ホーム
中国地図 ~
三国志 遺跡 ~
中国 オススメ
世界の城郭
日本の城
城郭都市 概説
歴史 雑学
当研究会 情報
日本の城 から
≫
岡山県 倉敷市(児島 / 下津井)
≫
倉敷市(美観区 / 東部)
訪問日:2020年1月中旬 『大陸西遊記』~
岡山県 倉敷市(美観区 / 東部)~ 市内人口 49万人、一人当たり GDP 290万円(岡山県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
▼
クリック
▼
倉敷美観区を歩く ~ 坂本龍馬の 足跡「吉井旅館」、犬養毅の足跡、地酒屋「森田酒造場」
▼
古墳時代からの歴史を有する 鶴形山頂の阿智神社と、倉敷美観区の眺め
▼
観龍寺 ~ 幕末の動乱期、倉敷浅尾騒動を起こした 長州藩士・第二奇兵隊が投宿した
▼
長期滞在には 最強の町「倉敷」 ~ 駅前「アリオ倉敷」モール、ホテル代、チケット Shop
▼
倉敷駅の 東隣・中庄駅前から 松島城跡を目指す
▼
古代天皇家が祀った 両児神社の今昔
▼
松島城跡の 西曲輪エリアを歩く ~ 宮山から中山に連なる 山裾「西の前 地区」
▼
松島城跡の 中曲輪、東曲輪エリアを歩く
▼
【豆知識】松島城跡 ~ 備中高松城が 犠牲となって生き残った 境目 7城の一角 ■■■
▼
ノートルダム清心学園の丘 ~ 松島城の 前衛基地として簡易な 砦が築造されていた
▼
かつて、弥生時代の海岸線だった 山陽新幹線の線路 と 瀬戸の穴海(吉備の穴海)
▼
田園地帯のど真ん中に 大岩群で異空間を作り出していた 岩倉神社
▼
【豆知識】古代ミステリー 三大不思議「岩倉神社の謎」を 解き明かしたかも! ■■■
▼
日幡城の 主郭部と出丸を遠望する
▼
かつての堀川脇から 主郭部の土塁面を仰ぎ見る
▼
【豆知識】秀吉の日幡城攻めと 毛利の 親族・上原元祐の裏切り ■■■
▼
足守川を渡って、岡山市北区へ移動する ~ 備中平野の先に 吉備津神社を遠望する
倉敷市では、
コートホテル倉敷
に投宿していた。このホテル・チェーンはリーズナブルな価格帯でも、しっかり丁寧なサービスが提供され、今回の中国地方の旅では非常に重宝させてもらった。
10:00にチェックアウト後、その前の交差点を東へ渡ると、すぐに美観区に至る。
平日の朝早くにもかかわらず、観光客がちらほらいた。
中国人の数人グループや個人旅行者が目立っていた。大陸中国の古民家集落や古城とはだいぶん趣が異なり、いい写真スポットとなっている様子だった。ただ、なぜここに日本古民家群が残っているかなど、その由来まで思いをはせる人は何組いただろうか??
上写真の運河は倉敷川で、この河畔に発展した港町を江戸幕府が 直轄領(天領。税が優遇されていた)に定めて統治していた。現在の川幅は 10 m程だが、往時には約 20 mあったという。
また、現在はすべてアスファルト、コンクリート面になっている道路だが、かつては土面であった。馬車が通ったり、風の強い日は砂埃がすごかったことだろう。
この美観地区を散策中、人力車の男性が営業してくる。
坂本龍馬(1836~1867年)
が一時滞在していた民家や
犬養毅(1855~1932年)
が隠れて滞在していた場所とか案内しますよー、というネタについつい惹かれてしまいそうになったが、美観区自体、そんなに広いエリアでもないはずだし、自力で探すべく徒歩散策を続けることにした。
ネット検索してみると、確かに坂本龍馬が京都に向かう際に立ち寄ったという築 270年の古民家が、吉井旅館として開業されていた(上写真左)。その龍馬部屋に宿泊するプランは、二名一室夕食付で 50,000円強ということだった。
上写真右は、旧倉敷地区で唯一という 地酒屋「森田酒造場(1909年創業)」前にかけてあった杉玉。新酒を入荷したばかりだと青々した杉玉が吊るされているから、写真の杉玉の色具合だと、かなり熟成したお酒を置いている
目印
と言える。
途中、長い階段があったので登ってみる。この鶴形山の山頂には阿智神社が鎮座し、旧倉敷村の産土神として地元住民たちから厚い帰依を集めてきたという。
1700年もの歴史を刻む古刹で、もともとは妙見宮と通称されていた。
周辺は、かつて吉備の穴海と呼ばれる内海が広がっており、多くの島々が連なっていた
。この鶴形山も瀬戸内海に浮かぶ一小島で、古くは内亀島と呼ばれていた。当初は、この内亀島に地元の漁民らが妙見宮の社殿を奉祀し、航海や漁業の安全を祈願したという。
時代とともに、この内海は徐々に陸地化が進み、平安時代初めごろに干潟となると、安土桃山時代から始まった干拓が江戸時代以降も続き、現在の備中平野が形成されていくこととなる
。
当初、妙見宮は観龍寺の鎮守神の一つであったが、1594年に現在の山頂に祠が、1620年に社殿、1682年に拝殿、さらに 1752年に随身門が順次建立されて、現在のような伽藍が整備されていく。現在の本殿は 1750年の再建であり、細部にわたり日光建築スタイルの影響が伺われるという。1869年の神仏分離令により妙見宮から阿智神社へ改称され、今日に至る。
なお、この「阿智」の命名であるが、日本の古代史と深いつながりがあるという。
四世紀以後、大和朝廷は朝鮮半島と密接な関係を持つようになり、15代目・応神天皇の治世時代、 東漢氏の祖先とされる渡来人系の阿知使主とその 子・都加使主が大陸中国の 17県一帯の漢人らを率いて日本へ亡命し、そのまま帰化したという伝説に関係するらしい。一行の主要メンバーはそのまま大和飛鳥地方に移住し、先進文化を伝えて 書物編纂、法制定、建築、外交、財務分野の技術者集団として大和政権に出仕するも、その一部の渡来人がこの地方にも定住したと考えられている。
平安時代中期に編纂された 辞書『和名類聚抄』に、吉備の妙見宮に「阿智の明神」も合祀されたと明記されていることから、この妙見宮が阿知使主一族らと関係を有することは確実とされる。渡来人らは自らの出身地の大陸先進文化を盛り込むべく、中国から持ち込んだ鶴亀の神仙蓬莱思想や陰陽思想を、境内のデザインに導入したという。
現在もその名残が残っており、本殿の向かって右側に盤座と盤境、左側に鶴石組と亀石組、および北側に枯れ滝式石組、斉館北側に陰陽的な盤座を見ることができる。日本に古来から伝わる盤座も同時に設けた理由は、日本への帰化を強調し、日本人としての帰属意識を明示するためだったと考えられる。
以後、周囲の干潟は阿知潟と通称されるようになったという。
境内の絵馬殿からの眺望は良かったが、古民家の並ぶ倉敷美観区の街並みは近くで楽しむものだな。。。と痛感した次第である。下写真。
再び、同じ石階段を下りて、山裾から倉敷駅の方向へ歩くことにした。まだまだ冬季の平日午前中であったためか、人通りは少なかった。
古民家通りも終わり、急に鉄筋コンクリート建築が並ぶ交差点に至る。ここは、かつての ローカル銀行・倉敷銀行本店だった場所で、最近まで中国銀行倉敷支店となっていたが、今では ATMコーナーが開設されるのみである。
さらに先へ進むと急に視界が開けて、
観龍寺
の正門が姿を現す。山下にはトンネルが掘削され、鶴形山の後方まで続いているようだった(下写真左)。なお、この観龍寺であるが、1866年5月24日早朝に発生した 長州藩士・第二奇兵隊らによる 倉敷代官所(現在の倉敷アイビースクエア辺り)の 襲撃事件(倉敷浅尾騒動)の際、藩士らが二日ほど滞在した場所という。
さらに駅への道を進んでいると、先程の阿智神社へと続く、もう一つの登山道入り口があった(上写真右)。
ここまでの散策ルートは下記の 通り(赤ラインは往路、青ラインは復路)。
この登山口の正面は、
倉敷駅
まで続く アーケード通り(倉敷えびす商店街)となっており、平日午前だからか、それとも本気でシャッター街なのか、あまり元気のない商店街ストリートを通り抜けることとなった。倉敷美観区の散策は実質 45分程度で、そのまま駅南口前の交差点に至った。
駅前にあった 百貨店「天満屋」に至ると、その北脇に入店していた チケット・ショップ「チケットセンター倉敷天満屋店」で、倉敷駅からいくつかの駅への割引チケットを購入した(倉敷 →
姫路
の正規価格は 1,940円、割引チケット 1,730円だった)。
また、ちょうど昼食時間だったので、倉敷駅構内にあったサイゼリアでランチ・セットを食べた。ハンバーグ・セットが税込 500円という、すごいコスパだった。値段、店員の質、店内の清潔感、設備など、海外では考えられない、レベルの高さだった。
また、駅北口には巨大な ショッピング・モール「アリオ倉敷」があり、この倉敷滞在期間中はいろいろ食事面で重宝させてもらった。
ランチ後
、JR線で
岡山
行の列車に乗り(12:15)、一つ東隣の中庄駅で下車した(190円、5分弱)。
中庄駅の出口は一か所だけだった。そのまま駅前の繁華街を直進し(上写真左)、一つ目の信号手前の用水路脇を右折する。
折れ曲がる道路を進むと、やや太い用水路沿いの橋を渡る(下写真)。ここから住所が「松島」となる。松島城跡である小山を目指して住宅地をさらに進むと、この小山へ登る両児神社の石段が目に飛び込んでくる。上写真右は、この両児神社の石段を上がったところから、中庄駅側を眺めたもの。
松島地区では、山裾にへばりつくように民家が立ち並び集落地が形成されていた。その小山の上には、川崎医科大学とその付属病院の巨大な建物が君臨する。
下地図は、ここまでの移動ルート。
さて
、両児神社の境内に登ってみる。
「両児」という珍しい寺名であるが、これは古墳時代、懐妊中の 神功皇后(14代目・仲哀天皇の皇后)が 九州・熊襲の遠征軍に同行し、現地で 皇子(後の 15代目・応神天皇)を出産したエピソードに由来する。反乱平定後、再び畿内へと海路で凱旋するときに、この 一帯(今の高鳥居山。JR中庄駅正面に見える)に休息のため立ち寄る。この日、ちょうど王子の二歳の誕生日と重なったため皇子の安泰、九州平定の 戦勝感謝・祈願成就のために、高鳥居山上にもともとあった神社(寄せ神のための社)に 御太刀、鏑矢、朕懐石を奉納し、「二子の宮」と改名させたという。
平安時代まで、今の倉敷市一帯は平野部深くまで海が入り込んでおり(瀬戸の穴海)、今は小山となっている山々がかつては小島であり、複雑な海岸線を形成していた。この古墳時代においても、高鳥居山より北が本州で、ここから南へ 1 km沖合にあった 松島(島には松の樹がたくさん茂っていたことに由来)は小島という地形であった。仲哀天皇と神功皇后らが船で高鳥居山に立ち寄った際、下船した港跡地には今でも石碑が残されているという(今の 川崎医科大学グラウンド北側)。
奈良時代に入って海岸線が後退し、松島が本州と陸地化されたと考えられる。この頃、二子の宮は五座八幡宮と改称されていた。当時、高鳥居山と松島とが虹で結ばれる出来事が続いたため、地元民によって二子神社が松島へ移築されることとなる。
平安時代に入ると、ますます陸地化が進んだ。そして、平安時代末期の源平の動乱期、この瀬戸内地方は平家の勢力圏となり、1183年 11月下旬に木曽義仲軍が
京都
から当地に至り、
平家方の 前線基地・屋島
を襲撃しようと渡海を目論むも、海戦に不慣れな義仲軍は大惨敗を喫し京都へ逃げ帰る(水島の戦い)。この時、五座八幡宮内の「二子の宮」宝物は地中に隠され戦火を免れたという。最終的に翌 1184年1月中旬に
宇治川の戦い
で源義経軍にも破れた義仲は、
木曽へ落ち延びる途中、戦死するのだった
。
時は下って、明治期の 1872年、五座八幡宮「二子の宮」が両児神社へ改称され、今日に至る。
その長い歴史から、当エリア(
松島村
、二子村、西栗坂村の 3村。干拓がスタートした 1020年代以降、萬寿庄と総称され、その下に 11村が創立されていた)の総産土神で最古の神社として崇められてきた両児神社であるが、この松島の小山上に築城されていた松山城とは、直接的に関係がなかったようである。
当時の松島山は、宮山と中山の二つの低い嶺から構成され、この宮山にあったのが両児神社で、東の嶺続きの中山にあったのが松島城であった。中山の頂上部に中曲輪を築造し、その西に広がる平坦な台地を西曲輪、さらに西に 馬場平(馬小屋があり、乗馬の練習場を兼ねていた)、そして西端に宮山の両児神社が立地したわけである。また中曲輪の東隣には独立嶺の小山があり、ここに東曲輪が建造され、三曲輪体制の城郭となっていた。
さて、両児神社の境内からの退出時、石階段脇の石垣が気になったので(下写真)、横から下山してみた。これらの石垣は往時の松島城時代の何らかの城郭資材の転用であろうか??
なお最初、この両児神社の境内から、後方に立地する川崎医科大学やその付属病院へ入れるだろうと考えていたのだが、道がつながってなかった。その他、この南面の住宅街からの登山口がいくつかあったが、一切、病院敷地に入れない設計だった。下写真。
それよりも、病院周辺の斜面上には神社や寺、そしてたくさんの墓地が広がっており、何か墓場までセットされてる病院のようで、ちょっと不謹慎な連想をしてしまう。。。
また、山裾の石垣面や急斜面を撮影していると、「崩落の危険あり」という警告板をいくつか目にした。下写真。
それでも、こんな斜面ギリギリに民家が立ち並んでいた。。。。
この小山の頂上部に立つ大学校舎、および大学病院の敷地一帯が、かつての 松島城・西曲輪の跡地というわけだった。上写真の警告板冒頭に書かれた「西の前 地区」という表記が、如実にこの事実を物語る。
そのまま東進していると、
川崎医療短期大学
との間の谷間から、ようやく北面側へ通り抜けできた(下地図)。結局、大学病院への入口は北面側の県道 162号線沿いだけらしい。
この谷間部分の斜面上にも墓地が広がっていた(下写真)。。。
ちょうど、この上あたりが 松島城・中曲輪であった。
この谷を挟んで東隣の丘上には川崎医療短期大学が立地する(下写真)。この離れ小山は、かつて松島城の東曲輪を成していた。
その丘下には用水路が流れており(下写真)、往時に武家屋敷が軒を連ねたと考えられる。戦時になって丘上の各曲輪へ避難し、籠城したと推察される。
周辺には、城跡に関する解説文は全く設置されていなかった。
松島城
守護・細川家が早くに没落すると、備中国は 地元国人たち(庄氏、石川氏、上野氏、三村氏など)が各地で割拠する戦国乱世が早々にスタートした地であった。最終的に三村氏が備中国を制覇し、その守護所であった松山城を本拠地に定めて、
毛利方
と組み 北の
尼子氏
、東の
宇喜多氏
と対抗するようになる。
しかし 1574年、毛利氏と宇喜多氏が和睦したことをきっかけに三村氏は毛利氏に不信感を抱き、播磨に割拠する領主らや近畿の織田信長と組んで反毛利で挙兵する。翌 1575年、毛利軍によって三村氏が 本拠地・松山城で滅ぼされると、この松島城も毛利氏が派遣する城代が在番することとなる。
ちょうどこの頃から、織田信長の 播磨、中国地方への介入が進むようになり、いよいよ 1577年10月、中国方面軍を率いた 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による中国攻めがスタートする。毛利軍は間接的な支援で播磨勢を支えるも
、同盟者だった宇喜多直家まで秀吉方に寝返ってしまうに及び(1579年秋)、備前国主・宇喜多直家との最前線基地として、備中国にあった境目 7城(宮地山城、冠山城、
備中高松城
、
加茂城
、日幡城、
庭瀬城
、松島城)諸城の防備強化が図られることとなった。下地図。
このとき、松島城には
毛利方
の 武将・梨羽高秋が 800の兵で守備していたが、
秀吉本隊が進軍した山陽道沿い
から大きく南に離れた位置にあったため、直接的な戦火を交えることはなかったという。
しかし、松島城の東隣の
庭瀬城
は宇喜多勢の攻撃を受けて落城している。 1582年6月の本能寺の変がなく、かつ毛利方との和平交渉がまとまらず
備中高松城の戦い
が長引いていたならば、同年中にも戦火に巻き込まれていたかもしれない城だった。
1973年に城跡だった松島の二つの小山上に川崎医科大学附属病院や 川崎医療短期大学が建設されると、それまで残存していた 中曲輪、西曲輪、東曲輪や馬場の遺構は完全に喪失されることとなった。かろうじて、地元の鎮守の神が祀られていた両児神社がある宮山部分のみ手つかずで現存できた、というわけである。
なお、古墳時代から松や竹が群生する小島であったことから、松島と呼ばれるようになったとされる。この倉敷市東部の歴史に関しては、
川合長一郎氏解説のビデオ
が非常に参考になった。
そのまま県道 162号線を縦断し、直進していく(
県道 389号線
)。
県道を挟んだ西側にも、巨大な鉄筋コンクリート建ての要塞のような川崎医療福祉大学の校舎と広大なグランドが広がっていた。
正面に見える大通りがそのまま県道 389号線(吉備津松島線)へとつながっており、これを右折する。途中、小山を掘削した坂道を越え(上写真左。この小山裏手にノートルダム清心学園が立地する)、次の信号へ向かうと、正面に コンビニ「ファミリーマート・倉敷二子店」があった。上写真右の奥の駐車場。
ちょうどその前に、「金 吉備津八満宮」と彫られた石灯籠があった(上写真右)。かつて、吉備津八幡宮へ通じる街道が通っていた場所だろうか??
撮影後、自動車道路沿いを避けるべく、コンビニ前の横断歩道を渡り、農道を東進した。 新幹線の線路沿いに東進すればいいので、それに平行になる農道を選んだわけである。脇にはガードレールのない用水路が流れていた。下写真。
南側には、先程の半分掘削された小山上にそびえ立つ、ノートルダム清心中学校、清心女子高等学校の校舎がその威容を見せつけていた(下写真)。平安時代以前、この一帯すべてが海で、小島がたくさん点在していたわけである(瀬戸の穴海、吉備の穴海)。
突き当りを北上し、その四つ角をさらに東進する。庄中央公園沿いを進んで、
新幹線高架下
の県道 389号線に合流する。
この信号を縦断すると、中古車ショップ前に至る。
さらに、この新幹線高架下を東進していると、次の信号交差点でザクザク屋というドラッグストアに行き当たる(下写真左)。営業時間 9:00~24:00で、こんな田園が広がる農村エリアには似つかわしくない深夜営業のお店だなと不審に思っていたら、食料品も含む、コンビニを兼ねた地元の生命線となっているらしかった。
なお、この山陽新幹線の線路ラインが弥生時代の海岸線を示すという。
その脇の細い道路を通り抜けて(上写真右)、北側の農業道路に出る。その脇にくさか整形外科医院があった。。。こんな場所で、ニーズがあるのだろうか。。。
そのまま直進し、突き当りの農道をさらに東進する(下写真)。突き当りの用水路を北上して県道 389号線をさらに北へ進む。
すると、左前方に岩倉神社が見えてくる。
下写真
。
最初、遠目から見た時、田園地帯のど真ん中にあって木々がうっそうと茂る神社だし、これから訪問する日幡城跡とも距離的に近いので何か関係があるのかも??といった好奇心だけだったが、接近してみると、その異様な空間に吸い寄せられてしまった。
周囲は完全に開けた土地で一面に田んぼが続くのに、なぜ、この一角だけ巨大な岩石がごろごろと積み重なっているのか、全く想像すらできなかった。境内には外部とは全く異なる異空間しかなかった。何か岩山の山頂にあるパワースポットを訪問しているかの錯覚にとらわれる。
さらに驚嘆させられるのは、ここの大岩は見事に真っ二つに割れていたり、ちょうどいい具合に削り取られていたりと、その形状も異様だった点である。偶然に割れたのか、人為的に鋭利な壁面で切り取られたのか、判然としない岩が散見された。ただただ、何のために、どうやってここに大岩が集積されているのか、不思議以外の何物でもなかった。
間違いなく、古代ミステリー三大不思議の一角を占める存在といえる。他にも、
兵庫県高砂市にあった生石神社の「浮石」
も想起された。
なお、この北隣にある日幡城跡の出丸があった高台上に、真宮神社が立地する。この周囲にもいくつか巨石を使った 古墳群(真宮古墳群)が残されており、その謎も解明されていないという。この事実から類推するに、吉備地方の大岩を使った古墳群の一つがこの場所にもあり、何らかの自然災害か盗掘かにより表面の土砂がはぎとられ、内部の巨石がバラバラになってしまった跡地なのかもしれない。
境内には解説板があったが、寺の由来や再建の歴史に言及されているものの、これらの巨石群には一切、触れられていなかった。何か消化不良なまま、退出せざるを得なかった。ここでの解説文を参考に、いつもの筆者なりの妄想を展開し、
以下
のようにまとめてみる。
吉備津彦命の「鬼退治」 ~ 桃太郎伝説
古墳時代中期、全国の有力豪族のゆるやかな連合政権であった大和政権の屋台骨は揺らいでいた。北陸地方、東海地方、中国地方、畿内北部(京都府北部の山岳地帯)で有力豪族らが独立の動きを見せており、魏晋南北朝時代の動乱で、大陸中国や朝鮮半島から逃げて来た渡来人を積極的に取り込み、軍事力を飛躍的に進歩させていた。
この地方豪族らの台頭を征討すべく、大和朝廷(崇神天皇)は 4王子を各方面軍の総大将として派遣する。これが『日本書紀』に出てくる四道将軍である。すなわち、西道(吉備国)への吉備津彦命、東海地方への武渟川別、北陸地方への大彦命、畿内北部への丹波道主命ら 4名である。
このとき、吉備津彦命が大軍を率いて吉備国へ侵攻し、その地方豪族であった温羅を征伐した逸話が、桃太郎伝説の由来とされる。
現在、国宝指定されている吉備津神社は、遠征中に吉備津彦命が本陣を構えた場所と言い伝えられている。当時、この吉備地方の各所で戦闘が展開されており、その名残が吉備エリア各地に残る吉備津彦命に関する神社や廟所というわけである。
この岩倉神社もこの時の遠征に関するエピソードに基づき、後世になって神社が建立されたものであった。
当時、この一帯は一面が遠浅の海で、現在の足守川の上流深くまで入り江となっていた。その東岸に本陣を置く吉備津彦命の元へ、片岡の 伊狭穂(いさほ)という人物が 栗坂(くりさか)の里で刈り取った稲を兵士らに命じて船に積み、北へと搬送させたが、本陣へ至る入り江部分が増水による急流で近づけなかったため、本陣前の東岸への着岸を断念し、船を西岸側へ廻して西の岬に軍糧を陸揚げする。そして、何とか吉備津彦命の本陣へ兵糧米を献じることができた。吉備津彦命はその苦労と忠義を称え、伊狭穂に 大稲船(おおいなふね)という名を下賜する。
このエピソードにちなみ、潮流の急峻だったポイントを 瀬口(せぐち)、稲を荷揚げした岬部分を 稲倉(いなくら)と通称されるようになったという。当時、すでにこの岬部分、その後方の高台の真宮神社部分には、地元豪族らの古墳群が立地し、必ずしも未開拓の僻地というわけではなかったと推察される。
100年後、
16代目・仁徳天皇
が吉備地方を訪問した際、吉備津彦命の武勇伝を耳にして感銘を受け、偉大なる先祖の功績を称えて吉備津宮をはじめとする 5つの社殿と 72の廟所を創建する。このとき、伊狭穂が兵糧米を強行陸揚げした場所にも、彼の功績を称えて大稲船命を祀る廟所が一つ、建立されたというわけだった。
後世になって、この稲倉の岬部分の土砂が押し流され、岩盤や岸壁が露出するようになったという。おそらく、地元豪族の古墳が自然災害で破壊されたか、盗掘により解体されたと思われる。
こうした大岩がゴロゴロと転がる様も関係し、地元では 稲倉(いなくら)が 岩倉(いわくら)と変化して通称され出し、この地名が今日まで継承された、というわけらしい。周囲一帯で干拓が進むと、この廟所は新設された 才楽村、瀬口村、大手村における最古の神社ということで産土神として崇められ、厚い信仰を受けてきたという。
ここに立てられていた社殿は、江戸時代の 1700年ごろ、及び、1768年、1850年代に再建された記録が残る。
さて岩倉神社の北面に立つと、その正面には日幡城の全景が見渡せた。
下写真
。
右側の小山が主郭部分で、さらに右隣には足守川が流れていた。対して、左側の高台上には出丸が設けられ、また武家屋敷や附近の住民らの集落が建設されていたと推察される。この高台が、前述の大岩を多用した真宮古墳群が立地する丘陵地帯である。下写真。
度々、足守川は氾濫しており、地元の住民らはうまく附近の丘陵地形を利用し集落を形成していたと考えられる。
このまま直進して県道 389号線を縦断し、用水路沿いの細い農道を北へ歩き続けると、メグロ園芸(倉敷市日畑 770)前の交差点に行き着いた。
この園芸会社の裏手にある竹藪が、日幡城跡の主郭部分である(下写真左)。なお、交差点には用水路を挟んで日畑町の民家集落へと続いており、その入り口に石灯籠があったのが印象的だった(下写真右)。往時には、日畑村の入り口を示すものだったのだろうか?
園芸会社脇の用水路をさらに前進していくと、主郭部分の真下まで接近できる。かなり
竹藪
が生い茂って全く内部が見れないが、急斜面に盛り上がっている地形が伝わってくる。かつてはこの用水路も簡易な堀川として利用されていた。
続いて、東隣にある足守川沿いの土手道路に上がってみる。下写真。
道路沿いに古い石材屋があり、その前に城跡を示す石碑が 2つ建っていた。秀吉に攻め落とされた城跡、とだけ言及された簡易な解説が添えられているだけだった。
日幡城
すぐ北を走る
備中国の 主要街道「山陽道」
に近く、この街道南部一帯の集落や農地を支配するために、真宮古墳群が連なる丘陵地帯に形成されていた弥生時代から続く環濠集落を発展させる形で、日幡城(日畑城)が築城されていた。戦国時代下の 1540年ごろに 地元土豪・日幡景教によって建造されたと考えられており、この時、丘陵部の東隣に孤立して立地していた古墳跡地を改修して主郭とし、丘陵部は出丸としてそのまま武士や住民らの集落が配置されていたと思われる。
以後、三代に渡って日幡氏の居城となるも、備前の宇喜多直家が織田方に寝返った 1579年秋以降、毛利方の国境最前線基地として定義された「境目 7城」の一角に選定され、毛利方から援軍として元就の 娘婿・上原元祐が派遣されてくる。この時の城主は日幡景親であった。
いよいよ 1582年4月、織田方の 中国方面軍(総大将:羽柴秀吉)が備中国境を侵して襲来すると、秀吉は早速、利益をちらつかせて、これら境目 7城の城将らを勧誘する
。
水攻めされた高松城
を前に身動き取れない毛利本隊に見切りをつけた上原元祐は翌 5月、秀吉の誘いに乗って 城主・日幡景親を殺害し、宇喜多勢の小部隊を城へ迎え入れる。
これに激怒した
毛利援軍
の総大将・
小早川隆景
は軍を派遣して日幡城に攻めかかると、もともと守備力の低い城塞であったため、宇喜多勢は守り切れず撤退する。この時、上原元祐も秀吉本陣へ逃げ込み、以後、
京都
に屋敷を与えられて居住することとなる。
この上原元祐であるが、秀吉が 織田信雄・徳川家康の連合軍と対峙中の 1584年(小牧・長久手の戦い)、
京都
で謎の死を遂げる。これは東国戦線を戦う秀吉が、後方を脅かされないよう協調関係にあった毛利方の要求を飲んだ処置だったのかもしれない。
後方に見える竹藪には急斜面の土塁が残っていたが、「私有地につき立入禁止」と大々的に警告されており、接近を諦める。きっと城好きファンが登ってしまったケースが後を絶たなかったのだろう。
さて
写真撮影後、その前の足守川にかかる北橋を渡って対岸側へ移動してみた。上写真は、ここから振り返って見た、日幡城跡と石材屋。
土手の対岸からは、
岡山市北区
となる。吉備津彦命が活躍した古墳時代、この備中平野すべてが遠浅の海であった。
なお、足守川の西岸は自動車の往来が多かったが、この岡山市側の東岸はより細い道路であったため、全く自動車が通らない道だった。そのまま土手沿いを北へ進むと
惣爪遊園地があり、その丘下に国の 指定史跡「惣爪塔」が立地していた
。
© 2004-2024 Institute of BTG
|
HOME
|
Contact us