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日本の城 から
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滋賀県 近江八幡市
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東近江市
訪問日:20--年--月--旬
滋賀県 東近江市 ~ 市内人口 11.6万人、一人当たり GDP 333万円(滋賀県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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垣見城跡、金剛寺
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伊庭御殿遺跡(徳川将軍の上京途中での休憩屋敷)、伊庭城跡(国人・伊庭氏の居館跡)
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佐生(日吉)城跡
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和田山城跡
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宮荘殿屋敷跡、辻伊賀守墓、金堂城(大城神社)、金堂陣屋(大和郡山藩の代官役所)
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近江商人 発祥の地(五個荘)、豪商の邸宅跡、近江商人博物館
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箕作城(箕作山城)跡(織田軍の攻撃により、一晩で落城)
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建部城跡(戦国時代、近江屈指の文化人だった建部伝内の居館跡)
東近江市北部の史跡群を巡るべく、投宿先の
JR近江八幡駅
前から在来線で北上し、能登川駅で下車する。
この駅東口(南側)にある「青木自転車商会(営業時間 8:30~18:30。木曜日休み)」で、自転車を借りる(一日 500円)
。下地図下端。
そして、駅北口側にある「垣見城跡」を訪問してみる。上地図。
当時、この能登川駅を含む垣見町一帯に城域が広がっていたらしいが、往時の遺構は全く残っていない。ただし、集落の中央部を流れる射光寺川に四方を囲まれた「陸の孤島」部分(やや土地が高台となっている。上地図)が、その主郭であったと考えられている。また、北隣の金剛寺の周囲では、殿屋敷、姫屋敷と呼ばれる地名が伝えられているという。
垣見城
全国で戦乱が拡大した応仁の乱以降、近江国内では、鎌倉時代中期より犬猿の仲となっていた、北の京極氏と南の六角氏の武力衝突がますます激化するようになっており、その境界線がちょうど現在の
彦根市
辺りであった。このため、この垣見町一帯でも度重なる戦闘が行われていたようである。
1569年9月には、織田信長(1534~1582年)が徳川軍、
北近江の浅井軍
の援軍を伴い、5万もの大軍で
京都
上洛のための進軍してくると、南近江の六角氏はもろくも蹴散らされ、琵琶湖畔の平野部の領土を悉く奪われてしまう。これに対し、翌 1570年、南近江の旧領奪還を図り、浅井・朝倉連合軍、
石山本願寺
、および、畿内の三好三人衆と連携して再挙兵した六角義賢(1521~1598年)・義治(1545~1612年)父子は、
信長が大坂の野田城・福島城の戦いで釘付けになっている間に
、南近江各地の織田軍に攻撃を加えている(野洲河原の戦い、など)。この一環で、一時的に垣見城の奪取に成功したようである。
畿内各地で戦火に直面し窮地に陥った信長は、同年末に朝廷工作により各勢力と個別講和を結び、いったん全戦線から撤退することで収拾を図る。しかし帰国後、
岐阜
で作戦を練った信長は、翌 1571年正月、一方的にそれらの和議を破棄し、各敵対勢力を個別撃破する作戦に切り替えるのだった。
まずは近江攻略を優先し、北の浅井氏、南の六角氏との二正面作戦を進めるわけだが、各同盟軍との連携が寸断された中で、自力対応を迫られた六角義賢・義治父子は、旧領地内の豪族や旧家臣らに再起を呼びかけつつ、織田方との抗戦を続行していたようである(この一環で、六角義治が永田栄俊あてに発給した「知行宛行状」が現存する)。下地図。
続く 1572年1月には、逃亡先の甲賀郡から六角義賢・義治父子自らも再出撃し、湖南地方の一向一揆衆(三宅城主・金森御坊がリーダー)らと共闘して織田軍と激突する。これに対し、信長は佐久間信盛(1528?~1582年)と
柴田勝家(1522?~1583年)
に対応を指示し、付近の寺院をことごとく放火した上で、一帯の村々に、今後、六角氏に味方しないよう記した起請文を提出させている(元亀の起請文)。
最終的に鯰江城(滋賀県東近江市鯰江町)に立て籠った六角軍主力は、その後、 1年半もの間、織田軍に対し籠城戦で持ちこたえるも、1573年5月に武田信玄が死去し、同年 8月に朝倉氏が、
9月に浅井氏が滅ぼされると
、ついに同年 9月6日に鯰江城も落城に追い込まれるのだった。再び、甲賀郡の山岳地帯へ逃亡した六角義賢・義治父子は菩提寺城と石部城に籠城するも、翌 1574年4月にこれらも落城し、
毛利氏に保護されていた足利義昭を頼って(鞆幕府)
、西国へ落ち延びていくこととなる。
その南側には、伊庭御殿遺跡(江戸時代、徳川将軍が上京途上で投宿した屋敷跡)や、伊庭城跡(平安時代に築城された城館で、戦国時代まで国人・伊庭氏が支配した)などもあるが、特に見るところもないのでスルーすることにした。
続いて、JR能登川駅の東側へ向かう。県道 52号線を東進し、県道 202号線(佐生五個荘線)との三叉路を南下すると、瓜生川を渡る場所に「佐生(日吉)城跡」の登山口がある(上地図)。正面の共同墓地から、整備された遊歩道が山中へと続いていた。
10分ほどの登山で城跡まで行きつける。主郭跡地には、城主であった「後藤但馬守城址の碑」が設置されていた。この主郭部を取り囲む石垣面は実に見事であるが、その他の曲輪は造営されなかったようで、単郭のみの小さな城塞だったらしい。
遊歩道はさらに西へと続いており、北向岩屋十一面観音や地福寺、善勝寺へとつながっている。
六角氏の居城・観音寺城
がある繖山(観音寺山)の、北端の尾根の先端部に位置する。六角氏の重臣・後藤氏が、観音寺城の支城として築城した、と伝えられている。日常的には山麓にあった城館に居住し、その詰城として機能したようである。
この後藤氏の中でも、特に有名な人物が後藤(但馬守)賢豊(?~1563年)で、文武に優れ、北近江の京極氏、浅井氏との抗争でも主導的な立場を担い、六角氏の家臣団からも厚い信頼を寄せられていたという。同じく宿老の進藤氏と共に、「六角氏の両藤」と称され、六角義賢(1521~1598年)の治世を支える両巨頭と目されていた。
しかし 1559年、六角義賢が隠居を決意し、長男・義治(14歳。1545~1612年)へ家督を譲渡すると、先代を支えた両藤の存在感はますます増大し、自らの主導する政権を運営したい義治から敵視されるようになる。こうして 1563年、義治は、観音寺城へ登城してきた後藤賢豊とその長男・後藤壱岐守を暗殺してしまう。進藤家の当主・進藤賢盛(生没年不詳)は、父・進藤貞治(1497~1551年)が病死して以降、やや地位を減退させており、暗殺の難を逃れたのだった。これを機に、家臣団が一気に主家・六角氏を見限り、六角義賢・義治父子は、一時的に観音寺城から追放されることとなる(観音寺騒動)。
こうして家臣団の分裂危機と、主家への不信感が高まる中、1568年9月の織田信長(1534~1582年)による六角攻めに直面し、瞬く間に瓦解してしまうのだった。この時、
観音寺城
とともに、佐生城も落城したと考えられる。
この時、後藤家の家督を継承していた、賢豊の次男・後藤高治(?~1589年)はすぐに織田方に帰順し、その後、信長の直参家臣として各地を転戦していくこととなる。しかし、本能寺の変以降は明智方に味方したことから、後に羽柴秀吉により領地と職位をはく奪されてしまい、同じ六角氏の旧臣だった蒲生氏郷(1556~1595年)を頼って士官し直している。他方、進藤賢盛も同時に信長に帰順し、本能寺の変後は織田信雄に仕えるも、小牧・長久手の合戦直前より豊臣秀吉に臣従し、一族の命脈を保っている。
そのまま東隣の和田山上にある「和田山城跡」も訪問してみる。上地図。
南面の麓にある和田公園~和田神社から、山中へと遊歩道が整備されているが、しっかり道標を確認しないと、別方向の尾根につながっているので、注意が必要だ。
南近江を支配した六角氏の一門・和田氏が城主を務め、平時には山麓の城館に居住していた、と考えられている。
1568年9月、織田信長が
京都
上洛を掲げて近江を通過した際、
観音寺城
を本拠とする南近江の大名・六角氏が通行を拒否したため、信長は
北近江の浅井氏
、三河の徳川軍の協力を得て、総勢 5万もの大軍勢で六角領への武力侵攻を開始する。この時、1万強程度の兵力だった六角氏は、箕作山城や和田山城など 18の支城に軍を分散し、籠城戦で抵抗を試みるも、信長は諸城に攻撃部隊を配置しつつ、敵の懐深く観音寺城下まで侵入し、その南後方にあった箕作山城(守備兵 3,000)をたった一晩で攻め落としてしまう。当時、数百名程度の守備兵しか配置されていなかった和田山城は、一気に戦意を喪失し、翌日には兵士らが逃走してしまい、そのまま無血開城することとなった。
支城の 2城が一日も経ずに陥落したことから、観音寺城にいた六角義賢・義治父子も抵抗の無謀を悟り、城を脱出して山岳地帯の甲賀郡へ逃亡してしまう。こうして周囲の支城も順次、開城し、織田軍は悠々と南近江を併合したのだった。
標高 180.2mの小さな和田山の山頂には、主郭曲輪のみが造営されており、この周囲を高土塁が取り囲み、その南北に櫓台が 2ヶ所、配置されていた。現在、南面に巨大な虎口と空堀が、北面にも空堀跡が、西面側には帯曲輪と竪堀、土塁のような地形が残されている。
下山後、そのまま南進し、五個荘(ごかしょう)の平野部を巡ってみる。ちょうど、この辺りは近江商人の主な発祥地とされ、栄華を極めた彼らの邸宅(五個荘近江商人屋敷)が 4軒、保存されていた。
まず最初に、藤井彦四郎邸(スキー毛糸で財を成した、藤井彦四郎【1876~1956年】の生家。入場料 300円)に立ち寄ってから、その西隣にある宮荘殿屋敷跡を目指した。
この宮荘殿屋敷は、
六角の本拠地・観音寺城
下にあって、東山道が通る城下町の近郊に立地していた。現在、跡地は田畑となっており、東側に辻伊賀守とその一族を葬った墳墓が残る。
辻伊賀守は、1560年の
浅井氏
との抗争である北之庄合戦時、川副兵庫助と宇野因幡守と共に浅井方へ寝返り、元主家である六角軍と交戦して、戦死した人物である。当時、この三人衆は北荘(今の東近江市宮荘町)を地盤としており、その居館だったと考えられている。この彼ら三人衆を葬った塚が現存し、現在、周囲の水田地帯に点在するというわけだった。
さらに南へ移動し、観峰館(個人収集品博物館で、特に訪問せず)、中江準五郎邸(戦前に朝鮮半島・中国大陸を中心に 20数店の百貨店を経営)、外村宇兵衛邸(江戸期後半の呉服販売の豪商)、外村繁邸(外村宇兵衛家の分家邸宅)、近江商人博物館・中路融人記念館、ぷらざ三方よし(観光案内施設、お土産物屋)など、近江商人の里を巡ってみる。上地図。
その途中に小さな稲荷神社があり、
大和郡山藩
の飛び地領管理のための代官役所「金堂陣屋跡」があったという、解説板が設置されていた。現在、その役所遺構は全く残されていないが、付近の勝徳寺に長屋門が移築されている。上地図。
この東側に大城神社があり、かつての豪族の居館「金堂城」の跡地という。上地図。
北西~北面辺りに土塁と空堀跡と思わしき窪地が残っており、金堂城の遺構と伝えられている。特に、この城館に関する史的資料は見つかっておらず、詳細は不明という。
この「五個荘」の中部に、かつて東山道(江戸時代の中山道)が通っており、琵琶湖東岸の交通の要衝となっていたわけである。この五箇荘の平野部を取り囲む形で、西側に
観音寺城
、南側に箕作山城と
小脇山城
が立地し(上地図)、戦国大名・六角氏の中枢エリアを守備したのだった。
往時の様子を妄想しながら、平野部から周囲の山々の遠景を写真撮影しておいた。
時間があれば、山頂部からこの平野部を逆撮影すべく、清水山にある箕作山城へ登ってみたい。北面の麓にある貴船神社の参道脇から、山頂に通じる登山道が続いている(上地図)。
箕作城(箕作山城)
箕作山城は、巨大な独立山系・箕作山(標高 372 m)の尾根頂上の一つ、清水山(標高 324.8 m)に立地し、現在、この主郭跡地には鉄塔が設置されている。わずかに主郭西面に石垣が残るものの、鉄塔建設に伴う土地加工で、地形は大きく改変されてしまっており、往時の城郭全容を想像することは不可能である。
応仁の乱の渦中、南近江の大名・六角氏一門内でも東軍と西軍に分裂することとなり、西軍派の六角高頼(?~1520年)が籠る
観音寺城
に対抗し、東軍派に組した六角政堯(?~1471年)が築城したのが、この箕作山城であった(当時、清水城と称された)。
その後、東軍派は一掃され、六角高頼により南近江が再統一されるも、鎌倉時代中期からの因縁の関係だった
北近江の京極家、浅井氏
との抗争は続き、戦火が絶えなかった。こうした中で、六角義賢(1521~1598年。15代目当主)・義治(1545~1612年。16代目当主)父子の治世下だった 1550年頃、箕作城に大規模な補強工事が施されることとなる。
その後も、なんとか南近江の支配を続けていた六角義賢・義治父子であったが、 1568年9月、織田信長が
京都
上洛を目指して、六角氏に近江通行を迫ってくると、これを拒否したため、織田・徳川・
浅井氏
の連合軍 5万の侵攻を受けることとなる。総勢 1万強程度だった六角氏は、支城網 18か所に守備兵を配して籠城戦を展開する。この時、大軍勢で一気に観音寺城下にまで達した織田軍により、箕作城(守備軍は、建部秀明、建部秀清、吉田出雲らの率いる 3,000名)は夜襲攻撃を受け、わずか一晩で落城してしまう(佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀、浅井政貞らの部隊が攻撃)。そのまま夜間に、織田信長本隊が入城して本陣を構えると、翌日、和田山城の守備兵も敵前逃亡し無血開城する。この一連の動きを観音寺城内から見ていた、六角義賢・義治父子も戦意を喪失し、夜陰に紛れて甲賀の山岳地帯へ逃走してしまうのだった(観音寺城の戦い)。
建部城
六角氏の家臣時代から、青蓮院尊鎮法親王に書を学び伝内流(建部流)を興こして、近江国屈指の文化人となっていた建部伝内(1522~1590年)は、その書の才を高く評価した主君・六角義賢(1521~1598年)から、賢の一字を与えられ、建部賢文と名乗っていた。
1568年9月、
京都
上洛を目指す織田信長により箕作城が落城し、六角義賢・義治父子が逃亡してしまうと、箕作城の守将だった父・建部秀明、兄・秀治を失った建部賢文(建部伝内。1522~1590年)も、主君・六角氏に伴って甲賀の山岳地帯へ避難する。しかし、後に主君と袂を分かち、一門の地盤である近江国神崎郡建部郷の木流の地に帰郷して居館を設け、趣味の書を教授しつつ日々を送ることとなった。
現在は、この居館跡の遺構は全く残っていないが、建部神社と周囲の水田がその名残りと考えられている(上地図)。
1576年に織田信長が
安土城
を築城し、城内に総見寺を建立した際、「遠景山下水漫々総見寺」の額を、また 1588年に豊臣秀吉の求めにより右筆となり、「
聚楽第
」の額を書している。
なお、後に織田方に帰順し、中川重政、丹羽長秀の与力として従軍することになる建部寿徳(1536~1607年)は、建部賢文の従弟にあたる。彼は、守山に 500石を与えられて戦国時代を武士として生き抜き、最終的に豊臣秀吉、秀頼父子に仕えている。
すべての視察後、JR能登川駅前まで戻り、自転車を返却して
JR近江八幡駅
に帰着した。
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