BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


千葉県 印西市 ~ 市内人口 11万人、一人当たり GDP 315万円(千葉県 全体)


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  師戸城跡(県立印旛沼公園)
  船戸城跡
  岩戸城跡
  市立印旛歴史民俗資料館
  高田山城跡、鎌苅館(鎌刈館)跡
  木下街道(江戸時代に整備された、東京行徳~利根川を通る脇往還) と 木下河岸



京成成田駅前に投宿しつつ 「京成臼井駅」まで移動し、駅南口で自転車を借りて(普通自転車 500円、電動アシスト自転車 1,000円。さらに追加で登録料として、それぞれ 250円、500円要)、駅から北上して 臼井城跡(臼井城址公園)、臼井田宿内砦跡、田久里砦跡、稲荷台砦跡、王子台砦跡(謙信の一夜城)、洲崎砦跡 などを巡った後に、印旛沼を渡って印西市側を訪問してみた。下地図。

印西市

印旛沼の北岸側に到着してすぐの場所に、師戸城跡があった(上地図)。現在は、千葉県立印旛沼公園となっており、見ごたえ抜群の城郭遺構が数多く保存されている(下絵図)。特に、堀の深さと土塁の高さは圧巻だった。

江戸時代中期に手掛けられた印旛沼の干拓前、沼水はもっと巨大で、城塞のすぐ眼下まで湖岸が迫っていた(洪水期には、湖岸は度々冠水の被害を出していた)。その印旛沼に突き出た半島状の台地南端を、数本の堀で切断し、それぞれを曲輪化した、直線連郭の沼城であった。規模こそ小さかったが、広大な印旛沼の北岸にあって、臼井城の北面守備の拠点だったと考えられる。当時、周囲の支城群は各方面の守備とともに、それぞれの相互補完と糧道確保を担保するネットワークを構築していたようで(水運&陸運)、室町時代に 太田道灌上杉謙信 らの名将が本城を攻撃した際、この支城ネットワークの攻略に最も時間と手間をとられたという。

印西市

続いて、県道 64号線を 600~700 mほど西進し、船戸城跡に立ち寄ってみる(下地図)。ちょうど県道が登り坂となっている途中に立地していた。

印旛沼沿いに東西に長く伸びる、独立した 台地(高低差 20 mほど)上に築城されていたが、目下、その高台上の雑木林の中にわずかに城塞遺構が残存するのみとなっている(主郭、腰郭、土塁、空堀など)。台地の麓部分は民家により土地改変がかなり進んでおり、半分以上が削られて原型をとどめていない。西隣の畑は「根古屋」と呼称されており、かつては城下に集落や居館があり、緊急時に丘上の城塞に立て籠るスタイルであった名残り、と考えられている。

千葉氏一門出身で、その筆頭家老だった原氏の居城・臼井城の支城群の一つと考えられ(1辺 50 mほどの方形型、単郭城塞)、先程の師戸城と共に、印旛沼北岸を監視する拠点網を担ったと考えられる。
干拓が進む以前の印旛沼は湖面がもっと巨大で、師戸城や船戸城の眼下ギリギリまで沼水が迫っていた。南岸の支城網とあわせて、臼井城を中心とする船運ネットワークを構築し、一帯の支配体制を補完していたと推察される(船戸城自体は、岩戸城と臼井城との中間地点にあり、つなぎの城としての役割を担っていたと考えられる。下地図)。実際、「戸」という漢字は「船着き場」「渡し場」を意味するもので、師戸城、船戸城、岩戸城、柳戸城など、支城群に多用されている点も注目したい。

印西市

さらに余力があれば、もう少し北上し、岩戸城跡と 印西市立印旛 歴史民俗資料館も訪問してみたい。上地図。

まず、市立印旛 歴史民俗資料館(開館時間 9:00~17:00、毎週月曜休館。入館無料)であるが、その名の通り、印西市に関する簡単な歴史資料が展示されている。その他、市民が利用できる教育スペース、貸し会議室を兼ねた施設のようだった。上地図。

印西市

そして岩戸城跡であるが、現在は西福寺の境内となっており、一辺 60 mほどの方形型の敷地がそのまま残っている。四方を取り囲む土塁と空堀が見事に残存し、城主の居館をメインとする単郭式城館であった。

なお、岩戸城に関するエピソードとして、『印旛村史』に鎌倉時代末期の 城主・岩戸五郎胤安の悲劇が記録されている。
当時の 守護家・千葉氏一門の臼井氏に仕えた 家臣・岩戸胤安は、家臣団の筆頭家老に名を連ね、臼井城の支城群の中でも、師戸城、志津城に並ぶ重要拠点を任されていた人物であった。しかし 1314年秋、臼井氏で 家督争い(当主・臼井祐胤が 25歳で急死すると、家督を相続した 3才の竹若丸に反旗を翻す形で、実弟・胤氏が挙兵した。上家系図)が勃発すると、命を狙われた竹若丸を守るために、乳母の 阿辰(阿多津)が 岩戸城主・岩戸胤安に保護を求め、匿われることとなる。 しかし、家督奪取を目論む 志津次郎胤氏(志津城主)の軍に攻められ、多勢に無勢の中、岩戸城は落城することとなり、匿っていた竹若丸を 鎌倉 へ脱出させた後、城主の 岩戸胤安、胤親父子は城を枕に自刃して果てたという。
その後、志津胤氏が臼井家当主として君臨するも、 足利尊氏の公認と 千葉介貞胤(千葉氏 12代目当主)の助力により、臼井興胤(幼名:竹若丸)が臼井の本領に復帰すると(1338年)、ついに 1340年、叔父の志津胤氏を攻め滅ぼして仇討ちを成し遂げるのだった(上家系図)。その後も、岩戸城は臼井城の支城群の一つとして機能した、と考えられる。下地図。

印西市

さらに北側には複数の城跡が現存するが(上地図)、やや距離があるので、すべてを一日で廻るのは不可能だろう。



 高田山城(印西市岩戸字高田山)

冒頭の師戸城跡の西隣を流れる師戸川の上流西岸に位置し、南北に長く伸びる台地上に築城されていた(川辺からの高低差 20 mほど)。高田山城、岩戸城、船戸城が同じ台地上に配置されていた。

現在は、山林に埋もれており、城跡に関する案内板も一切、設置されていない。林道も整備されていないので、冬季に訪問するのがベスト。
城域は主副の 2郭から構成され(それぞれ 40 m2ほどの規模)、土橋で連結されていた。現在でも、深さ 4 m、幅 6 mほどの空堀をはじめ、土塁、虎口、櫓台などの遺構がはっきりと視認できる。


 鎌苅館(鎌刈館)(印西市鎌刈)

同じく師戸川の上流に位置し、南北に長く伸びる台地上に、南に師戸城、中央に鎌苅館、北に松虫城が連なって配置されていた。しかし、いずれも詳細は全く不明となっている。
現在、鎌刈村の裏山的な高台となっており(高低差 10 mほど)、この山林内で往時の土塁や掘の遺構が現存する。60 m四方を掘と土塁に囲まれた方形型で、単郭式の城館であった。なお、周囲の民家にも同様に四方を土塁で取り囲んだ設計のものもあり、かつての城館と関係があるのか否か、全く不明である。



再び、 印旛沼の南岸側へ戻り、八幡台、臼井八幡社、仲台砦跡、興隆寺、小竹城跡 などを訪問してみる(冒頭地図)。一通り見学後、自転車を返却すべく「京成臼井駅」前へ戻った


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