BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2020年1月中旬 『大陸西遊記』~


岡山県 倉敷市(児島 / 下津井)~ 市内人口 49万人、一人当たり GDP 290万円(岡山県 全体)


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  JR児島駅前を サイクリングする ~ ホラー映画『ザ・ジーンズ』、香川証券、トマト銀行
  サイクリング・ロード「風の道」を 進む ~ 旧下津井電鉄の 線路跡地(6.3 km)
  江戸期、金毘羅往来沿いの 港町(下津井港、吹上港、田之浦港、大畠港)の 今昔
  三方を 海と絶壁に囲まれた 堅城「下津井城」の 弱点・北面から 登山スタート
  馬場跡広場と 一国一城令で破却されたままの石垣
  下津井城 マップ
  西の丸と 主郭部(二の丸、本丸、天守台、三の丸)とを連結する 土橋
  瀬戸内海の 眺望がすばらしい主郭部
  二の丸下に残る、見応え抜群の石垣面
  西の丸跡地から、西下津井港と 下津井港を一望する
  【豆知識】壮麗な天守を誇った 下津井城と 動乱期を駆け抜けた 下津井古城 ■■■
  祇園神社の岩山 ~ 下津井古城(長浜城)の 今昔
  まだかな会館と 「まだかな橋」 ~ 栄華を誇った 港町遊郭の名残り
  斜面路地が見応え抜群の「下津井湊 旧市街地」 ~ アニメ映画『ひるね姫』の舞台
  【豆知識】北海道からニシン粕など 海産品を運んだ北前船 と 下津井港の繁栄 ■■■
  【豆知識】無料博物館「むかし下津井回船問屋」の由来 ■■■
  JR児島駅への復路 ~ 四柱神社(吹上港の鎮守)と 旧野崎浜灯明台 を見る



倉敷中央通り 沿いの派手なラーメン屋で、チャーハンを食べた直後、児島行の路線バスが到着したので、慌てて飛び乗った。JR児島駅まで 1時間弱の乗車で、運賃 730円だった。
JR児島駅西口にあるバス発着ロータリーで下車する。その隣にはタクシー乗り場も併設され、両者の中間通路に、大量のジーンズが吊り下げられていた(下写真左)。 

この児島という地は、ジーンズの大量生産がスタートされた日本初の地で(1960年代)、「ジーンズの故郷」というのが最大の触れ込みとなっていた。大量のズボンが吊るされた様は、何かホラー映画の 1シーンのような異様な雰囲気を漂わせていたが。。。下写真左。

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その道路向かいに倉敷市児島産業振興センターがあり、ここで前夜にオンライン予約していた電動アシスト付自転車のレンタルを手続した。身分証のコピーを取られ、一日分 500円の代金を支払う。出口で鍵を渡され、出発する。

児島公園を越えて、先ほどバスで通過した 武左衛門通り(地元児島で大規模塩田事業に成功した 富豪・野崎武左衛門【1789~1864年】に由来。この道を北上した小田川沿いに、彼が建てた邸宅跡が 旧野﨑家住宅、野﨑家塩業歴史館として 保存、一般公開されている)へ向かう。
と、その道路沿いに「香川証券」という看板が目に飛び込んでくる(上写真右)。四国の 香川県(高松市)発の地場証券会社の支店らしかったが、対岸の四国香川との密接なつながりを示す一例だった。筆者は初めて目にした証券会社だった。

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さらに鷲羽山通りとの交差点には トマト銀行(児島支店)もあった(上写真左)。何やらネット系のハイテク銀行かと思ったら、岡山県の第二地銀グループとのこと(東証 1部上場会社 8542)。
この先の信号を越えると、下津井電鉄の旧児島駅舎前に到達した(上写真右)。

1990年の廃線後も駅構内は当時のまま保存されており、ここから線路沿いに終点の下津井駅まで サイクリング・ロードが整備されていた(6.3 km)。その名も、「風の道」というらしい(下地図)。その工夫された再利用方法に、うならされた次第である!

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住宅地をすいすいと進み(下写真)、いくつかの自動車道路を縦断して南へと進む。県道 430号線を縦断した辺りから、登り坂となった。

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琴海駅跡 に至るころには、かなりの高度に達し、県道 21号線沿いにあった児島競艇などを撮影しつつ(上写真右)、瀬戸内海の島々を愛でる。下写真は大畠漁港。

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瀬戸大橋の高架下を通り抜けると、鷲羽山(112.8 m)に到達した。
ここは瀬戸大橋を遠望できるという、有名な鷲羽山展望台があるらしかったが、ちょうど工事中で立入禁止だった。

江戸時代、そもそも 児島、下津井へ立ち寄る訪問者たちは四国の金毘羅宮へ参拝すべく、金毘羅往来を南下し 下津井港(そもそもは 下津井港、吹上港、田之浦港、大畠港と別々の 4村だった)に投宿したわけで、漁港とともに 宿町、港町として栄えたエリアだった。蒸気船の就航、鉄道敷設、そして、この瀬戸大橋の架橋で、ヒト、モノ、カネの流れが一気に変わってしまったに違いない。

下写真は、田之浦港の集落地。まさに町の真上を瀬戸大橋が通る。この橋は構想 100年、工期 10年、総費用 1兆円以上がつぎ込まれた、全長 9.4 kmに及ぶ大建造物となっている。

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そのままさらに「風の道」を西進すると、下津井城公園という看板が見えてくる。この城跡を過ぎると、サイクリングロードは急に山林地区を通過することとなる(下写真左)。

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上写真右は、下津井城公園の北側を通る「風の道」から、城跡を眺めたもの。下津井城は東西南の三方向は絶壁と海岸線で囲まれ最強の防衛ラインを誇るも、この北面は緩やかな丘陵斜面で陸続きとなっており、一番の弱点だったことが分かる。

ここから風の道をはずれ、城山の登山道を自転車ごと登ってみることにした。途中から石階段となったので、自転車を置いて徒歩で散策する(下写真)。なお、周囲は土塁跡かと思われる土盛りなどが残っていたが、その真相は分からない。。。

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すると、まずは馬場跡広場に到達する。かつては馬小屋や乗馬訓練をしたスペースだが、今は屋根付きの休憩スペースやトイレが設置された芝生公園のようだった(下写真)。

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石材がはがれ落ちた生々しい石垣面が出迎えてくれる(下写真)。

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掘割として掘削されている窪地が登山道となっており、ここから主郭部へ進む(下写真)。
本丸跡まで 100 m。

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下地図は、下津井城 の全体図。

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そのまま堀割を進んで、主郭部 に至る。
ちょうど西の丸と二の丸とを連結する、中間地帯にたどり着く(下写真。土橋跡か?)。往時には、もっと各区画が整備されていたはず。

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まずは東側に連なる 主郭部(二の丸、本丸、天守台、三の丸)エリアへ進んでみた。下写真。

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ここ から一段高くなった石垣部分が二の丸で、その西端の石垣はきれいに復元されていた(下写真)。櫓門が設置されていたのだろうか。

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この真下の急斜面下には、角面が破却された石垣遺構が手つかずのまま残されていた(下写真)。

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そのまま本丸跡に至る。北端に天守台座が残されていた。
下写真左は、本丸広場から天守台を見たもの。
下写真右は、天守台上から本丸、そして南面に広がる瀬戸内海を見渡したもの。

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この本丸跡のすぐ下に、二の丸があった。東西南北の四方から本丸を囲んだ設計で、本丸の腰曲輪的な位置付けだった。ここにも屋根付きベンチが設けられ、展望広場が整備されていた(下写真)。

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下写真は、二の丸から瀬戸大橋を眺めたもの。下半分は、二の丸下に設けられた広場で、ここから下津井港へ下山できる。

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二の丸を過ぎて、長い坂道を下っていくと、細長い三の丸跡地があった(下写真)。
写真右端に見えるのは野外トレイ。そのままホラー映画に使えそうな状態で、風で草木がトイレ内に入り込み、怖かった。。。

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このトイレ沿いに、見事な石垣が残されていた。全く補修されていない分、 野面積み の生々しい石垣面を楽しめた!!

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そのまま石垣沿いに西へ移動してみると、先程の二の丸広場下に到達した(下写真)。

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ここから二の丸へ直接、上がれればいいのだが、道らしい道もないので、再び、三の丸経由で主郭部へ戻ることにした。

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主郭部を通過して、西の丸跡地に足を踏み入れてみる(下写真)。ここは西側へ向かって緩やかな登りスロープになっている地形で、あちこちに岩場もあり、これまでの平坦に整地された曲輪とは明らかに雰囲気、地盤が異なる場所だった。

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しかし、ここからの景色が一番だった。
山裾の集落地を見渡せる広々とした空間で、いつまでも海の景色を眺めていたい気になる。

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上写真は、西下津井港。中央に見える港湾集落のど真ん中に、先程の「風の道」となっていた旧下津井電鉄の 終点駅「下津井駅」跡が残る。

下写真は、その東隣に広がる 旧市街地(旧・下津井湊)。今は漁港のみ継続されており、巨大船の着岸は上の西下津井港が担う。

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この城は完成間もなくの 1639年、前年に終結したばかりだった 島原の乱(1637~1638年)の教訓から一国一城令の対象とされ破却されたわけだが、往時には天守閣とともに、三の丸、二の丸、西の丸に櫓を組み、瀬戸内海ににらみを効かせる壮麗な城だったことが、下の古絵図から分かる(左下部分)。
また現在、祇園神社が建つ眼下の 岬部分(浄山。上写真の中央の緑地帯)にも、下津井城に絡む櫓が描かれている。

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上絵図は、1600年代初頭に池田藩により作成された『備前国九郡地図』。左から、邑久郡(薄黄色)、上東郡(赤色)、上道郡(みず色)、三野郡(オレンジ色)、兒嶋郡(離島部分)が色分けして各郡の行政区が描かれている。この時代、まだ児島、下津井地区は離島であった。ここから江戸時代を通じて干拓が進められ、最終的に備中平野として本州側と陸続きになる。
左下には、ありし日の下津井城が描かれている。池田藩時代に大改修され天守閣を有していたことが分かる。

古来より備讃瀬戸の海を臨む下津井は、 瀬戸内の 軍事、海運の要衝であった。平安時代中期に勃発した瀬戸内海賊団の藤原純友による 反乱時(939年)には純友軍の水軍拠点が設けられ、また 平安末期の 1183年10月に起こった木曽義仲との 瀬戸内合戦(水島の戦い)では、平清盛 の 異母弟・平教盛(1128~1185年)らが 長浜城(浄山。現在の祇園神社)に布陣していた。さらに、南北朝時代下の 1336年には九州から再起した足利尊氏 が当地に上陸し、備前・備中エリアの平定戦を指揮している。

今の城山上には 1590年代末、宇喜多秀家(1572~1655年) によって最初の城塞が建造されるも、 関ヶ原合戦 後に 小早川秀秋が 備前・美作・備中東半の岡山藩 55万石に入封すると、その 家老・平岡石見(頼勝。1560~1607年。関ヶ原合戦で 黒田長政 に通じ、秀秋の東軍参戦を主導した人物。後に美濃徳野藩の初代藩主となる)が城主として入城した(備前児島郡 2万石)。
1602年に秀秋が死去し、小早川家が改易されると、翌 1603年に池田忠継(1599~1615年。当時 5歳。播磨姫路藩主・池田輝政 の子)が 22万石で入封され、その家老・池田長政(1589~1634年)が下津井城に城代として入居する(禄高 32,000石)。直後より城郭の大増強工事が着手され、1606年に現在の遺構に見るような最終形態となった。その後、池田由之(1577~1618年)、荒尾成利(1589~1655年)、池田由成(1605~1676年)らが城代を務める。

1615年6月発布の一国一城令により、全国各地で多くの城郭解体がスタートする中、徳川将軍家と姻戚関係にあった「西国将軍」池田家が 岡山藩 主を務めていたため、下津井城は存続を許される。しかし、島原の乱(1638年春に鎮圧)の教訓より、城跡が反乱軍によって利用される ことを恐れた幕府は、翌 1639年に破却を命じることとなった。その後、岡山藩の番所が下津井港に開設されるだけとなる。
以後、荒廃した石垣のみとなった標高 89 mの丘陵部は、地元民らが城山と通称するだけとなり、訪問者もほとんどなかったという。

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西の丸を散策後、再び馬場跡広場に戻る。ここから西に山道が続いており(下写真左。250 m)、「西の広場」へ下りてみると小さな休憩所が設けられていた(下写真右)。ここは、下津井城の弱点である北面を防備するために構築された腰曲輪の一部だったと思われる。一人で歩き回るには静寂すぎて、ちょっと怖かった。
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さて、再び下山して自転車を回収すると、城跡の周囲に設けられた道路沿いに下津井の港町を目指すことにした。もう「風の道」に戻ることはなかった。
坂道をくねくね進んでいると、先ほどの西の広場に続く上り階段があった(下写真左)。山頂から一人で散策していると薄気味悪かったが、下の入り口部分は開放感があり、さわやかな登山ルートのように見えた。。。

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山道を抜けると、一気に視界が広がる。下津井港の旧市街地だ(上写真右)。

下写真の中央は、祇園神社の 岩山(浄山)。
このまま城山の急斜面をくねくねと自転車で下りていくと、この祇園神社の北門に行き当たった。
この瀬戸内海に臨む海抜 22 mの小高い岬は、先程の下津井城の丘陵部から南へ張り出した尾根の先端部に位置しており、かつて下津井城の出丸と櫓が設けられていた場所である。

これより以前、南北朝時代に九州から再上洛する足利尊氏の軍船 が立ち寄ったといわれる水軍城塞であり、また平安時代末期に建造された平家方の 一拠点・長浜城(下津井古城)が立地していた場所でもある。江戸時代初期に下津井城が廃城になると(1639年)、その跡地に祇園神社が建立され、「下津井の祇園さま」として地元民や船乗りたちから親しまれることととなった。当時、航海の安全を祈願して寄進されたという玉垣が、今も奉納されているという。

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神社北門前に自転車を置くと、緩やかに続く石階段を登ってみる(下写真左)。境内は広くきれいに整備されており、特に拝殿裏に長浜宮と祇園宮を祀る本殿が二つ並列で設けられ、両神が合祀されていたのが印象的だった。
なお、階段上にあるワイヤーが気になった(下写真右)。境内上まで続いており、荷物を運び上げる仕組みのようだった。

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境内から見る瀬戸内海も絶景だった(下写真左)。
この南面の石階段下に、「第二次大戦前の日本海軍の二大看板だった、陸奥・長門級戦艦 主砲弾」が安置されているそうだったが、駐輪していた自転車が気になったので見学を断念する。

そして、再び自転車を回収し住宅街を抜けて、海の方へ移動してみる。すると「まだかな会館」という、特徴的な名の公民館施設が目に飛び込んできた(下写真右)。

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この「まだかな」という名前。。。。地元で異論が出なかったものかと心配になるような命名エピソードだった。。。

かつて 1960年代に湾岸道路建設のため旧下津井港が埋め立てられるまで、この場所が港の中波止と市街地との境目であり、小さな木橋がかかっていたという。その橋が 通称「まだかな橋」と地元で呼ばれていたというわけでたった。今でも、橋欄干(手すり)の親柱だけが保存されていた(下写真)。
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特に江戸中期以降、下津井港には遠く北海道の特産物を満載した北前船や、諸国の物産を積んだ船舶が数多く寄港していた。
太陽も沈み、町の行燈に 赤い燈(遊郭街の開店合図)がともると、中波止の橋にいつも現れる 老婆(遣り手婆、と通称された案内役)がいて、その橋脇から船頭や船乗りたちに『まだ(遊郭にあがらん)かな』と声をかけていたという。以後、いつともなく橋は「まだかな橋」と呼ばれるようになったというわけだった。大正時代初期までは木橋だったらしいが、大正半ばに石橋にかわり、沿岸部の埋め立てで撤去されるまで存在していたという。下写真。

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そのまま北へと連なる旧市街地の メインストリート(表通り。県道 21号線)へ向かう。道路沿いには古民家が点在し、江戸期の風情を大いに残すエリアだった。

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その途中に、「むかし下津井回船問屋」があり、内部は無料開放されていた(下写真左。9:00~17:00開館 火曜休)。
明治時代の 回船問屋(今でいう、商社・商船グループ)の屋敷を改修した資料館で、当時の商家内部がよく分かる木造古民家だった。二階まで登れて、 古い手紙や 絵巻、生活用品、商売道具類などが展示されていた。天井部分の縦横に組まれた梁が見応え抜群だった。

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さて回船問屋を見学後、自転車を置いたまま、徒歩で附近の細い路地エリアを歩いてみた(上写真右)。丘陵斜面にそって、細い路地が迷路のように入り組んでおり、住民たちの生活感が詰め込まれた知恵の宝庫となっていた。古井戸もいくつか残されているらしかったが、発見できなかった。

この下津井の旧市街地は、 2017年公開の アニメ映画『ひるね姫~知らないワタシの物語~』の舞台となったということで、夜にホテルに戻った後、Youtube 鑑賞してみた。正直、物語の展開が速すぎて、二回以上観る必要があると思う。ところでなぜ、下津井港がヒロインたちの住まいという設定の必要があるのか、特に明確な理由はないそうで、脚本、監督を手掛けた神山健治氏がドライブ中にたまたま立ち寄って、昔ながらの港町の風情が印象に残っていた、ということらしい。訪問タイミングにより、静岡や新潟等の漁港が選ばれていたかもしれない基準だったようだ。。。

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下津井は、児島半島(江戸時代中期まで島だった)の最南端に位置し、「西国の喉首」と言われた瀬戸内海航路の要衝で、奈良・平安時代の記録にも記される古い港町であった。

江戸時代初期、備前岡山藩 の出城として、下津井港の背後にあった山城が大規模改修され下津井城が築城されるも、一国一城令により廃城となる。以後も引き続き、この港町には岡山藩の番所が開設され、参勤交代のため瀬戸内海を航行する西国大名らの応接等に従事した。また下津井は、金毘羅参りや四国八十八か所巡りを行う一般市民らの本州から四国へ渡海する最前線の港町でもあり、ヒト、モノ、カネが集う交易港として栄えた。

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特に備中平野の干拓が完了した江戸時代中期の 1750年代以降、 藩都「岡山」 と陸路でつながると、その港町、商港として栄華を極めることとなり、大坂と下関、九州を結ぶ内海航路を往来する商船や 御座船(大名、公家らの船)等の来航で大いに賑わった。
陸地沿いを航行する「地乗り」という航路も、潮流と戦いながら内海中央部を島伝いに走る「沖乗り」の場合も、最終的にコースを選択するのが下津井港であり、自然と船乗りたちが集うポイントとなっていたという。こうして 長崎・出島を経てもたらされる輸入品や、西国回りで運ばれてくる北国の物資も下津井に数多く持ち込まれる結果となった。

特に、その北国との物流を一手に担ったのが、北前船(日本海西回りの商船グループ)であった。
遠く 蝦夷地(北海道)で獲れた ニシン粕、カズノコ、昆布等の北の海の富を満載した「春上り」の北前船が毎年、初夏の風薫る 頃(旧暦 5~6月)に寄港するようになると、この船乗りたちによって「備前下津井港」は全国にその名を広められていった。
北海道の海産物の中でもニシン粕は、児島湾や備中沿岸の干拓地で大規模に栽培されていた 綿、菜種、豆、藍などの肥料として需要が大きかったため、ニシン粕を満載して下津井に来航したのだった。その都度、町のニシン蔵はニシン粕でいっぱいになったという。そして、代わりに下津井からは 綿、古着、塩、豆などが積み込まれ、北国へと運ばれたという。一度に 30~40隻の商船団を組んで往復していた北前船は一年一航海で、幕末には「一航海一千両(1億円弱)の利益」といわれるほど儲けの大きな商売だったという。

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こうして、ヒト、モノ、カネが集まる下津井港の商家は大いに潤い、次々と大きな蔵が増設されていった。往時には 荻野屋、播磨屋、山高などの屋号をもった蔵屋敷が港の周りを取り囲んでいた。東隣の吹上港の 材木問屋「播磨屋」の天保蔵は 1830年代の天保年間に建てられたもので、往時には田之浦の沿岸すべてに蔵が建ち並び、すべてニシン粕でいっぱいにされていたという。
なお、この播磨屋は自ら帆船を持ち、北九州方面で石炭を買い付け、主に 紀州桑名 で売りさばき、復路には紀州の地元材木問屋から杉やヒノキの運搬を請け負って積み出す商船ビジネスも手掛ける大豪商であった。
しかし、鉄道開通および蒸気船の普及など交通機関の発展に伴い、材木や石炭、海の幸などもすべて陸路で運ばれるようになると、権勢を誇った播磨屋などの地元門屋は没落していき、同時に港町自体も衰退し、ついに明治末期まで寄港していた北前船も廃業となり、そのカネと欲望が乱舞した艶やかな港町は一転、地方の寂れた一漁村へと縮小されていったのだった。

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現在、すっかり静まり返った下津井の旧市街地であるが、かつて 宿屋、商店、豪商の邸宅、遊郭などが軒を連ねた メインストリート「表通り」には、往時の繁栄をしのばせる本瓦葺、漆喰壁、なまこ壁を有する土蔵造りの商家や、窓に虫籠窓や格子戸を備えた町屋、北前船の運んできたニシン粕などを収納していた「ニシン蔵」跡などが当時の姿のまま所々に残されている。


なお目下、「むかし下津井回船問屋」として博物館化され一般公開されている古民家であるが、ここは江戸時代に 廻船問屋(今でいう、商船グループ)への金融業と倉庫業で備前有数の富家となった荻野家の 分家・西荻野家の住宅として建設されたもので、それを 1876年、廻船問屋・高松屋(中西家)が購入したという。
この高松屋は、明治期にはニシン粕をはじめ北前船からの買荷の問屋仲買業を営んだが、北前船が廃業となるとすばやく事業転換し、大正時代に足袋製造業をスタートし、屋号も「山高」に改める。さらに、昭和に入ってからは学生服の 製造、販売業も手掛けた。このような経緯から、現存する「山高」の家屋は、その時々の使い勝手に合わせて随時、改修が施されているという。現存する母屋は明治初期の建築で、うだつ屋根のあがる二階建て構造、間口は 7間のままという、廻船問屋時代の原型を比較的よく留めたものとなっている。

これに別棟として建つ蔵であるが、明治初期の西荻野家の所有当時からあった瀬戸内海でも数少ない大型のニシン蔵で、下津井の街並みを構成する貴重な建物であった。ニシン蔵は北前船が運んで来たニシン粕などを保存する蔵で、一般的には 三和土(たたき。石灰や赤土などに 苦汁『にがり』を混ぜて、たたき固めたもの)による土間、壁は土壁であるが、板を立てて土壁からの湿気を防いでいたという。窓は通風程度に設けられていた。
ニシン粕は、24貫目(90 kg)程の単位で俵詰めされ運び込まれた。相場が上がるまでニシン蔵で保管され、買い手が付き計量の日が近づくと、蔵では 深夜「水打ちをする」(ニシン粕に塩水をかけて目方を増やす)と称して目方を増やすようなこともあったという。
最終的にニシン商家の西荻野家から「山高」に買い取られた後、大正時代、縫製工場に転用されたときに床板が張られ、窓が設けられるなどの改造を加えられる。現在の大きさは当時の半分程度で、間口 4間、奥行き 8間となっているが、極力当時の姿に近い形で復元工事が手掛けられたものという。



散策後、自転車を回収し、メインストリート(県道 21号線)を東進しつつ、下津井漁港エリアを経由して山側の「風の道」を目指した。

途中、急な斜面上に建てられた四柱神社前を通過した(下写真左)。
古墳時代に神功皇后が 住吉三神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)の神託によって三韓征伐を成功させた故事 をもとに、神功皇后を加えた四神が「海を司る神」として合祀され、後に全国各地の港町に勧進されていく。この一貫で、平安時代中期の 930年代に摂津の住吉大社から、この 港町「下津井吹上」にも勧進され、以後、地元の鎮守として厚い帰依を受け続け、今でも『住吉さん』と通称されているという。
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その脇の急な山道を登り、東下津井駅跡近くの「風の道」に到達した。電動自転車のオートマチックが、勝手に坂斜面の角度にあわせて乗り手の負担を一定に保持してくれていた AI智能の高さに感動させられた。

そして、再び「風の道」沿いに JR児島駅を目指す。
途中、海沿いに児島観光港を発見する。瀬戸大橋周遊観光船と、丸亀市本島行の定期船が発着するという。その脇には、旧野崎浜灯明台があった(上写真右の奥)。


ここでいう旧「野崎浜」とは、江戸時代末期に児島地区の海岸線で大規模塩田事業を興し成功した 地元富豪・野崎武左衛門から命名したもので、この場所は当時、武左衛門が経営した塩田の東端にあたり、塩を積み出す船着き場にもなっていたという。その浜の中を流れる河口の一角に、この灯明台が設置されていた。
なお、灯明台とは寺院の参詣路や浜の船着き場に設置された灯籠のことで、日本古来からの灯台を意味していた。当地の灯明台は塩釜明神の御神灯として、また浜へ出入りする船の夜間照明のための灯台として、1863年に設置されたものという。
この木造の灯明台は高さ約 10 mで、屋根は瓦葺きとし、その下の窓のあるスペースに灯りをともしていた。さらに、その下にはスカートのような袴腰が付けられており、堅い花崗岩で造られた基壇の上に載っている。木造の灯明台が現存するのは全国的にも稀で、現在、倉敷市の重要文化財に指定されているという。



この旧野崎浜に 1988年、瀬戸大橋開通と同時に建設されたのが児島観光港シンボルゲートで、せっかくなのでトイレを借りた後、波止場を少し散策してみた。再び自転車に乗り JR児島駅前を目指す。そして、駅前の商工会議所で自転車を返却すると、駅構内でしばらく休憩した。待っている途中、コンビニで吉備団子を買って食べた。
バス乗り場 ①に 倉敷駅(南口) 行の路線バスが到着すると(下写真)、すぐに飛び乗った。車内は暖房が効いていなくて、足が相当に冷えてしまった。

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なお、 JR児島駅前には巨大な ヤマダ電機(テックランド児島支店。上写真左の左端に見えるガラス張りの建物)が陣取っていたが、それ以外は殺風景な駅前だった。


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