途中、筆者が通訳を買って出たが、「添い寝」料金という
1,600円には、追加タオルも、歯ブラシも、朝食もつかず、全く「言い値」という状態で、ホテル側の対応に問題が大ありだったと感じた。翌日気づいたことだが、このホテルは
JR
富士宮駅前にもあり、複数店舗を展開しているようだったが、富士山観光に訪れた外国人観光客が最初から最後まで気持ちよくステイできるように、料金プランの明確化を徹底してほしいと思う。というより、「言い値」だけの添い寝料金は、筆者個人的にも初耳で、フロント・スタッフの個人的なポケットマネーとなるのではないか?と疑念を持たれても仕方ないチャージだろう。
さて、富士市の都市構造としては、JR駅前はあくまでも鉄道敷設で発展した後発的な駅前アーケード街で、実際の見どころは旧宿場町エリアにあり、
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富士駅と吉原中央駅(路線バス発着所)を往来する地元バスで訪問するか、レンタサイクル(新幹線専用の新富士駅構内の富士山観光交流ビューローで申込)を利用するしか方法がない。もちろん、
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東海道線上りで一つ東隣の「吉原駅」へ移動し、ここから岳南鉄道線の吉原本町駅で下車して徒歩散策も可能だ。
1567年 ①
武田信玄 は織田信長との同盟成立により、その同盟者の 越後の上杉謙信 とも間接的に休戦関係が成立し北信濃情勢が落ち着くと、いよいよ領土拡張の目を南に向けることとなる。
②
同時に、信長の同盟者であった三河の徳川家康とも手を組み、東から武田が、西から徳川が、義元の後を継いでいた今川氏真を攻める交渉を進める。他方で、古くからの同盟者だった北条氏にも駿河侵攻の話を持ちかけたが、拒絶される。
③ 8月27日(旧暦
10月19日)、駿河侵攻に最後まで反対した嫡男・義信を謀反の容疑(1565年
10月~幽閉中)で自刃に追い込む。
1568年 ① 2月、織田信長の仲介により、いよいよ三河の徳川家康との密約が成立する。 ②
信長は 8月27日(旧暦 7月25日)、ついに足利義昭一行を 美濃・岐阜城 に招きいれ、
10月7日(旧暦
9月7日)に義昭を擁して美濃を出立し上洛の途につく。信長はこの行動の前準備として、美濃東部で国境を接する信玄を懐柔するために、信玄外交を取り持っていたわけであった。自身が留守にする美濃よりも、南の駿河に目を向けてもらう必要があったのである。
④ 同時に信玄は、駿河の今川家重臣や国人らに調略攻勢をしかけ、内通を呼びかける。
③ 満を持して 12月24日(旧暦 12月6日)、信玄が 甲府
を出陣する(総勢 12,000名)。
そのまま富士川沿いの街道(駿州往環)を南下し、12月30日(旧暦
12月12日)に駿河領に侵入すると、富士川西岸の庵原郡内房村(下地図)一帯の丘陵エリアに布陣する。