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当研究会 情報
日本の城 から
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兵庫県 朝来市
訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~
兵庫県 朝来市 ~ 市内人口 2.8万人、一人当たり GDP 289万円(兵庫県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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竹田城跡
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観音寺山城跡、安井城跡
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竹田城下町、城主・斎村政広(赤松広秀)の 居館跡(寺町通り)、情報館「天空の城」
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岩州城跡
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生野城跡、生野代官所(生野平城)跡
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生野銀山跡、口鉱谷の 旧市街地(掛屋、郷宿、地役人屋敷、トロッコ道跡、カラミ石)
JR姫路駅
より播但線に乗って、 往復することにした。姫路~竹田駅まで片道 1,170円かかるので(単純往復で 2,340円)、途中下車も勘案すると、 18切符 1日分(2,410円)とほとんど同じ金額となった。 ただし、播但線の運行本数は少ないので、移動に関しては電車の時刻表との戦いであった。
本日の旅程は下記の通り(平日の時刻表より)。
姫路駅 → 寺前駅(乗換) → 竹田駅(片道 1時間45分)で、7:23発 → 9:09着、9:39発 → 11:21着、11:32発 → 13:33着の 3選択肢があった。当然、電車内でも仮眠が取れるので、早起きして第一候補の便で現地入りする。
途中、電車内から「岩洲城跡」の山を撮影しておきたい(最寄り駅がないため、途中下車不能)。下地図。
竹田城を見学後、竹田駅から生野駅まで戻る便も(330円、30分弱)、1時間に 1本以下しか運行本数がないので要注意だった。 11:22発 → 11:51着、12:46発 → 13:13着、14:03発 → 14:33着のうち、いずれかが現実的な選択肢であろう。時間節約のため、 昼食は電車内で食べることにした(竹田駅前にはお店がないので、
姫路
出発時点からパン類を持参してきた ー 重量が軽いため)。 おにぎり類は、次の「生野駅」前で調達することにした(駅西口前にローソン、駅東口から旧市街地への道中には 地元スーパー「ミニフレッシュ 生野店」あり)。
生野では、生野代官所跡(生野平城跡)などの 旧市街地エリア(
地元ガイドも予約可。1時間散策コース
)と「生野城跡」を主目的とし、「生野銀山」は追加的な選択肢と考えることにした。銀山は、駅から 5 kmほど離れており、タクシーか
デマンド型乗合交通(あさGO、400円、要予約)
、 レンタサイクル のいずれかの方法でしかアクセスできない状態だった(2024年3月に路線バス廃止)。
田舎なので夕方以降は周囲は真っ暗となる。あとは電車に乗って帰るだけとした(860円、1時間15分弱)。 16:24発 → 17:34着、17:37発 → 18:52着、19:02発 → 20:11着。
まずは竹田駅に到着後(姫路発 7:23 → 9:09着)、
駅前から離発着している周遊路線バス “天空バス” に乗車する(定員 30名まで、運賃 260円。往復チケットは 500円。乗車時にバス車内で現金支払い)。運行時間は 3月~8月、9月~11月と異なるので、事前チェックを忘れずに
。
前者&後者ともに 9時台の発車便はなく、次は 10:05発であった。
このため、竹田駅前の「旧城下町エリア」を先に散策することにした。 まずは、駅東口から 150 mほど南にある「たけだ城下町交流館(開館時間 9:00~17:00、 冬季は 16:00まで。入館無料)」を訪問する(下地図 ⑦)。 この中に 情報館「天空の城」があり、竹田城跡のジオラマや竹田城シアター、 資料・各種パンフレット類の閲覧や観光案内相談などができた。 また建物自体も 旧酒造り屋(旧木村酒造場)をリノベーションしたもので、なかなか見ごたえがあった。
ここから旧城下町エリアを少し散策してみる(下地図 ⑥→③)。情報館があった駅東側は町人町で、 駅西側がかつて 武家屋敷、寺町が並んだ地区という。特に「寺町通り」沿いの法樹寺の後方に広場があり、 最後の 城主・赤松広秀(1562~1600年)の居館跡地と考えられているという。
関ヶ原合戦
後に切腹させられた彼の供養塔も設置されていた。
下地図をぐるっと一周する形で、駅前に戻ってきた。なお、地図 ③→②へ至る町人町エリアの急カーブは、 かつての城下町時代の名残りで、街道を直進できないように意図的に直角に曲がらせた「鍵の手」跡地ということだった。
バスの発車時刻になったので、バスに乗り込み山頂を目指す。
バス移動の途上、竹田城跡の北面を通過するタイミングで、 北に見える独立峰の 山(標高約 210 m)を写真撮影しておいた。 この頂上に「安井城跡」が立地していたわけである。
約 20分ほどのドライブで 古城山(虎臥山)の中腹にある 駐車場🅟 に到着する(下地図)。ここから徒歩 15分ほどで本丸まで行くことができた。 受付で入場料 500円を支払い、真っ先に竹田城三の丸の一部を成す「北千畳」を目指した。
他のバス同乗メンバーと写真撮影がかぶらないように別行動すべく、先に単独で北隣の「観音寺城跡」を訪問する。 「北千畳」の北側から尾根伝いに遊歩道があるので、 隣接する独立峰の 観音寺山(標高 313 m)を先に目指すことにした(距離にして 200 m、移動時間 10分ほど)。 大手門下に「竹田小学校 800 m」の案内板があり、それが観音寺山の登山ルートを指している。 そのまま下ると山麓の竹田小学校裏へと繋がっているという。
壮麗な石垣が連なる竹田城とは異なり、「観音寺城跡」は室町時代中期の土塁メインの中世式山城のままであった。 三段の郭跡の周囲に竪堀や 土塁、堀切、切岸、わずかな石垣面などががはっきりと残されていた。 これらの防衛設備は北面と東面側に集中されており、 南西側に連なる竹田城方向には整備されていなかったことから、両者が連続する城塞であったことを物語る。
さて観音寺城跡の見学後、改めて竹田城跡へ戻り見学をスタートする。 三の丸(南千畳・北千畳・花屋敷)の一部を成す「北千畳」からは、先程の「観音寺城跡」、及びバス乗車中に見た「安井城跡」を一望できた。 南千畳には居館が設けられていたようで、今でも地面に屋根瓦の破片が無数に散らばっていた。
筆者が小学生のとき、映画『天と地と』の ロケ・セットが残されたタイミングで見学に来たことがあった。 その時は、
上杉謙信の春日山城
としてセッティングされており、黒塗りの板壁が石垣上に張り巡らされ、 裏面がトタン板だけの櫓もあった記憶が残る。当時は誰も見学者がいなかったが、今はすっかり観光地化され、 年間 60万人もの観光客が訪問するといい、天守台跡にはベンチまで設置されていた。。。
下山は駅裏登山道を徒歩で下ることにした(30分弱)。
なお、1585年に赤松広秀が城主となって以降、竹田城は本格的に総石垣造りの城郭へ大改修されたわけだが、 それまでの山名氏家臣の太田垣氏時代の城館や城下町は、現在の城山の 北側「和田山町安井」辺りに立地していたとされる(上地図)。 竹田城と安井城を南北に配置する峡谷エリアを集落地としていたのだろう。
赤松時代に現在の駅前一帯へ移転され、改めて城館や 武家屋敷群、城下町が整備されたのだった。
室町幕府重鎮の一人だった 但馬守護・山名持豊(宗全。1404~1473年)は、 1441年6月末に 播磨・備前・美作守護・赤松満祐が 将軍・足利義教を暗殺すると(嘉吉の乱)、 すぐにその征伐を主張する。 と同時に、自身でも但馬より播磨への軍事侵攻準備と拠点網整備に着手すると、その一環としてこの竹田城も造営されたと考えられている(1441年前後)。 その工事を担当したのが、「山名四天王(太田垣氏、垣屋氏、八木氏、田結庄氏)」の一角を成した 重臣・太田垣光景(生没年不詳)で、 山名宗全は赤松氏が迎撃準備を進める播磨占領を企図し、早くも光景を播磨守護代に任じるなど、 播磨併合の野心を露骨に示していたとされる。
太田垣光景は、竹田城初代城主として城郭や居館整備を進め、以降、子孫 6代が当地を支配することとなった。 この太田垣氏の治世の間に、周囲の山々にも支城が配置され、平時の城館があった「和田山町安井」エリアを取り囲むように、 竹田城、観音寺城(竹田城の出城の役割)、安井城、三波城、殿城、筒江城などが造営されていったと考えられる(冒頭地図参照)。
他方、赤松氏を討伐し播磨を平定した後も、幕府内部では権力争いが絶えず、丹波守護・細川氏が但馬国へ軍事侵攻した際、 但馬南部の支配を任されていた太田垣光景が奮闘して撃退に成功するなど山名宗全を支え、その後に勃発する応仁の乱も含めて、 但馬軍の主力として機能している。
時は下って 1569年、毛利元就の要請により但馬の山名祐豊を攻撃すべく、織田信長(前年の 1568年9月に足利義昭を奉じて
京都
入りしたばかりだった)は羽柴秀吉らに 2万の軍を預けて派兵すると(8月1~13日)、 わすかな期間に 18城を攻略し、但馬国の制圧に成功する(2城を残すのみとなっていた)。この時、竹田城も降伏、開城したと考えられる。 当時の 守護・山名祐豊(1511~1580年)は但馬国を抜け出し、
泉州・堺
への亡命を余儀なくされる。
その後、信長に 1,000貫を支払うことで旧領復帰を許された山名祐豊は、再び但馬守護として帰国するも国人衆らの統率力はすでに無く、 山名四天王を中心とする地方豪族らが各地で割拠する状態に陥る(各豪族らは織田派、毛利派に分かれて国を二分して内戦状態になっていた。下地図)。 そんな中、信長との関係が悪化してきた足利義昭により、各地の大名へ信長討伐の宣旨が発せられると、 信長は畿内各地を転戦するようになり、最終的に 1573年7月、義昭を
京都
から追放する。そんな渦中にあっても、 但馬国の山名祐豊は信長傘下として働き、その命により反信長派に組した丹波国へ出兵するも(1571年11月)、 ”丹波の赤鬼” と称された 荻野(赤井)直正らに撃退されると、逆に丹波勢の但馬侵攻を受けることとなり(1575年)、 山名祐豊は織田信長に救援を求める。これに対し、信長は丹波平定のため明智光秀を派兵すると、 ちょうど竹田城を攻撃中だった荻野直正らは本国への撤退を余儀なくされ、黒井城の籠城戦が開始されるのだった。 そして翌 1576年1月には、八上城主・波多野秀治の離反と織田軍の丹波撤退へと繋がっていくわけである。 最終的に、丹波が完全平定されるのは、1579年6月のことであった(1578年3月から光秀軍が再侵攻する)。
こうした但馬の混乱は、西隣の因幡国を制圧した毛利方の調略が大いに関係しており、 その本格的な軍事侵攻を恐れた 但馬守護・山名祐豊もついに毛利方へ帰順してしまい(1575年、芸但和睦)、 但馬の織田勢力は一気に旗色が悪くなってしまう。 こうした但馬の風雲急に対し、播磨平定戦を展開する秀吉が対処することとなり、 ようやく 1577年11月上旬に秀長率いる 3,000の兵が派遣されるわけである。
但馬南部の 有力豪族・太田垣朝延が毛利派リーダーとなっていたことから(上地図)、 最初の攻撃目標に定められると、太田垣氏が支配する 生野城、岩洲城、竹田城などが次々と攻略されていき、 太田垣朝延自身も播磨へ亡命することとなり、以降、太田垣氏は没落するのだった。 しかし、
翌 1578年3月に三木城で別所長治らが反旗を翻すと播磨戦線がピンチとなったため
、秀長は但馬占領地を放棄し播磨へ戻されると(下地図)、 南但馬は再び毛利に組する 守護・山名氏が占有するようになる。
三木城の攻防戦も 1580年1月に終わりを告げると
、織田軍は再び攻勢に打って出ることとなり、同年 4月、いよいよ 守護・山名祐豊を討伐すべく、 再び秀長が但馬国へ派遣される。織田派に組した豪族らの助力もあり難なく但馬の完全平定に成功すると(翌 5月)、 以降、秀長に但馬支配が委ねられることとなり、その支配拠点も竹田城から、山名祐豊が守護所を構えていた 有子山城(出石)へ移転されたのだった。 この時、竹田城代として 桑山重晴(1524~1606年)が配置されることとなる(同年 5月)。
直後より、中世式の土塁城ばかりだった但馬国に、支配者シンボルとして竹田城と有子山城の総石垣化計画が立ち上げるも、
鳥取城攻め
や
備中・高松城攻め
、
山崎合戦
、
賤ケ岳の戦い
、小牧長久手の戦いなどが重なり、 結局、工事着手まで手が回ることは無かった。
そして、1585年に秀吉の命により、
豊臣秀長が大和国へ転封したため
、直臣だった 竹田城主・桑山重晴も
和歌山城代
として同時異動することとなり、 代わりに 赤松広秀(後に斎村政広へ改名)が新城主として入封してくる。 以後も、赤松広秀は豊臣政権下で 九州征伐、小田原戦役、
朝鮮出兵
などの軍役に就きつつ、 秀長が託した総石垣造りへの大改修工事を進めていくこととなった。この時、竹田領は 22,000石しかなく、 その国力に不釣り合いな規模の大工事となったわけだが、生野銀山守備や但馬国での支配者シンボル樹立の意味合いを込めて、 豊臣家の全面的な援助を受けたと考えられている。こうして中世式山城から近世式山城へ大変身を遂げたのだった。
しかし、
1600年9月の関ヶ原合戦に際し
、斎村政広(赤松広秀より改名)は当初、 西軍に属して細川氏の 田辺城(舞鶴城)攻撃に参加するも、関ヶ原本戦で西軍敗退を知ると、いったん本領へ帰還することとなった。 このタイミングで、東軍方について
鳥取城
攻めに苦心する旧知の 亀井茲矩(1557~1612年。当時は因幡国鹿野城主)から出兵要請を受けたため、 東軍に組して鳥取城攻撃に加わるも、秀吉時代に強化された鳥取城はなかなか落城しなかったことから、 城下を焼き払い無用な犠牲を出してしまい(最終的には攻略成功)、 徳川家康の怒りを買って政広は切腹を言い渡されるのだった(実際は、 秀吉の斡旋により五大老の 一人・宇喜多秀家の妹と結婚していた関係から、亡命中の秀家を匿っていることを疑われるとともに、 積極的な西軍派武将とみなされて排除された可能性が高い)。 以降、竹田城は廃城となるも、城下は山陰道の中継集落として栄え続け、 幕末まで存続したという。
さて、竹田駅まで戻ると、
姫路
から持参していたパン類を食べながら(おにぎり類は重量があるので)、電車に乗車する(12:46発 → 13:13着)。
生野駅の 1つ手前の 駅「新井駅」から南下するタイミングに、 東側に「岩州城跡」の山が現れるので(標高 469 mのうち、標高 330 m付近に造営されていた)、車窓から写真撮影しておく。
ここは、但馬国の 最南端・生野城の次に続く山城で、竹田城主・太田垣氏の支城であったが、 1577年の羽柴秀長の但馬攻めにより攻略され、城代として 前野長康(1528~1595年)が配置されたという(秀長自身は竹田城に駐屯した)。 現在、山道は上りやすいように整備されており(山麓の山口護国神社内に、本郭跡に立地する「妙見宮」社殿への山道案内板が設置されている)、 城跡部分には複数の郭跡と幅の広い 土塁、堀切、堅堀などがはっきりと残存しているというが、ここの訪問には自動車利用が必須だったので諦めた。
さて生野駅下車後、まずは西口へ出て「朝来市観光センター」に立ち寄り、 地元の史跡情報などを収集した。ここで、
レンタサイクルを借りることもできる(9:00~17:00、普通自転車 500円、要身分証)
。銀山訪問するかどうかで、レンタルは当日決めることにした。
また駅西口のロータリー内に「山田顕義(1844~1892年)終焉之地碑」が建立されていた。
彼は、1885年に伊藤博文内閣において 初代・司法大臣に任命され、条約改正に尽力した 人物(1844~1892年、長州出身)で、 次々と日本の近代法典の編纂を手掛けて「小ナポレオン」と称されたという。 日本大学(日本法律学校)、國學院大學の創設者と位置付けられる 教育者、政治家であったが、 1892年11月に生野銀山を視察中、突然死したという。
北へ進み、一本目の通りを東進して、生野駅東口へ出る。ここが「駅前通り」で、 そのまま道なりに進むと 地元スーパー「ミニフレッシュ 生野店」があったので、食料調達してランチとした。
まず最初に「生野書院」を訪問する(無料。鉱山旧記や生野町絵図などの博物館)。 その北側には朝来市立生野小学校があり、 南端に「生野代官所跡(生野平城跡)」の記念碑が設置されていた。下地図。
さらに東進し、佐藤家住宅別邸、生野まちづくり工房井筒屋(旧吉川邸)、口銀谷銀山町ミュージアムセンター(旧浅田邸・旧吉川邸)、 SUMCO生野クラブ(旧松本林右衛門邸)、志村喬記念館(甲 7号棟)などの古民家や歴史的施設などを訪問してみる。 市川沿いには鉱石を運んだトロッコ電車の線路跡地も残されており、町の散策だけでも 1時間以上は優にかかりそうだった。上地図。
そして、この町の北にそびえる 古城山(標高 601 m、高低差 290 m)が生野城跡で(上地図)、その山麓にはたくさんの寺院が軒を連ねるエリアがあった。 鉱山町として全国から多くの人々が集ったことから、さまざまな宗派の寺院が集積したという。そして、 来迎寺の北側にある「びわの丸健康公園(下地図)」に登山口があり、生野城に関する案内板が設置されていた(来迎寺の西側の道沿い)。
登山道はよく整備されていたが、人一人が通れる程度の狭さだった。 45分ほどのハイキングの後、ようやく山頂に到着する。一帯は木々が伐採され手入れされた公園となっていたが、 主郭の周囲と二郭の西面には石積遺構がはっきりと残存していた。 これら以外にも複数の雛壇状の石垣と 平坦地(郭跡)の地形が視認でき、迫力ある土塁や堀切跡もくっきりと残されていた。
播磨守護・赤松義則が 1427年に亡くなると、嫡男であった 赤松満祐(1381~1441年)が家督を継承するも、 その際に前将軍だった 足利義持(当時の将軍は 5代目・足利義量の知世下)が満祐の所領である播磨を没収し、 寵愛する 側近・赤松持貞(満祐の又従兄弟)に与えようとしたため、怒った満祐は
京都
の自邸を焼き払って領国の播磨へ帰ってしまう。 と同時に一族郎党を招集し幕府に対し合戦の準備を始めたのだった。
これに激怒した義持は、播磨以外にも 備前・美作両国の守護職をも没収し追討令を出すが、 討伐を命じられた 一色義貫、山名時熙らが出兵を渋り続け、緊迫した時間だけが過ぎていく。
そして翌 1428年、赤松持貞と足利義持の側室との密通疑惑が突然持ち上がることとなり、 赤松持貞が切腹に追い込まれて排除されると、ようやく播磨で臨戦態勢を取っていた赤松満祐は諸大名の取りなしもあって赦免されることとなった。また、同年 2月に 義持(1386~1428年)も死去することで、播磨側の臨戦態勢も解かれることとなる。
この一連の赤松満祐出奔事件に際し、播磨と国境を接していた 但馬国守護・山名時熈(山名宗全の父)は、 臨戦態勢に入る播磨を警戒し、その国境守備のために最前線拠点として「生野城」を築城した、と考えられている(1427年)。
以降も国境拠点として機能した「生野城」であったが、1542年に生野銀山で銀鉱脈が発見されると、 当時の 但馬守護・山名佑豊は生野エリアの支配をさらに強化すべく、生野城の山麓部に設けられてた城代の居館をさらに堅固化していく。 最終的に掻上げ堀と土塁に囲まれた総構えの隅々に矢倉が、 そしてその一角に三階建ての天守が装備される立派な平城が完成し、 大手口は北国町の裏から、搦め手口は井ノ口に至るまでの広大な敷地を誇ったという。
しかし 1556年、山名四天王の一角を成していた 竹田城主・太田垣朝延が、 守護・山名佑豊の弱体化に乗じて生野城と生野銀山を乗っ取ってしまう。
そんな群雄割拠の但馬国にあって、守護・山名佑豊の治世は不安定なものであったが、 表面上はその体面を繕えており、西で強大化してくる毛利元就に対抗すべく、共通の敵を持った
尼子再興軍
を支援していく。 1569年7月下旬、この旧尼子軍の制圧に手を焼いた毛利元就は、但馬のさらに後方で勢力を張った織田信長に協力要請を出し、 守護・山名佑豊の追討を依頼する。信長は秀吉を総大将に 2万の大軍が但馬へ派兵すると、わずか 10日間で 18もの城を攻略し、あわせて生野銀山をも占領してしまうのだった。守護・山名佑豊は
堺
への亡命に追い込まれ、いったん但馬平定を終えた秀吉は
京
へ帰還することとなった(但馬国の国人衆は、当時、すでに毛利派、織田派に分かれて対立しており、この在地の織田派の協力があったことで早期平定が成し得たのだった。 この頃、足利義昭を奉じていた織田信長へ臣従する勢力が多かったこともプラスに作用した)。
その後、織田家に服属する形で守護に復帰した山名佑豊であったが、その権威は地に落ちており、 各地に割拠する国人領主らを統率できないまま、1575年、毛利軍を率いた吉川元春が 隣国・因幡まで制圧すると、その圧力に屈する形で山名佑豊は毛利方へ寝返ってしまうのだった(芸但和睦)。
毛利方となった但馬を平定すべく、1577年11月、 播磨平定戦を進めていた秀吉は 実弟・秀長の率いる 3,000の部隊を派遣すると、 秀長軍は瞬く間に 生野城、岩洲城、竹田城などを占領し、竹田城に駐屯することとなる(この戦役により、竹田城主・太田垣氏は完全排除され没落した)。信長の死後、畿内領土の大部分を秀吉が継承すると、生野城の山麓に造営された平城部分が直轄領のための政庁として転用され、 伊藤石見守が 生野奉行(代官)として派遣されてくる。
江戸時代にはそのまま生野代官所へ継承され、幕府直臣の間宮氏が統治する世襲制となる。 以降、銀山や地元集落地の統治拠点としても機能し、明治以降も 生野県庁、市役所庁舎として活用されたという。
下山後、ようやく生野銀山を目指すことにした。しかし、到着が 16:00前後となってしまい、 自転車の返却時間 17:00までに戻る必要もあり、また有名な 観光地(見学料 1,200円)なので特に写真撮影も不要かと思い、 自転車で回れる個所を重点的に巡るだけにした。
可能ならば、銀山入り口にある 小野口番所跡、生野鉱物館(生野銀山文化ミュージアム。入館料 100円)などは見学しておきたい。
すでに古代より、兵庫県北部の 但馬地方には複数の鉱山が発見されており、 この地域の 明延鉱山(兵庫県養父市)から産出した銅が
奈良
へ運ばれ、大仏鋳造(752年建立)にも使用された記録が残されている。 そうした中で、生野でも 807年に鉱脈が発見され、一部で発掘が開始されていたという。
戦国時代に至り、
甲斐の武田信玄
や
越後の上杉謙信
、石見銀山の 大内氏 vs 尼子氏など、 全国各地で鉱山開発がブームとなると、但馬守護・山名祐豊(1511~1580年)も西から勢力を伸長させてくる尼子晴久に対抗すべく、 地元の鉱山開発に力を注ぐようになり、1542年に生野の蛇間歩で本格的な銀鉱脈が発見されることとなった。 しかし当時、これを 採掘、精錬する技術が但馬国に無かったことから、 石見銀山から技術者を引き抜き、最新技術による 採掘、精錬作業がスタートされたのだった。
以降、但馬のカネのなる木と化すと、力をつけた家臣らが鉱山を簒奪するようになり、但馬国内でも下剋上と乱世が勃発する。 この戦火の中で、生野の地の支配権をめぐって、山城と平城から構成された「生野城」はますます防衛力を強化されていったわけである。
他方、1566年に尼子氏を滅ぼし、中国地方 8カ国を支配する毛利元就が強大化してくると、 九州の大友氏が大内氏再興軍を支援し(1569年6~10月)、
また但馬守護の山名祐豊が尼子再興軍を支援するなどして(1569年6月~1571年9月)
、毛利包囲網が形成されていく。 毛利元就は特にてこずった山陰戦線を打開すべく、1568年に上洛し畿内を制圧したばかりだった織田信長に対し、 但馬の山名祐豊の背後を脅かすよう要請を出してくる。これに呼応した信長は同年 7月末、 羽柴秀吉と坂井政尚らに 2万の大軍を預けると、わずか 8月1日~13日の間で 18城を落城させて但馬国を平定してしまう(残る 2城は手つかずのまま放置された)。この早期平定戦を成し得たのは、足利義昭を奉じる織田軍へ帰順する国人衆が多かったことで、 毛利派リーダー格だった 竹田城主・太田垣氏が求心力を失ったことが背景にあった。 このタイミングで、太田垣氏が占有していた生野銀山も織田方に占領されることとなる。
守護・山名祐豊は但馬国を追われて
泉州・堺
まで亡命してくると、懇意にしていた 商人・渡辺宗陽を頼る。 その後、領内に複数の鉱山を有していた 但馬守護・山名家に強い関心を持っていた 商人・今井宗久(1520~1593年)が仲介し、 同年末には 1,000貫(現在価値で 1億~1億5,000万円)を礼銭として信長に献納し、但馬国への復帰を許されることとなった。 もちろん、今井宗久らが立て替えて支払っており、後に山名祐豊はこれに利子をつけて返済することになる。
当時、中国、南蛮貿易により巨万を利益を上げていた堺商人らは、朝鮮の綿布や中国の絹を輸入するために、 日本各地から銀を買い集めていた。スペイン、ポルトガルを含め、世界の貿易商らも日本の銀に注目した時代で、 九州から関西にかけての豪商らは鉱山を握る大名との取引ルートを模索していたのだった
。
一方、但馬へ戻った 守護・山名祐豊は居城を此隅山城から、新たに築城した 有子山城(今の 兵庫県豊岡市出石)に移転させるも(1574年)、 生野銀山などの重要な経済的利権は織田方に握られた上で、商人から身代金を借りての帰国ということで、守護家の権威は地に落ちていた。 このため、地元の 国人衆(垣屋氏や太田垣氏 など)らが再び勝手な行動を取るようになり、その混乱の中で、 信長支配下にあった生野銀山も再び奪取されてしまうこととなる。
この当時、 信長側は
大坂本願寺
や
雑賀合戦(紀州征伐)
など各地で戦線を抱えており、但馬にまで手を回せずにいたため、直接的な援軍が派遣できずに時だけが過ぎることとなった。
そして、播磨平定作戦中だった秀吉が 1577年11月に弟の秀長を派遣し、竹田城主・太田垣氏を排除すると、 生野銀山の支配権を再回収する。しかし、
翌 1578年3月に別所長治が織田方を離反すると、秀長も呼び戻されて播磨平定戦に注力することとなる。1580年1月にようやく三木合戦が終結すると
、 同年 4月、再び秀長が派兵され、5月16日には 守護所・有子山城も陥落させ(守護・山名祐豊は落城から数日後に病死する)、但馬の完全平定が成る。
信長の死後、そのまま生野銀山の支配権を掌握した秀吉は、その後も全国の金山や銀山を直轄支配下に置いていく。 それらから納めさせた 運上金(営業税)の記録によると、銀山部門では但馬国が 6万2千匁で全国第 1位(全国の 83%)を占めたという (石見銀山は引き続き、毛利氏の独占支配が認められたため)。ちなみに、金山部門でも但馬国は第 6位を記録していた。
秀吉死後に
関ヶ原合戦
が勃発し、これを機に全国支配に乗り出した徳川家康は、同様に各地の鉱山の直轄化を進める。 但馬の鉱山には生野奉行として 間宮直元(1571~1615年)を派遣すると(秀吉の死の直後の 1598年から、早速、現地へ派遣されており、 周辺の鉱脈調査を進めていたようである。関ヶ原合戦を機に、豊臣家直轄領から簒奪する形となった)、 白口の 樫木・若林などの開発を進めさせ、奥銀谷はより活況を呈していくこととなる。 この江戸時代を通じ、天領として奉行所が開設され、 生野銀山は 佐渡金山(新潟県)、石見銀山(島根県)とともに幕府の財政を大いに支えたという。
この時代、「江戸の金づかい、上方の銀づかい」と称されたように、当時、金(小判)は主に東日本で使用され、 銀(丁銀)は西日本で流通していた。これは東の佐渡金山と西の 生野、石見銀山の立地の影響とされる。 また江戸時代前半を通じ、日本で産出された銀は世界総算出量の 3分の1 を占めたという。
明治維新以降も、生野銀山は明治政府が接収することとなり、日本初の官営鉱山となる。 鉱山技術の近代化を図るべく、フランスから 24人の 鉱山技師(御雇外国人)を迎え、 西洋の鉱山技術を導入していく過程で、フランス式レンガ積み建造物や 鉱山関連物資の 輸送用道路「生野銀山寮馬車道」(生野―飾磨間)が建設されていったわけである。 1889年以降は宮内省へ管轄が移転され、皇室財産となった(御料局生野支所へ改称)。 7年後の 1896年、皇室から三菱合資会社へ払い下げられ民間事業化されるも、 地下資源の枯渇や含有率の低下などが目立つようになり、最終的に 1973年に閉山されることとなった。 この時点での坑道の総延長は 350 km以上、深さは最高 880 mにまで達していたという。
さらに時間があれば、
市川
の上流となっている生野ダムなども周遊してみたい。
16:30には急いで生野駅への帰路に就くことにした。17:00ギリギリで自転車を返却し、 駅西口前のローソンか、駅東口側の 地元スーパー「ミニフレッシュ 生野店」で食料を再調達する。
そして、17:37発の手前駅行に乗車し、そこで乗り換えて 18:52に
姫路駅
に帰着できた(車内で休息、腹ごしらえしながら)。
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