BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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大阪府 枚方市 ① ~ 市内人口 40万人、一人当たり GDP 470万円(大阪府 全体)


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  枚方城跡
  御茶屋御殿跡(豊臣秀吉が建設した 愛人用別邸。江戸期始めに 徳川秀忠・家光父子も投宿)
  江戸時代の 宿場町「枚方宿」、枚方宿鍵屋資料館、東 / 西見附、本陣跡、桜新地(旧遊郭)
  楠葉(橋本)台場跡史跡公園、番所跡、北虎口跡、南虎口跡
  淀川対岸にあった 梶原台場跡、高浜台場跡



関西周遊では、この 大阪 中心部(JR大阪駅前、難波、心斎橋、四ツ橋エリア)に連泊したい。関西最大のホテル激戦区というわけで、男性専用シングル 3,000~5,000円台も多い。 新幹線や JR京都線の新快速が発着する JR新大阪駅前(枚方市) まで移動すると、シングル、ツインともに 4,000~5,000円台のホテルも多く、選択肢はより広い。 この大阪中心部からは、京都奈良 エリア一帯まで日帰り往復できるので、 1~2週間ほど連泊したいと思う。

この日、枚方市域のうち、淀川左岸付近の史跡群を見学すべく、投宿先の JR大阪駅前 から京阪本線に乗車し、「枚方公園駅」まで移動する。

早速、この駅東側にある 旧「御茶屋御殿」跡を見学してみることにした。北に隣接する 意賀美神社(おかみじんじゃ)を目指す形となる(下地図)。現在、御殿跡地は「茶屋御殿展望広場」という綺麗な市民公園となっていた。

枚方市

この駅東側は丘陵地帯が続いており、急坂と石階段をさらに登っていくと、かつて「枚方城」があったという高台に到達する。城跡に関する記念碑や案内板は全く存在せず、とりあえず、枚方小学校(上地図。枚方市枚方上之町 9-21)一帯が、その跡地と推定されているだけらしい。



 御茶屋御殿跡

古代には、大阪湾が畿内の平野部奥深くに入り込んでおり、その当時から枚方の丘陵地帯は陸地として存在したことから、早くより人々が居住していたようである。実際、この御殿山と称される高台上には、万年山古墳(まんねんやまこふん)という前方後円墳が建造されていたことが分かっている(1904年に銅鏡 8面が出土)。

このような畿内の中央部という好立地で、かつ淀川の水運と畿内南北に通じる街道沿いという位置関係から、経済的にもともと有利な土地柄であったことは明白であろう。この豊かな淀川東岸一帯の土地を支配すべく、丘陵上に領主の 城館「枚方城」が開設され、見張り台や城下町が展開されていたことは容易に想像できる。

そして安土桃山時代、この交通の要衝に目をつけたのが 豊臣秀吉であった。当時、伏見城大坂城 とを頻繁に往来していた秀吉は、その中継地点にあたる当地に、自身の愛人用の 別宅「御茶屋御殿」を建設する(1595~1596年)。当時の 枚方城主・本多政康の娘である 乙御前(おとごぜん)を気に入っていた秀吉は、容色端麗・諸芸に通じた才女だった彼女をここに居住させて自身の妾とし、度々、足を運んだという。

また、1596年に行われた淀川堤防修築工事に際し、秀吉が対岸の大塚から、枚方エリアの工事の様子を上機嫌で眺めていた、という記録も残されている。

なお、当時のエピソードとして伝えられた逸話によると、御殿で開催された茶会の際、乙御前が度々、近所の 一乗寺(応仁の乱で焼失後、寺勢は衰退していた)の住職を招待したため、秀吉に二人の仲を疑われることとなった。住職は自身の潔白を証明するため、自らの男根を切り自殺したという。1598年に秀吉が死去すると、乙御前は髪を切り出家して、住職を弔ったとされる。
この時、娘を援助すべく、父の本多政康が荒廃していた一乗寺を本格的に再建し(1600年)、これが浄土宗寺院として現在まで存続されているわけである。境内には、この中興の 祖・本多政康の墓所が今も保存されている。

枚方市

江戸時代に入っても、大坂京都伏見 をも遠望できる好立地の高台は重宝され、大坂の豊臣氏滅亡後、大坂方に与した枚方城は廃止されたが、秀吉時代の「御茶屋御殿」はそのまま残され、江戸幕府の公用施設として利用されることとなる。
1623年には 2代目将軍・徳川秀忠が、1626年には 3代目将軍・家光が 京都 訪問の際、この屋敷にも足を運んだ記録が残されている。

特に、この家光来訪時、秀吉が建てた「大茶殿」の隣に、別の大きな御殿が増築されたようだが、以後は将軍によって利用されることもなくなり、西国大名(特に 紀州徳川家)の休泊する本陣として使用されていたようである。

その後、秀吉時代の 建物「大茶殿」は 1654年に老朽化のため解体され、新築御殿がその用材の収納庫に当てがわれていたという。しかし、1679年7月1日に発生した枚方宿の大火の延焼を受け、新築の御殿もろとも全焼し、以後再建されることはなかった。跡地の高台は、幕府の用材を調達する御林として残されたという(下古地図)。

その後、民間公益法人 NTTの管理地となり、平成時代に入ってからは利用目途も全くなくなり、単に柵を張り巡らせた荒れ地となっていたが、 2005年12月に枚方市がこの荒れ地を無料借用し、阿妻屋風休憩所を建設して「茶屋御殿展望広場」として整備し直し(2006年3月)、今日に至るというわけだった。

枚方市


 枚方城跡

この御殿山の後方に続く丘陵地帯に、枚方城という本多氏の城館があったとされるが、今日、その跡地ははっきりとは解明されておらず、現場には城跡記念碑や解説板も設置されていない。現在の枚方小学校の一帯に立地していたはず、と推定されるのみとなっている。駅前からは、ひたすら坂道を上り続けることとなり、この地形的利点から、何らかの城塞か軍事拠点があったことは間違いなさそうだった。

この枚方の地であるが、大和王権時代に 百済王氏(百済王国が滅亡する際、倭の国へ脱出してきた 王族の末裔)が渡来し居住した地と記録されており、古くから当地を支配した本多氏は、その後裔を称して枚方城の城主を代々継承してきたという。

戦国時代に入り、当時の 城主・本多政康は豊臣秀吉の家臣となり、その 娘・乙御前が秀吉の妾として大いに寵愛されたことから、本多家も厚遇されたという。秀吉は城近くの御殿山に彼女のための別宅を建設し(1595~96年)、自身も度々足を運んだことから、ついでにその父のいる枚方城にも、秀吉自ら立ち寄った可能性も考えられる。

秀吉死後も豊臣家との関係をキープし続けた本多政康であったが、徳川家との対立が増す中で、大阪冬の 陣(1614年11~12月)が勃発する前に、徳川軍の手により枚方城は奪取されてしまうのだった(1613年)。そのまま大坂城内へ避難していた本多政康自身も、1615年5月の夏の陣で戦死し、豊臣家と共に本多家も滅亡したという。そのまま枚方城も廃城となったと考えられる。
現在、一乗寺(枚方市岡南町)の境内には、1600年の寺院再建に大きく貢献した本多政康の墓所が保存されている。

また、ここから東へ 1.5 kmほどの場所にある大阪精神医療センター前には、本多氏の祖とされる百済王家ゆかりの 百済王神社・百済寺跡が保存されている。



枚方市

丘陵地帯を下って再び「枚方公園駅」へ戻り、今度は駅西側へ移動して、江戸時代の 宿場町「枚方宿」エリアを散策してみる(枚方公園駅 西広場には、この枚方宿に関する観光案内マップが設置されていた)。

そのまま江戸時代の 旧街道「京街道」に入ると、すぐの場所に 市立枚方宿鍵屋資料館があったので、早速、見学してみた(安土桃山時代に創業し、江戸時代に淀川水運で栄えた船宿屋で、明治維新直後の 1868年3月に明治天皇に随行した 公家・岩倉具視が休憩した事から、脇本陣に準ずる地位にあったと考えられている。その後、1997年まで料亭として営業していたが廃業し、2001年に資料館として一般公開)。
1700年代末の建築と推定される主屋は、船宿当時の建築様式を残すとして評価されており、淀川へ直結されていた木戸門と 船着場の遺構が今も保存されていた。

また、この鍵屋前の路地は、周囲の街道より高所となっているが、これは元々この宿場町が文禄堤の上に作られたため、江戸時代初期の当時、地盤の断面が半円形だった名残りという。この他にも、街道筋の所々で周囲より若干高い場所が見受けられるが、これは文禄堤の地形に由来するというわけだった。

さらに旧街道を南進しつつ、「明治 18年洪水碑」、「郵便屋の渡し跡」「枚方船着場」などの記念碑、宿場町エリアの 南端「西見附」、枚方 桜新地(旧遊郭)エリアなどを散策してみた。上地図。

この先は淀川の土手があり、ついでに淀川沿いを軽く見学してみた。野球場や バスケットコート、テニスコートなど、たくさんの運動施設が設けられていた。上地図。

枚方市

再度、旧街道沿いを戻る形で北上し、浄念寺、蓮如上人(1415~1499年。浄土真宗本願寺派の 中興の祖)旧宅跡の碑を見学しつつ、京阪電車の線路を渡り、旧「枚方寺内町」エリアを歩いてみる(上地図)。この一帯は、織田信長の石山本願寺攻めの際、一向門徒宗の寺院要塞と門前町が立地したことから、一斉焼打ちされた地区という。

再び線路を渡り、旧街道沿いを北上していくと、「本陣跡(本陣の建物自体は 1870年に取り壊され、その跡地に北河内郡役所が開設されていたが、現在は三矢公園として整地されている)」があった。なお、本陣前を通る街道は左右に折れ曲がった枡形となっており、貴人が投宿する本陣を防衛する工夫が凝らされていた名残りという。上地図。

そのまま旧街道の名残りが残る商店街を歩きつつ、「常夜灯」や「宗佐の辻(東海道と 磐船街道の分岐ポイント。その正面に、角野宗左が営む油屋が立地していたことから、 ”宗左の辻”と通称されていたという)」、「小野邸(八幡屋。問屋役人の小野平右衛門の屋敷で、幕末期の町屋建物が現存)」などを見学しつつ、北端の「東見附」まで踏破した。上地図。

この「東見附」と 先述の「西見附」であるが、その名の通り、宿場町「枚方宿」の東端と 西端の出入口を意味していた。江戸時代当時、「東見附」は天野川の橋に面しており、道の両側に柵で囲われた松が植えられていたという。


関ヶ原合戦 の翌 1601年、徳川家康は 江戸 から全国への街道整備に着手し、メインルートだった東海道を開通させる。その後、1615年に豊臣氏を滅ぼすと 大坂城 を再建し、上方と西国支配の拠点に定める。このため、東海道を大坂まで延長することが決定され、江戸~大坂間を「東海道」と再改定することとなる(下地図)。

しかし、引き続き、東海道は品川宿~ 大津宿 までの 53宿という認識が一般化し、京都~大坂間は「京街道」「大坂街道」という別称が定着していくこととなった(上方の住民たちのプライドもあったのかもしれない)。下地図。

枚方市

江戸時代、この「京街道」のど真ん中に立地し繁栄を謳歌した「枚方宿」であるが、もともと戦国時代から 京都大阪本願寺 の中継拠点として、一向宗系の門前町が形成されていたことが確認されている。
1550年前後には、枚方丘陵と 淀川との間に「枚方寺内町」の原型となる宗教集落がすでに存在しており、ここに 1559年、石山本願寺から蓮如の 13男・実従が派遣され「枚方御坊」を開設した記録が残る。実従は、三矢口から船に乗って大坂間を往来していたようで、交易集落も兼ねた水運ネットワークが構築されていた。しかし、1570~1580年にかけて 石山合戦が勃発すると、本願寺派とみられた「枚方寺内町」一帯は織田軍によって焼き払われ、灰燼に帰すこととなった。

その後、秀吉が信長の後を継承し全国平定を進めていくと、畿内では戦乱がなくなり、枚方の町も復興が進められる。また石山本願寺跡地に、新たに 大阪城 と城下町が整備されると、もともと水運で結ばれた両地区だったことから、枚方の町にも多くの人やモノが集積していったことは容易に想像できる。

さらに 1595~96年にかけて、愛人・乙御前のために「御茶屋御殿」を建設した豊臣秀吉は、その近隣の村や集落を河川氾濫から守るために、淀川東岸に大規模な堤防を築造することとなる(1596年)。これが後に「文禄堤」と称される河川堤防で(伏見城 を中心とした水陸交通網整備の一環でもあった)、大坂京橋と 京都伏見との間、南北全長約 1.5 kmにわたって延々と築かれていたという(既存の堤防なども一部活用した)。この時の工事では、主に 毛利輝元、小早川隆景、吉川広家らが普請負担を命じられたという。

あわせて、堤防上には街道が整備され、秀吉が 伏見城大坂城 を移動する交通路に定められたのだった。
そして先述の通り、1601年に徳川家康がこの堤防上の街道を「京街道」として東海道に組み込むと、1616年、伏見宿淀宿守口宿 の宿場町と共に、枚方宿が開設されるわけである(東海道五十七次のうち、品川宿から数えて 56番目の宿場町)。街道は、道中奉行の管理下に置かれることとなる。

なお、この街道兼堤防の 法面(川面とは反対側の斜面)沿いは、多くの民家や町家が自然と集い、自力で土地加工を施しつつ、町を拡張していったようである。その後、淀川の水位が上昇したことから、街道や民家が立ち並んだ堤防は幾度もかさ上げのための土木工事が着手され、現在の高さに至ったという。

枚方市

そして、この 宿場町「枚方宿」であるが、東見付~西見付までの東西 13町 1間(1,447 m)、道幅 2間半(4.5 m)の規模で、岡新村、岡村、三矢村(家屋が三軒しかなかったため、はじめ「三屋」と命名されていた)、泥村(淀川沿いの低湿地の泥田が町になったことに由来)の 4集落が南北に細長く並列する構図であった(上地図)。
この中でも三矢村が中心部を担い、本陣(池尻善兵衛家)、家老専用本陣 1軒(中島九右衛門家)、脇本陣 2軒、問屋場 2か所、高札場が集中して配置されていた。その他、上之町・中之町・地下町・堤町があり、宿場町合計で 55軒の 旅籠、船宿、茶屋、寺院が点在し、それらの間に 378軒の民家が広がっていたという。

なお、秀吉時代までの「枚方の町」とは、このうち「三矢村」付近を指したと考えられ、上記のように細かく区画されず、集落全体を呼称していたようである。

枚方市

京都 へ六里(24 km)、大坂 へ五里(20 km)という、両都市の中間ポイントに位置した「枚方宿」は、徒歩移動でちょうど半日分の距離だったことから、主に昼休憩スポットとなったようである。また、街道と平行して機能する淀川水運(京都伏見 ー 大坂八軒家)でも、中継拠点として大いに繁栄したという。常時、三十石船、二十石船など一千隻以上の大小様々な舟が行き交っていたとされる。

特に、旅客専用だった三十石船は、夜と昼の一日二便が運航されていた。下り便は半日で行けたが、上りは一日がかりだったことから、徒歩移動とほぼ変わらないものだったという。さらに、その航行の困難さから上り便は運賃も高額で、下り便より倍以上したとされる。江戸後期の 1833年ごろには、その価格差は 10倍にまで拡大していたという。
旅客だけでなく貨物においても、下りの貨物は殆どが船便を利用するため、下りは慢性的に空荷ばかりだったようである。このように、上り下りの片方だけしか利用されない「片宿」の中継拠点となった事から、枚方宿の経済は非常に脆弱な構造でもあった。
また、対岸の摂津国(今の 高槻市 大塚)とは、渡し舟(枚方渡し・大塚渡し)で結ばれ、そのまま西国街道を通じ、播磨、中国地方へもアクセスできたという。

しかし、明治維新後、蒸気船が登場し、鉄道の開通(1876年に東海道本線が延伸され、JR京都線が完成、 1910年には京阪電車も完成)が相次ぎ、淀川水運が衰退したことにより、枚方宿も急速に衰退してしまうのだった。
さらに 1885年には淀川大洪水の被害を受け、江戸期の宿場町は壊滅し、再び町の復興が手掛けられることとなる。この時、かつて宿場町に点在していた 貸座敷業者(遊女屋)が、修復された堤防上に集められ「桜新地」が誕生するわけである(1908年)。現在は「桜町」と改称されている。



枚方市

続いて、京阪電車に乗り「橋本駅」で下車する。そのまま南へ進むと、楠葉(橋本)台場跡史跡公園に行き着く。上地図。

ここは、幕末期に建造された楠葉台場の跡地で、同時期に全国各地で整備された台場の中でも、内陸部に立地した史上唯一の砲台陣地だったという(対岸の 高浜台場&梶原台場とセットで)。目下、楠葉台場内にあった 番所、北虎口、南虎口などの跡地が保存されている。

この淀川の対岸にあった、ペアの 河川砲台陣地「高浜砲台&梶原台場跡」も記録しておくべく、淀川沿いから対岸一帯の写真を撮影しておいた。


もともとこの一帯は、古墳時代から中世にかけて、古代集落(楠葉中之芝遺跡)の存在が確認されており、特に発掘調査により、平安時代末期~鎌倉時代前半にかけての領主居館の堀跡や 土師器、瓦器類などが大量に発見されている。 
この当時、一帯は藤原摂関家の所領の一部で、当初は「楠葉御牧(みまき)」と呼ばれていた。畿内に 6か所あった「近都牧」の一つで、地方から租税として貢上されてきた牛馬を飼育する牧場が設けられていたが、その後、農地開墾が進み荘園化したという。

その後も、巨大河川の淀川沿いに位置しつつ、西に 天王山と 西国街道、東に 石清水八幡宮のある男山 を有して、畿内でも屈指の交通の要衝として栄えたようである。
鎌倉~室町時代にかけては「楠葉関」という関所が設けられており、畿内南部(奈良地方)などから 京都 へ入る監視を担っていたという。また周囲には豊かな農地も広がっていたようで、引き続き、藤原家(山科家)や 興福寺旗下の 大乗院(門跡寺院 = 皇族や公家が出家し住職を務める寺院) などの荘園が広がっていた。

安土桃山時代に至ると、豊臣秀吉により 伏見大坂 間に 河川堤防道路「京街道」が整備され、さらに江戸時代に入り、東海道が 大坂・高麗橋(京橋)まで延伸されると、1619年に 53次の宿場町に加えて、伏見宿(54番)淀宿(55番)、枚方宿(56番)、 守口宿(57番)の 4宿場町が追加設置されることとなる。
楠葉台場の北にあった「橋本」の集落は、ちょうど淀宿と枚方宿の中間に位置し、遊廓街として賑わっていたという。

そして幕末期、開国と交易を求める外国船が日本近海に出没するようになると、幕府は全国の海岸沿いに砲台陣地の建造を命令する。それでも、外国船は積極的に日本へ接近し続け、ロシア海軍中将 プチャーチン率いる軍艦 ディアナ号に至っては、大阪湾にまで入り込み、勝手に錨を下して停泊したケースも出てくる(1854年9月)。こうした緊迫の状況下、京都守護職の任にあった 会津藩主・松平容保は、江戸幕府へ建議し、淀川を遡って 京都(朝廷)まで外国船が侵入してくる事態を想定して、淀川の両岸に砲台陣地を建造させたのだった(1865年完成 ー 東岸の楠葉台場、西岸の 高浜台場&梶原台場の ペア・セット)。
しかし、そのロケーションは、京都と大阪を結んでいた京街道の一部を改造し、その街道自体が砲台陣地内部を通行するように設計されたこと(下絵図)、また当時の淀川は浅瀬が多く外国船が遡上するのは困難な地形だったことから、実際の目的は、関所を設けることで尊王攘夷派の志士らが京都へ侵入することを取締まることにあった、と指摘される。

その形状は、南面のみが西洋スタイルの「稜堡式」砲台陣地となっており、カノン砲 3門を備え、高い土塁、深い堀などが築造されていたが、北面側は単なる直線の土塁だけで、完全に南面重視の設計となっていた(下絵図)。対岸側には、同じく大砲 3門を有する「高浜台場」「梶原台場」も造営されていたが、その形状は不明という。両陣地ともに、勝海舟が設計総責任者を務めた。

枚方市

そんな中の 1867年6月に薩長同盟が締結され、京都(朝廷)が薩長派によって掌握されてしまうと、徳川慶喜率いる幕府と対立することとなり、幕府は 大坂城 に 15,000の兵を集める。そして、朝廷との直接交渉を目指し、先発隊として会津藩兵 5,000を出発させ、淀城下 を越えた地点から鳥羽街道方面に 2,000、伏見街道方面へ 3,000に分けて京都に迫らせたのだった(1868年1月)。薩摩藩は街道を封鎖し一歩も道を譲らなかったことから、幕府軍は強硬で通り抜けようと図ったため、薩摩軍が発砲して戦闘が開始される(1月2日)。兵力差は 3分の1程度しかなかった薩摩軍であったが火力で圧倒し、潰走した幕府軍は淀城下に戻ってくるも、淀城 の城代だった 家老・田辺治之助(藩主は稲葉正邦であったが、当時、老中職を務め 江戸城内 にいた)は中立を貫き、城内に入れなかったため、激怒した幕府軍は城下町に放火しつつ南下し、さらに淀川を渡って 男山 に陣を構えて立て直しを図ることとなる。
しかし、淀川の対岸にあった 津藩(藤堂軍)が”官軍”となった薩長派に与したことから、退路を断たれることを恐れた幕府軍は男山の陣も引き払って、さらに南へ後退していく。こうして、その途中にあった 橋本陣屋(ハ幡市)と楠葉台場に逃げ込み、再度、体制の立て直しを図るも、淀川対岸の高浜台場から 津藩(藤堂家)が砲撃を加えてきたため、一時は大砲の撃ち合いとなるも、大坂城 までの退路を封鎖されることを恐れたため、やはり楠葉台場も捨てて大坂へ落ち延びて行ったのだった。

なお、この時、楠葉台場の弱点が露呈し、幕府軍はここでの守備を諦めざるを得なかったとも指摘される。先述のごとく、楠葉台場は南面に守備の重点を置いており、北面側からの攻撃は全く想定しておらず、堀も小さく狭い上に、全く大砲も配備されていなかった。さらに火薬庫が北東端にあり、北側からの攻撃に全く対応不能だったわけである。

その後、台場は新政府軍が接収し、その跡地は民間へ売り渡され、明治末ごろには姿を消したという。
しかし、日本では珍しい河川台場で、かつ日本で唯一、その遺構が現存していることから、 2009年に国定史跡となり、2016年3月に現在のような史跡公園として一般公開されたのだった。



時間があれば、さらに「枚方駅」から京阪交野線に乗り換え、 交野市 へも足を延ばしてみたい。


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