、これに危機感を募らせた地元桑名商人らが伊勢国の入り口は「桑名宿」で、この「伊勢国一の 鳥居(伊勢神宮への一番目の鳥居)」をくぐって、順番に伊勢詣でをするように仕組んだものと推察される。東国から来た旅人たちにとって、七里の渡しから桑名に着くと、この鳥居をくぐって伊勢国に入る、東の玄関口として明示しようとした目的だったのだろう。桑名商人の矢田甚右衛門と大塚与六郎が発起人となり、関東地方に住む桑名出身者や取引先など回って寄付を集め設置したという。
最初、この「一の鳥居」は伊勢神宮の宇治橋の外側の大鳥居をもらいうけて移築されており、以後、20年に一度の式年遷宮ごとに建て替えられる伊勢神宮宇治橋外側の大鳥居を貰い受けて建て替え続ける習わしとなる。最近の鳥居建て替えは 2014~15年に実施されている。
ちなみに、この宇治橋外側の大鳥居は外宮正殿の棟持柱として用いられていた御用材で由緒あるものとされ、宇治橋内側の鳥居は、内宮正殿の棟持柱として使用され、関宿東追分の鳥居の建て替えに用いられるという。
明治時代に入ると大型の蒸気船が運行を始めるも、桑名港は水深が浅いため隣の
四日市港
が台頭することとなり、ついに 1877年、貨物の取扱い額が四日市港に追い抜かれる。海上交通の拠点は四日市に譲ったが、河川交通は依然活発で上流に位置するの
大垣
、
岐阜
、笠松(岐阜県羽島郡笠松町)との定期航路が保持され続けた。
1894年に関西鉄道の桑名駅が開業し、翌 1895年には名古屋と結ばれたことにより
、七里の渡しの渡船も閉鎖される。
以降、七里の渡し場跡付近は水害対策などで堤防増設や埋め立てが進められ、当時の面影は見られなくなる。
歌川広重(1797~1858年)の有名な 浮世絵「東海道五十三次」において、桑名宿は海上の名城と謳われた桑名城を表すため、七里の渡し一帯が象徴的に描かれている。この絵図から、当時の渡海に使用されていた船の様子を窺い知ることができる(上写真左)。
当時、海上の東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名宿のシンボル的存在であった 蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)は、河口部に立地する七里の渡しに面して建てられており、上の絵図にも描かれている。現在、九華公園で唯一復元されている櫓である。
なお、「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことを指し、龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられてきた。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられている。桑名名物として、この単層入母屋造の櫓上には海に向かって龍の形を刻んだ瓦があり、その櫓の下には魚が集まらないところから「蟠龍瓦」と称えられ、その櫓は「蟠龍櫓」と広く知られるようになったという。
また上写真右は、同じく七里の渡し口の向かいにあった 川口櫓。明治10(1877)年頃に撮影されたもの。
この櫓も歌川の上記絵図の端っこに描かれている。
桑名城には元禄大火後に再建された時点で、51の櫓があったと記録されるも、明治初期に廃城となって次々と櫓などが解体され、
特に撤去された石垣群は四日市築港の資材に転用されることとなる
。この城郭解体の過程で最後まで残ったのが、この川口櫓であった。この櫓はもともとは 2層であったが、江戸中期に火災か水害で損壊した後、1層で再建されていたという。
ここから東海道筋は、中堀と 外堀(今の外堀川)との間を蛇行しながら敷設されていた。
下地図
。
そのまま旧東海道沿いを西進すると、八間通りとの交差点に行き着く。城下町筋にあたる古いエリアのはずだが、戦争末期に大空襲を受けたため、古民家は全く残されていなかった。バス停「本町」などの地名に、往時の記憶が刻み込まれているだけだった。下写真。
この交差点から、中堀を渡って再び城内へ入ってみる。この橋は多聞橋といい(
下写真
)、その美しい光景に思わず見とれてしまった次第である。小舟が行きかう運河のイメージがぴったりのロケーションだった。
上写真は北方向、下写真は南方向。この南端に、かつて大手門が立地していた。
さらに数秒、先へ進むと、続いて 内堀(三之丸堀)を渡る。舟入橋がかけられており、その内側の 駐車場脇(三の丸跡地)に
本田忠勝(1548~1610年)像が設置されていた(下写真)。乱世にあってはその武勇を称えられた猛将で、現存する 近世・桑名城の築城主である
。
江戸時代、この三の丸に藩主御殿や政庁が設けられていた。
本丸東面と異なり、西面の石垣や内堀はかなり保存されており、見応え抜群だった。
そのまま内堀に浮かぶ人工島群であった三の丸南端へ、
自転車
ごと乗り入れてみる。
手狭で細長い曲輪群が列島のように配置されており、往時には倉庫、軍事訓練用スペースといった利用だけだったのだろう。侍屋敷を設けるにも不格好な土地で、あくまでも防衛戦を想定した曲輪設計だったと推察される。この人口島からが九華公園で、サイクリングで通り抜けるにはもってこいだった。
三の丸の南端まで至ると、進行方向を東へ変える(上写真左)。ここから二の丸となる。
上写真右は、三の丸から中堀外の武家屋敷エリア跡地を眺めたもの。
二の丸曲輪は本丸へ至る守備陣地としての機能が期待され、緊急時の兵士らの待機場所、および大砲などの火器攻撃の前衛陣地と想定されていたのだろう。まさに内堀に浮かぶ小島で、平時には軍事教練スペースだったか??
上絵図で俯瞰できる通り、何重にも本丸を取り囲む曲輪配置の工夫が涙ぐましい設計スタイルだった。各曲輪が迷路のように細く長くデザインされていた点が特徴だろう。
下写真左は、二の丸跡地から本丸へ移動する橋。後方に広がる広場は、九華公園グランド。
本丸曲輪跡地は、すぐ脇に広大なグランドが整備されていたので、他の曲輪に比べて非常に巨大に感じた。しかし、実際はグランド内の 1塁ラインが内堀跡で、本丸は二の丸曲輪の二倍程度しかない小規模な人工島だったわけである。
往時の面影は、神戸櫓跡(かつての神戸城天守を移築した)、辰巳櫓跡(天守閣焼失後には城のシンボル的建造物だったが、幕末の新政府軍の侵攻時、降伏の証として破却される)などの周囲に残る、高く盛られた土塁、そして、北端にある天守台石垣だけであった。天守台の周辺は、現在、鎮国稲荷神社の境内となっており、厳粛な雰囲気に包まれていた(上写真右)。
それにしても、天守台の石垣脇で野球に精を出せるなんて、羨ましいグランドだった。
さて再び、天守台裏にあった 5階建ての柿安本社ビル後方に広がる、柿安コミュニティパークに戻ってくる。ここは、三の丸曲輪のメインだった場所だが、大幅に内堀が埋め立てられており、かなり地形が変わっていることが分かる(上地図参照)。
続いて
、再び七里の渡し跡を経由し、県道 613号線に入って長島へ向かうことにした。
その前に、この桑名城下町でひと際、広大な敷地を有していた 春日神社(桑名神社、桑名宗社)が気になったので、少し散策してみた。上写真。
平安時代から続く古刹で、桑名の総鎮守として 桑名首(くわな・おびと)の祖神を祀ったため、桑名総社とされる。古くより地元市民から「春日さん」と通称され、今日も変わらず厚い帰依を寄せられているという。
境内にある青銅鳥居は江戸時代初期の 1667年に建造されたもので、特産品鋳物のシンボル的存在という。鳥居の側にあるしるべ石は、「迷い子石」とも呼ばれ、伝言板の役割を司ったそうだ。下記の江戸期の地図にも描かれ、町人町エリアの中央に立地し、特別な存在だったことが伺える。
桑名城
戦国時代、北伊勢地方はさまざまな豪族が割拠する大混戦時代を迎えており、北勢四十八家と称される多くの領主が存在した。その一角である伊藤氏が揖斐川沿いを支配し、現在の桑名の地に東城と呼ばれる城を構えていたという。
戦国末期の 1568年、
美濃を平定したばかりの織田信長
が北伊勢へ軍事侵攻すると、東城主であった伊藤武左衛門は降伏に追い込まれる。その直後、信長の 家臣・滝川一益が北伊勢を支配した。一益は防衛力に優れていた長島城を、主にその居城として利用する。
豊臣秀吉の時代には、 一柳右近可遊(?~1595年)や 氏家行広(1546~1615年)が統治した。
この東城に初めて天守閣が築かれたのは、一柳可遊が 1591年に入封してからで、 北伊勢の 中心拠点・神戸城(今の 三重県鈴鹿市神戸本多町)から天守閣を移築したものだった(1595年)。直後に、秀次事件に連座し一柳右近が失脚すると、替わって氏家行広が桑名城に入るも、
関ヶ原の戦い
で西軍に与したため改易される。
関ヶ原の戦後の翌 1601年、徳川家康は自身の腹心であった
本田忠勝
を北伊勢に配置する。直後より忠勝は東城を本丸に据えて縄張りを行い、 城域を大幅に拡張した 近世城郭・桑名城の建造に着手する。その本丸北には 新城(三の丸)と呼ばれる別曲輪が築かれ、三の丸として藩主御殿や政庁が入居することとなった。
このとき、神戸城から移築され本丸部分に立地していた天守は神戸櫓としてそのまま残され、別に豪勢な天守閣の建設が進められて、四重六層の巨大天守が完成するも、 1701年の大火で焼失してしまう。以後、再建されることはなく、本丸内の辰巳櫓が天守代わりとして代用されることとなる。
また同時に城下町の整備も行い、大山田川、町屋川の流れを変えて外堀として転用し城下町の守りとした。忠勝の行ったこの町造りは後世、「慶長の町割り」と総称された。特に揖斐川を大いに利用した水城で、城内から船で直接、川に出ることができた。以後、江戸時代を通じ、「海道の名城」と通称されることとなる。
なお、2代目藩主・本多忠政(忠勝の長男)は
大坂の陣
での戦功により、 1617年に
播磨・姫路藩
へ加増移封されると、代わって
山城・伏見藩
から松平定勝が 3代目藩主として入封される。その後、嫡男の松平定行が 4代目藩主(後に伊予・松山藩に移封)を継承し、さらにその弟であった 松平定綱(定勝の 3男)が
美濃・大垣藩
より五代目藩主として入封する。
この藩主五代に渡る治世下、桑名城の増改築工事は続行され、最終的にこの松平定綱の治世時代に完成を見る。実に 50年もの時間が注ぎ込まれた大工事であった。
桑名城の曲輪配置は、本丸を中心にその両側に 二の丸、三の丸、を連続して並べる「連郭式」と呼ばれる形式をとっており、 特に下絵図の「朝日丸」は徳川家の 千姫(徳川秀忠の娘)が 本田忠刻(2代目藩主・本田忠政の嫡男)と結婚した 際(1616年)、新設された曲輪で、同時に幕府より化粧料 10万石が下賜されたという。1803年当時の記録によると、桑名城は門や櫓の数が異様に多く、本門や路地門などを合わせて 63ヵ所、櫓は 95ヵ所が列挙されていたという。
この 5代目藩主・松平定綱は領国の新田開発や産業振興も同時に進めて富国策に努めたことから、後世にわたって名君と慕われ、「鎮国公」として 松平定信(守国公。寛政の改革を行った老中)と共に本丸跡地に建立された鎮国守国神社にて祀られている。
幕末戊辰の 役(
1868年
)の際、桑名藩主・松平定敬は
京都所司代
として、実兄で 会津藩主・松平容保と共に京都にいた。この時、松平容保は幕府から押し付けられる形で混迷する京都守護職の任に当たっていた(1862年~)。
兄弟は 美濃国高須藩主・松平義建の子で、各地の大名へ養子に出され順次、藩主へと就任していた中、八男・松平定敬が 1859年に死去した 桑名藩主・松平定猷の養子に入り、そのまま藩主を継承したばかりであった。こうした大役を一方的に託された二人であったが、最後まで旧幕府方としての立場を全うすることとなる。
鳥羽伏見の戦いの後
、藩主・松平定敬は
大坂城
に家臣団を放置したまま、将軍・徳川慶喜に強制連行される形で 兄・松平容保らと共に深夜、海路で
大坂・天保山
から
江戸
へ脱出する。残された 家臣団(服部半蔵や立見尚文ら)も、自力で海路、紀州を経由して三河に上陸し、藩主の退去した江戸へ向かった。一部の藩士らはそのまま三河から桑名へ帰国する。
間もなく新政府軍が国元の桑名城下に到達すると、在番家臣団は無抵抗のまま降伏し、 新政府軍に城を明け渡してしまう。この無血開城により、市内は兵火を免れた。
新政府軍は当時、天守代わりとなっていた三重造りの辰巳櫓を焼き払い、桑名城落城の証拠とした。
他方、江戸に集結した藩士らは、
① 船で飛び地 領地・柏崎へ行く藩主に随行する組
② 旧幕府軍の大鳥や新選組の土方らと宇都宮へ行進する組
③
江戸に残る 組(上野戦争に参加)
④ 国元へ帰郷する組
に分かれることとなった。
新政府軍との戦闘の過程で ①組と ②組は柏崎で合流し、北越戦争を主導して奥羽越列藩同盟の諸藩らと共に激戦を繰り広げるも、最後は庄内で降伏に追い込まれる。他方、徹底抗戦を主張する 藩主・定敬と残存兵力は仙台から榎本武揚らと箱館へ向かうことになり、 ③の
上野戦争
から逃れて来た藩士と合流して、函館戦争を戦い抜き、最終的にはこちらも降伏に追い込まれるのだった。
明治初期、旧桑名藩は朝敵となったことから、さまざまな差別を受けることとなり、南隣の四日市にお株を奪われていく。明治政府により早々に桑名城三の丸の藩主御殿や 政庁、城内の櫓群が順次、解体・破却され、石垣も撤去されていった。そして、
この石垣資材は、そのまま四日市築港の資材として再活用されるのだった
。
1896年、この三の丸御殿の跡地に桑名紡績工場がレンガ造りで建設されると、あわせて付近の内堀も埋め立てられた。その後、桑名紡績は 三重紡績、東洋紡績へと改編されるも、1945年の空襲により破壊される。そのまま空き地となった後、1989年に三の丸および紡績工場跡地が吉之丸コミュニティパークとして再整備されるに至る。
なお、古城地区一帯の九華公園であるが、現在は 8.65ヘクタールあり、桜、つつじ、花菖蒲などの名所として、市民の憩いの空間となっている。この「九華」は「くわな」と読み、桑名城は江戸時代からその形状より「扇城(くわな)」とも別称されてきた発音にかけて、大陸中国にある九華扇という扇に関連付け命名されたわけである。
この九華公園の開園は 1928年で、松平定信(寛政の改革を手掛けた老中。定信の子・定永が 陸奥・白河藩から桑名藩主へ移封されていた。幕末時の 藩主・定敬はひ孫にあたる)没後 100年祭を記念し、当時の桑名町役所が桑名城跡の 本丸、二の丸一帯を公園化して以降、100年近い歴史を有する。
さて
、県道 613号線(福島城南線)を揖斐川沿いに北上中、西側に国の重要文化財に指定されている六華苑を発見した。大きな洋館だったが今回は訪問せず、先を急ぐことにした。
なお、この六華苑の裏手にあった運河がかつての外堀で(上写真)、先述の寺町沿いの外堀川につながる東端だった(揖斐川との合流地点は住吉浦と通称されていた)。途中まで外堀川を西進してみたとき、 一つ目の橋脇に神輿を納めた立派な 倉庫(蔵前祭車庫:1926年に建てられた三重県下に残る 最古の鉄筋コンクリート建造物の一つ。文化庁で有形文化財として登録)を発見した。
さて、この 六華苑(旧諸戸家住宅)であるが、もともとは、江戸時代に藩御用商人で豪商だった山田彦左衛門の隠居所として造園された邸宅で(1686年)、明治初期の 1884年に 初代・諸戸清六(1846~1906年)が山田家邸宅を買い取り、大幅に増改築を施す。そして 2代目・諸戸清六(1888~1969年)の時代、1913年に完成を見る。
苑内は、 鹿鳴館やニコライ堂をデザインした 英国人建築家 ジョサイア・コンドル(1852~1920年)の設計による木造洋館を中心とし、和館や蔵、池泉回遊式庭園などが配置されていた。大戦中、空襲による被害を受け(この時、上写真のように 5棟あった蔵のうち、2棟が焼失され、現在の 3棟だけとなっているわけである)、一時期、桑名税務署の仮庁舎、諸戸家の事務所などに使用された後、現在は桑名市の所有となっている。
和洋の様式が調和した 明治、大正初期を代表する建物である 洋館、和館は「旧諸戸家住宅」として、1997年12月に国の重要文化財に指定され、また 2002年8月には庭園が「旧諸戸氏庭園」として国の名勝に指定されている
。
さて、いよいよ土手沿いに揖斐川を北上し、国道 1号線に入って伊勢大橋を渡ってみる。
脇に設けられた歩行者部分はアスファルトではなく鉄板を張り合わせたスタイルで(上写真左)、雨天だと滑りやすいように感じた。この日は快晴だったので、自転車でスイスイ行けた。
ちょうど川の中州まで来ると、なんと信号があった。ここは輪中と呼ばれる、揖斐川と長良川との間で形成された中州のうちの一つで、かつては集落があったわけだが、今は 自動車道路(桑名海津線)のみの 緑地帯(背割堤)となっているのだった。上写真右。
また、伊勢大橋の南側には、巨大な 水門(長良川河口堰)があった。上部に見える宇宙船みたいな丸い スペース(上写真左の右手に見える構造物群)は、河川氾濫の際に住民らの緊急避難スペースとして確保されている。かつての伊勢湾台風での大洪水の水位を想定した高度という。
輪中(わじゅう)
これから向かう桑名市長島町は、濃尾平野の西南部に広がる平野部に流れる 木曽三川(木曽川、
長良川
、揖斐川)に囲まれた細長い島で、全域が海抜 0 m以下という低地にあり、周囲を高い堤防に囲まれて人々が生活している。
ちょうど、中国浙江省の沿岸部で多用された 土地利用スタイル「囲田」「圩田」に似たものと考えられる。
この三川は、木曽川、
長良川
、揖斐川の順で河底が低くなっており、木曽川の洪水は 長良川、揖斐川を逆流し、河川氾濫を繰り返していた。こうした氾濫により徐々に土砂が堆積され、一帯は旧河道と 自然堤防、後背湿地が網の目のように点在する複雑な地形を誕生させていた。また、洪水の度に河道が変わるため、人々は少し高くなっている自然堤防などの微高地に集落と耕作地を作らざるを得ない日々であった。
度重なる洪水がもたらせた肥沃な土壌と、砂と泥だけの柔らかい土質は農地にもってこいだったわけであるが、引き続き続発する水害から耕地や集落を守るため、住民らは上流側に 堤防(築捨堤)を築き、洪水の直撃を避けるようになる。しかし、田畑は浸水や流れて来た土砂によって度々、被害を受け続けた。
平安時代以降、各民家では母屋より高く石垣を築き、食料などを保管した水屋を建て、洪水の間、そこで避難生活をするようになる。また、水屋が危うくなるときのために軒下に舟を吊り下げる習慣もスタートする。
室町時代以降、洪水から村を守り、新田を開発しようとする人々の努力により、堤防が補強され、集落全体を輪のように囲んだ輪中堤が築造され出す。内部の 集落地・耕地は輪中と通称されるようになる。
輪中内では、住民が協力して堤防を守る「水防共同体」と呼ばれる組織や、洪水時に非難するための大切な米や 漬物・みそを保存するため、高所に水屋と呼ばれる建物を作るなど、引き続き、自らの生命と財産を守るために創意工夫が続けられて行った。
下資料は、桑名市物産観光案内所で見せてもらった解説文。
最盛期には大小 45もの輪中が河口一帯に連なっていたというが、単に土砂で周囲を高く盛って堤防を構築すれば輪中が絶対安泰ということは一度もなく、次々と新たな問題が噴出してくる。
1、たくさんの輪中が誕生し、また下流の新田開発が進んでくると、上流の輪中では河川の水の流通が悪化する。
2、水の流通が悪くなると、上から流れてくる土砂が輪中堤の外周にたまって川床が輪中内の地盤より高くなり、河川の天井化が進む。
3、輪中内では深水、長期湛水現象が発生する。
4、排水悪化によって、稲作に支障をきたす。
こうして輪中堤の強化により外水(洪水入水)の危険は減っても、輪中内にたまった「内水」被害の問題が慢性化し、長期湛水、深水による凶作が記録されるようになる。
このため、農民は自衛のための工夫として、田畑の一部をつぶし、その土で高いところ(堀田)をつくるという、「切り上げ堀」「重ね田」「畝田(くねた)」などで対応してきた。これら特徴的な輪中農業は土地改良事業が始まる昭和 30年代まで、一般的な土地利用のスタイルとして定着し、政府や自治体も排水機の設置などで側面支援し続けることとなる。
江戸時代、徳川幕府は尾張国への豊臣方西国大名の侵入を防ぐため、犬山から弥富まで 12里(約 48 km)の木曽川左岸に 大堤防(御囲堤)を築かせる(1609年)。この堤防は、尾張国を木曽川の洪水から守るためにも威力を発揮し、以降も補強工事が続行された。しかし、対岸の美濃国では、本格的な堤防を築くことを許されなかったため、かつては水害が起きなかった地域にまで水害が広がり、新たに輪中がいくつも作られるようになる。小規模な藩や幕府直轄地などが分立する美濃国内では、それぞれの領主らの利害が対立して統一的な治水対策を採ることが困難を極めたことも背景にあった。上グラフからも 1609年以降、明らかに水害被害が激増している様子が伺える。
その後、被害が増した美濃側を救済すべく、徳川幕府は 1753年末、美濃郡代・伊沢弥惣兵衛為永が立てた木曽三川の分流計画を基に、治水工事を薩摩藩に命じる(薩摩藩御手伝普請)。
翌 1764年、薩摩藩家老の 平田靭負(1704~1755年)を総奉行として工事が着手され、木曽川と揖斐川を分流する 油島締切、大榑川洗堰、逆川洗堰締切などの 大工事(宝暦治水)が 1年 3ヵ月で完成される(翌 1755年)。しかし、工事中に幕府側の嫌がらせに抗議して薩摩藩士 51名が自害、重労働によって 33名が病死し、工事完了後には 総奉行・平田靱負自身も自害するなど、薩摩藩側の人的被害は甚大であった。さらに、工事にかかった費用は約 40万両(当時の薩摩藩全収入の 2年分以上)のうち、幕府の負担はわずか 1万両で、薩摩藩は多くの借財を抱えさせられることとなった。以後、薩摩藩は領内でサトウキビ量産を奨励し、過酷な課税を領民に課していくこととなる。
しかし、補強工事を実施した場所から下流部は水の流れもスムーズとなり一定の効果を発揮するも、上流部は水位が上昇してしまい、輪中堤のさらなる高度化工事が迫られるという、イタチごっこに陥ってしまうのだった。。。
こうして江戸期を通じ、数々の工事が行われてきたが、当時の 財政、河川行政、河川技術では、木曽三川の完全な分流を行うことが不可能なままであった。 明治時代になると鎖国が解かれ、外国の技術が次々に紹介されると、明治政府は早速、優れた水工技術を持っていたオランダから 10人の技師団を招き、河川・港湾事業を進める。オランダ技師団の一人、ヨハニス・デ・レイケ(Johannis de Rijke 1842~1913年)が、木曽三川の流域を詳しく調査、測量し、改修計画を策定する。
この計画をもとに 1887年、明治改修がスタートし、1891年の濃尾大震災や度重なる洪水などにより工事は難航するも、着工から 26年後の 1912年にすべての工事が完了する。この明治改修により、木曽三川の流れは大きく姿を変え、以後、流域の洪水被害は大幅に減少することとなるのだった。下地図。
さて
、いよいよ伊勢大橋を渡り終えると、長島地区に至る。小さな 用水路(かつての河道の跡か?) や 松ヶ島神明社(江戸時代初期の 1646年に長島江堤の築造により形成された松ヶ島村の氏神として 1650年に建立)を通過し、5分ほど直進すると長島川(下写真の用水路)を渡ったところに長島橋の交差点があった。その道路脇に 又木茶屋(下写真左の右側に連なる巨大林)があり、ここから長島城跡を目指すことにした。
なお、この又木茶屋であるが、 もともとは地元出身の 著名画家・佐藤昌胤(1907~1970年)が晩年住んだ屋敷地で、2000年に佐藤家より長島町へ寄贈されたものという。直後より町役場によって修築が施され、 2001年3月に情報交流施設として完成を見る。主に、輪中地域独特の暮らしや風景、史跡等が点在する長島町の歴史、観光、物産紹介を兼ねた施設で、地元民と来訪者たちとの交流を目的として整備されており、また旧長島城の庭園の石や元猿田彦神社の庭石で組んで枯山水の庭園が設けられる一方、本格和食レストランも営業中という。
それにしても、長島川沿いの土手はかなりの高度があり、かつての輪中堤の名残りかと思われる。
上写真右は、一つ目の 橋「大手橋」から、国道 1号線や又木茶屋方向を眺めたもの。
下写真左は
大手橋
。かつて、海路の七里の渡しとは別ルートとして、陸路・東海道が敷設されていた。下写真右はその 旧東海道(陸路ルート)の跡。
下写真は、長島川にかかる二つ目の 橋「城東橋」。地元用の小さな橋だった。
上写真右の橋後方に見える長方形の建物は、長島中部小学校。隣接する長島中学校の敷地とあわせ、かつての長島城跡地である。この小学校門脇に「長島城」の解説板が設置されていた。
この校庭には、かつて本丸の南西隅にあった樹齢 300年以上のクロマツが今でも残っているという。
また、「伊勢湾台風時の水位」の指標も校舎脇に掲示されていた(下写真左)。周囲の住民たちのための避難施設も兼ねる高度設計であった。
長島川の土手も、学校周辺の高度が最も高い気がした。領主の居館であり、またその対岸に住む地元町人らの邸宅があったエリアのため、
盛り土
も完璧に行われた跡だと感じた。
さて、小学校側から長島川を渡って東岸側へ移動してみる。かつて、東海道(陸路ルート)があった場所で、町人町が発展していたエリアだ。
町人町側の跡地は、往時の記憶が地名にしっかり息づいていた。「長島中町」「長島上町」「長島下町」「長島萱町」とあり、これは土地の高さに由来するようだった。長島上町は明らかに高台で、かつての輪中堤の土手上が宅地開発されている気がする。上写真。
その高台部分を下りてすぐの場所に、正敬寺があった(上写真左)。
ここから先は平坦な低地が広がり、道路も見事に区画整理されていた。
北進すると善明寺脇で県道 518号線に行き当たり、スーパー Aコープ長島店の脇から、再び 直線道路(ここが 旧東海道・陸路ルート)を南進していると、蓮生寺に到達した。威風堂々たる 2階建ての鐘楼門が印象的だった。下写真。
ここの道路に面した木造の 門(下写真)が同寺院の 山門(正門)で、 1876年に第 11代目住職の賢道が長島城大手門の払い下げを受け、同寺の山門として移築したものという。旧大手門よりも縮小されているが、瓦に増山氏の家紋がそのまま残されており、長島城の建造物としての面影をとどめていることから、現在、桑名市の指定文化財となっている。
そのまま東海道沿いに長良川まで戻り、その土手脇に設けられた遊歩道を自転車で南進すると、国道 1号線の陸橋をくぐり、道路反対側へ出る。ちょうど先ほどの 地元交流館「又木茶屋」の向かいに相当し、小さな又木集会所、又木神明社などと共に、広い駐車場が整備されていた。
こちら側の土手も結構な高度で築造されており、
現在
、土手上は完全に宅地開発されていた。その途中に 長島藩主・増山家の 重臣・久我家の邸宅が無料開放されている、というので訪問してみた(下写真)。なかなか見応えのある古民家で、また外の庭園部分は長島水辺やすらぎパークとして土手上から用水路脇まで広々と整備されていた。
この土手高台から北は平坦な低地が広がり、そのど真ん中に願証寺があった(下写真左)。
織田信長との間で展開された長島一向一揆戦争は、この願証寺がメインとなって地元民らを一揆衆に動員したことに端を発しており、一揆勢の精神的支柱となっていた寺院だ。現在、本殿脇には長島一向一揆の犠牲者らを弔う墓碑が設置されている(下写真右)。
本来、これまで目にしてきた高い 土手(輪中堤)がぐるりと周囲を取り囲み、一揆衆らの防衛線にも転用されていたのだろう。信長軍は軍船の調達にてこずり、3度も撃退されているわけである。
しかし、往時の長大な土手は、河川や水路の埋め立てや農地の底上げなどで破壊されてしまったと思われる
。
伊勢・長島の 歴史
室町時代中期の 1482年、伊勢国安濃郡の長野氏一族の出身と伝えられる伊藤重晴が、この長島の中州を治めるべく、長島城を築城したという。伊藤氏は北伊勢に割拠した「北勢四十八家」と呼ばれる地域豪族の一派で、東に 織田氏・土岐氏、西に他の諸豪族らに囲まれていた。
間もなく、長島北部の杉江にあった 願証寺(初代・蓮淳)が浄土真宗大谷派の一大拠点として台頭すると、周囲に支社寺院が建立されていく。そのうちの一つが、1497年に開寺された善明寺である。有力国人が寺主を兼ね、一帯の住民らを統率した。最終的にこの宗教勢力により、伊藤氏は追放され、長島城も願証寺の支配下に入る。
1570年、「法敵信長を討て」と諸国に檄文を飛ばした
大坂・石山本願寺
(11代目当主・顕如)と呼応する願証寺 4代目当主の 証意(1537~1571年)は、武装蜂起して一向一揆軍を扇動し、信長が派遣していた滝川一益を 桑名城(当時は東城と呼ばれていた)から追放し、さらに信長の弟・織田信興を新設されたばかりだった小木江城に攻め自刃させる。そのまま周囲の 農民、土豪、僧など約 10万の門徒衆は、14の砦を築いて立て籠ることとなる。
両者の戦いは、計 4度行われた。
最初の3回は、地形を生かした門徒衆のゲリラ戦法に織田軍が翻弄され、毎回、大敗を喫した。当時の長島は、木曽川、長良川、揖斐川が合流した中州に浮かぶ島々で構成され、織田軍が得意とする地上戦が展開できなかったのだった。
最終的に 1574年7月、信長は自ら 7万の大軍を率いて陸と海から長島を完全包囲し、兵糧攻めを展開する。そして 9月29日、飢餓に苦しんだ長島城もついに開城するも、逃げ出した者は射殺され、降伏した約 2万の門徒衆も、一か所に集められ、火で皆殺しにされたという。
直後に、北伊勢 5郡を与えられた滝川一益の持城となる。
上地図は、室町期~江戸期における周辺の城跡マップ。
江戸時代に入ると、当初、長島藩は当地にゆかりのある菅沼家が治めるも、その後、桑名藩の 松平家(藩主・松平久松)に併合される。 1702年に松平忠充が改易となると、同年、替わって 常陸・下館藩から増山正弥が長島 2万石で入封し、以後、増山氏が 8代続いて明治に至る。
この増山氏の治世時代に、代々、藩の重鎮をなしてきた家臣に久我家があった。明治元年(1868年)の資料によると、久我家は御用人としての久我兵衛門 70石取りをはじめ、一族の名が記載されており、現在、長島水辺やすらぎパークとして整備された旧久我屋敷には 1862年に引っ越ししたと言及されている。
ここに現存する古民家は、1879年に建設されたもので、その後、わずかに改修されたものの、ほぼ当時の原形のままという。明治の生活様式を知る上で、貴重な建物であることから、子孫が長島を離れ空き家になっていた家屋敷を、2003年、旧長島町が譲り受け、観光客などの休憩施設として改装し、「長島水辺のやすらぎパーク」として開館させたのだった。
また、一向一揆の敗戦で四散していた門徒衆も徐々に 故郷・長島に戻るようになり、そのうちの有力な 6名がかつての寺を復興させたのも、この江戸期であった。これが現在も残る長島六坊で、長崎新蔵の 善明寺(1635年復興)、平野智忍の 深行寺(1626年復興)、岡本庄助の 源盛寺(1637年復興)、飯田九蔵の 光栄寺(1599年復興)、水谷兵ェ門の 中島寺(現在は 岐阜県海津郡南濃町)、内山七助の 安養寺(現在は鈴鹿市箕田)である。
なお、松尾芭蕉はこの長島の地も訪問しており、光栄寺に隣接する大智院に投宿したという。その際に詠んだ句碑が今も庭先に保存されている。
さて、帰りは一直線で国道 1号線を西へと戻った。 さすが国道 1号線だけあり、交通量は多かったが、基本は平坦な土地で、自転車でスイスイ移動できた。 30分もかからずに、桑名市街地に戻れた。
筆者は再度、揖斐川沿いの土手から桑名城経由で八間通りから駅へ戻ったが、そのまま国道 1号線を進むだけで駅前に戻れたことが後で分かった。 駅前の国道沿いは地元のビジネス街となっているようで、大手銀行、地銀などの支店がいくつか軒を連ねていた。
そのまま駅前の観光案内所で自転車を返却し、ホテルに戻った。
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