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日本の城 から
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広島県 呉市
訪問日:2020年1月中旬 『大陸西遊記』~
広島県 呉市 ~ 市内人口 23万人、一人当たり GDP 315万円(広島県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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海軍の街・呉入り! 船のスクリュー羽数は 奇数を基本とし、数が少ない方が 速い!
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大和ミュージアム ~ 戦艦大和、陸奥のスクリューは、いずれも 3枚羽だった
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【豆知識】鎌倉幕府滅亡~南北朝の動乱期、瀬戸内海で 海賊集団が乱立される ■■■
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【豆知識】室町時代を通じ、周防守護・大内氏に帰属し続けた 呉衆、三ヶ島衆の運命 ■■■
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【豆知識】戦国時代、大内氏の勢力後退 と 伊予衆・村上氏(村上水軍)の台頭 ■■■
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【豆知識】平和な江戸期を経て、明治政府による呉鎮守府の開庁 と 呉浦の目覚め ■■■
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【豆知識】呉海軍工廠 ~ 日清戦争から 第一次大戦期、東洋一の造船工場へ飛躍する ■■■
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【豆知識】市街地の発展 と 鉄道開通 ~ 第二次大戦中、最盛期を迎える(40万人都市) ■■■
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【豆知識】戦後の大不況 と 朝鮮戦争特需、高度経済成長からの復活 ■■■
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海底に沈む戦艦大和の、大破の様子が生々しい
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呉中央桟橋ターミナル ~ 松山、広島港への 渡海ゲート と 海軍グルメ(定食)
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海上自衛隊・呉基地を 一望する
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海上自衛隊・呉地方総監部(旧海軍呉鎮守府)と 自衛隊車両ナンバー
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呉工廠・造船部の 今昔 ~ 自衛隊最大の 空母型護衛艦「かが」と 大和建造ドック
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倉橋島 と「音戸の瀬戸」バス路線図
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「歴史の見える丘」~ 海軍基地施設時代の 壁残骸、大和建造ドックの 石材保存
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日清戦争末期、従軍記者として 呉港から海軍に随行する 正岡子規は、人生の絶頂期だった
広島駅
から呉駅へ移動する(上路線図)。
15~25分に一本の割合で運行されている 呉線(広行)で、快速列車(安芸路ライナー)に乗車する。20分強で呉駅に到着できた(下写真左)。510円。
途中、瀬戸内海の美しい景色と、海岸線沿いの急な岸壁に設けられた、多くのトンネルを越えていく旅路は、実にいいものだった。
呉駅
で下車すると、とりあえず北口に出てみた。巨大船の スクリュー・モニュメントが設置されていた(下写真右)。通常、スクリューの羽は奇数が基本で、セオリー通り、5枚羽だった。
ここから横の歩道橋を渡って、駅南側へ移動する。
すると、脇の建物に「くれ観光情報プラザ」という観光案内所があった。中はフリースペースで飲食用のテーブルなども設置され、明らかに地元民と思われる数組がくつろいでおられた。
観光資料一式をもらった後、さらに南下し、ゆめタウンの 2F 部分を通過し外に出ると、いよいよ海が広がる(下写真)。
その西側には退役した大型潜水艦「あきしお」が展示保存されていた。内部は海上自衛隊の広報を目的とした 史料館(てつのくじら館。入場無料)になっているらしかったが、正面の 大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)のみを訪問することにした。
大和ミュージアム前には、海底から引き揚げられたという 戦艦「
陸奥
」の 主砲身、スクリュー、主舵が展示されていた(下写真)。このスクリューは 3枚羽だった。通常、スクリュー羽は枚数が少ないほど速度が出るが、安定性が保ちずらく揺れが激しくなるという。
なお、
この 戦艦「陸奥」であるが、呉工廠で建造された 戦艦「長門」型の 2番艦として横須賀海軍工廠で製造され(1920年5月末完成)、長らく「長門(1919年11月完成)」と共に日本海軍の二大看板を張った大型戦艦であった
。主要な部材である 主砲身、副砲身、装甲板、主舵、スクリューなどは、この呉海軍工廠で生産されており、最終的に横須賀工場へ運ばれて取り付けられたという。戦艦「陸奥」は太平洋戦争中、呉海軍工廠へ入港し、対空兵装強化のため大規模な改修工事を受けている。最終的に 1943年6月、山口県桂島沖の連合艦隊泊地に停泊中、主砲火薬庫から原因不明の爆発事故が発生し、そのまま沈没することとなった。
ミュージアム内では展示内容が濃すぎて、あっという間に 2時間も見学に費やしてしまった。
下写真左は、当館の目玉である、戦艦大和 10分の1 模型(スクリューはやはり 3枚羽)。
下写真右は、入口近くのトイレ。船内を想起させるユニークなデザインだった。
中庭から見える沿岸部は、綺麗な芝生公園に整備されていた(下写真中央にある突堤)。大和波止場公園という名で、板敷だった戦艦大和の甲板をイメージし、同じく板敷でデザインされているという。2014年7月1日に恋人の聖地に認定されたらしい(NPO法人地域活性化支援センターの企画)。デートや愛の告白の舞台に使ってください、というお膳立ても気が回り過ぎているような。。。
その他、館内には戦闘機や魚雷などの当時の兵器や、工場労働者や兵士らの証言ビデオ、呉市の歴史などが詳しく展示されていた
。
古くから、瀬戸内海には海賊集団が跋扈していた。
彼らは、潮流が激しく航海の難所に臨む沿岸部の岬や小島に 拠点(海賊城)を構え、周囲の広範な海域を縄張りとする武装集団で、縄張りの海域を航行する船舶から危害を加えない保障として通行税を徴収しながら、その船舶の警固や水先案内をつとめていた。この無法者の海賊集団は、戦時には 各地の領主に臨時の傭兵として雇用されるケースも多々あったとされる。
鎌倉幕府が瓦解し、後醍醐天皇による建武の親政、足利尊氏のよる室町幕府創始、そして
南北朝時代へと激動の時代が続く中、北朝方に与した讃岐守護の細川氏が隣国の伊予へ陸路から侵攻してくると(下地図)
、伊予衆は瀬戸内海を北上し勢力圏を海へ拡大するようになる。
この時代、対岸の 呉エリア(呉浦)は 周防国(今の山口県東部)の 守護大名・大内氏の 分国(飛び地領)であった 安芸国・東西条(西条盆地から 黒瀬川流域、阿賀・広・仁方を含む沿岸地域)の一部を成しており、蒲刈島・倉橋島・能美島とともにその勢力圏に組み込まれていた。このため、呉エリアでは地元海賊衆の 山本氏・檜垣氏・警固屋氏が「呉衆」という連合軍を結成し、そのまま北朝方の大内氏傘下の水軍部隊として、海峡支配を目指し北上してくる南朝方の伊予衆と度々、戦火を交えることとなった。下地図。
なお、南北朝時代に伊予衆から分離して呉浦に居ついた山本氏は、和庄杉迫城(呉市和庄登町の明法寺が立地する尾根部分)を居城として呉衆のリーダー的存在であった。そして、阿賀を支配する檜垣氏は 龍王山城(呉市阿賀中央 8丁目)を本拠地に、また警固屋氏は音戸の瀬戸に面した 堀城(呉市警固屋 5丁目、警固屋支所の上方尾根)を居城として警固屋一帯を支配していたという。下地図。
これら三氏は、大内氏から広の平野部にも給地を与えられ家臣化されており、沿岸部の治安維持と国境警備を委ねられていたわけである。応仁の乱に際しては海路から上洛した大内軍 3万の先鋒を成した。
その他の地域では、仁方は小早川一門の乃美氏と 多賀谷氏、郷原は大内氏の給人である黒瀬氏、吉浦・天応・昭和地区は 野間氏(伊予衆に出自をもつ)が支配するなど、各氏族らが割拠して沿岸や海峡を支配する混戦状態になっていた。上地図。
この室町時代を通じ、
大内氏
の勢力圏に組み込まれていた 呉衆・能美(江田島を含む)・蒲刈(倉橋を含む)の三大海賊集団は、三ヶ島衆と称し緊密な連携を図りながら、大内氏の瀬戸内海西部の制海権確保に重要な役割を果たしてきたが、室町時代後期に
北の尼子氏
の進攻を受け大内氏の安芸国東部の支配地が占領されると(下地図)、矢野の野間氏は尼子氏方に寝返り呉エリアを占領してしまう。同時に、能美島も尼子氏の支配下に組み込まれる。一方、本拠地を奪われた呉衆と能美氏、多賀谷氏は大内方にとどまって奮戦し、呉衆は一貫して大内水軍の 中核・三ヶ島衆の一員として活動を継続していくのだった。
1554年
、
毛利元就
が 陶晴賢(大内氏方の最高実力者)との連携を破棄して独立すると、三ヶ島衆は帰属先に悩むも陶氏へ組し続ける方を選択した。
同年 8月、尼子氏の勢力を排除した毛利配下の
小早川隆景
が呉地方を接収し、呉城(城番・末永常陸介景盛)と 瀬戸城(城番・乃美宗勝)を築城すると同時に、能美島をも占領してしまう。隆景は呉衆から没収した広の知行地を自身の家臣団に分与してしまい、呉衆は完全に旧領地回復の望みを断たれることとなった。
対する大内氏方は失地回復のため、
広島湾
で活発な活動を展開したが、本拠地である呉浦を失った呉衆はやがて解体されてしまうのだった。
逆に勢力を増す
毛利氏
に味方した 伊予衆・村上氏は、
1555年の厳島合戦
での勝利に大いに貢献することとなる。こうして毛利氏の台頭とともに、村上氏も瀬戸内に乱立された海賊衆を制することとなり、戦国最強の海賊集団を形成していく。四国伊予から安芸国の沿岸部にまで至るテリトリーを支配し(下地図の全域)、瀬戸内海の海上交通を完全に遮断できるネットワークを構築した。
この村上氏の最盛期を率いたのが村上景親で、1558年、能島(伯方島と 大島との間にある島)に本拠地を置いた 能島・村上氏の 当主・村上武吉(1533~1604年)の次男として誕生し、その頭領となって戦国時代から江戸時代初期にかけて、
小早川家に仕え毛利家と運命を共にしていくこととなる
。
能島に建造されていた能島城跡地には現在、村上水軍博物館(愛媛県今治市)が開設されている(下地図)。また、この 海賊・村上氏の本拠地の一つであった当地を舞台に、小説『村上海賊の娘』が描かれているという。
往時には、この海峡沿いの各所に村上氏が築いた要塞拠点網が張り巡らされていた。下地図の黒い ■ 枠。
江戸時代
に入って海賊衆が一掃され社会が安定化すると、航路の整備や経済の発展にともなって、安芸国の村々から瀬戸内海を越えて、伊予国へ 他国稼ぎ(出稼ぎ)や物見雄山の旅が見られるようになる。
こうして江戸期を通じ、平穏な歩みを続けた呉浦であったが、明治維新を経て 1889年7月1日に 呉鎮守府(海軍の地方軍政機関)が開庁されたことにより、世界的軍港へと大きく変化を始めていく。
このとき、海軍首脳は日本全国を調査し国土を 4ブロックに分けて、それぞれの要衝に拠点「鎮守府」の開設を進めており、横須賀、舞鶴、佐世保と共に、この呉浦に鎮守府と軍港の整備が決定されたわけだった。いずれの地も三方を山に囲まれ、防御に優れた土地であるなどの地の利を重視した選地となっており、以降、呉は特に造船に重点をおいた鎮守府となっていく。
鎮守府開庁 5年後の
1894年夏、日清戦争が勃発すると
、大量の兵器が必要になり、海軍大臣・
西郷従道
(1843~1902年)は海軍少技官・山内 万寿治(1860~1919年。後の 1905年11月に呉鎮守府長官にまで出世する)を同伴し、伊藤博文首相に仮設兵器造船所の必要性を直談判したことにより、大規模な緊急予算を手に入れ、即刻、建設工事が着手される。
当時、主力であった横須賀鎮守府は戦地から遠く、また佐世保鎮守府はまだ設備が整っていなかったため、
広島大本営
に近い 呉工廠(当時は呉鎮守府造船部)が中心工場に定められたわけである。この時代、未だに自力での艦船建造ができなかった海軍は、外国から購入された民間の大型商船を軍事用の艦船へ改造する工事をメインとしていた。当時、呉工廠では公休日を返上し、残業や徹夜で作業が続けられたという。
翌 1895年春に日清戦争が終結
し工場作業がいったん落ち着くと、翌 1896年に呉鎮守府造船部は仮設兵器製造所と改称され、最終的に 1897年に呉海軍造兵廠へと改組される。海軍は兵器の自前での素材生産を目指すべく、製鋼施設の拡充を図り 1902年に製鋼部を新設する。そして、この呉港を海軍が最終目標に掲げる「兵器生産独立」の中心拠点とすべく、ついに翌 1903年、呉海軍造船廠と呉海軍造兵廠が事業統合され、呉海軍工廠の誕生に至るのだった。下写真。
さらに翌 1904年に日露戦争が勃発すると、呉工廠は民間の船を艦艇化すべく改装や修理作業に追われるとともに、日本最初の国産主力艦である 一等巡洋艦「筑波」と「生駒」の建造を手掛けることとなった。
なお、この日露戦争で連合艦隊司令長官となって海軍を指揮した 東郷平八郎(1848~1934年。薩摩出身)は、 1890年5月~翌 1891年12月までの 1年8ヶ月ほどの間、呉鎮守府第二代参謀長を務めており、その後、1899年に佐世保鎮守府司令長官、1901年には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官などを歴任した後、1903年末に連合艦隊を率いることとなるのだった。
日本海海戦前には自身が搭乗する 旗艦「三笠」をはじめ
、連合艦隊各艦の整備、および補給も呉港で行わせている。
さらに 10年後にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、欧州では船団護衛用の駆逐艦が不足するようになり、1916年、呉工廠はフランスから駆逐艦 2隻の建造注文を受ける。これが呉工廠における、初めての外国からの兵器注文となった。こうした連合国からの兵器注文はその後も続き、ロシアから大砲、および大量の弾薬の発注などを受ける。この特需は戦争終結の 1919年まで続き、こうした列強からの兵器受注経験は呉工廠に大きな技術的自信を持たせることとなった。
呉鎮守府
の開庁や、呉海軍工廠の新設と発展、そして交通インフラの充実化が進められ、居住人口は大幅な増加を記録する。これに伴い、1902年10月1日、呉で市制がスタートされると(人口 60,113人)、1909年には10万人を突破する。
この間、海軍基地の 北エリア(今の 本通や中通)に商店街が形成され、広島 ー 呉間の鉄道や 市街電車(路面電車)も開通されるなど、呉の中心部は市街地として急速に成長していった。下地図。
日清戦争をきっかけに陸上交通の充実が求められた結果、まず呉線の整備が着手され、1903年11月にようやく開通する。山が海に迫った海岸線には 12ヵ所のトンネル、26ヵ所の橋が建造され、工事は困難を極めたという。さらに 1909年には市街電車(路面電車)も開通し、
広島市
より 3年も早い県内最初の開通となった(1967年に廃線となる)。
この後、呉線(
広島
~ 呉)は延伸され、1935年には三原 ~ 呉(三呉線)も開通し、月間利用客数は広島駅を越えるほど賑わったという。
さらに呉市の人口は増え続け、太平洋戦争期には 40万人を越えるまでに成長する。
この時期までに、呉の 海軍工廠(海軍直営の兵器製造工場)と広に開設された海軍専用の航空機製造基地は拡張に拡張を遂げ、最盛期、呉工廠に 10万人、広工廠に 5万人の工員が勤務し、工場の町として栄華を謳歌した(下写真)。当時、特に呉工廠は技術的に日本一の工場と目され、戦艦大和(1940年8月完成)をはじめ多くの艦船を開発、建造した(大和第二号ともいえる戦艦武蔵は、三菱重工の長崎造船所で建造された。1940年11月完成)。
しかし、同時に軍需産業に支えられた街は米軍の攻撃ターゲットともなり、 1945年春~夏にかけて主なものだけで 6回に及ぶ 空襲(1945年3月19日、 5月5日、6月22日、7月1~2日、7月24日、7月28日)を受けることとなる。
山々に設けられた高射砲などの対空防衛網は用をなさず、工場や停泊中の艦船は一方的な攻撃を受けて壊滅するのだった。当時の悲惨な被災ぶりはミュージアム内でたくさんの写真が掲載されていた。
1945年11月30日
、多年にわたり呉市を支えてきた海軍が解体される。かつて、日本一の技術力を誇った呉海軍工廠は、終戦とともにその活動を停止し、連合国軍の主導により兵器や艦船の解体作業を請け負わされることとなる。この時、連合国軍司令部(GHQ)の指示に基づき、非財閥系の企業が呉に進出し、くず鉄の処理を担当した。
つい夏まで兵器製造にフル回転だった工場や作業員らは、冬にはそれらの解体作業に従事させられたわけだが、空襲と敗戦により食糧難や激しいインフレに苦しみながら、生活の衣食住に事欠く厳しい状態に追い込まれていた人々に、多くの職を提供する効果をもたらせた。
こうした作業により、1947~1948年にかけて経済復興の兆しが見えたのも束の間、軍艦解体作業の終了に加え、賠償指定工場という制限のため、企業活動が圧迫された呉の工場群には新規の受注業務がなくなっていく。さらに、英連邦占領軍(BCOF)を形成する各国部隊の撤退や、ドッジ不況(1949~50年)が重なり、再び多くの失業者が生まれることとなった。
当初、1946年12月31日に 37,021名を数えた 英連邦占領軍(BCOF)の駐留部隊は、1947年内に大部分が帰国の途に就き、1948年4月1日には 12,009名にまで減少する。その後も兵員の撤退は続き、1950年3月1日には 2,350名となり、5月19日には同軍の全面撤退が決定される。ところが、1ヵ月後の 6月25日に朝鮮戦争が勃発すると撤退は延期され、新たに英連邦朝鮮派遣軍が進駐してくることになる。
この呉市が直面した低迷期は、敗戦や 枕崎台風(1945年9月)、占領、海軍解体などの不幸が一気に訪れたタイミングで、呉市民は生活基盤を失い、人口も 15万人にまで激減してしまう。しかし、朝鮮戦争特需、さらに軍需産業から民間産業へと軌道修正に成功し、やがて 造船、鉄鋼を中心に高度経済成長の一翼を担って、再浮上を成し遂げたのだった(下写真)。アジア諸国の製造業の猛追もあり、かつて世界第一位の造船国家だった日本は目下、中国、韓国に続く第三位に落ち着き、現在の呉市人口は 22~23万人となっている(広島県下で
広島市
、
福山市
に続き 第三位)。
なお
、ミュージアム見学中、筆者が特に興味を惹きつけられたのは、米軍機の猛攻で撃沈され海底に眠っている戦艦大和の残骸が、スキャンデータで鮮明に把握されている様子だった(下写真)。
海底まで潜って、何度も引き揚げ作業が行われているようである。
さて大和ミュージアム見学後、東隣の
呉中央桟橋ターミナル
を訪問してみた。ここから、松山観光港(毎日 19本)や
広島港
(毎日 20本)へのフェリーが運行されていた。下写真。
3Fはレストラン椿庵が入居しており、エレベーター内に「海軍グルメ優勝!広島のご当地グルメ、海軍定食 1,750円税込」のチラシが貼ってあった。 その献立は、戦艦霧島の鯨カツレツ・呉名物の 肉じゃが ・ 大和とろろ・白飯 ・ 味噌汁 ・ 香の物 ・ 果物という。
この奇妙な名前の「戦艦霧島の鯨カツレツ」であるが、当時、海軍では経費節減から市場に流通しにくかったクジラ肉が献立に回されており、船員たちのためにクセの強い匂いを消して料理した、戦艦霧島のコックの調理法が採用されているという。なお、そもそも戦艦霧島とは三菱重工長崎造船所で建造された長老級の戦艦で(1913年12月完成)、2度のグレードアップ工事を経て太平洋戦争を迎え、初戦の真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦などの各戦線で投入されるも、 1942年11月の第三次ソロモン海戦で沈没している。
この呉市には、海軍コーヒー、くれ肉じゃが、海軍カレー、戦艦大和のオムライスなど、特徴的な 献立メニュー(
海軍グルメ
)のお店が多いという。
さらに 5Fは「呉みなと 展望台(宝町展望台)」となっており、無料で沿岸部が一望できる仕組みだった(上写真)。有料の望遠鏡も設置されていた。
東隣は、海上自衛隊の呉基地が広がり、たくさんの艦船が停泊中だった。下写真。
続いて、この東隣に広がる海上自衛隊の呉基地や造船工場エリアを散策してみた。上写真の堺川河口にかかる宝橋を渡り、海上自衛隊の呉基地脇の自動車道路を東進する。
そして、国道 487号線の大通りとの交差点を右折すると、基地正門があった(
下写真左
)。
その先の信号カーブに、バス停「地方総監部前」があった(下写真右)。凛々しいバス停名が印象的だったので、写真撮影しておいた。しかし、実際には正門からバス停まで、結構、距離があると思う。。。(正門は、下写真右の後方に見える歩道橋部分にある)
この基地内に 海上自衛隊・呉地方総監部第一庁舎(旧海軍呉鎮守府庁舎。下写真の赤レンガ)が立地するわけだが、上写真左の正門から入ろうとすると、正門外から写真撮影はOKだが、入場はダメということで追い出された。
基地内は相当に広々としていた。多くの自転車が止まっており(上写真)、自転車通勤されている隊員の方々も多いのだろう(呉勤務の海上自衛官は総勢 6,600人という)。官舎アパートが基地近くにあるに違いない。
また道路脇に駐車場があり、車両ナンバープレートがいつもと違うことに違和感を覚えた(下写真)。いずれも 6桁の数字で、2桁数字-4桁数字で表示されていた。どうやら、最初の 2桁で所属や 任務・担当などが判別できるらしい。一番右手の「03-0265」は陸上自衛隊所属の小型トラック系で、二つ目の「42-1374」は海上自衛隊所属のマルチ用途に供せられる自動車ということだった。
バス停「地方総監部前」前に横断歩道があったので道路対岸へ渡り、さらに次の歩道橋まで歩みを進めると、この歩道橋の先に「
歴史の見える丘
」公園が立地していた。
歩道橋に上ってみると、絶景が広がっていた!!
造船工場や修理施設が丸見えだった(下写真)。ちょうど、ドック(船渠)には 空母型護衛艦「かが」も停泊しており興奮してしまった!
その脇の 造船工場(工廠)で、戦艦大和が秘密裏に建造されたわけである(下写真の左端 JMU)。
さて、歩道橋を渡り対岸の斜面に至ると、「歴史の見える丘」と命名された記念公園が設けられており、旧呉海軍工廠礎石記念塔や正岡子規の句碑が保存されていた。
下写真の道路向かいの高台壁面に、看板が掲示されている。
なお
、この国道 487号線(上写真)の先に倉橋島があり、その海峡がかの有名な「音戸の 瀬戸(おんどのせと)」で、
厳島神社
に参詣する航路として平清盛が開削したという伝説、その工期を急がせた日招き伝説などが生まれた場所という。しかし夕刻も迫り、訪問は断念せざるを得なかった。下は、バス路線図。
この
「歴史の見える丘」は戦前、呉鎮守府第三門の隣接地だったエリアで、海軍用地と民有地の境界上に立地していた。当時、戦艦大和など大型艦の建造や修理に使われた呉工廠造船部、呉鎮守府そして呉軍港全体が一望できる高台であったことから、部外者立入禁止のための高いレンガ塀が設置されていたという。
戦後もそのままレンガ塀が残され一帯は草地が広がっていたが、2年後に戦艦大和を建造した ドック(船渠)工場が閉業されることが決まった 1969年、有志らにより「噫(ああ、感嘆詞の一句)戦艦大和之塔」(下写真左)が建立される。
しばらく草地に記念塔だけが立っていたが、沿岸部の開発が進められる中で道路拡張工事が決定されると、1978年に正岡子規の句碑がこの記念塔脇に移設され、さらに 1982年にはわずかに残されていた呉鎮守府時代のレンガ塀も解体されるに及び、その一部の部材がここに集められ、小さな記念公園として整備されたようである。1993年3月には造船船渠記念碑として戦艦大和建造の ドック(船渠)の部材も当地に移されて保存される(下写真右)。
この 戦艦大和(1940年8月完成)を建造した ドック(船渠)であるが、呉海軍工廠内に 1911年3月に新設され、1971年11月に閉業となっている。この 60年に及ぶ操業期間中、戦艦長門(1919年11月完成)をはじめ幾多の艦船を建造し、また戦後には世界初の 10トン級タンカー「ユニバースアポト」など、時代を代表する商船を次々と生産していった。船渠閉鎖後も造船工場の一部として原型をとどめたまま保持されていたが、1993年春に最新鋭の工場へ改修すべく、由緒ある船渠も解体されてしまうのだった。その際、一部の部材を記念として旧造船所を臨む当地に移築されたわけである。記念公園への移築に伴い、船渠側壁の石材をそのまま用いて、渠底に降りるための階段部分を再現したデザインに設計されたという(上写真右)。
なお、この造船渠は完成時、長さ 270 m、幅 35 m、深さ 11 mもの巨大な工場で、当時東洋一の規模を誇っていた。建設に用いられた石材は、国会議事堂の壁材にも用いられている倉橋島産のものが使用され、止水用の粘土は豊田郡安芸津町から、また、石の下に敷き詰められた砂利と砂ははるばる山口県今津川と県下太田川からといった具合に、材料も厳選されたものが使用されていたという。
また
、1978年に現在の地に移設された 正岡子規(28歳。1867~1902年)の句碑であるが、もともとはここから約 90 m南西の交差点中央部に建立されていた(1958年12月に宮原地区有志による寄贈)。しかし、沿岸部開発に伴う道路拡張のために撤去されることとなり、この丘陵上に移されたというわけだった。
呉かあらぬ 春の裾山 灯をともす
大船や 波あたたかに 鴎(かもめ)浮く
行かば我れ 筆の花散る 処まで
これらの句は日清戦争終盤の 1895年3月9日、同僚の 日本新聞記者・古嶋一雄(1865~1952年。後に記者を辞め、衆議院議員、貴族院議員を歴任し出世した)が海軍従軍任務で、
海防艦 松島
に乗り組んで出征するのを見送るため、呉を訪れた正岡子規が詠んだ三句という。
この「歴史の見える丘」にある句碑は一句目のもので、当時、
広島
と呉を結ぶ鉄道は未開通だったので、 正岡子規は 広島・宇品港から船で呉の川原石港へ向かう。呉軍港入口のウルメ島付近に差し掛かった時、正面に見える 休山(呉と広との間に横たわる半島部分)山麓の日暮れの情景を読んだ一句と考えられている。子規はこの 先輩・古嶋一雄の出征から 1ヵ月後の翌 4月、念願かなって従軍記者として意気揚々と海軍の艦船に乗り込むも(上三つ目の句は、その時の歓喜と興奮を詠んだもの)、戦地到着早々に日清戦争が終結してしまい、翌 5月に帰国することとなる。後日、子規は自身の従軍記者体験を、「子供の遊びのようなもの」に終わったと表現している。
そのまま高台上の道路から駅に戻ることにした。
呉市立宮原小学校を通り過ぎたところで下り坂があり、(株)IHI 青山荘の後ろを回る形で、国道 487号線に合流できた。この斜面エリアでは、うまく傾斜にあわせて土地利用されている民家をいくつも目にした(下写真左)。
下写真右は下り坂を下り、バス停『総監部前』の歩道橋から正面入り口の交差点一帯を眺めたもの。交差点の向かいに見える緑地公園が、かつて海軍練兵所だった広場。
下写真は、この帰路途中で撮影したもの。なお、この 全長 248 m の海上自衛隊最大の艦艇である 空母型護衛艦「かが」は、呉所属ということで当地に常駐しているらしい。
そのまま徒歩で大和ミュージアム前に戻り、向かいの ショッピングセンターゆめタウン 1Fのスーパーで買い物して、
広島駅
に戻った。
最後まで飽きさせてくれないのが JR呉駅で、電車ホームの音楽が、なんと「宇宙戦艦ヤマト」だった!!ただ興奮しているのは筆者だけで、他の乗客たちは淡々と電車を待っておられた。近所の方々にとっては日常すぎて、このヤマト主題歌もアナウンス音にしか聞こえていないようだった。。。帰宅ラッシュのタイミングで、ホームにはかなりの列が生じていた。車内も結構、混んでいた。
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