BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年11月中旬


静岡県 掛川市 ~ 市内人口 3万人、一人当たり GDP 379万円(静岡県 全体)


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  JR掛川駅 から 路線バスで、高天神城へ(25分、480円)
  複雑な地形に加工された 追手門エリア と 城郭全景
  三の丸に残る土塁群 と 富士山の眺め
  東曲輪の城郭本部 ~ 御前曲輪、本丸(本曲輪)、的場曲輪(矢場)、大河内源三郎の岩牢
  1574年 6~7月の武田軍猛攻の 激戦地 ~ 腰曲輪、鐘曲輪、井戸曲輪、かな井戸
  西曲輪の 出城部分 ~ 西曲輪(高天神社)、二の丸、武田式城砦の 遺構群(切割、横堀)
  馬場平(馬場曲輪)から見る 城郭全景 と 横田甚五郎(尹松)の抜け道跡
  搦手口、三ヵ月井戸を抜けて 下山 ~ 2時間 登山コース地図
  バス停「土方」脇に流れる 下小笠川 と 千人塚(武田軍戦死者 740人を埋葬した地)
  【豆知識】武田氏 vs 徳川氏 ~ 高天神城の攻防戦 ■■■
  JR掛川駅前から 掛川城へ ~ 旧東海道、城下町エリア を経て 大手門へ
  掛川城内には 逆川が流れていた! 河川を城内に取り込んだユニークな 城郭設計
  いよいよ 本城(本丸、二の丸)へ入城 ~ 古城模型に見る今昔
  内堀(三日月堀 と 十露盤堀)を越えて 本丸 と 天守閣へ
  新旧の 城郭(今川、徳川時代)を取り込んだ 掛川城の総構え
  【豆知識】掛川城の 歴史 ■■■



投宿先の 浜松駅 から JR線で掛川駅に到着した(25分弱)。浜松駅前のチケット・ショップで切符を購入すると、480円だった(正規料金 510円)。

下車後、早速、掛川駅南口内にある 観光案内所(下地図の「現在地」)で、高天神城へのアクセス方法を助言してもらう。地図類も豊富に取り揃えられており、案内係の方もこなれた様子で、非常に頼もしい案内所だった。

掛川市

11:22発という路線バスに乗るべく、バス発着所に向かう。駅北口にはタクシー、バス乗り場用のロータリーが設けられていた。 ③番乗り場は、駅から一番近い場所だった。下写真。

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バスに乗車する。Suica ICカードが使えた(480円)。路線バスはそのまま国道 38号線を南下し、25分ほどのドライブでバス停「土方」に到着した。下写真。

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そのまま 高天神城がある登山口を目指し、のどかな畑道を通過していく。周囲は茶畑と水田が広がっていた。下写真右が、高天神城の遠景。

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ゆっくり散策しながら 15分弱で追手門口の駐車場に到達した(下写真左)。
急にアスファルト道から登山道になったかと思うと(下写真右)、1分ほどで追手門跡に到達した。

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下写真左は、追手門が設置されていた辺り。すぐ脇には高い城壁を兼ねる山の急斜面が残り、往時の防御陣地の堅牢さを物語る。
下写真右は、敵兵の襲来を知らせる鐘が設けられていた物見櫓があったという場所。

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追手門を突破した後も、山の斜面をうまく利用し蛇行した登山道が敷かれており、迫りくる敵に複数方向から攻撃をしかけられる、効率的な多重防御システムが目に浮かんだ。下写真。
少数の守備兵を効果的に配置できる曲輪設計に驚かされた。

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追手門口の駐車場から 5分ほどの登山で三の丸曲輪に至る(下写真左)。古い木造のトイレがぽつんとあったのが印象的だった。
曲輪の周囲には土塁の遺構が残っていた(下写真右)。

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ここからの眺望はすばらしく、富士山 や遠州灘が一望できた。
ちょうど眼下に、先ほどのバス停が見えた(下写真)。かつては、この周囲すべてを 徳川軍、武田軍が包囲していたわけである。

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続いて、御前曲輪、本丸へ移動する。いずれも 1分ほどの距離だった(下写真左)。
それぞれの曲輪が近距離に配されており、この点でも少数の守備兵で効率的に応戦できるコンパクトさが特徴的だった。表面積の多い大城郭だったら、逆に守る側も大人数が必要となったであろう。

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御前曲輪には、昭和 9年に地元出身の軍医少将が、故郷を偲び 2層の模擬天守を建てたという台座が残されていた(上写真右)。昭和 20年に落雷で焼失というが、一説には陸軍が駐屯していたため目立つということから破却されたとも。。。

その御前曲輪の並びに、本丸(本曲輪)が位置する(下写真左)。あちこちに土塁跡が生々しく残る。
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ちなみに、この本丸の真下に岩牢があり、1574年 6~7月の武田軍攻撃で落城しても降伏しなかった徳川方の武将・大河内源三郎が閉じ込められていたという。7年後に徳川勢が再占領すると、ようやく救出されたのだった。  


1574年6月、武田勝頼が兵 20,000を引き連れて襲来し、高天神城を包囲して 6月28日より猛攻撃をしかけ、7月9日に城兵らが開城・降伏すると、城主・小笠原長忠は武田方に下り、城兵には武田方への帰参か、徳川方への帰陣の自由選択が許される。 しかし、軍監・大河内源三郎(政局)はこの寛大な勝頼の配慮に服さず、一人、城内にとどまろうとした。これに怒った勝頼は源三郎を幽閉する。
しかし、城番として配置された 横田尹松(20歳)は彼の忠義に感じ入り、密かに厚くもてなしたという。

今度は徳川方が襲来し、1581年3月22日に城兵を全滅させた翌 23日、徳川家康が入城し、城内検視の際、牢内にいた源三郎が救出される。足掛け 8年の拘束により歩行困難となっていた源三郎と対面した家康は、彼に十分な恩賞を与え、同時に 故郷・津島の温泉地で療養をとらせる。回復した源三郎は牢中にあって恥辱の武名を晒したと恥じ入り、出家して皆空と称するも、後に家康に召し出され長久手の戦いで討死したという(1584年)。


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再び、本丸に戻り、すぐ下の的場曲輪を通過する(下写真)。上地図では「矢場」とあり、かつての 武器庫、練習場があった場所と思われる。

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的場曲輪から下に降りて、腰曲輪へ出る(下写真)。ちょうど本丸、御前曲輪の真下にあたる。

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このまま腰曲輪を西進すると、山の尾根部分を平たんに整備した鐘曲輪に至る(下写真)。
ちょうど 東(城本部)と 西(出丸)の両曲輪の中央部にあたり、 1574年 6~7月における武田勝頼軍の攻撃で、西曲輪全体が占領されると、この尾根上で激しい攻防戦が繰り広げられたという。

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ここから西へ一段上がったところが井戸曲輪だ(上写真奥)。
その名の通り、巨大な「かな井戸」があった。中を覗き込むと、怖いぐらいに深く広い巨大な穴だった。井戸名の「かな」は、その名の通り、水に鉄分が含まれているとか。。。

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そして、井戸曲輪から急な階段を上って、西の丸に至る。現在は高天神社の境内となっていた。もともとは城中守護の神社であったため、御前曲輪内に立地していたが(廃城とともに廃寺)、 1724年に当地へ移転され復活設置されたという。
なお、この西の丸は武田方の 城将・岡部丹波守真幸(元信)が守備していた時期があり、丹波曲輪とも別称されていた。

その脇には、武田氏城郭の特徴である 堀切(切割 ー 尾根伝いに攻め寄せる敵兵を防ぐためのもの)と 横堀(空堀)の遺構が案内されていた。幅約 9 m、深さ約 6 m あるという。

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西の丸、二の丸を散策後、最西端にある 馬場曲輪(馬場とは番場の当て字で、城の南側を見張る番屋があった)へ移動する(上写真右)。ここは、切割跡をまたいでいくので、なかなか道が険しい。往時には橋脚を有する木の橋が架かっていたらしい。
馬場曲輪のさらに西端に、横田甚五郎(尹松)の抜け道の跡が残されていた(下写真右)。ここから下山することも可能。

1581年3月22日夜 22:00に城兵が総玉砕覚悟で城外へ打って出ると、翌 23日早朝、初代城番として配置されていた 横田尹松(27歳。1554~1635年)は本国の武田勝頼に落城の模様を報告するため、馬を馳せて西方約 1,000 mの尾根続きの険路をたどって脱出し、信州を経て 甲斐 へと抜け去ったという。最終的に籠城軍で生き残った者は、11名いたとされる。

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ここからの眺望は素晴らしかった。城内、城外をすべて一望でき、山城の急峻な地形が手に取るように俯瞰できた。下写真は、南方向にある遠州灘を臨んだもの。

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下写真では、手前の家屋がある場所が西の丸で、その後方に東側の 曲輪(城郭本部)の山が横たわる。往時には、木々は伐採されていたので、御前曲輪、三ノ丸、追手口がすべて見通せたはずだ。
この高天神城は、一つの城内に主郭級の曲輪が二箇所あり、「一城別郭」と通称される築城スタイルという。

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さて再び、井戸曲輪を抜けて尾根中央の鏡曲輪まで戻ると、続いて 搦手口(城の裏門にあたり、城内から出てくる者を搦めとる意味から命名されたという。1571年に武田信玄本隊が攻め寄せた際、大槍使いの勇将・渡辺金太夫照が大将として城兵 250余りで見事、死守に成功するも、また 1574年の武田勝頼襲来の際にも守備を任されるも、武田の猛攻で井戸曲輪まで落とされると開城となり、以後、渡辺は武田方に帰順する。最終的に 1582年3月に織田軍が美濃より侵攻してくると高遠城での戦いで壮絶な戦死を遂げたという)の方から下山する。

下山途中すぐの曲がり角に三ヵ月井戸という、小さな池があった(籠城方は、至る所で水源確保に精を出した名残り)。水中には金魚がたくさん泳いでおり、どこに餌があるのか不思議に思ったが、山下につくと、井戸曲輪までつながる簡易クレーンが設けられており、ここから餌や神社に必要な物資を運び込めるようになっていた。搦手口の駐車場を越えて細い舗装道路を途中まで自動車が入れるようになっていた。

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上写真は、搦手口の山裾から見上げた高天神城。
さて、搦手門側の駐車場を抜けると、古墳のような 土盛り(土壌に貝殻片が多く含まれており、海岸地帯から運搬されたと思われる)が目に飛び込んでくる。地元有志らによって桜公園化しようという場所らしかった。その下にトイレがあったので、利用させてもらった。

下写真は桜の丘から城外を眺めたもの。往時には、武田軍、徳川軍が完全包囲していた場所である。

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ここから車道沿いに追手門口まで戻る形となり、途中の農道を伝って、バス停へ戻った。
今回の移動ルートは以下の通りである。

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帰路に直進した農道は、まさに 映画『カントリー・ロード』だった(下写真左)。
道中、嫌というほどススキのシャワーを浴びてきた(下写真右)。後方に見えるのが、高天神城。

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バス は 1時間に一本しかないので、1時間散策コースなら本丸曲輪から再び追手口へ戻るルートになるだろうし、2時間コースなら筆者が移動した追手口から搦手口へ抜けるルートになるだろう。14:09発の路線バスに乗車した。

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なお、路線バスを待っていた際、少し時間があったので附近を流れる下小笠川の 川辺(小笠橋)を散策してみた。その脇に千人塚があった(上写真左)。

1581年 3月22日深夜の総特攻で戦死した武田方の将兵 740名余りを埋葬するために設置された塚という。この下小笠川の河原で遺体や血を洗ったわけだ。
下写真は、下小笠川から バス停「土方」(道路曲がり角)、高天神城(中央の山)を臨んだもの。

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 武田氏 vs 徳川氏 ~ 高天神城の 攻防戦

小笠山から南東に延びる尾根の先端、 標高 132 mの鶴翁山を中心に建造された高天神城であるが、もともとは平安時代末の 1180年に源頼朝挙兵に同調した渭伊隼人直孝がこの山に砦を築いたことが最初とされる。当時、すでに山頂部には 神社(913年~)が設けられていたという。
1191年、当地(駿河国 土形荘)の 地頭・土方次郎義政が山頂の城砦を拡張させる。現在の「土方村」の地名も、この 地頭(土豪)の領地だった名残かと思われる。

さらに時代は下って室町時代後期に入ると、遠江(西部)守護の斯波氏と 駿河・遠江(東部) 2ヵ国守護の今川氏との対立が激化し、最終的に遠江全土が今川領に併合されることとなる。この過程で、1446年に福島佐渡守基正が、1471年に福島上総介正成が、 1536年に小笠原春儀が今川方から城主として派遣され、さらに西隣の三河攻略への前線拠点とされたのだった。この時代、重ねての強化工事が施され、小笠山の北を通る東海道をけん制できる立地条件、さらに尾根の三方が断崖絶壁、一方が尾根続きという天然の要害であったことから、高天神を制すれば遠州を制する、と俗称されるようになる。

1542年、小笠原春儀の跡を継いで氏清が城主となる。彼の治世時代に 今川義元の上洛作戦に随行するも、桶狭間の戦いから敗走する(1560年)。 1564年、小笠原氏清の後、信興(長忠)が城主を継承する。
1568年に密約を交わした武田氏と徳川氏が東西から今川領へ侵攻すると、大井川の西にあった高天神城は徳川方に併合される。翌 1569年、城主・小笠原信興(長忠)は徳川家康に従い、掛川城に籠る今川氏真の包囲軍に先鋒として参加する。さらに翌 1570年には、織田信長との同盟に従い、家康旗下の部隊として姉川の戦いにも参陣したという

そんな激動の時代の 1571年3月、徳川方との関係が悪化していた武田信玄が 25,000の兵力で遠江へ侵攻し、同国の要衝であった高天神城を包囲する。長忠率いる城兵 2,000が籠城する高天神城は、本丸に 軍監・大河内源三郎(政局)や 渥美勝吉(16歳)ら 500騎と 遊軍 170騎が詰め、西ノ丸には 300騎が配置されるなど、効率的な守備隊配置により武田方の城門突破阻止に成功する。間もなく、信玄は難攻不落とみて撤兵の帰路に就き、掛川城 と久野城を偵察しつつ、犬居を経て信州へ戻る。

1572年10月、本格的な西上作戦に入った武田軍 は高天神城を無視し、そのまま西進して 二俣城 を落とし、 浜松城 を素通りして三河への侵入を図った際、三方ヶ原の戦い が勃発する。高天神城主の小笠原信興も徳川方として参戦するも、惨敗を喫する。
信玄死後も武田勝頼により遠江の侵攻作戦は続行され、高天神城の攻略のために勝頼が 1573年、諏訪原城の築城を開始すると、その妨害作戦のため高天神城の城兵も出陣している。

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ついに 1574年5月、武田勝頼が兵 20,000を伴って遠江に襲来すると、高天神城は完全に包囲される。6月18日に武田方の 内藤昌豊、山県昌景の精兵が追手門へ突入し総攻撃が開始されると、連日の猛攻により 6月28日、武田軍は二の丸の占領に成功する。家康の援軍が来ない中、西側の曲輪一帯を占拠された城兵は戦意を喪失し、休戦交渉がスタートする。
ついに 7月2日、小笠原信興は降伏を決意し、7月9日に開城すると、城兵はその進退を自由とされ、武田方に帰参する者、徳川方へ帰陣する者などに分かれた。小笠原信興はこれ以後、武田方に帰順する。このとき、 18歳だった槍使いの 名手・渥美勝吉は徳川方へ戻っている。
この時の戦火により、城兵は 大石久未、川田眞勝ら 75名の死傷者を出すも、武田方は死傷者 253名もの損害を受けていたという。

直後に、勝頼により 横田尹松(甚五郎、20歳。1554~1635年)が城番として守備隊 1,000名とともに配置されると、すぐに強化工事が着手される。
武田勝頼はそのまま 浜松城 を目指し、徳川家康をたたく作戦であったが、織田信長自ら率いる援軍が浜松城に到着していたため、家臣団の進言を受け、いったん 甲斐 に帰還することとなる。この時の物足りなさが勝頼の心中で忸怩たる思いを強め、翌 1575年5月の設楽原での武田勝頼の撤退拒否と長篠合戦での武田軍大敗へとつながったと考えられる。もし、この時点で失敗するにせよ、成功するにせよ、勝頼に浜松城を攻めさせていれば、武田軍のその後の顛末は変わっていたかもしれない(少なくとも、この時、浜松城内には長篠合戦での 3,000丁もの鉄砲は準備されていなかった)。

長篠合戦直後の翌 6月より、徳川家康による遠江方面への軍事侵攻が開始される。武田勝頼も援軍を引き連れ遠江への出兵を行い、小山城の救援などに成功し、9月には十分な兵糧を高天神城内に搬入し帰国する。以後も、徳川軍は度々、遠江の武田領を犯すも、高天神城は落城しなかったが、同年末に 二俣城 が陥落してしまう。

以後も、徳川軍が横須賀城を築城するなど圧力を加えてくる中、1578年2月に再び武田勝頼は自ら出兵して高天神城へ兵糧を搬入し、徳川方の最前線基地としてさらなる強化工事を命じる。
翌 1579年8月、家康の度重なる攻勢に備え城兵らを交替させ、旧今川方の旧臣で猛将と勇名を馳せた 岡部真幸(元信)を城代として兵 1,000名と共に入城させる。城番だった横田尹松は軍監として引き続き、当城に配置された。

1580年3月、徳川家康が 楞厳地山(りょうごんじさん、標高 220.6m)に上り、高天神城の周囲の地理を視察する。そして同年 7月、家康は大軍を率いて 浜松城 を出発し横須賀城に入城する。その兵力は、家康直属の 3000名の他、本田忠勝、榊原康政、鳥居元忠らの約 9,000、北方には石川康通 500、東方には本多康重 500、大須賀康高 750、南方には酒井重忠 250ら、総計約 11,000という当時の徳川軍の総兵力を結集させたものだった。

すぐに高天神城の周囲に包囲陣地の構築が開始されると、附近の村民らは退避させられ、一帯の水田を刈りとられてしまう。 8月には付城 6砦が完成し(下地図)、完全包囲網が成る。孤立無援となりつつあった籠城方は、何度も勝頼へ援軍依頼を出すも、その返事は期待外れのものばかりだったという。当時、武田本部は東の北条氏政、西の織田信長と同時に敵対している時期で、出陣が不可能な四面楚歌の状態にあったのだった。

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包囲陣地網が完成されると、同年10月23日、徳川方の 本田忠勝 らが城門突破を図って総攻撃を敢行し、東側の的場曲輪、西側の二の丸ともに大激戦となるも、部下の袴田源左衛門らが討死するなど、手痛いダメージを受けて撃退される。
徳川方の攻城軍は、強化工事が施された高天神城の攻略は困難と悟り、持久戦の兵糧攻めに切り替える。それから半年間、引き続き武田勝頼への援軍要請と徳川方への開城交渉を進めるも、両者実らず、いたずらに時間だけが過ぎていった。
翌 1581年3月、援軍の望みは完全に断たれ、食糧は尽きて雑草すら食べる最悪の状態となり、士気は低下し、餓死者も出始める。

ここに至って守将・岡部元信 は総玉砕を決断し、3月22日夜 22時、軍監・江馬直盛ら以下、総勢 740名は決死の覚悟を決め城外に打って出ることとなる。一隊は林ノ谷口、一隊は龍ヶ谷と二隊に分かれて総突撃が敢行され、これを迎え撃った徳川方の大軍と暗闇の中、すさまじい混戦となるも、多勢に無勢の中、圧倒的な兵力と体力差があった徳川勢の前に武田軍 740名は全滅してしまうのだった。直後に、徳川方の松平康忠らが城門を破って突入し、追手櫓門を焼き落とし、残党兵の掃討を進めたという。

翌 3月23日に徳川家康が入城すると、その城内検視の際、大河内源三郎の救出劇が起こる。
同時に、わずかに生き残った城兵 10名は助命されるも、武者奉行だった孕石元泰のみが切腹を命じられる(家康は駿府人質時代に元泰からいじめられており、その恨みをここに晴らしたと言われる)。そのまま高天神城は焼却され廃城となった。
守将の岡部元信をはじめ守備兵のほとんどは元今川家臣団であり、最後まで武田方に忠誠を誓って籠城する義理はないはずだったが、 桶狭間の戦役後の鳴海城での 攻防戦(1560年)で岡部元信より苦汁を飲まされた織田信長は、元信らの助命降伏を禁止していた。このため、徳川家康は最後まで交渉のテーブルにつかず、武田守備兵の全軍を討ち死にさせたのが実情であった。最終的に 守将・岡部元信の首は信長のもとへ送られる。攻略にてこずらされた高天神城の陥落と 城将・岡部元信の死に徳川家康も大いに喜んだというが、遠江平定前後の家康の動きから察するに、岡部元信を降伏させ旗下に加えたかったのが本音ではないだろうか。
実際、この時、甲斐 へと落城報告のため落ち延びた 城番・横田尹松(1554~1635年)は武田家滅亡後、家康に仕え、江戸幕府旗本に組み込まれている。


1583年には避難していた村民らの多くも城下に戻り、再び村落が復興される。江戸時代中期の 1724年、もともと御前曲輪内にあり廃寺となっていた高天神社が、西の丸に復活設置される。また、徳川方として戦い戦死していた本間八郎三郎氏清と丸尾修理亮義清の墓碑を、子孫の本間惣兵衛が設置する(1737年)。昭和に入り、山上に数多く残る遺構と歴史上の価値が評価され、1956年に静岡県指定、1975年に国指定の遺跡となる。



帰路のバス車内では、昼間の眠気に襲われウトウトしてしまった。 さて、25分弱で掛川駅北口に戻ると、いよいよ駅前に見える掛川城を目指す。
ちょうど駅前通りに業務用スーパーがあり、うまい棒 30本入セットを買って、腹ごしらえする。

途中、旧東海道を横断した。城下町の風情を醸し出そうと、各所で和風建築デザインが取り入れられていたが、この駅前商店街もマイカー時代にあって、その寂れ具合は隠しようもなかった。

旧東海道の一つ北の道路沿いに大手門が復元されていたので、立ち寄ってみる(下写真左。周囲の区画整理のため、本来の位置から約 50m北にずれている)。また、大手門裏には番所まで復元されており(下写真左の門後方)、なかなかの手の込み具合に驚かされた。さらに番所の裏手には三光稲荷があり、これは 山内一豊 が掛川城築城の際、秀吉の命で 伏見城 の普請にも従事させられた折、伏見稲荷から勧進されたものという。

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大手門を通過すると、なんと川(逆川)が流れていた(上写真右は、大手橋)。。。大手門と 城郭本部(本丸&二の丸)との間に川が流れているという設計だった。。。こんな城郭は初めて目にした。
下写真は、この大手橋から本城エリアを遠望したもの。春には、掛川桜が満開という。

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下絵図は、往時の掛川城と城下町の様子。

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さて川を渡り、城郭本部 を目指す。三の丸 広場(今は駐車場)脇から本丸曲輪を目指した(下模型)。本来あった 松尾池(内堀)は逆川に組み込まれ、現存していない。

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なお、この三の丸 広場(駐車場)であるが、江戸時代後期から三の丸へ改編されており、それまでは二の丸に相当していた(上模型で名称がズレている理由)。
その後方には 1~2 mだけ高くした部分があり、ここが二の丸で藩主御殿や政庁があった空間である。かつては三の丸だったが、二の丸と交換されたという。
上模型の掛川城は、山内一豊 が普請した江戸時代初期のもの(1644年当時の絵巻を参考に)。

続いて内堀に相当する三日月堀と 十露盤堀(そろばんぼり)脇の階段を上ると(下写真)、四足門をくぐって本丸曲輪に至る。
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下写真は、天守台から見た本丸曲輪と三の丸 広場(駐車場)。中央右の建て物で、天守閣と二の丸御殿への 入場券(410円)を購入する。本丸曲輪も非常に狭かった。

下写真中央の、黒板敷の壁を持つ櫓が太鼓櫓で、もともとは三の丸にあって時刻を知らせる太鼓を置いていたという。1854年の大地震後に建造されたもので掛川城で現存する唯一の江戸時代の櫓。もともと本丸正門には荒和布櫓という見張り用の櫓門があったが、現存せず(上模型参照)。

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城は全体的に石垣を多用せず、自然の丘陵斜面をうまく利用して建造された平山城であった。
なお、「掛川」の由来であるが、東から流れる逆川が城山にあたり、川は深い渕となり崖を作っていたことから、鎌倉時代より懸河と通称されていたという。

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天守閣に至ると、本城を築城した山内一豊の解説などが展示されていた。また、『掛川三城ものがたり』のプロモ-ション映像も放映されており、音楽、映像ともに見事な編集だった。

天守最上階からは、掛川市街地 が一望できた。

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なお、この掛川城内には新旧二つの城郭が内包されており、特徴的な普請設計と言える。上写真の後方に見える 500 m離れた小山(1656年、掛川城主・北条氏重がこの古城本丸跡地に 三代目将軍・徳川家光 の位牌を祀る「天王山龍華院・大猷院殿霊廟」を建立しており、現存する)が、今川時代の掛川城本体であった。当時、この現天守がある城山部分にも二次的な要塞が建造され、出城的な位置づけで防備を固めていたと推察される。今川義元の治世時代に、この出城部分が本曲輪へ改編され、一城別郭の主従関係が逆転したと考えられている。

また天守閣の見学後、続いて二の丸に入り、藩主御殿を視察する(上写真の眼下に見える大きな和風建築物)。ここは儀式、公式対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所と、城主の公邸が連結した建物で、書院造りと呼ばれる建築スタイルにて、多くの部屋が連なる木造邸宅となっていた。当初は本丸にも御殿があったが、老朽化や災害などにより、現在の二の丸内に 移転・集約されることとなった。この時に、「三の丸」と「二の丸」が交換された、というわけである。
ここまでの移動経路は以下の通り。

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山内一豊(1545~1605年)入封以前の掛川城は、今川家当主・今川義忠の 重臣・朝比奈 泰煕(あさひな やすひろ。?~1511年)によって築かれた小山を加工した軍事専用の中世城郭であった(1487年~)。
二代目城主・朝比奈 泰能(1497~1557年)は、太原雪斎と共に 今川氏親、義元父子を補佐して東海地方における今川氏の覇権確立に尽力した。その本拠地であった掛川城は 1512~13年、彼によって現在の城山部分に本丸曲輪が移転され、城域が大幅に拡張される。今川家の勢力拡大にともない城内が手狭となったためであり、また遠江西部の要としての役割も期待されてのことだった。

その子の 三代目城主・朝比奈 泰朝(1538~?)の時代、徳川軍に囲まれて(1568年12月30日より家康の遠江出兵がスタートし、翌 1569年1月14日には掛川城に到達していた)、今川氏真をかばいつつ籠城することとなる。家康は、掛川城周辺に 陣場峠(青田山砦)、杉谷城、笠町砦などを作って完全包囲し、激しい攻防戦が繰り広げられたという。

同年 6月、武田信玄との反目 により遠江のスピード占領を目指した家康は、掛川城を交渉により開城させ、最終的に今川氏真と朝比奈 泰朝の身柄は 掛塚湊(旧竜洋町)から海路、小田原の北条氏側へ引き渡されたのだった。
掛川城を占領した徳川家康は、家臣・石川家成、康通父子を守将として配する(以後、22年間統治した)。城郭の強化工事も多少は実施されたであろうが、大規模な改築には至らなかった。この時代まで、城郭は屋根瓦や石垣は用いられず、城主は山裾の逆川沿いの居館で生活したものと推定されている。

1590年、豊臣秀吉が全国の諸大名を動員し北条討伐に出発すると、山内一豊 もこれに従軍し、最大の激戦地であった山中城や足柄城攻めで軍功を挙げたという。 3か月後に小田原の北条氏も降伏すると、秀吉は徳川家康を 京都大阪 に近い東海エリアから排除し、北条の 旧領・関東八州に移封させる。

これと同時に秀吉は、東海道筋に最も信頼のおける子飼いの大名たちを配して家康牽制を図ることとなる(下地図)。豊臣秀次(清州城。後に 福島正則 が継承)、堀尾吉晴浜松城)、中村一氏(駿府城)らが東海に配される中、山内一豊(45歳)も 長浜 2万石(1585年~城主だった)から掛川 5万石へ移封されることとなったわけである。以後、10年に及ぶ掛川城主時代がスタートする(1590年9月20日~)。

掛川市

一豊は掛川に入封すると、この軍事一辺倒の中世城郭を、領国経営の拠点である近世城郭へ飛躍的に発展させるべく、大工事に着手する。彼自身、前任地の 長浜 で近世的な城郭建築の築城技術を目にしており、すでに知識も豊富であったと考えられている。その主なポイントが天守閣の造営、大規模な総構えによる城下町の取り込みであった。
1591年に地割りの祈祷が行われた後、翌 1592~1596年に天守閣の建築工事が進められる。と同時に、山頂の本丸や山裾の曲輪群をほぼ新設に近い形で大改造し、二の丸、三の丸、腰曲輪などが整備される。また旧掛川城の丘陵東側の堀を拡張し、北側の北池と南側の逆川を天然の堀とし、中枢部は石垣や土塁によって通路を整備した。

ちょうどこの頃、全国の諸大名が北条氏の小田原城の堅固さを目の当たりにして、各地で総構えによる城郭建設が一般化されるようになったタイミングと合致し、掛川城でも城下町の建設が入念に進められることとなる。
水運の要であった逆川、および主要交通路であった東海道を城下町に取り込みつつ、街道沿いに東西に町屋を横切らせ、東側の防備を固めるために鍵の手状に曲がり角を複数設けていた。また、蛇行する逆川は水運以外にも、大軍の行軍を阻止する役割も期待されるなど、様々な工夫がこらされたのだった。

こうして東方、つまり関東に対する備えが最優先され、東面のみ三重の堀をめぐらし、合戦時には掛川古城を前線基地とするよう設計されたと考えられている。この時代、城内に整備された 三の丸(現二の丸)には一豊の筆頭家老であった深尾重良が屋敷を与えられ、城内に居住したという。

掛川市

この掛川城主時代の山内一豊は、ひたすら掛川城の拡張工事や城下町の整備に心血を注いだわけだが、秀吉の死とともに徳川家康に接近するようになる。そして、関ヶ原の戦い の直前、下野の小山で開かれた軍議において、一豊は掛川城を家康に差し出し忠誠を誓うと真っ先に発言し、関ヶ原本戦では大きな功績はなかったが、合戦後の論功行賞で土佐一国 20万石が与えられることとなる。そして、現在の高知城を築城するのだった。

山内一豊の移封以降、東海の要衝で豊かな城下町を誇った掛川城では、約 150年もの間、徳川譜代大名がめまぐるしく入れ替わるも、1746年の太田氏の入封以後はようやく藩主家が安定し、明治維新まで太田家 7代の支配地となる。

しかし、山内一豊が築いたとされる天守は、1604年の大地震で大破していた。直後の 1621年に再建されるも、幕末の 1854年末に発生した安政東海地震により、天守を含む城内の大半の建物が再び倒壊してしまう。
直後より政務所である二の丸御殿の再建工事が着手され、1861年に完成されるも、天守は再建されることはなく、明治維新を迎える。 1869年の廃城後、この藩主御殿は学校や市庁舎などに転用されるも、 1972年から 3年間の修復工事を経て、国の重要文化財に指定されるに至っている(1980年1月26日)。江戸期から現存する城主御殿は、京都二条城 など全国で 4箇所しかない貴重なものという。
また、倒壊から 140年たった 1994年、日本初の本格木造天守として 天守閣(外観三層、内部四階で、床面積 12 m × 10 m。入口に付け櫓を増設し、小ぶりな天守を大きく見せる設計だったという)も復元されたのだった。



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