BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


東京都 八王子市 ① ~ 市内人口 58万人、一人当たり GDP 800万円(東京都 全体)


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  片倉城跡(片倉城跡公園)
  平山城跡(平山城址公園)、平山季重 ふれあい館、季重神社、宗印寺
  由木城跡(永林寺)、大石氏居館跡、大石やかた公園(小田屋敷跡)、松木屋敷跡
  初沢城(椚田城、高乗寺城)跡
  浅川地下壕跡(太平洋戦争中に、日本陸軍によって掘削された、地下飛行機製造工場)



前日まで新宿 2泊、調布 2泊した後、夕方に「調布駅」から京王線で「橋本駅」まで移動し、ここから JR横浜線で「八王子駅」に到着した。この駅西側にある 2軒のアパホテルは、駅から距離がある分、非常にリーズナブルな価格帯で重宝した。3~5連泊する。

なお、羽田空港から東京入りの際は、空港バス「八王子(1時間30分)」「調布駅(1時間10分)」行で直接、現地入りしたい(1,780円)。「羽田空港 → 八王子・西八王子・高尾」行は、早い者勝ちの座席定員制で、逆に「羽田空港」行は事前のネット予約が必須だった。もしくは、羽田空港から京急線で「京急蒲田駅」を経由し、京急「川崎駅」「横浜駅」「横須賀中央駅」へ移動後、JR線に乗り換えることもできる。この場合、横浜駅前か、新横浜駅前に投宿したい。もしくは、八王子駅前、調布駅前 のネットカフェに泊まるのもいいだろう(初日、最終日など)。

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翌日、八王子駅を出発し、JR横浜線「片倉駅」で下車する(もしくは 京王バス【八84、八81】で、八王子駅南口からバス停「片倉城址」まで直行も可(1時間に 4~6本あり))。ここから住宅街を通り抜けて行くと(徒歩約 5分)、片倉城跡(八王子市片倉町 2475)に到着できた。下地図。

現在、城跡は東京都指定文化財に指定され、「史跡公園」として整備されている(芝生広場や運動グランドも併設)。本丸、二の丸、大手道あたりに残る土塁や土橋、堀切、巨大な空堀は見ごたえ抜群だった。しかし、櫓跡とされる場所は、やや高台になっている程度のものだった。
なお、夏季だと雑草が多くて空堀内の遺構が視認にしくいので、秋~冬季の訪問がベスト。

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平安時代後半には、武蔵七党(武蔵国多摩郡に割拠した地元武士集団)の一つ、横山党が割拠する土地柄であった。この支配下で、湯殿川と兵衛川の合流ポイントに形成された河岸段丘(標高 143 m)の東端を切断する形で、横山氏一門の城塞が造営されたと考えられる。ただし、これはあくまでも緊急時の避難要塞で、日常的には段丘下の河川沿いに集落を作って生活していたようである。この浅川上流一帯には縄文時代より古代人類が生息していたことが分かっており、かなり古くから人々によって農耕や土地開墾が進められていたという。
城塞は、ちょうど段丘の先端部を堀切で分断する形で設計され、三方を急斜面に取り囲まれた上に、さらに外周は河川と湿地帯が広がるという、まさに天然の要害となっていた。

1213年、自身の叔母が和田義盛の妻となっていたことから(さらに自身の妹も、義盛の長男・常盛の妻となっていた)、当主・横山時兼(1153~1213年)が和田義盛の乱に組して挙兵するも戦死に追い込まれる(和田合戦)。以降、横山氏一門は没落し、その旧領は乱の平定に尽力した幕府重鎮・大江広元(1148~1225年)に下賜されることとなった。大江広元はもともと 京都 の公家出身で、鎌倉幕府における朝廷交渉の責任者、かつ政所(幕府財務部)を統括する高級幹部だったことから、そのまま 鎌倉 に残って政務に携わったため、その次男・大江時広(?~1241年)を当地の領主として派遣する。以降、長井時広と称し、片倉城はその本拠地として使用されることとなった。

その後、この長井時広は、実兄・大江親広(?~1242年)が承久の乱(1221年6月)で後鳥羽天皇方に組して失脚したことから、そのまま大江家の家督を継承し(1225年に父・大江広元が死去)、以降も鎌倉幕府内の重鎮として存続していく(武蔵長井家と呼ばれる)。子孫の一人、長井宗秀(1265~1327年)は、鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鏡』の編纂者の一人に加えられている。

室町時代に入っても、武蔵長井氏は鎌倉公方・足利氏の傘下で関東の動乱時代を生き残っていく。
この鎌倉公方・足利氏と対立した室町幕府・足利将軍家は、その縁戚にあたる上杉家を関東管領に任命し鎌倉公方をけん制させつつ、武蔵国守護も兼務させたことから、片倉城も上杉氏のテリトリーに組み込まれる。実質的には、 上杉氏配下の宿老・大石氏(本拠地・二宮城や高月城)が武蔵国守護代を務めたことから 、片倉城はその支城の一つとなると、以降、長井氏に関する史書の記述は無くなる。唯一、1504年9月に勃発した立河原合戦で山内・扇谷の両上杉家が戦った際に、扇谷上杉氏旗下の長井八郎が山内上杉方に捕縛&処刑された、という言及があるのみという。この時、彼が捕らえられた「椚田塁」が、片倉城のことか、初沢城のことか、結論は出ていない。下地図、末尾地図)。

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その後、伊豆・相模で北条氏が台頭し、武蔵国へ侵攻してくると、徐々に関東管領・上杉氏の勢力が駆逐され(1524年の江戸城失陥など)、最終的に 1546年、武蔵国全土が北条氏に併合されることとなる。以降、武蔵国多摩郡一帯を支配した北条氏照(滝山城八王子城 を本拠地とした)の一支城として、片倉城は引き続き、存続したと考えられる。もしくは領内の中継拠点、浅川~多摩川上流域の河川交易を管轄する拠点としてのみ、使用されていたのかもしれない(当時、北条氏は多摩地方から伐採された木材供給を支配しており、その河川運搬を管理していたため)。

1569年9~10月、武田信玄が関東出兵してくると、北関東軍をまとめた北条氏照と北条氏邦がこの片倉城で合流し、三増峠へ向かって出陣した記録が残されている。結局、10月7~8日の三増峠の戦いで、北条氏照らは完敗することとなる

その後の史書の記録は皆無となっているが、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐後、関東へ入封した徳川家康により 八王子城滝山城とともに、片倉城も廃城となったようである。

時は下り、昭和期に勃発した太平洋戦争中には、この城跡に高射砲が設置されていたという。戦後の 1971年に片倉城跡公園として整備され、今日に至る。園内には空堀、土塁、土橋、櫓台等の遺構がはっきりと現存しており、1999年に東京都指定史跡となっている。



1時間弱ほど散策後、そのまま北上し(徒歩 8分)、京王高尾線「京王片倉駅」に移動する。ここから、新宿方面行の列車に乗車し、4つ目の「平山城址公園駅」で下車する。続いて、この駅南側にある平山城跡を訪問してみた。下地図。

平安時代末期、源頼朝に仕えつつ、源義経に随行して西国で平家討伐戦のすべてに参加した武将・平山季重(1140?~1212?年)の故郷であることから、駅前ロータリーには、城主・平山季重居館跡(平山季重遺跡之碑、季重公靈地碑)という石碑が設置され、また城跡までの案内マップも充実していた。途中には「平山季重ふれあい館」という資料館もあったので立ち寄ってみた。下地図。

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現在、「都立平山城址公園」となっている丘上の公園は、当時、この平山氏によって築城された緊急避難用の要塞(根小屋スタイル)だったと考えられる。公園に到着すると、凸凹の高低差が激しい地形が残されており、それら一つ一つが曲輪跡や堀切跡という。上地図。

また、公園入口付近にある季重神社(日奉明神社、日奉神社とも別称される)は、この平山一族の中で最も有名な人物だった平山季重(1140?~1212?年)を祀ったものである。もともと平山家の祖先廟だった神社か祠が創建されていたという。なお、この神社は城塞の北端に位置し、丘上の城塞の曲輪の一部も兼ねていたようである(物見台など)。上地図。

ちなみに、山麓にある「宗印寺(東京都日野市平山 6丁目)」は平山季重の菩提寺で、彼の墓所と木彫座像が現存する。上地図。

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多摩川の上流の一つ、浅川の南岸沿いに形成された台地(標高 40 m)上に築城されていた。
当地を支配した平山(日奉)宗綱により築城された、と考えられている。平時は河川沿いの居館で生活し、この丘城は緊急時の避難要塞(根小屋スタイル)だったようである。

この平山宗綱という人物は、平安時代末期、武蔵七党(武蔵国多摩地区に割拠した地侍)の一族・西党に属する、日奉(ひまつり)家から分家して、新たに初代・平山家当主となった地侍であった。
そもそも武蔵国西党とは、日奉宗頼(生没年不詳)を始祖とするの一門で、平安時代初期の 931年、元公家であった宗頼が、京都 から 武蔵国・府中 に国司として赴任してきたことに端を発する。彼は任期終了後も帰京せず土着し、939年に勃発した平将門の乱を契機に、武蔵国・府中の西側一帯の武士団を糾合・統率したことから「西党」と呼ばれるようになった集団である(下地図)。その子孫らは、小川氏、立川氏、由井氏、小宮氏、二宮氏、川口氏などに分派され、そのうちの一つが平山氏というわけであった。ちょうど、日奉宗綱がこの多西郡舟木田荘平山郷(今の東京都日野市平山)に居館を構えて地盤としたことから、平山氏を称するようになったようである。
そして、この平山の居館で誕生したのが、平山季重(1140?~1212?年)であった。

季重は、保元の乱(1156年)では源義朝に従い、また平治の乱(1159年)では義朝の長男・源義平に従って、平家との抗争に巻き込まれるも、義朝の敗死後は平家に臣従し、在地土豪として存続を認められることとなる。
しかし 1180年、伊豆国に流罪中だった源頼朝が挙兵するとこれに合流し、弟の源義経に従って、富士川の戦い、宇治川の戦い(対・木曽義仲戦。1184年)、一ノ谷の戦い(1184年)、屋島の戦い、壇ノ浦の戦い(1185年)で活躍する。さらに、 1189年には奥州征伐に息子・平山小太郎重村と共に参列し、以降、鎌倉幕府の元老として君臨する。その後も、子孫らは執権・北条氏の粛清をかいくぐりながら、鎌倉幕府滅亡まで存続していく。

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室町時代に入っても、武蔵国の平山の地に割拠し続け、在地豪族として活躍したようで、この地を領有した東福寺配下の地侍という立場で、船木田荘(今の八王子市、日野市一帯) の年貢徴収を司る役割を担っていたようである。

しかし、この時代の関東地方は、200年にわたって関東管領・上杉家と鎌倉公方・足利氏との対立が続き、関東地方は絶え間ない戦乱状態に陥っていた。武蔵国多摩地方の地元武士集団(この時代、武州南一揆と通称されていた)は、守護に任じられていた関東管領・上杉家に臣従し、自らの命脈を図っていくこととなる(上杉家配下の有力宿老の一人、三田氏の旗下に組み込まれていた。三田氏は、古くから多摩川上流域の豊かな森林資源を背景に強大化した地場豪族で、本拠地の勝沼城にちなみ「勝沼殿」と称されていた)。

そんな不穏な環境下で、関東管領を罷免された上杉禅秀が、現職の関東管領・上杉憲基と鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵すると(1416年、上杉禅秀の乱)、当時の平山家当主・平山三河入道正泰は、他の武蔵国の地元武士団(武州南一揆)と協力して、現職の関東管領・上杉憲基に組し、武蔵国内の騒乱鎮定で功績を挙げると、翌 1417年、他の多摩エリアの武士団と共に、 5年間の諸公事免除を許可された上、さらに檜原谷の地も下賜されるのだった。以降、平山氏は檜原城を新たに城を築き、本拠地を移転することとなる。

その後も現職の関東管領・上杉氏(武蔵国守護も兼務していた)に従うも、伊豆・相模国から台頭する北条氏に攻め込まれ、1524年に 江戸城 喪失、1546年の河越城の戦いで川越城を完全失陥し、武蔵国から上杉家が完全に駆逐されると、そのまま北条氏の配下に組み込まれる。

以降、三田氏を攻め滅ぼし(1563年)、多摩地方を完全支配した 滝山城主(後に 八王子城主)の北条氏照の旗下として、檜原城の平山氏も加えられる。特に本拠地だった檜原城は、甲斐の武田氏との国境ラインに位置する「境目の城」として重要視されることとなる(下地図)。通行困難な笹子峠を避け、山伝いに檜原の浅間尾根を通って甲斐からの侵入を警戒した北条氏照により、檜原谷の厳重封鎖の任務を託されていたのだった。

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しかし、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の際、当主だった平山(伊賀守)氏重・新左衛門父子は檜原城に籠城するも、 八王子城と共に一日で攻め落とされてしまい、父子は城下の村「千足」という場所で自刃して果てたとされる。(現在、西多摩郡檜原村の千足地区には、この氏重に関連する「千足の草鞋」「源五郎岩」「綾滝」などの地名が今も伝えられ、また御霊檜原神社には氏重が祀られているという)。こうして平山氏本家は滅亡し、残った一族も没落してしまうのだった。また、平山城や檜原城も、この時に廃城となったと考えられる。その後の子孫は帰農したようで、現在でも平山姓の住民が多摩エリアに多く居住しているという。

その後、平山城址公園は 1950年11月23日、東京都立多摩丘陵自然公園に指定されると、 1980年に現在の姿に整備され今日に至る、というわけだった。



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そのまま「平山城址公園」を南へ抜け、東京薬科大学の脇を通過して、さらに南に隣接する丘陵地帯を目指す。八王子市南陽台 2丁目の住宅地をまっすぐ通り抜けて、丘陵の南面まで回り込む形で移動すると、永林寺(八王子市下柚木 4)にたどり着く。上地図。

この「永林寺」の本堂一帯が「大石氏居館跡」とされており、その裏手にある墓地奥に由木城跡の看板、立派な城址石碑、大石定久公墓(後世になって移築されたもの)、大石定久の銅像(下写真)が設置されていた。実際の「由木城跡」である裏手の丘陵部分は、荒れ放題の雑木林が広がっており、城塞遺構の見学は不可能な状態にある。なお、この高台からの景色はすばらしい(標高 140 m、麓からの高低差 25 mほど)。
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また、さらに南に点在する「大石やかた公園」や「富士見公園」は、大石家一門の屋敷跡という(上段地図)。このうち「大石やかた公園」は、大石定久(1491~1549年。関東管領・上杉家下での最後の武蔵国守護代を務めた)の弟・大石信濃守宗虎(定基。下家系図)が晩年に居住したと伝承される跡地である。彼は柏城主を務めた後、滝山城・信濃屋敷 に入り、隠居後にこの大石屋敷へ移り住んだという。現在、当時の庭木の一部とされる「さるすべりの木」が残存しており、また彼の墓も敷地内に保存されている。

その他、周囲には「小田屋敷跡」「松木屋敷跡(松木浅間神社。松木七郎師澄の墓所とされる宝篋印塔が現存)」も点在する。松木七郎師澄は、鎌倉公方・足利満兼(1378~1409年)・持氏(1398~1439年)父子に仕えた人物で、室町時代中期より当地一帯を支配していたが、その子孫らは北条氏に仕え、八王子城にある「松木曲輪」の由来となっている


由木城(由木氏館)跡は、平安時代後期~鎌倉・室町時代にかけて、武蔵国多摩地方に割拠した武蔵七党の一角、横山党系に属する由木氏の居城だった場所である。鎌倉時代初期に築城されたものの、1213年の和田合戦で没落した武蔵七党(由木氏も含む)に代わり、幕府の重鎮・大江広元(1148~1225年)が武蔵国多摩地方を支配するようになると、その一門の長井氏(本拠地は片倉城)が管理することとなる。

室町時代に入ると、関東管領・上杉氏が武蔵国守護を兼務したことから、その守護代に任じられた大石氏(上杉家の有力 4家老の一人)に臣従する。しかし、上杉家内でも内紛が勃発すると、その戦乱の中でついに長井氏も没落するのだった。以降、由木城は守護代・大石氏の直轄拠点となる。
大石家の最後の当主となる定久が若い頃に居城としていたが、大石氏の家督を継承すると、本家の居城・高月城 へ移住することとなる。代わりに、叔父の一種長純大和尚(大石定重の弟。下家系図の「某」か?)が由木城に入居し、麓に永鱗寺を創建している(1532年)。

しかし、伊豆・相模から台頭する北条氏により、武蔵国の領土が次々と浸食され(1524年には 江戸城 を喪失)、最終的に河越夜戦(1546年)の敗戦により、関東管領・上杉家の勢力が武蔵国から完全排除されると、大石定久(1491~1549年)も北条家に臣従するのだった。直後に、北条氏康の三男・北条氏照(1542~1590年。5歳)を婿養子に迎え、家督の継承権を保証しつつ、氏照が元服するまで大石綱周が暫定当主を務めることとなった。最終的に氏照が 17歳で元服すると、大石家の家督を継承し、正式に大石家も北条氏に乗っ取られるのだった(1559年)。
その後、氏照は、多摩地方のもう一つの有力豪族・三田氏を攻め滅ぼし、 1563年、多摩地方の完全支配を確立することとなる。

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しかし、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐を経て、北条氏が滅亡すると、北条氏照は切腹となる。大石定久の実子・定仲(本来の家督継承者だった)と養子・定勝は、続いて関東に入封した徳川家康に召し出され、旗本として仕えることとなった。上家系図。

その際、関東領内を視察していた徳川家康が、由木城の麓にあった永鱗寺に立ち寄った際、その広大な林を賞賛したことから「永林寺」へ改称させたという。こうして北条家、徳川家にゆかりが生じた永林寺であるが、今でも本堂の屋根瓦は、北条家の家紋「三つ鱗」が刻印されたものが使用されているという。



由木城跡を見学後、 南側の集落「下柚木」にあるバス停「由木中央小学校」から路線バス(北 03、北 03、北 09)に乗車し、京王線「北野駅」へ向かう(1時間に 4~6本あり)

再び、京王線に乗車し、今度は西へ向かって「高尾駅」で下車する。
高尾駅前にはレンタサイクル店はないので、高尾駅南口を出ると高尾天神社の参道入口まで、初沢川沿いを徒歩 15分ほど南進することになる。この付近に、「初沢城跡」と「浅川地下壕跡」があった(一帯は東京都指定史跡となっている)。下地図。

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高尾天神社の境内に入り、社殿脇を抜け、さらに裏山にあたる初沢山の山頂(標高 294 m。山麓からの高低差 100 m)を目指す。ここはハイキングコースが整備され、あちこちに解説板が設置されているので、歩きやすかった。そのまま 15分ほどの登山で、初沢城跡・本丸エリアに到着する(上地図)。
連郭式の山城だったようで、複数の曲輪や土橋、堀切がはっきりと視認できた。


初沢城では、築城主に由来し、二つの別名が伝承されている。

一つ目は「椚田城(くぬぎだじょう)」で、鎌倉時代初期に幕府御家人で武蔵七党の横山党の一派だった椚田氏が、自身の居城として築城した、という言い伝えに由来するもの。

二つ目は、「高乗寺城(こうじょうじじょう)」である。この説によれば、先の椚田氏が鎌倉時代に築城したのは「浄泉寺城」のことを指すという。
1213年の和田合戦で横山党が没落した後に、幕府重鎮・大江広元(1148~1225年)がこの武蔵国多摩郡の旧領を下賜されると、以降、その子孫らは長井氏と称するようになり、片倉城を本拠として鎌倉時代末まで存続し続けることとなる。そのまま室町時代に入り、子孫の長井道広(長井大膳大夫高乗)が、片倉城主を継承していた最中の 1394年、山麓に高乗寺を造営し(今も現存する。上地図)、その向かいの初沢山上に避難要塞(根小屋スタイル)として「初沢城」も築城した、と伝えられているという。

このため、鎌倉時代の築城か、室町時代の築城かは、はっきりと分かっていない。

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そして、この室町時代、長井家は武蔵国守護であった扇谷上杉氏の配下に組み込まれていた。
しかし、関東管領の本家・山内上杉氏と武蔵国守護・扇谷上杉氏が対立し、双方が外部勢力と同盟を結んで、関東全域に及ぶ大戦乱を勃発させると(上地図)、両軍は一進一退の長期戦に突入する(1504年9月の立河原の戦い、など)。 しかし、山内上杉軍が、扇谷上杉氏と今川・北条氏との同盟を遮断&分断すべく、一気に太平洋岸まで突入する(同年 12月。上地図)。この時、まずは椚田城(椚田塁)を包囲して、城主・長井八郎広直を捕縛・処刑し、かわりに配下の三田氏宗(生没年不詳。鎌倉時代から続く、多摩地方の有力豪族・三田氏の当主)を新城主に配置する。さらに、南側の実田城(現在の神奈川県平塚市)をも攻略し、扇谷上杉氏配下の相模守護代・上田正忠をも捕虜してしまうのだった。上地図。
この椚田城(椚田塁)に関し、初沢城とする説と、片倉城を指摘する説が提示されている。いずれにせよ、このタイミングで長井氏は没落し、歴史の表舞台から姿を消すこととなった。

戦国時代後期には北条氏の支配下に組み込まれ、滝山城八王子城主 だった北条氏照旗下の一支城となっていたが、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐に際し、八王子城を含む、一帯の支城群はすべて落城し、以降、廃城となる。
なお、西側の山麓を流れる初沢川沿いにある高乗寺には、八王子城攻めが行われる際、豊臣方の一部隊が境内に駐屯していたという。

時は下って昭和時代の太平洋戦争中、度重なる米軍の空襲に対抗すべく、日本陸軍によって浅川地下壕が掘削され、トンネル内に中島飛行機武蔵製作所が建設される。この工事には、日本人や台湾人、朝鮮人労働者らも多数、動員されていたという。
特に初沢城跡の真下に掘られた「ハ地区」は 75%まで完成されており、他の防空壕とあわせて、今も山中に眠ったままとなっている。この「ハ地区」は約 2 kmサイズの長い地下壕が 5本もあり、運搬トラックも通行できる広さで設計されているという。



駅北側の「廿里砦跡」「八王子城跡」などは、また日を改めて訪問することにした


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