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当研究会 情報
日本の城 から
≫
静岡県 浜松市 中区
訪問日:2019年11月中旬
日本 静岡県 浜松市 中区 ~ 区内人口 3万人、一人当たり GDP 379万円(静岡県 全体)
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路線バスで巡る、徳川家康の 足跡 ~ 浜松城、三方ヶ原古戦場、犀ヶ崖古戦場、井伊谷
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「夏目次郎左衛門吉信の碑」と 三方ヶ原の戦い ~ 明治の文豪・夏目漱石 の祖先
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犀ヶ崖 古戦場 と 布橋 1丁目 の歴史秘話
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三方ヶ原合戦のジオラマが 圧巻! 犀ヶ崖資料館
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【豆知識】犀ヶ崖 古戦場 ~ 徳川軍のゲリラ夜襲 と 遠州大念仏のはじまり ■■■
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三方ヶ原台地を歩く ~ 亀井山、亀山トンネル、牛山、新川渓谷 の起伏が激しい丘陵地帯
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【豆知識】浜松の地形と歴史 ① ~ 鎌倉時代の「ひくま宿」から 今川氏の曳馬城時代へ ■■■
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【豆知識】浜松の地形と歴史 ② ~ 徳川家康の入城(1570年) と 武田信玄の西上作戦 ■■■
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【豆知識】浜松の地形と歴史 ③ ~ 三方ヶ原合戦 と 当時の浜松城の外観 ■■■
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【豆知識】浜松の地形と歴史 ④ ~ 家康の駿府、江戸転居と、堀尾氏以後の大改修 ■■■
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作佐曲輪(本多重次の居館)跡地 から 浜松城公園に入る
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浜松城の全景ジオラマ と 今昔マップ
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かつて浜松城内には、数多くの井戸が掘削されていた
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天守からの眺望 ~ 復元された 天守曲輪 正門、本丸、二の丸、曳馬城跡、出城、三方ヶ原
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曳馬城跡(元城町東照宮)~ 16歳の豊臣秀吉、29歳の徳川家康が 来城した
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今川氏時代から続く 曳馬城跡の遺構 ~ 切通し、4曲輪、玄黙口(元目口)
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浜松城の 城下町エリアを歩く ~ 旧東海道、佐藤本陣跡、梅屋本陣跡
浜松市では、駅南側にある「コートホテル浜松」に投宿した。
翌日
、JR 浜松駅構内にある浜松市観光インフォメーションセンターに行ってみる。そして、「三方ヶ原の古戦場」「浜松城」の観光ルートを相談してみた。
前者は姫街道をずっと北上した金指街道(県道 257号線)脇に石碑「三方ヶ原古戦場碑」があるだけで(バス停「三方原墓園」。40分、530円。下路線図)、実際にどの場所だったかは明確にはなっていないとのこと。あわせて、その合戦に絡む犀ヶ崖の古戦場なら近いし、資料館もあるよ、とのアドバイスを頂戴した(バス停「さいが崖」。下路線図)。バス 1日乗車券は 1,570円と結構高く、かなりの距離を乗り継ぐ必要がありそうで、購入はやめておいた(下地図のバス停「井伊谷」まで、55分、680円)。
駅北口にあるバス発着所⑮で待っていると(下写真左)、10分に一本の割合で次々と路線バスが入ってくる。この発着ポイントに出入りする路線バスは、すべてが犀ヶ崖の古戦場を通過する、ということを先ほど伺っていたので、迷わず乗車してみた。
ここの路線バスは SUICA ICカードが使えず、現金を用意することに。 10分弱の乗車でバス停「さいが崖」に到着する(180円)。
バス停脇に巨大な石碑「
夏目次郎左衛門吉信の碑
」が立っていた(下写真右)。
この夏目吉信であるが、その祖先は古くから松平家に使える譜代家臣の出身であったが、1563年の三河一向一揆に与して家康を裏切るも、捕縛後、家康の一存で助命され、その恩義に報いるべく、三方ヶ原合戦で家康の身代わりとなって敵軍の前に立ちはだかり、討死したとされる。その後、幕臣となった夏目家の末裔に、
明治期の文豪・夏目漱石(本名:夏目 金之助)
が輩出されることとなる。
さて、バス停前の姫街道(県道 257号線)向かいに「
犀ヶ崖 古戦場
」と「犀ヶ崖資料館」があった。下写真左。
谷は非常に深く、現在は立ち入り禁止となっていた。上からのぞき込むだけとなる。
なお、ここの住所「布橋 1丁目3」というのがポイントで(上写真右)、かつて三方ヶ原の合戦(夕方 16:00~18:00)が行われた日の夜中、徳川方を浜松城に追い詰めた武田軍の一部隊が城から北 1kmにある三方ヶ原台地上に陣を展開していた際、徳川方の勇将・大久保忠世と天野康景らが鉄砲 100丁を伴って夜襲をしかけてくる。これにビックリした武田方の兵士らが絶壁の谷間に誘い込まれ、次々と転落したという場所である。その際、橋があるように錯覚させるべく、闇夜に目立つ白い布を谷間に渡して細工し、これに足を踏み入れた武田方の人馬が雪崩を打って滑落した、というエピソードに由来しているのだった。下写真左。
こうしたエピソードは、
資料館
に入るとボランティアの方の勧めで鑑賞したビデオで詳しく知ることができた。また館内にあった展示資料はミニチュア模型が豊富で、往時のイメージを具体的に想像するのに非常に役立つものだった。
特に三方ヶ原合戦のジオラマは圧巻で、武田、徳川両陣営の本陣を通じて見る戦場風景にしびれた。下写真。
また合戦から命からがら逃げ戻った家康が、自身の戒めにと描かせた「しかみ像」のジオラマも印象的だった。
これは合戦の後日、負け戦で憔悴しきった自分の姿を絵師に描かせたものという。その目的は、血気にはやって武田軍の誘いに乗った結果、多くの将兵を失った自分に対する戒めとも、危険をおかしてまでも領民や家臣のために戦いを挑んだ事実を家臣や子孫たちへ伝承させ教訓のために残したとも言われる。家康は生涯、この絵を傍らに置き、たびたび見返しては自重と忍耐のための戒めにしたという。
最後に、翌日に訪問予定の
二俣町
についてもアドバイスをもらえ、非常に助かった。
犀ヶ崖
ここは浜松城の北 1kmにあった三方ヶ原台地の切れ目(渓谷地帯)に相当し、現在でも長さ約 116m、幅約 29~34m、両岸とも深さ約 13mの絶壁が残っている(1985年に静岡県指定遺跡となる)。谷底には小川が流れ、ここから下流約 450mまで急な崖が連続して現存するが、戦国時代の犀ヶ崖は、東西約 2km、幅約 50mもの規模で、その深さは約 40mにも及んでいたと考えられている。このとき奇襲を受けた武田軍の陣地は、谷間の南岸をわたって駐留していた部隊であった。北岸側へ逃げようとした際に滑落したものと推察される。
1572年12月22日(現在の暦で 1573年2月4日)の夜襲で数十騎と思われる人馬の被害を出した武田方将兵のうめき声が、戦後になっても夜な夜な谷底から聞こえて地元民を苦しめるということで、彼らの霊を慰めるため徳川家康は了傳という僧侶を招いて七日七夜、鉦と太鼓を鳴らして供養したところ、不気味な騒音がぱたりと治まったという。
その後、了傳の後を継いだ宗円がさらに布教に努めるべく、この渓谷の南岸(武田陣地跡)に庵を建てて居住したとされる。そのまま庵は宗円堂となり、三方ヶ原合戦時の両軍死者の霊を弔う場所と認識されるようになり、毎年、初盆供養の行事として盛んに遠州大念仏が行われたという。最近まで、この犀ヶ崖資料館の建物は遠州大念仏の道場を兼ねていた。
さて資料館を後にすると、前の
姫街道(県道 257号線)
を南下しつつ、浜松城を徒歩で訪問してみることにした。ちょうど、先ほどバスで移動したルートを戻ることになる。
その道中、ひっそりと鎮座する三社神社を訪問してみた(下写真左)。もともとは、
後醍醐天皇を父に持ち
、南朝方の武将として東海・甲信越地方で足利幕府方と戦った宗良親王(1312~1385年?)により 1338年に造営された由緒ある神社があったが、三方ヶ原の合戦時に全焼してしまう。そのまま長い間、仮宮が祀られていたが、七代目浜松城主・太田資宗(1600~1681年、在任期間は 1644~1671年、3.5万石)により再建され、以後、代々の城主祈願所として大切に奉祀されたという。
さて、姫街道を南下していると、凸凹した地形が気になった(上写真右)。ここが丘陵地帯で天竜川や馬込川を中心とする平野部にだんだん下っていっていることを実感する。
当地の地形と「鹿谷町」という地名が気になったので、後で調べてみると、かつて一帯は「亀山」という地名だったが、 1968年に鹿谷町という地名に変更されたという。これは付近に「亀井山」という山があったことに由来し、その斜面上に鹿谷渓谷や「鹿谷園」と通称された日本庭園があったことから「鹿谷」と命名されたという。
下写真は、亀山トンネルのあたり。先ほどの犀ヶ崖同様、東西に急峻な谷間が横たわる地形だった往時が目に浮かぶポイントだった。
後で地図を確認すると、この姫街道の北には牛山公園という台地があり、ちょうど両者間が谷間となって深く掘れた窪みがあり、案の定、新川という川が流れていたことを発見する(下地図)。
先ほどの犀ヶ崖の谷間にも小川があり、それらの河川が集まって新川となり、曳馬城(浜松城)の方向へ流れ出て天竜川と合流しているようだった(下地図)。浜松城はこの巨大な三方ヶ原台地エリアの東端を加工して築城されており、犀ヶ崖での奇襲作戦は、この台地の地形を知り尽くした徳川方のゲリラ部隊がうまく地の利を生かして武田方に一矢報いた、という展開が理解できた次第である。
浜松城周辺の地形 と 三方ヶ原の戦い
鎌倉時代の浜松は、「曳馬・引間(ひきま・ひくま)」と呼ばれる町であった。
現在の馬込川がかつて
天竜川
の本流に相当し、当時の東海道がこの天竜川を渡った西岸に発達した交易集落が曳馬宿で、八幡宮の門前町としても賑わったという。 さらに北から南下し浜名湖を南回りで通過する
鎌倉街道
との結節点でもあり、陸路と水運の要衝として栄え、現在の「船越」や「早馬」はこの頃から継承された地名という。
室町時代後期に全国で戦乱が飛び火すると、尾張の斯波氏旗下の巨海(こみ)氏・大川内氏と、駿河の今川氏旗下の飯尾氏の抗争が遠江をめぐって活発化し、この重要な交易拠点・曳馬(引間)宿を支配するために、町を見下ろす西側の丘陵地に城砦が築城される。以後、今川方の重要戦略拠点として飯尾氏が曳馬城主を継承した。
4ヵ所の曲輪を複合した方形で構成されており(下絵図)、その地形の名残りは現在の東照宮一帯でも見られる。
この交易都市・曳馬宿の住民たちが作った墓地が、先ほどの犀ヶ崖の崖上に立地していたという(上絵図)。この宿場町から三方ヶ原台地にかかる西のはずれ(サイ)に辺り、その先にはあの世(浄土)があると信じられていたという。池川の谷をのぼった斜面上の墓地エリアから西は荒涼とした台地で、まさに犀ヶ崖はこの世とあの世の境と考えられていたのだった。
なお「犀」とは、金沢市の犀川、
京都市
の西院と同じく、都市の西の境を意味する。また、「賽」=河原の意味にも通じていた。
1551年、この今川支配下の曳馬城(城主は飯尾氏)に、その家臣であった松下長則・之綱父子(頭陀寺城主 ー 現在の静岡県浜松市南区頭陀寺町)に仕えたばかりだった
16歳の少年・木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)
も主人に随行し訪問している。上絵図が当時の周辺地図。
しかし、
藤吉郎は 18歳で今川氏旗下の松下家を離れ、尾張の織田信長に仕官することとなる
。
その今川氏も
1560年の桶狭間の合戦後
、急速に弱体化すると、最終的に 1569年6月、
徳川家康(28歳)
により
掛川城
にて滅ぼされる。三河と遠江を領有した家康は一年後の翌 1570年6月、自身の居城を岡崎城から曳馬城へ移し、
甲斐
の武田信玄との最前線基地として大規模に改造・増築工事を手掛けることとなる。以後、家康在城の 17年間のうち、数度の大規模な工事が実施されたが、特に 1577年7月22日~1582年10月14日の工事が最も大がかりであったという。
なお、浜松の地名の誕生であるが、『武徳編年集成』によると、1569年5月7日、「神君曳馬ノ城へ帰リ玉ヒ城ノ名ヲ浜松ト称スヘキ由」という記述があり、この時、家康が城の名を浜松に改称したと考えられている。 当初、家康は本拠地を遠江の中央部に位置する交易都市・見附(静岡県磐田市)に隣接する城之崎城に選定しようとも検討したとされるが、天竜川の東岸だと三河衆との連携も 取りづらいということで、最終的に西岸の曳馬城が選択されたのだった。
さて、以後も度々、遠江へ攻め入る武田方の攻勢に家康は防戦一方となりながらも、なんとか遠江支配をキープしていたが、
浅井・朝倉氏
、
石山本願寺
らとの連携により織田信長(38歳)の軍勢を畿内にくぎ付けにした武田信玄(52歳)は、いよいよ本格的な遠江平定を目論み、西上作戦をスタートする。下地図。
1572年9月29日、武田の猛将・山県昌景が先方となり 5000の兵で甲斐を出発し、高遠から伊奈谷に入る。織田勢を牽制すべく、一隊を分けて秋山虎繁に東美濃の岩村城を攻撃させる(占領後、虎繁がそのまま駐屯する)。山県昌景はさらに南下し、三州街道を通って東三河に向かい次々に徳川傘下の城を陥落させていった(上地図)。
続いて 10月3日、武田信玄本隊が
甲斐
を出発し、同じく信州を通って天竜川筋を南下し、10月10日、青崩峠や兵越峠を越えて遠江へ侵入すると、武田方に帰順した犬居城主・天野氏を先導役として(下地図)、天方城、飯田城、各和城を次々と落とし、さらに南下して久野城を攻撃中に、本軍を太田川下流の東海道附近まで進めたところで、家康(31歳)率いる浜松からの援軍部隊と遭遇する。ここで三箇野川の合戦が勃発し、敗走する徳川方を追撃する中で一言坂の合戦が起こり、家康は命からがら天竜川を渡って浜松城へ撤退する。武田軍はそのまま遠江内の街道沿いにある各拠点や交易集落(向笠、各輪、袋井、見附など)、寺社などを焼き払い、もしくは占領しつつ、周辺の有力者に帰参を呼びかけていく。
最終的に久野城の攻略を諦め、天竜川沿いを北上し、途中の集落地・匂坂を占領しつつ、
二俣城
の奪還を目指す。二俣城は信州へとつながる重要な移動ルート上にあり、ここの確保は武田方にとっても退路にかかわる死活問題の場所であった。
こうした武田軍の行軍ルートがさらに南に立地する
掛川城
や
高天神城
を攻めず、久野城の完全攻略をあきらめて北上し
二俣城
を目指したことから、北の信州ルートで攻めたというのが常識的解釈であったが、近年の史書解釈により信玄本隊は駿河方面から西進したという説も示されている(下地図)。
この場合、
掛川城
や
高天神城
を攻め立てずに素通りしたことから、武田氏に寝返ったと解釈されている。その帰参工作に抵抗した
二俣城
が攻撃ターゲットとされた、という考えである。
信長との本戦まで犠牲を抑えたかった武田信玄側もあまり力づくでの遠江平定戦は望んでおらず、ある程度、武威を示して地元有力者や国人らを戦わずして帰順させることを念頭に置いていたことは間違いない。
しかし、高天神城主の小笠原氏は一時的にせよ、この時、武田方に帰参したとすると、信玄死後、再び徳川に復帰を許され所領安堵された、ということになろう。
2年後に武田勝頼が高天神城を攻めた際、そのまま小笠原氏が守備軍として籠城したわけであるが
、もともと武田軍のターゲットにされていた高天神城に、家康が
本田忠勝
や大久保忠世など信頼できる譜代家臣を配置させていなかった点に疑問が残る。
この点から、信玄の帰参工作に高天神城主・小笠原氏は呼応しておらず、そもそも武田軍が東から掛川城や高天神城を無視して進んできた説に無理があるように思われる。武田遠征軍は大量の兵糧部隊も後方に引き連れているわけで、その護衛にも手間がかかるわけだし、安全に信州から侵入し、遠江北部を平定しながら浜松城へ向かった、と考えるのが妥当であろう。
いずれにせよ、
この二俣城攻めは 2ヵ月を要する攻防戦となり、武田軍をくぎ付けにしたわけだが
(信玄が遠江に侵攻した10月下旬から、本隊より分かれた馬場信春が別働部隊 3000を率いて先に攻撃していた)、未だ織田方の援軍が到着しておらず、浜松城内の 8000だけでは二俣城救援が不可能な状態にあった。
それでも、信玄は徳川方の援軍を警戒し、合代島(今の磐田市)に本陣を敷いており、二俣城へは息子の
武田勝頼
、別動隊の山県昌景(直前に仏坂の戦いで井平城を奪うなど、井伊谷を蹂躙し、一帯の神社仏閣を焼き払いながら、二俣城の攻城軍と合流した)を向かわせる。
最終的に水の手を絶たれた籠城軍は和議・開城するわけだが(12月19日)、信玄は約束通り、降伏した城将の中根正照や城兵らの浜松城帰還を許可する。この点から、武田軍はあくまでも武威を示し、できるだけ被害を少なくして家康を軍門に下らせるのが最終目標であったことが読み取れる。織田信長の甲州征伐時のような全関係者=粛清という方針ではなかったわけである。
ちょうどこの頃、佐久間信盛、滝川一益、平手長政らに率いられた織田方の援軍(3000)が浜松城に到着すると、家康はすぐに自ら救援部隊を引き連れて天竜川を北上するも、待ち構えていた武田本隊と激突し潰走させられる。中根正照ら二俣城の将兵は別ルートで浜松城へ送還された後で入れ違いとなったという。
二俣城
を落とした時点で、武田軍は
25000
もの大軍勢に膨れ上がっていた。2日間の休息の後、12月22日早朝(現在の暦で、1573年2月4日)、
天竜川を渡り秋葉街道を一気に南下して
浜松城(主郭は曳馬城のまま)へ迫ることとなる。
しかし、徳川勢 8000と織田方の援軍 3000がこもる浜松城を力づくで攻めるのは得策ではなく、進路をさらに西にとり欠下附近から三方ヶ原台地を進み、 ① あわよくば城外で徳川軍と交戦し圧倒的な武威を示す or 徳川軍を壊滅させる、 ② もしくは、そのまま浜名湖北回りの東海道(後の姫街道)を確保し三河国境の野田城(愛知県新城市豊島)や
吉田城(愛知県豊橋市)
を攻略して、三河と遠江とを分断しつつ、孤立無援となった遠江一帯を各個撃破・篭絡し、徳川家康本隊を降伏させる、という作戦だったと推察される。
当時、遠江内を荒らしつつ進軍していた武田軍を避けるべく、多くの領民らが浜松城下に避難しており、また徳川旗下の国人、地侍らも不安をもって両軍の動きを注視しているタイミングで、徳川家康はここで面目を保つべく、武田方との全面戦争を覚悟していた。
特に遠江は 3年前まで今川領だった地であり、徳川領に組み込まれてから日も浅く、家臣団の統合は調整途上にあった。さらに、10年前の桶狭間合戦以前は今川義元配下の家臣として、家康もこれら遠江の領主らと顔を並べる立場だったわけで、自分をリーダーとして受け入れてもらえるか否か、重要なタイミングとなっていたと考えられる。
そんな不安定な徳川本部と遠江国人衆との関係性も、信玄は帰参した遠江の諸将から耳にしていたと考えられる。このため、家康に揺さぶりをかけるべく、意図的に遠江一帯の集落、田畑、寺院らを蹂躙し、その領主としての権威を傷つける作戦を展開していたと推察される。
さらに、浜松城を完全無視するという行動で、浜名湖北岸へと進軍する武田方に対し、徳川本隊は指をくわえて見過ごせないだろうと踏んでいたに違いない。
徳川方も
10年前の桶狭間合戦
にて寡兵で大軍を破った織田方の援軍もあって、その再来を期したことであろう。三方ヶ原台地を通り過ぎて坂を下る祝田あたりで武田軍を後方から追い落とす作戦を胸に、武田軍を追って三方ヶ原台地を目指したのだった。当時の今川時代の曳馬城正門の玄黙口(元目口)がそのまま家康の浜松城の正門として援用されており、ここから秋葉街道沿いに出撃したと考えられている。
しかし、家康軍の浜松城出発の報を受けた武田軍は、三方ヶ原台地の坂を下る手前で反転し、魚鱗の陣を構えてすばやく迎撃態勢を整える。武田方はプラン① として諸将に事前下知していたため、行動も早かったと思われる。
その素早さに仰天した徳川軍であったが、自身も三方ヶ原台地上に登りきっていたため、簡単には撤退することもかなわず、軍勢を多く見せて威嚇しようと鶴翼の陣を敷くこととなる(下絵図)。 この時、午後 14:00であったという。
こうして浜松城から北へ 7kmにある、三方ヶ原台地の西端である祝田坂上辺りでにらみ合った両軍であるが、2時間ほど対峙するだけの時間が過ぎたという。
ここで武田軍先鋒の小山田信茂の率いる飛礫部隊が、徳川陣営の最左翼を固める
石川数正
隊に向けて投石攻撃をしかけ挑発する(飛距離は 50mほどあり、これだけでも殺傷能力は十分にあった)。投石の雨と挑発に堪忍袋の緒が切れた石川勢が小山田隊に襲い掛かると、他の徳川勢も一気に突撃を敢行する。ちょうど夕方 16:00となっていた。
この日は雪が少ない東海地方でも異様に寒く、雪が舞っていたともいわれる中、捨て駒であった武田軍の前線部隊が押されて 300mほど後退した時に、後方の第二陣であった
武田勝頼
らの騎馬隊が突撃し、一気に徳川勢を蹴散らし形成逆転となる。
薄暮からやがて真っ暗闇になった夕方 2時間の戦闘でさんざんに追い散らされた徳川軍は総崩れとなり、家康自身は追いすがる武田軍を振り切りながら、命からがら浜松城の正門(玄黙口)に帰り着いたのだった。
そのまま城門前まで迫った武田の追撃軍だが、城門を開放したままの家康の計略に警戒し、城内へなだれ込むことはしなかったという。ちりぎりになった徳川軍も徐々に城内へ戻っており、まだまだ 数千~10,000 近い兵力が浜松城周辺にあったわけで、窮鼠猫を噛むを警戒した信玄は追撃を中止させ、手薄となった浜松城周辺の徳川方支城の攻略に注力させる。そのうちの一つが井伊谷の井伊谷城であった。この時、井伊谷の人々や井伊直虎は浜松城下へ避難したと考えられている。
そのまま三方ヶ原台地一帯に陣地を展開し、夜を明かした武田軍であったが、この時に夜襲を受けたのが犀ヶ崖の南岸に布陣していた一隊だった、というわけである。
挑発した徳川軍はそのまま武田軍に浜松城を包囲させ、三河からの徳川別動隊と織田の追加の援軍による挟撃を企図していたと考えられるが、そんな徳川方の本心を見透かしたように信玄は浜松城を完全無視し、西進を続行して欠下城など各拠点を攻略しつつ、北遠江の街道沿いを確実に制圧していった。
そのまま浜名湖を北回りで通過し三河へ侵入した武田軍は、刑部に本陣を構えて越年し、陣座峠などを越えて野田城を包囲する。
この時、海岸部(東海道以南)を除く遠江は武田軍にほぼ占領されたわけで、徳川方の勢力圏は 3分の1 程度のみ残すだけとなっていた。引き続き、周辺の国人衆や寺院勢力へ篭絡を続ける武田軍はますます勢力圏を拡大しつつあった。
しかし、この頃には信玄の病状も悪化していたようで、野田城を攻略すると、そのまま全軍が甲州へ引き上げることとなる。その帰路の 4月12日、駒場(長野県阿智村)で信玄は死去するのだった
。これにより武田軍の遠江侵攻もあっけなく終了してしまい、反転攻勢に出た家康により、次々と遠江の武田占領地は再奪還されてしまう。この一環で、井伊直虎も井伊谷城を取り戻したという。
上絵図は、この家康在城期の浜松城の全景を示す。ちょうど三方ヶ原合戦当時の状況で、信玄襲来にそなえて突貫工事で土塁や柵を補強していたと推察される。
この当時、未だ戦国期の軍事施設として実用的な土づくりの城砦のままで、石垣や瓦葺きの建物は無かったと考えられている。上図では、堀と土塁、木製の柵をめぐらせた曲輪を配し、簡素な物見櫓と板葺き屋根の建物が描かれている。しかし実際には、家康在城時代の具体的な記録や絵図は残っておらず、不明な点が多々あるという。
これまでの発掘調査により、家康在城期とされる遺物が元城町東照宮、作左曲輪、清水曲輪から出土しているが、二の丸曲輪(旧元城小学校)内で発見された井戸跡からは、瓦片が出土しており、家康が瓦を使った建物の造営に着手していた可能性も指摘される。
下地図は、当時の配置図(1580年ごろ)。
さて、この三方ヶ原合戦で多くの部下を失い、家康自身も何度も討死しそうになりながら敗走し、夜陰に乗じてなんとか浜松城に帰り着いたわけだが、この戦闘では織田方の援軍は目立った働きもなく、早々に遠江と三河の国境にある浜名湖付近の今切まで退却してしまったという。
結局、終始、徳川軍だけでの戦いとなってしまったわけであるが、敗走する家康を守るために家臣たちが次々と身代わりとなっており、その中の一人に本多忠真という人物がいた。
この本多忠真とは、徳川家草創期を支えた徳川四天王の一人である
本田忠勝
の叔父にあたる武将で、敗走中に殿を買って出ると道の左右に旗指物を突き刺し、武田勢の中に斬り込んで壮絶に討死する(39歳)。その子・菊丸はこの合戦で父親や多くの親友を失ったことから世の無常を感じ、出家したという。彼が父のために建てた墓碑が、犀ヶ崖資料館の脇に残されていた。
なお、この家康敗走時のエピソードに関連して、小豆餅と銭取の地名が今に伝わる。
浜松城への逃走途中、夜 19:00前とあって空腹が激しく、街道沿いに一軒の茶屋を発見する。そこの老婆が小豆餅を売っているのを見て、すぐに注文し、値段も聞かずに口にほおばったという。焦った老婆は、「一つ、三文」と言うも、武田勢の追手が迫ると家康はそそくさと茶屋を立ち去ろうとする。びっくりした老婆は食い逃げと勘違いし、家康を追いかけたという。結局は銭を受け取ることがかなうも、この時の逸話から、いつしか茶屋があった場所を「小豆餅」、 銭を払った場所を「銭取」と呼ばれるようになり、今に残る地名となっている、というわけである(冒頭のバス路線図参照)。
浜松城に無事帰城した家康は、城内に大量のかがり火を焚かせて明るくし、城門を開け放って帰還する兵士らを迎え入れるとともに、武田の追撃軍を迎え撃つ体制を整える。
一方で、浜松城に近かった普済寺に火をかけて全焼させたという(上地図の左端)。これは、武田軍を錯覚させ炎上中の浜松城へおびき寄せる作戦だったとも、浜松城が落城したので武田の追撃を諦めさせるためだった、とも指摘される。同日夜に犀ヶ崖の夜襲が決行されるわけであるが、どうも徳川軍はすでに浜松城外に伏兵を忍ばせて、どうしても武田軍を城へおびき寄せたかった節がある。
1582年春の
甲州征伐
に際し武田家が滅ぼされると駿河を、
同年夏の天正壬午の乱
で北条氏を制して甲斐、信濃を併合すると、家康は東海・甲信越 5か国を支配する大大名となる。そして、翌 1584年の小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と激突した後、本拠地をさらに東へ移転させるべく、甲州征伐時に荒廃していた駿府城下町(府中)の再建と巨大城郭の築城工事に着手する。
翌 1586年10月27日に大坂城で秀吉に謁見して臣下の礼をとり、秀吉との対立関係を解消させると、同年 12月4日、そのまま本拠地を浜松城から駿府城へ移転させることとなった(最終的に駿府城が完成するのは、1589年)。ここに 17年間にわたる家康の浜松城主時代(29~45歳当時)は終わりを告げる。
しかし、1590年の小田原合戦後、豊臣秀吉によって家康が関東に移封されると、浜松城は秀吉の重臣である
堀尾吉晴
(12万石)が、駿府城には
中村一氏
(14万石)が城主となり入城する。
前者の堀尾吉晴は旧徳川領にあって豊臣氏の権威を示すため、当時の最新技術である高石垣や豪壮な天守を備えた織豊系城郭への大修築工事を進めることとなる(下絵図)。現在、浜松城に残る石垣は、この吉晴在城時に築かれたものという。増改築の過程で、曳馬城(引間城)は浜松城の主要部から外れ、「古城」「古城米蔵」と呼ばれ、文字通り米蔵などの貯蔵施設に利用されるスペースとなったのだった。
1600年、関ヶ原の戦い
で家康が西軍に勝利すると、浜松城にあった
堀尾吉晴・忠氏父子は 出雲 24万石へ加増、移封される
。代わって浜松城には徳川譜代の大名である松平忠頼(在城期間:1601~1609年)、水野重仲(在城期間:1609~1619年)らが配置されることとなった。以後も城主は代々、譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多いという。中でも水野忠邦(在城期間:1817~1845年)は有名である。
この江戸時代初期まで、浜松城は城郭の整備工事が進められるも、軍事一辺倒から行政拠点としての機能が重視されるようになっていく。豪壮な天守は、 17世紀前半に失われたと考えられているが、その後に再建されることはなかった。また、三の丸の拡張や大手門の新設(南に通る東海道と直結されたのは、江戸時代初期という)など、城下町の整備も一体となって進められていく。
最終的に東西 600m、南北 650mという巨大な城郭が完成し、外堀と内堀に囲まれながら、東から西へ三の丸、二の丸、本丸、天守と各曲輪が連なり順次高さが増す、梯郭式と呼ばれる平山城スタイルとなる。
現在、浜松城の遺構が残っているのは、本丸の一部、天守曲輪、西端城曲輪、清水曲輪(清水の湧き出る清水場が 2箇所あったことに由来)の一部だけとなっている。かつて藩主御殿のあった二の丸は、旧元城小学校と市役所の一部となり、また広大な三の丸は道路と市街地に改造されてしまっている。
上絵図は、江戸末期の 1850年頃の浜松城と城下町の鳥観図。
城下町は城の南面に広がっており、その中央に東海道が敷設されていた。
なお、上絵図の左端には、先の三方ヶ原合戦で城の身代わりに焼き払われた普済寺が描かれており、立派な伽藍で再建されていた様子がうかがえる。
上地図は、浜松城の東面。鎌倉時代から続く「曳馬宿」エリアも残存していたことが分かる。
間もなく
、道路沿いに浜松市美術館が見えてきた。ここから緑地公園内を通って、矢印通りに進むと浜松城公園に到着する。
さて美術館脇の作佐曲輪から入城する(下写真左)。かつて、この西側に西城門が立地した。
城内公園で下へと続く道があった(上写真右)。ここには、山門や四阿のほか、滝や池、竹林を備えた日本庭園があり、地元で紅葉の名所となっているという。
作佐曲輪
日本一短い手紙『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ』という、名レターを妻に宛てたことでも有名な本多重次(1529~1596年)という人物がいる。その文意は、「一筆(手紙)を啓上(差し上げます)。(当時、最も恐れられていた)火の取り扱いには十分い注意し、(当時 3歳の息子)仙千代を大事に世話し、馬の手入れを頼む」という、4テンセンスで優しさ、気遣い、必要事項の伝達をすべて済ませた名文とされる。手紙自体は、決死の覚悟で臨んだ対武田戦の長篠合戦(1575年5月)での陣中より、出されたものという。
本多重次は、
徳川家康の祖父・清康(1511~1535年)
の代より仕えた老臣で、家康(1543~1616年)の三河経営では高力清長(1530~1608年)、天野康景(1537~1613年)とともに三奉行の一人として活躍し、その無骨・直情型の気質から、通り名の作左衛門(さくざえもん)をもじって「鬼作左(おにさくざ)」」と通称された人物である。
三方ヶ原の合戦時、家康が本多重次を呼んで、もし城が武田軍の包囲に遭い長期戦となった場合、兵糧はどれぐらい備蓄されているかと問うた際、すでに十分に準備できていると返答したことから、家康よりますます信頼されるようになり、戦後、その時の米蔵の場所に本多重次の屋敷を設け、引き続き、兵糧米の管理を委ねたという。その彼の居館がこの地にあった、というわけである。
浜松城の城域が拡張された 1579年、この屋敷地も城砦化され、城域に合体されると浜松城の搦め手として位置付けられ、「作左曲輪」と命名される。以後、浜松城の北西部を固める重要な曲輪として機能したという。1590年に家康と共に関東へ移封されると、秀吉に嫌われたことから蟄居を命じられ、家督は次男の本多成重(幼名は仙千代。1572~1647年)が継ぐこととなった。
現在、この付近には、浜松城公園と浜松市立中部中学校が立地し、今でも「作左」「作左山」「作左の森」と地元で通称されているという。
そのまま道なりに進むと、天守曲輪すぐ下の浜松城公園に到着する(下写真)。本来、この本丸下の土塁脇には空堀があり、清水曲輪が設けられていた。
なお、現存する浜松城の石垣は 400年以上前の戦国末期のスタイルで、自然石を利用して積み上げた「野面積」と呼ばれるもので、見応え抜群だった。現在、浜松市指定の遺構となっている。
下のジオラマは、江戸期の浜松城と城下町の様子。
石垣
はわずかで、ほとんどが土塁造りの城郭であったことが分かる。
下は、浜松城の今昔マップ。
江戸幕府の開祖・
徳川家康
の出世城と言われる浜松城であるが、その天守閣のあまりの小ささにびっくりした。しかし、知名度は抜群で、筆者の訪問が土曜日だったこともあってか、天守閣内部は大混雑だった。
3重3階(地下1階)建ての天守閣であるが、市のシンボルとして 1958年4月に再建されたもので、現在、1階、2階は展示室、3階は展望室となっている。
この地階(穴蔵と通称された)には、籠城時に使用するという井戸が保存されていた。直径 1.3mあるが、深さは現在 1mほどしかなく、水はなかった。
そもそも現在、判明している分だけで浜松城内には合計 10箇所の井戸があり、そのうちの一つという。その配置は、天守台に 1箇所、天守曲輪の埋門のそばに 1箇所(銀明水と通称された)、本丸に 1箇所、二の丸に 3箇所、作左曲輪に 4箇所であった(下絵図)。
いずれも石組井戸スタイルで、穴の周りに石材を積んで崩れないようにしており、この時代の特徴という。
名古屋城
や
松江城
にも天守穴蔵に井戸が保存されている。
なお、↑ 清水曲輪と本丸の南側には、かつて幅 9.7m、深さ 3mの巨大な空堀が掘削されていた。堀の斜面には石垣がなく、土塁造りであったという。
この堀の特徴は、空堀の中央部に土手(中土手)を設け、起伏(高低差)を作り出すことで、敵の侵攻を鈍らせ、鉄砲や弓矢での攻撃をしやすくした設計であったことにある。これは、
現在の名古屋城の二の丸内堀(同じく空堀スタイル)内に残っているので
、具体的なイメージがつきやすい。
さらに、本丸に近い北東部には袋地のような箇所を設け(↑上絵図)、空堀の奥まで侵攻した敵が塀沿いに移動してきたところを三方(前方と左右)から攻撃できるように工夫がされていたと考えられている。
現在、この空堀は浜松城公園南面の駐車場と市役所前の道路となっている。
下写真
はこの天守閣 3Fから、東方向を臨んだもの。
手前に見える屋根瓦の建物が、天守曲輪の正門(2014年3月復元)。本格的な木造瓦葺の櫓門で、櫓内部では発掘調査で見つかった瓦や土器の展示が少々あったが見応えは全くなく、見学者は皆無だった。ここでも、天守閣入城券が購入できたので、天守入口の長蛇の列に並ばなくて済んだ。
その一段低い場所が本丸で、中央にシンボルの羊歯印の兜を右手に持つ家康の銅像が立っていた(写真中央に見える)。
さらに後方に広がる土の部分が、二の丸の敷地である。かつて元城小学校の校庭があったが、現在は発掘調査中でブルーシートで覆われていた。
なお、この二の丸であるが、かつて藩主御殿と浜松藩の政庁、役所が立地し、江戸時代を通じて藩政治の中枢部を担った場所である。その面積は約 5,000m2(1,500坪)で、主な建物は表御殿(藩の政治を担当)と奥御殿(藩主の邸宅)であり、内部には多くの部屋があった。
その二の丸の北東端、上写真の中央左端に見える緑地帯が、元城町 東照宮である(かつての曳馬城跡)。天気が良いと、その後方に
富士山
が見えるという。
そして、下写真が天守閣から見た南方向。中央に見える緑地帯は市中央図書館で、周囲よりも標高が高い。
家康在城時代には、鳥居元忠の居館があり、鳥居曲輪と通称された部分で
、浜松城時代に入っても出城が設けられていた。
ちなみに、左端の頑丈そうな建物は、浜松市役所庁舎。ベストなロケーションにもかかわらず、ここには展望スペースはない。その右脇に広がる駐車場エリアに、かつて巨大な内堀(空堀スタイル)があった。
下は、北西方向。三方ヶ原の合戦が行われた一帯を遠望する。右端の赤白色の鉄塔の後方エリアが激戦地だったという。
さて、天守曲輪から本丸を抜けて、かつて内堀があった駐車場エリアに至る。下写真。
その後方に高台があり、市立中央図書館が立地する(下写真)。ここも三方ヶ原台地に連なる崖上だったわけだ。
続いて
、今川氏時代に築城され、幕末まで浜松城内の曲輪として内包されていた、曳馬城跡を訪問する。県道 152号線(飛騨街道)を少し北上すると、急に高台となっている元城町 東照宮が目に飛び込んでくる(下写真)。
境内には、若き日の
木下藤吉郎(16歳。のちの豊臣秀吉。1536~1598年)
と 徳川家康像(曳馬城入城時 29歳。1542~1616年)が設置されていた。秀吉は 18歳までの 2年間、家康は 45歳までの 16年間を当地で過ごしたという。
この城は期せずして、二人の天下人が戦国武将としての一歩を踏み出した運命の地となったという解説板があり、まさに「出世の街 浜松」を代表する聖地である、と大見得を切っていた。その通り過ぎて、ぐうの音も出ない。
下写真は神社境内(旧曳馬城の本丸)から、浜松城を眺めたもの。
この真下に広がる道路、駐車場エリア一帯に藩主御殿を有する二の丸があった。
かつて江戸期の浜松城時代、この旧本丸曲輪は米蔵などに使われており、戦時には北東部の守備を司る第一防衛ラインとして期待されていたわけである。
明治維新直後の 1868年、浜松城代として赴任した旧幕臣・井上八郎(延陵)が 1876年にこの本丸跡地に徳川家康を祭神とする東照宮を勧請し、寺院を建立する。完成後、その管理を大日本報徳社(本部は
静岡県掛川市
)に委ねていたが、その後、元城町の管理下に移管され地元氏神として継承される。 1945年の戦火で焼失されるも、
1959年
に再建され今日に至っている。
境内を出ると、ちょうど台地を掘削して造られた切通しの地形が生々しく残されていた(上写真)。左右上下 4曲輪で構成された曳馬城の構造を現在にとどめるもので、目下、切通し跡には道路が敷かれている。
上写真左は、切通しの交差点から北側を臨んだもの。
上写真右は、古城(引間城)の北面から切通しを見たもの。地元の神輿屋台蔵が設置されていた。
かつては、この北面に大手門があり、家康が三方ヶ原へ出陣し、また帰城した場所であった。当時は、玄黙口や元目口と通称され、北へまっすぐ
秋葉街道(二俣城へ通じる)
がつながっていた。
さて見学後、そのまま県道 152号線(
大手通り
)を南下すると、三の丸跡地を経て、旧東海道沿いの旧城下町エリアに到達する。
その道中、江戸期の浜松城下にあった 6箇所の本陣のうち、佐藤本陣と梅屋本陣の 2箇所の本陣跡を通過した(上写真)。本陣とは大名、公家、幕府高官など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を指す。
佐藤家の本陣は 225坪(約 745m2)、梅屋家の本陣は約 180坪(約 600m2)もの広さを誇ったという。後者の梅屋家の婿養子の中に、国学者の賀茂真淵(1697~1769年)がいるらしい。
さて、ザザシティ浜松まで至ると、地下にあったスーパーで買い物して、ホテルへ帰った。
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