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アイルランド共和国 首都 ダブリン市
訪問日:2016年2月中旬 『大陸西遊記』~
アイルランド共和国 首都 ダブリン市 ~ 市内人口 170万人、一人当たり GDP 42,000 USD(全国)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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ダブリン城 と その歴史
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城郭都市ダブリンの 全景
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ダブリン城の 円塔レコード・タワーと 脱獄事件
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ダブリン市の 歴史
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Dublin Corporation と ダブリン市議会
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現存する城壁 と 城門跡(St. Audoen's Gate)
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ギネス・ブックで有名な ギネス・ビール本社
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ダブリン大学(トリニティ・カレッジ)の キャンパス
たくさんのパブが集まる テンプル・バー地区からスタートした(下写真左)。
ここからデーム通りへ出ると、アイルランド中央銀行がある(下写真右)。
そのままデーム通り沿いの
ダブリン城
(入場料 8.5 EUR)へ行ってみた。
この城館は、もともと城塞であったものを改造したものである。
そもそもの起源は、バイキングの入植時代、高台の一角に要塞が築城されたことに始まるという。当時、バイキング集落地の南東部を占めていたという。下絵図。
100~200年後、そのバイキングの勢力も、地元のケルト人らに駆逐され、ケルト人による統治が始まるも、 1170年、イングランド島から遠征してきた アングロ・ノルマン人貴族によりダブリン一帯が征服され、翌 1171年、ヘンリー 2世によりアイルランド島の大部分が英国に併合されることとなる。
引き続き、不服従のアイルランド地場勢力との抗争を続ける一方、英国出身の アングロ・ノルマン人らは、1204~1230年にかけて、ダブリン城塞の拡張工事を進める(このとき、都市を囲む城壁が建造される)。
以後、
高台
の要塞内には、ダブリンの軍事と 行政、司法の中心地として、イギリス総督府が開設された。下地図。
1684年のダブリン大火災後の再建時、城塞部分はほとんど改造され、城館としての機能が増加される。
現在の城館は 18~19世紀に改修されたものだが、その中庭の敷地がかつてのバイキング時代の要塞のそれとほぼ一致し、一部に 堀、壁面、城壁、城塔などが現存するという。下絵図。
1922年にアイルランドが英国から独立したとき、ここがその行政権引き継ぎ式典の現場となった。
入り口に近くに立つ
円塔
(レコード・タワー)は、かつての城塞の楼閣跡という(1226年建造)。
これは、一時期、牢獄として使用されていたらしい。下写真左。
当時、都市内にいくつかあった牢獄のうちでも、行政の中心拠点であったダブリン城内の牢獄は、国家最高レベルの囚人を収監していた。その監獄で起きた脱獄事件のエピソードが解説されていた。
当時、プロテスタント系の英国王の支配を拒絶し続け、 独立を保っていたアルスター地方の アイルランド人領主(オニール一族とドンネル一族)は、一時休戦の協定に基づき人質を出しており、その二人がここに収監されていたようである。しかし、1592年1月6日、トイレの排水管を伝って、二人が脱獄に成功する。
人質を失った英国側は、再び、アルスター地方への攻撃を繰り返すようになり、最終的に 1607年、オニール一族とドンネル一族を降伏させ、その領土を没収してしまう。こうして、アイルランド全土でのプロテスタント化がますます加速されることとなった。
ダブリン城を出た後は、背後にある 旧証券取引所跡(旧市議会跡)を見学する(無料)。上写真。
ダブリン市の
発展史
を学ぶことができる。
そもそも、ダブリン市の起源は、837年にバイキングの船団 65艘が上陸し、ケルト人の小集落を占領し、貿易拠点を設けたことに遡る。
農業経済社会であったケルト人の集落や教会への破壊と略奪が目的であった海洋民族バイキングであるが(下イメージ絵図)、特に、南部のリフィー川などの広い河口部を基地として内陸部への侵入を繰り返していた。最終的には越冬もアイルランド島で行われるようになってから、バイキングの定住拠点が各地に開設されるようになる。
ダブリンの貿易拠点が本格的に城壁を持つ定住用の都市へ整備されたのは、917年とされる。
そんなバイキングの支配も 10~11世紀にかけて、アイルランド地場のケルト人領主らの連合軍に駆逐されることとなる。こうした領主連合は、そのうち双方いがみ合いの戦国時代へと突入し、1169年にイングランド島の アングロ・ノルマン貴族ストロングボウ(ペンブルーク伯)の率いる英国軍の介入を受け、最終的に 1171年、その主君であった英国ヘンリー 2世によりイギリス王国に併合されるに至る。
以後、歴代の英国王は城郭都市ダブリンの市民やアイルランド人総督らに大幅な自由と諸権利を付与し、あくまでも間接的支配者に徹するも、宗教改革と大航海時代が開始された直後の 1500年代以降、イギリスはアイルランドへの直接支配を強化するようになり、島内各地で大小さまざまな武力衝突が勃発する。
最終的に、カトリック系のアイルランド領主勢力はフランスのルイ 14世の援軍とともに、プロスタントを推し進めるウィリアム 3世の英国王軍と激突する(
ボイン川の戦い
)。大敗を喫したアイルランド勢力は完全にその自治権を失い、以後、プロテスタント地主とカトリック小作人という社会構図が固定化される。こうした階層を利用して、英国による社会支配が末端まで行き渡っていった。
アイルランド議会は、完全にイギリス議会の傀儡となり、その政治的独立権は全く存在しなかった。こんな中でも、ダブリン城内の富裕なアイルランド人商人や英国本国からの移民の末裔らにより、ダブリン組合(Dublin Corporation)が結成され、都市ダブリンの自治運営の権利を、イギリス王国から保証してもらうことに成功する。
時には、このダブリン自治組合が必要に応じて資金を出し、アイルランド中から兵士を調達して、英国の対外戦争などに派遣もしている。
英国ジョージ王朝の 時代(1714~1830年)、ダブリン城はさらなる大規模な改修工事が施され、合理的な都市計画に基づく城郭都市へ生まれ変わる(ダブリン自治組合も積極的に協力)。しかし、そこに暮らす人々は引き続き、人口過密と貧困問題に苦しめられることとなり、表面的な栄華とは裏腹に、ダブリン市民らの苦境は続くのであった。
この頃、アイルランド議会も解散させられ、ナショナリズムの行き場を失った
ダブリン自治組合
(Dablin Corporation。後にダブリン市議会)は、旧証券取引所の建物を買収して、解体から守るのが精一杯であった(その本社事務所兼議会場とする)。
19世紀も引き続き、アイルランドは貧しく、小作人が人口の 8割を占める農業経済であった。しかし、人口は確実に増加し、1800年に 450万、1841年には 820万人にまで達したとされる。 1845年に主食のじゃがいもが不作となり、飢餓と疫病が蔓延する。この飢饉で 100万人が餓死し、 100万人がアメリカや欧州大陸へ移住していったという。
下絵図は、1904年当時の城塞都市の様子。
このような貧困問題が状態化したアイルランドに転機が訪れる。 1914年に第一次世界大戦が勃発し、宗主国の英国が対ドイツ戦に忙殺されるようになると、 1916年、アイルランド市民らが 武装蜂起(イースター蜂起)して、英国からの独立を勝ち取るのである(1921年12月)。
このとき、戦場となった首都・ダブリンの街は大部分が破壊されてしまったという。
直後から都市の再建が開始され、城壁は撤去され、近代都市ダブリンへの道を歩むことになる。
アイルランドは、第二次世界大戦中、中立政策を取り、戦火に巻き込まれず、復興に集中できた。
ダブリン自治組合(Dablin Corporation)は 2002年、正式に Dublin City Council(ダブリン市議会)へ改称し、 現在もこの街の政治や都市開発を主導している。
さてさて、この 旧市議会(旧証券取引所)の一帯こそ、かつての城郭都市時代の旧市街地である。
さらに、デーム通りを西へ進む。そこに、教会が目に飛び込んでくる。道路の上に陸橋を持つ、有名な クライスト・チャーチ大聖堂だ(下写真左)。
この教会の西隣にある 聖オドゥンズ教会(1190年設置、ダブリン最古。上写真右)から、
Cook通り
にかけて、城門跡(St. Audoen's Gate)と城壁の一部が残されていた。上地図も参照。
また、教会前の デーム通り(Thomas通りと名称が変わる)と Francis通りとの交差点にも城壁の一部が見られる(下写真)。ちょうどこの交差点に、西門があったわけである。
ここから西側は城外となるわけだが、
ギネスブック
で有名な ギネス・ビールの工場と本社があるということで、軽く見学してみた。 ちょうど、工場の敷地内に教会があり(下写真右)、スペースの形が整わないんだけどと、工場関係者がぶっちゃけトークしているのを立ち聞きした。
ここからリフィー川沿いに旧市街地へ戻った。 この川に最初に木製の橋がかけられたのは、地元の 大富豪(John Speed)の私費によるものだった(1610年)。下古地図。 それから、幾度も橋は架け直される。現存する最古の橋は、1866年のものという。
旧市街地まで戻り(下写真)、テンプル・バー地区に再び到着する。
テンプル・バー地区は、すでに東門の城外である。そのまま
デーム通り
を東進し、世界でも屈指の 名門大学「ダブリン大学 トリニティ Trinity College」の構内を散策した(1592年にエリザベス 1世の号令により開校)。有名なキーン図書館だが、入館に 10 EURかかる。
普通に、大勢の観光客が大学のキャンパス内を闊歩しており、学食で食事もできる。もちろん、多くの学生らもキャンパスにいて、芝生に座って平気で談笑している。
この観光客と学生が融合した日常空間が、筆者には異常に思えた。
ダブリン市内はホテルこそ割高だが、交通費や 食費、物価などは比較的に安価だと感じた。
空港バス ⇔ 市内には、10~15分間隔で空港バスが運行されている(所要時間 30分)。
片道 6 EUR、往復チケット 10 EUR。社内で運転手から直接、購入する。
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