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兵庫県 尼崎市
訪問日:2015年6月中旬 『大陸西遊記』~
兵庫県 尼崎市 ~ 市内人口 45万人、一人当たり GDP 289万円(兵庫県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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現在の尼崎城 本丸・二の丸跡 の様子
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江戸時代の 尼崎藩の繁栄
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明治末期の 尼崎城の様子
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大正時代の 尼崎城の様子
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昭和初期の 尼崎城の様子
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現在の 三の丸跡、外堀跡の一帯
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かつての 城下町「築地町」の今 と 戌橋
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応仁の乱に 巻き込まれ全焼した 尼崎の港町
全国の主要都市の中心部にあった城郭跡としては非常に珍しく、近代以降に完全に城郭遺構が撤去されてしまった尼崎城は、 まさに経済重視の資本主義体制へ転向した、明治期以降の社会ムードを体現したような歴史遺産であった。
その昔は、
播磨戦争に際し織田信長に追い詰められた 荒木村重
が逃走した際に立ち寄った場所であり、また、本能寺の変の弔い合戦に臨む豊臣秀吉が
姫路
より 尼崎城(
堺
のような環濠集落都市であった推察される) に入城し、摂津国の 有力国人衆・
高山右近(高槻城主)
や
中川清秀(茨木城主)
らと軍議をもった地でもある。
今日
では、尼崎中央図書館の敷地の一部に、復元された城壁や石垣などが見られるだけだ(下写真)。
下写真は、中央図書館側から本丸地区を見渡したもの。城内高校などの教育施設と住宅の町に変貌してしまっている。
江戸期
、西国方面から
京都
・
大阪
へ入る際に、必ず通過するポイントとなった 尼崎、西宮、武庫川、兵庫、灘などの経済先進地は、すべて尼崎藩下にあった。
下地図は、1909年(
明治 42年
)当時のもの。
本丸内の大名御殿や天守台はすでに撤去され、小学校が設置されていたようである。
下地図は、第一次世界大戦の最中、戦争特需に湧く 1917年(
大正6年
)のもの。
当時でも、まだ 内堀、石垣、中堀、外堀などの大部分が存在していた。すでに、三の丸の南側には貨物列車の貨車倉庫があったようである。その対岸に江戸期からの商業エリアである築地町があった。
下地図は、1920年(大正 9年)のもの。
本丸跡の北側の内堀が埋め立てられつつある。また二の丸一帯には、市役所や裁判所などが設置されている。三の丸の南側の鉄道車庫地区には、桜井神社が建立されていた。
下地図は、1936年(
昭和 11年
)のもの。
完全に内堀、中堀は埋め立てが完了している。
第二次戦争が終結し、戦後復興期のころ。
下写真は、現在の
三の丸
南岸の外堀一帯。
現在は鉄道車庫や線路が撤去され、上に高速道路、下に一般道が走っている。
また
、かつての城下町の商業地区であった築地町一帯は、現在では閑静な住宅街に様変わりし、マンションや戸建て住宅が立ち並ぶ。これらの現代建築の至るところに、江戸家屋の風情を醸し出す装飾が施されており、城下町の息遣いを残そうとする築地町の心意気に感動した(下写真の 1F部分)。
また下写真左は、戌橋の表札である。江戸時代からここにある。築地町から 寺町(現在の阪急線「尼崎駅」前一帯)へ移動する外堀にかかる橋であり、上の古地図にもすべて記載されている。
もともと中国街道は寺町から直進して、後に建設される尼崎城本丸を突き抜ける形で通っていたらしいが、街道のど真ん中に尼崎城が築城されることとなり、中国街道はその城下町である築地町内を経由させるべく、この戌橋がかけられ街道が整備されたという。
下写真右は、駅前の寺町の案内掲示板。1617年に尼崎城が築城された折、当時、周辺各所に点在していた寺院をこの一角に集めて形成させたものであり、現在でもさまざまな宗派の寺院がひしめき合う地区となっている。
尼崎
の港町は、かなり古くから京阪地区の巨大集落地の一つとして栄えていたようである。室町時代当時、この地は 大物(だいもつ)の浦と呼称されており、すでに中心的な港町が形成されていた。この地区の支配圏を巡って、応仁の乱初期の 1467年8月、東軍の赤松一族と西軍の大内政弘が海上戦を行った際のものである(下絵図)。このとき、敗走することとなる大内勢が大物の浦の港町に火をかけ、甚大な被害を被ったとされる。
その後も、
京都
、
大阪
、
堺
という重要消費地や商業地区に隣接する港町として、経済、軍事面で重視され、豊臣秀吉の時代には、豊臣家の直轄領とされる。また、江戸時代には譜代大名の封地とされ、京都と大阪地区の西の守護神としての立場が期待されてきたわけである。
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