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1、はじめに ~ 人口減少が著しい日本、21世紀の世界で いかに生き残っていくべきか?
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2、日本が誇る「ソフトパワー資産」とは
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3、相続税課税により、文化的価値が棄損された例 ~ 田中角栄 元首相の「目白御殿」
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4、終戦直後、華族、地主・名士層が 自力管理してきた 家宝、美術品類が 一気に散逸した
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5、財団法人の活用 と その実態
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6、自治体、国よる史跡保存政策 ~ 文化財登録による 減税、修繕費補助など
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7、仙人からの緊急提言 ~ 日本の「戦略的国家資源=ソフトパワー資産」の活かし方
1、
はじめに ~ 人口減少が著しい日本、21世紀の世界で いかに生き残っていくべきか?
人口減少が続く日本。
2010 年度の 1億 2,806 万人をピークに、毎年 50~80万人単位で人口が減少し、 2040 年には 1億 1,092 万に至る、と推測されている (下図表。国立社会保障・人口問題研究所「将来推計人口」)。 そして、2048年には 1億人ラインを下回り、2050年頃に 9,600万人、2060年には総人口が 8,700万人前後となる、という。
これに加え深刻な問題が、人口に占める高齢者比率で、2060年には 高齢化率(65歳以上)が 40%近い水準に達する、と予測されている(下図表)。
生産年齢人口の減少に伴い、子供の数も少なくなって、ますます全国各地の小中学校の統廃合が進むだろうし、 同時に空き家だらけの国土となっていくことだろう。実際、すでに 2016年、 野村総合研究所(NRI)が「2033年には 3軒に 1軒が空き家となる」という衝撃的な予測を発表している。
経済面での国際競争力、さらには国民国家の運営形態としても、非常に危機的な状況に陥っていくわけだが、 他方で空間的に考えれば、国民一人当たりが利用できる土地面積が増大し、より広々した家屋や公共スペースを生み出せる余地が増す、 ということになる。 すなわち、これまで 都市開発&経済成長が優先される中で、撤去、埋没、移転、分断されてきた貴重な文化遺産や史跡類が、 そのままのスケールで保全し得る、スペース的な余裕が生まれてくる、とも言える。
こうしたプラスの効用を大いに活用し、今後の 国民国家「日本」の生き残る戦略の一つとして、 「これまで日本の先達たちが創造してきた付加価値」を有効活用し、 ソフトパワー資産化(観光資源化&知的財産権化)する政策スキームを提案したい。
国家全体の経済体制と収入スキームを統一的、効率的に再構築すべく、 残り少なくなった「日本人」という資源を有効活用するには、 長期的な国家ビジョンの方向性に、国民資源を効果的に投入していく施策が、 ますます求められてくるはずである。このような国家戦略に立ち、今後の日本が採るべき 文化政策、経済政策について、 本稿を借りて私案を奏上してみたいと思う。
2、
日本が誇る「ソフトパワー資産」とは
江戸時代まで存続されていた封建支配体制下では、 身分が固定化されていたことから、士族、公家、地方の名士層は、 代々の家宝を大切に 管理・保存することが習慣化され、また、そうした経済的余力が保証されていた。
しかし、明治維新を迎え、まずは士族や下級の 公家、寺社勢力などが没落していくと、 家計の工面から、 これらの家宝や美術品が真っ先に売り飛ばされるようになり、文化継承の崩壊が始まっていく。 中には新興の事業家らによって収集され、現在まで国内で保存され得たものもあるが、 多くは散逸し、追跡不能となってしまっている(海外へも数多く流出したことが指摘されており、 ゴッホが浮世絵 500点近くをコレクションしていた逸話は有名)。
こうした明治期にあって、旧公家や 旧大名家、徳川家などは「華族」として遇され、政府から給与を支給されながら、 なんとか生活基盤を保持していたが、 華族の中にも経済的に徐々に没落する一族もあり、さらに昭和恐慌により大きな経済損失を受けて、多くの華族家が生活に窮するようになっていく。 そこに、太平洋戦争終戦後に進駐してきた GHQが財産税と預金封鎖令、そして 華族・皇族制度の廃止を命じたことにより、 この華族階級自体が完全に抹消され、天皇家を含む、 すべての資産家階級が財産の大部分を一気に失うこととなったわけである。 これにより、上流階層内で何とか継承されてきた文化や伝統はほとんどが寸断され、 家宝はさらに散逸することとなった。
しかし、文化継承の面で大きな打撃を受けた反面、特権階級が独占してきた土地や田畑が、 安価に市民へ払い下げられたことで、富の再分配が大いに進み、日本社会は大きな構造的変化を迎えることとなる。 まさに「外圧からの市民革命」とも呼べる荒治療で、それまで被支配生活が当たり前だった小作人らが消滅し、 ほぼすべてが土地持ちとなることで、生活基盤が整えられ、本格的な人口増加がスタートしていく。 こうして経済開発のフロンティアが生み出され、 内需発掘と大量の労働者が日本列島に新時代をもたらせたのだった。
さらに 朝鮮特需、米ソ冷戦、超円安というタイミングとも合致し、 海外への大規模輸出攻勢をしかけ、世界屈指の経済大国へと一気に上り詰めた日本であるわけだが、 今やその屋台骨を支えるべき生産年齢人口の減少問題に直面し、内需はおろか、
海外市場での貿易競争力にも 陰りが見えるようになってしまっている(2022年の貿易収支は、 過去最大の赤字 19兆 9713億円を記録した)
。
他方でアジア諸国の台頭は目覚ましく、今では日本の製造業を脅かすライバルである と共に、インバウンド観光業を支える重要なお客様となっている。 多くの訪日客は、日本の伝統文化や 経済的豊かさ、便利さ、 清潔さを高く評価し、リピート層に至っては地方巡りなども活発で、 どっぷり日本ファンになっている人々も多い。
筆者は、今後の日本が国家戦略として採るべき方向性は、 このアジアを中心とする、海外出身の日本ファンと共にある、と考えている。
彼らは、数百年単位の歴史的遺産だけが「日本文化」とは考えておらず、 アニメや 映画、食文化、家電や自動車、ファッションなど、日本列島から 生み出された付加価値全般を愛でてくれている。
こうした実態を凝視するとき、広範な意味での「日本文化」を未来世代へ継承させていくことこそ、今を生きる我々の使命であり、 今後の日本の「稼ぐ力」「対外優位性」「付加価値」の心臓部となっていく、 と言えないだろうか? すなわち、これまでの「日本の栄光」を築き上げてきた 文化人、文化財、経済インフラなどを大切に 保存、保持しながら、 外貨獲得装置へフル活用していく、という発想である。
具体的に言うと、欧米やアジアで圧倒的人気を誇った「X JAPAN」、「SMAP」、 「ジャニーズ事務所」、「アニメ(ドラゴンボール、ジブリ、ワンピース など)」、 「映画」、「トヨタ、日産、ホンダ、ユニクロ、ソニー、パナソニック、東芝 などの有名ブランド企業」 などを軸に、それらの周辺へエピソードを広げて、ファンの知的好奇心や特別感の充足を満たしていこう、という試みである。 アニメや ドラマ、映画の場合は、 ロケ地、スタジオを含む撮影から編集現場、制作現場や、 作家や 俳優・監督ら関係者らの 私生活・作業空間までもコンテンツ化していくわけである。 また、企業の場合は、 その製造工場やデザイン室などの諸施設を、今あるまま保存し観光資源化していく、 という「すそ野」部分まで市場価値化させよう、という視野拡大の発想である。
幸か不幸か、日本は人口減少下にあり、空間的余裕はますます拡大してくる。 ならば、せっかくのエピソード付加価値のある場所や 空間、事物をそのまま保全する方向で進め、破壊や移転などを避けられるはずである。 往年のスーパースターや 監督、作家、編集者などの自宅や仕事場も、そのまま保存し(もちろん、遺族たちは、 引き続き居住しても構わないが、原則、近所への引っ越しを奨励する)、 それらの空間が持つ付加価値をプロデュースしていくことこそ、 観光客やファンが最も望むものであり、それゆえに財布の紐も緩むというものである。 現状のまま保存した後は、博物館化、ホテル化、イベント会場化などが、主な選択肢となってくるだろう。
このように、映画や アニメ、スターなどの商品価値を、著作権や 映像権、グッズ販売などに限定せず、 「すそ野」をもっと広く定義することで、新たな市場価値が創造されていくと考える。それらの価値算定を早々に着手し、 「日本のソフトパワー資産」と認定して、税制の優遇措置など、手早く施策を打っていくべきである。
引用:https://twitter.com/awawaworld/status/1309034600417681408?lang=el
引用:https://presidenthouse.net/blog-entry-2027.html
他えば、『ドラゴンボール』作者・鳥山明氏の場合、バードハウスと呼ばれる 作業現場(上写真の黄色の建物)などは、 もちろん、ファンらにとっては垂涎の的であろうが、 さらには鳥山氏の生活した 住居空間、運転した自動車、生活上で目にした周辺環境なども含めて、 追体験したい最高の観光地と認識されるはずである(上写真)。
また、日本や台湾で大人気を博した、お笑いタレント・志村けん(本名:志村康徳。1950~2020年)氏の場合、 東村山駅前に銅像を設置するよりも(東村山市名誉市民にも認定)、 彼の生家や 自宅(東京・三鷹市にある 4億円の豪邸。下写真)をそのまま保存し、これを 観光施設化した方が、ファンの心境にも寄り添えるし、何よりも中長期的に 国庫としても役立ってくれるはずである(第二次大戦中の「アンネの日記」筆者の アンネ・フランクの家スタイル。 遺族が自宅を含め、公開情報を選別し、 できるだけ当時の状態で保存、一般公開している)。
そんな貴重な文化遺産「故・志村けん氏の 4億円豪邸」が、全く空き家として放置されている 現状が報じられていた(NEWS ポストセブン 2023年2月10日オンライン配信)
。 この情報は、同日付で
台湾 地元紙サイト
、
大陸中国 情報サイト
、
英語ニュースサイト(台湾系)
でも速報され、さらに翌 11日付には
香港地元紙サイト
でも報じられていた。
2020年3月末の彼の死に際しては、米英や韓国など世界中の情報サイトでも大々的に報じられ、 その人気と知名度を大いに見せつけたが、今回は、彼の旧邸が未だに空き家状態というニュースが速報されたわけである。 日本が誇るスーパースターの話題が、このような無策を報じる内容だったことは非常に残念である。 もし、これが「故・志村邸、博物館として一般公開スタート!」という内容だったら、どれほど誇らしかっただろうか。 きっと多くの人々が、興味津々にこの旧邸を訪問しているはずである。
今回の空き家報道は、日本のソフトパワー運用実態の象徴のように感じた。すなわち、自己アピールを不得手とするマインドや、 前例主義のようなリスク回避思考の結果的産物というわけである。
引用:https://presidenthouse.net/blog-entry-2535.html
そもそも、相続税や贈与税の徴収という、その瞬間だけでの「利確」ではなく、 中長期的な国家戦略に立ち、この資産を国有化してでも 保全&有効活用して、 観光収入源(ソフトパワー資産)とすることの方が、 日本経済や政府国庫に対し、より大きな実入りをもらせて くれるのではないだろうか?
さらに、スターへの野心を抱く若者や事業家たちにとっては、 別の意味でも感慨深い”聖地”となり得るはずである。こうした上昇志向を持つ人々のインセンティブとしても作用し、 それが回りに回って日本経済浮揚の地力となっていく効果も期待できる。
あわせて、忘れてはならない点は、「付加価値ある資産」は周囲の文物とともに 一体的に構成されている、という認識である。この原点に立ち戻り、 諸施設や土地、風景も含め、マクロ的に周辺環境の全体保全に全力が 尽くされるべきであろう(下写真のヨーロッパの城館では、 建物以外でも、周囲の土地環境の保全にも努力が払われている様子が伺える)。
ちなみに、これら フランス、ドイツ、英国の古城は、すべて個人所有物である。
無用な破壊や移築、分断などは、もう令和時代では避けたいものである。こうした日本国が誇るソフトパワー資産群は、 ご本人の死とともに、相続人によって 分割、売却、換金され、 散逸&消失されてしまってもよいのだろうか? 目先の公的財源になり得るだけで満足だろうか? むしろ、将来世代へ継承し、国民全体のために収益源化した方が、中長期的には得策とは考えられないだろうか?
明治維新~第二次大戦直後の混乱期を生き抜いた旧華族や資産家らは、 その後、多くが財団法人を設立し、自家が所有する土地や 文化財、株式などを保全するスキームを構築してきた。 平成期に台頭した 資産家層(居酒屋 ワタミ創業者の 渡邉美樹氏、ZOZO創業者の 前澤友作氏ら)も、 すでに複数の 公益法人(財団法人や社団法人)を設立し、 私財の保全準備を進めている。こうした私人レベルでの資産保全策と共に、 日本政府としても、中長期的な国家戦略に資する「付加価値ある施設や土地、 文化財」などを、より積極的に 登録文化財化、優遇税制の対象化し、 保護していく施策が急がれるべきではないだろうか?
3、
相続税課税により、文化的価値が棄損された例 ~ 田中角栄 元首相の「目白御殿」
下の豪邸写真を見てほしい。
東京都文京区にある「目白御殿」こと、故・田中角栄 元首相(1918~1993年。享年 75)の旧邸だ。
引用:https://mochizuki336.hatenablog.com/entry/20161116/1479291182
引用:https://presidenthouse.net/blog-entry-20.html
引用:https://seisyuu1.com/2021/07/12/mejirodai
角栄首相時代は敷地も広大だったが(8,000 m2)、1993年の相続税物納により、 全体の 3分の 1が削り取られ(3,200 m2)、現在の敷地へと縮小された状態になっている(下写真)。
物納された土地は、目下、「文京区立・目白台運動公園」として一般開放されている。
引用:https://gentosha-go.com/articles/-/43486
角栄氏には、正妻との間に男女 2人のお子さんがいたが、長男は夭折してしまったため、 長女の 田中眞紀子さん(1944年1月14日~。79歳)が、唯一の後継者となっている。 しかし、角栄氏は妾に産ませた 二男一女(女児は夭折)も認知しており、死後に眞紀子さん、 2名の男性が相続人として残されることとなった。だが、異母姉の田中真紀子さんは、この腹違いの兄弟たちの存在自体を快く思っておらず、 父・角栄氏の葬儀の際、彼らに焼香さえも許さなかったとされる。
ちなみに、この兄弟だが、
兄さんの方は 料理研究家、音楽評論家、作家として、 主に芸能分野で生計を立てておられる 一方(現在は、自宅登記にて「一般財団法人 田中角栄平和祈念財団」 の理事長をお務めになっている)
、弟さんは現在、無職独身で生活保護を受給中だとか(Wikipedia 情報、2023年2月現在)。
というわけで、現在、この 故・田中角栄氏の 大邸宅「目白御殿」に居住中なのは、 田中眞紀子 元外相と、夫・直紀 元防衛相(81歳。現在は、新潟県長岡市の バス会社「越後交通」の社長。角栄氏時代より、田中家が大株主) となっている(年齢はすべて 2023年2月現在)。
目下、眞紀子さんご夫妻もだいぶん高齢となっており、この目白御殿の行く末は、 3人の子供たち、特に 長男(1970~)の両肩にかかっている状態である。ちなみに、 彼は 公認会計士&税理士であり、税理士法人トラスト代表社員・CEOということで、 税務のプロとして祖父からの資産継承を万全に対策されることだろうと思う。
なお、田中家の中核企業である
新潟県長岡市の バス会社「越後交通」の株主構成を見てみると(2022年9月現在、下ホームページ)
、 株式会社 浦浜開発(13.08 %)、田中直紀(11.75 %)、 公益財団法人 田中角榮記念館(8.35 %)、田中眞紀子(6.42 %)、その異母弟らとなっており、 田中家だけで 39.6 %が保有されていることが分かる。この筆頭株主である「株式会社 浦浜開発(新潟県長岡市千秋 2-2788-1)」も、 実態は田中家の資産管理会社であり、その株主構成は 田中直紀氏、真紀子さん、 そのご子息夫妻らの親族経営スタイルである。 このように資産管理会社と公益法人を組み合わせ、株式や資産を重層的に保有することで、一族の永続的な資産保有と節税を実現させているわけである。
続いて、下写真の邸宅。渋谷駅から徒歩 30分という好立地で(各国大使館などが点在する渋谷区神山町)、樹木に囲まれた約 2,400 m2の 敷地に 3階建の 洋館(延べ床面積約 720 m2)が建つ。土地価格だけで 50億円以上と言われている。
引用:https://decopachi.com
引用:https://decopachi.com
ここは、麻生太郎(82歳)自民党副総裁のご自宅。2021年まで財務相を約 9年間務め、 戦後最長を記録された、日本では知らない人はいない超有名人である。
麻生氏も高齢に達しておられるが、男女二人のお子さんがいる。
長男(37歳)は、2022年末に 日本青年会議所(JC)会頭に選出され、 会頭父子二代目ということでニュースになっていた。ちなみに、長女(34歳)は東大文学部を卒業後、 ファション関係の仕事に従事しつつ、欧州へ留学され、そこでロスチャイルド家出身のフランス人男性と結婚している。 下家系図(上記年齢は 2023年2月現在)。
上は、麻生家周辺の家系図である。
曽祖父の 麻生太吉(1857~1933年)は“石炭王”として名を馳せた実業家で、 その 子・麻生太郎(父方の祖父。1887~1919年)が早くに亡くなったため、 孫の 麻生太賀吉(父。1911~1980年)を直接、面倒見つつ、さらに事業を拡大し、 海上運輸、鉄道、銀行、電力、病院、林業等多くの分野にまたがる大企業グループにまで発展させたが(その影響力を駆使し、華族に叙任された)、 彼の死に際し、当時、 日本史上最高額の相続税が課されたという。こうして祖父の死後、すぐに麻生グループ社長に就任した麻生太賀吉は、 相続税対策の重要性を身に染みた結果、 いろんなスキームを駆使して、実子の麻生太郎氏へ資産を継承させたわけである(1980年)。
2023年1月現在、麻生太郎氏は、「公益財団法人 日本ばら会」や 「公益財団法人 中曽根康弘世界平和研究所」などの会長を務めつつ、 複数の医療法人や 学校法人、その他の公益法人を保有して、一族の資産管理とグループ企業を運営されている。 それでも莫大な相続税課金は避けられないかもしれず、 その結果、納税金の一部として、上記邸宅の庭園も手放されてしまうのだろうか?
最低、家屋部分は保全されるとすると、庭園を削られた屋敷地は、 ずいぶんと見栄えのしないものになってしまう、と思われないだろうか?
引用:https://mochizuki336.hatenablog.com/entry/20161116/1479291182
旧華族層、財閥家、政治家の豪邸や別荘は、かつて日本全国にたくさん点在していた。 特に、三浦半島、湘南、熱海、伊豆半島、軽井沢 などでは、好んで高級別荘が建てられたが、 その後、膨大な 固定資産税、相続税、建物修繕費などの負担から、 他者へ売却されたり、地元自治体へ 売却・寄贈されたりと、完全に所有権を 手放す相続人らが続出するようになった(上写真)。
他方、こうした中で、富裕層らに広く知られるようになったのが、公益法人を用いた節税スキームである(公益財団法人 吉川報效会、 公益財団法人 毛利報公会、 公益財団法人 德川記念財団、一般財団法人 島津宗家記念財団 など)。
下写真は、国宝・犬山城(愛知県)。2004年まで 個人名義(旧藩主家の 末裔・ 成瀬氏)の所有物 であったが、現在は、成瀬家が新設した「公益財団法人 犬山城白帝文庫」の所有物となっている。 財団法人の設立により、相続・継続事業に関する税金が免除され、 以降、この旧藩主家が代々、理事に名を連ねつつ無税継承が行われていくわけである。
引用:https://inuyama-castle.jp
ちなみに、下写真の 中津城(大分県)。現在の所有者は、株式会社・千雅(埼玉県ふじみ野市上福岡 6-4-5)となっている。
中津城は福沢諭吉の故郷であり、戦国時代末期の 1588年から、 名軍師・黒田如水が築城を手掛けた、日本三大水城の一つとして知られる。 江戸時代を通じ、藩の政庁として君臨するも、1871年に廃城となり、1877年に勃発した西南戦争で天守ごと焼失されている。 現在の天守は、最後の 城主・奥平家が、市の意向を受け、1964年に鉄筋コンクリート製で再建したもの。
当初、天守閣&歴史資料館の観光収入だけでは採算が合わないことから、 中津勧業(旧藩主の 末裔・奥平家が経営する会社で、主に本丸内の奥平神社を 管理&運営)と、 地元の中津市役所が買取り交渉を続けていたが、「耐震強度の調査をしたい」 などの度重なる要請で、追加費用の負担ばかりを強いられたことから、 最終的に中津勧業が交渉を打ち切り、破談している。 そして、上写真に見える黒壁の天守閣と櫓が、老人ホームなどを経営する 千雅(社長の田中氏自身が大分県出身という)に 5,000万円で売却された、 ということだった(2010年10月)
。
天守内の 展示品(古文書や武具)、および本丸敷地などは、引き続き、 中津勧業が所有したままで、新たに設立した天守閣運営会社に有償で貸し出す、 という形で、現在でも観光事業が継続されている。建物自体は模擬天守ということで歴史的価値はないが、石垣や内堀などの保存には、 十分に手を尽くしてもらいたいものである。最終的に、数十年後には公益法人による所有形態へ移行されているかもしれない。
4、
終戦直後、華族、地主・名士層が 自力管理してきた 家宝、美術品類が 一気に散逸した
明治維新直後の 1869年、早々に発布された太政官令に基づき、 全国の大名らは
京都
の公家らとともに、明治政府下で「華族」として遇されていくこととなる(新政府から給与を配給される)。 その直前の戊辰戦争を通じ、新政府に抵抗した 東北諸藩(会津藩、仙台藩など)や、
桑名藩
なども、大幅な石高減俸を強制されるが、大名家自体が取り潰しされることはなく、 そのまま華族に列席を許されている。
そして 1884年(明治17年)、伊藤博文を中心に(この時、 伊藤は政権の中心人物として、宮中と天皇制を明文化する制度取調局を新設し、 自ら長官を務めていた。翌 1885年に内閣制度を創設して、初代内閣総理大臣に就任することとなる)、宮内省令として「華族令」が発布されると、 それまで一律だった華族階級は、上位から順に 公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の 5爵に区分される こととなり、旧公家は先祖代々の家格により、旧大名家は石高により爵位クラスが分類されるようになる。 また同時に、政治家や軍人など、国家に勲功ある者を「新華族(勲功華族)」として加え (伊藤博文、井上馨、榎本武揚、板垣退助、大隈重信、青木周蔵、伊東祐亨 など)、勲功 クラスに応じて爵位が下賜されるようになった。下図表。
なお、爵位は昇進こそあれ、降格制度はなく、上位の家系は永続的に 上位に君臨することができたという。
その爵位と財産は子々孫々まで継承を保証され(華族世襲財産法)、さらに自動的に 貴族院議員となる特権まで付与されていた(政府からの給与支給の根拠となった)。 また、”華族銀行”と比喩された 国立銀行(十五銀行)を閉鎖的に運営し、 その圧倒的な 資金力(当時、全国立銀行残高の 48%もの資産を保有)と、 江戸期から有する旧家臣団ネットワークを駆使し、全国の鉄道整備 への融資で大儲けしていく(最終的に昭和恐慌で破綻する。 帝国銀行に吸収合併 ー 今の三井住友銀行へ)。
こうして第二次大戦終戦まで、全国各地にわたり圧倒的な財力と政治的影響力を保持してきた華族層であるが、 日本占領統治のため GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が乗り込んでくると(1945年9月)、 「天皇制の藩屏」として特権階級化していたことから、封建社会風土のシンボルとみなされ、 真っ先に解体が指示されるのだった。 その一連の政策が、預金封鎖(1946年2月)、新円切替え(同年 3月)、そして、「財産税および戦時特別税」(同年 3月)という資産税の導入であった。
その中でも最もインパクトがあったのが、財産税であった。 これは、個人名義の所有資産に対して 10万円超 25%~、1,500万円超 90%という強烈な累進税率が一気に課金されたもので、 基本的には自己申告制であったが、 一部では税務署員が資産家らの邸宅に踏み込み、倉の中の骨董品まで調べ上げたとされる。 この時、日本最大の資産家だった天皇家もしっかり課税され、3,338万円余りが国庫へ物納されている(皇室の私有財産には、90%の課税率が適用された)。
1948年の施行当時、一気に財産を 失う旧特権層が続出し、大都市圏にあった住居や土地は戦火で壊滅状態だったこともあり、 真っ先に売却、物納されていったという(旧皇族・山階芳麿氏の新聞記事、参照)
。
ハイパーインフレーションが席巻する当時の日本にあって、 保有株式や 田畑、家屋などが公示価格で計算されたことから、安値放出を強要され、 旧華族や皇族層は大いに生活設計を狂わされることとなった。 不動産の物納も認められたことから、なんとか全資産の投げ売りは回避できたが、 それでも大部分の土地や資産が国庫へ接収されていったわけである (農作業に適していない山間部を除き、わずか 1町歩【3,000坪】までの土地が残された)。それらの接収地は、後に安値で小作人らに再分配され、 農地改革へと結実していく。
さらに、この一ヵ月前に施行された預金封鎖により(上新聞記事)、 一所帯あたり預金引出しが月 500円(月額で世帯主 300円、世帯員 1人各 100円のみ)までに制限され(当時の国家公務員の初任給が、 ちょうど 500円相当)、そもそも現金を持ち合わせていなかった旧華族層は、財産税に対し、なす術もなく、 物納を強いられていたわけである。この一環で、生活苦から 家宝(美術品など)を次々と売却せざるを得なくなり、 多くが散逸していったのだった(海外流出も含む)。
そして最後のとどめが、華族令、皇室令の 廃止(1947年5月)であった。
こうして、旧財閥系や 華族層、地主や名士層らの財産は激減し、 かつて日本国内に厳然と存在した富の偏在は、大きくリセットされることとなる。
日本経済新聞オンライン記事より
これらに加え、相続税の条件も強化される。
そもそも、日本で相続税が初導入されたのは 1905年で、 日露戦争で戦費負担を賄うための臨時的な増税策であった (華族層は華族世襲財産法により、その財産継承は保証されていたものの、あくまでも 民事請求対象からの免除で、納税時などは物納の対象とされた)。 日露戦争後、期待したロシアからの賠償金が獲得できなかったことから、そのまま相続税は継続されることとなり(このタイミングで、 1933年に太吉翁が死去した麻生家は、莫大な相続税を納付したわけである。上図表)、 終戦後に GHQが 財閥・華族・皇族解体を目的として、この相続税をフル活用し、 最大税率を 90%にまで引き上げたのだった(翌 1947年、70%へ引き下げられる)。
以降、2003年の税制改正まで、この最大税率 70%が維持されてきたため、 「三回相続したら資産はなくなる」と揶揄された日本の相続税制度であったが、 2003年の税制改正で最大税率が 50%へ引き下げられる。しかし、 税収減を嫌った財務省の働きかけにより、2015年から 55%に再引き上げされ、 今日に至っている。
他方、イタリア、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、オーストリア、 スウェーデン、メキシコ、中国、タイ、マレーシアなど、世界では相続税ゼロの国も多い。 アメリカの独立系民間調査機関 タックス・ファウンデーション(Tax Foundation)が、 2015年に発表した各国の相続税率調査によると、OECD加盟国の相続税率ランキングで、 日本の最高税率 55%は世界 1位を記録している(OECD加盟国の単純平均は 15%)。
こうして日本政府や GHQからの抑圧政策に対処すべく、 富裕資産家らはこぞって財団法人を設立し、そこへ先祖伝来の財産や 美術品、土地、家屋、持ち株や現預金などを寄贈する、 節税スキームが多様されるようになっていくわけである。
そもそも、この公益法人制度自体は、1896年制定の民法で、日本で初めて導入された制度であったが、 新華族へと叙任されたばかりの民間出身の新興事業家によってフル活用され、 私財の保全などに使用され始めた、という。こうした財団法人創設により、 単なる成金ではない、社会慈善事業家としての一面もアピールすることで、 伝統的華族層との社交に役立てよう、マスコミ受けも狙おう、と図ったと考えられる。
その筆頭格が、明治維新~大正期にかけて活躍した 実業家・大倉喜八郎(1837〜1928)で、 当初は個人収集してきた高級文化財や美術品などを、一部の知人らへ見せびらかすだけであったが、 後に自邸内に大倉美術館を開設し(1902年)、一般公開に踏み切るようになる。 これが、現存する日本最古の 私立美術館「大倉集古館」で、こうした功績から喜八郎は男爵に叙されることとなる(1915年)。 そして、1917年に正式に「公益財団法人 大倉文化財団」を創設し、社会篤志家としても活躍するようになるのだった。 現在も東京都港区虎ノ門にて同美術館は営業中で、国宝 3件、重要文化財 13件、 及び重要美術品 44件を含む、美術品約 2,500件を収蔵している
。
公益財団法人 大倉文化財団(大倉集古館を運営)は、今も ホテル・オークラ株を 4.3%保有する大株主で(第 7位株主)、 理事には大倉一族が名を連ねている。
渋沢栄一 と 大倉喜八郎(右)
こうした新興事業家らの個人収蔵品を保存した美術館や財団法人は、他にも 数多く日本中で設立されている(
畠山一清による畠山記念館
、
石橋正二郎によるアーティゾン美術館
、
五島慶太による五島美術館
、など)。 その一方で、旧華族一族の中にも、先祖伝来の家宝や財産を寄贈、継承するために、財団法人を設立した事例は数多くある (柳河藩主・立花家による 立花財団、細川家、伊達家、毛利家、
山口県岩国市にある 公益財団法人 吉川報效会
など)。
次章では、この財団法人の性質とその利用法について、具体的に精査してみたいと思う。
5、
財団法人の活用 と その実態
「公益法人(社団法人と財団法人の 2種類)」という名称を冠するだけあって、 その活動内容は、美術館や博物館の運営、 各種調査研究、奨学金配給など公益に資するもので、社会への直接的、 間接的な貢献を目指す趣旨となっている。こうした理念と活動内容から、 税金の減免という優遇が認められる、という構図である。
しかし、その実、美術館を運営する「財団法人」自体が、企業グループの大株主である パターンが多く(
福山通運の大株主である、公益財団法人 渋谷育英会
など)、うがった見方をすれば、しこたま溜め込んだ金持ち翁が、 市民のために施しをする自腹のパトロン活動を、政府が公認し、それを促進する ために税金を安くしてやっている、という絵ずらで、「公によるブルジョワジーのパトロン趣味奨励策」とも言える。
ただし、その活動目的が、有資産家階級の 自己顕示欲、承認欲求、所有欲から端を発する ものであったとしても、その最終結果を見れば、貴重な文化財や芸術品を保全し、 また精力的に研究調査活動に励む学者らへの助成、優秀な子弟らに奨学金を配給するなど、 政府機関だけでは対応しきれない多くの慈善活動により、大いに社会貢献してくれた ことは、確かな事実であった。
こうした習慣は、かつての大名家や 貴族、豪商、地方の名士や地主らが、 日常的に手掛けてきた活動であり(芸術家の支援、地方での土木工事や教育活動 など)、 また中世ヨーロッパでも、貴族らが好んでパトロンとなり芸術家を育てる慣例があった。 こうした富裕層らの発想と行動パターンをうまく活用し、その対価として税金の減免を行う、という政治的交渉を経て、 市民革命&産業革命下のヨーロッパで「公益法人制度」が確立されていったわけである。
その法制度を、主に独仏から輸入した日本は、1896年(明治29年)、国内初の民法を制定すると、その第 34 条に公益法人制度を明記することとなる。
ただし、フランス民法では 1987年、ドイツ民法では 1901年に、 正式に公益法人制度が制定されており、実は日本の法制化は欧米列強より先んじた、当時、最先端の法令だったわけである。
以降、日本の公益法人制度は、120年にわたり変更も修正も加えられることなく継承されることとなり、 「所轄官庁の許認可が必要」という条件のみで、 ブラックボックス化していくこととなる(天下り、同族経営などが横行していく)。
ちなみに
日本初の公益法人は、現在も存続する「公益社団法人 日本海員掖済会」で、 1898年に第一号案件として法務省から認可を受けている。この団体は、元々は 1880年に開設された「海員寄宿所」で、 明治新政府の意向により、劣悪だった船員の労働環境と生活習慣の改善のため、船員宿泊所の 提供、船舶の斡旋、 船員教育、船員遺族への 弔意・慰安、そして、船員に対する医療といった、 船員に対する福利厚生一切を行う団体として設立されたものであった(社団法人スタイル)。
第二次世界大戦後、職域ごとに国の直轄事業や他の公益法人への事業分割が行われ、 船員に関する医療を行う社団法人として再出発し、今日に至っている(下ホームページ)。
他方、
日本初の財団法人は「財団法人 啓明会」で、赤星鉄馬(1882~1951年。下写真) の巨額の 寄付(100万円。現在価値で約 20億円)を母体に創設され、創立者として牧野伸顕 伯爵、 初代理事長・平山信男の協力の下、文部省から認可を受け登記されている(1918年7月)
。
この赤星家の財産は、薩摩藩出身の 父・赤星弥之助(1853~1904年)が、 武器などの軍需品を扱う政府御用達の貿易商として蓄財したもので(アームストロング社と独占契約していた)、 当初、彼自身も父の事業を継承するも、その後は直接、事業活動にはタッチせず、主に趣味の馬や釣り に没頭する人生を送っている(ブラックバスをアメリカから輸入した)。1917年、父が個人収集してきた国宝級の美術品や文化財を 一括売却し(総額 510万円)、翌 1918年、そのうちの 5分の 1を寄付する形で 学術財団「啓明会」へ投資するも、 彼自身は財団運営には一切関与せず、親族にも関わらせなかったという(資産家としての赤星家の名前が世間に出ることを嫌い、 マスコミ等のインタビューもすべて断っていた。1914年に暴露された「シーメンス事件」で、 薩摩閥と海軍の関係が問題視された際、赤星家がやり玉に挙がっていた。 これを機に財団設立と寄付を実行するも、さらに批判を浴びたことから、 世間に嫌気がさしたと推察されている)
。
こうした明治期~昭和期にかけて台頭した政商や財閥らにより、 巨万の富が文化財や美術品の個人収集に当てられていったわけだが、 そもそも、その目的とは何だったのだろうか?
戦後の華族廃止、財閥&地主解体政策以前にも、昭和前期にかけて、 華族クラス内で貧富の差は大きく開いていったようで、特に旧公家や大名家のうち、 もともと財務基盤が弱かった末端の華族層は家計の維持が厳しく、出費がかさむ華族どうしの社交で四苦八苦し、 最終的に華族の称号を自主返上する一族もあったようである。
この過程で、困窮する華族らは、自分たちの家宝や土地、邸宅などを少しずつ売却しながら生計を立てており、 多くの文化財が市井へ出回った際、 海外流出も頻発していったわけである(欧米の資産家が、個人コレクションとして購入していった)。 同時に、江戸期まで巨大な権力を有した大寺院や仏教勢力の没落も著しく、 封建社会体制&文化への人々の嫌悪感が廃仏毀釈運動となって各地を席巻し(下絵図)、 宗教勢力の経済的基盤を破壊して回ったことから、多くの寺院らは統廃合に追い込まれ、 また所蔵する文化財などの売却を迫られていったことも大きかった。
こうした没落する旧勢力と反比例するかのように、 台頭する新興ブルジョワジーが、こぞって貴重な 高級品、文化財、美術作品などを 買い漁り、個人コレクションとして所蔵していったわけだが、その目的は、 これまで特権階級が独占的に保持してきた富を自分のものとし、 他者へ見せびらかすという自己顕示欲や自己承認欲求に由来するものだった、と 考えられる。同時に、末代への資産継承も見込んだ行動だったことだろう (現在の感覚では、骨董品や高級時計などのコレクションを、資産として残すイメージ)。
また、この時代特有の事情もあったようである。それは、 こうした上流階級の物品を買い集めることで、最終目標として、 子々孫々まで身分が保証されるという「華族」への叙爵を望んだ、と いうわけであった。
しかし、戦後の 1946~47年、一気呵成に進められた 財産税課税、預金封鎖、 華族制度廃止の渦中にあって、「財団」化し遅れた旧華族層は、 多くの資産を失うこととなる(これらの課税は個人に対するもので、法人格には 適用されなかった)。このタイミングで、多くの家宝や 歴史遺物、芸術品などが、 再び散逸させられたわけである。
美術品収集や財団法人の設立など、当初の目的はどうあれ、 新興ブルジョワジーが率先して創設していた財団法人スキームが、 ここにきて上級の旧華族層にも注目されるようになり、この終戦直後のタイミングで、 多くが新設されていったわけである(
1948年登記の財団法人 新住宅普及会
、
1948年登記の財団法人 住総研
、
1947年登記の財団法人 中村積善会
など)。
なお、加賀前田家や尾張徳川家などは、戦前から財団法人を設立し、その所蔵品を管理させていたことから、 終戦の混乱期でも家宝を保全することに成功している。
旧大名家の 財団法人
旧大名家の末裔が設立、承継している財団法人には、下記のものがある。
公益財団法人 前田育徳財団(1926年~、加賀藩 前田家)
公益財団法人 鍋島報效会(1927年~、佐賀藩 鍋島家)
公益財団法人 徳川黎明会(1931年~、尾張 徳川家)
公益財団法人 永青文庫(1950年~、熊本藩 細川家)
公益財団法人 致道博物館(1950年~、庄内藩 酒井家)
公益財団法人 徳川ミュージアム(1967年~、水戸 徳川家)
公益財団法人 宇和島伊達文化保存会(1970年~、宇和島藩 伊達家)
公益財団法人 米沢上杉文化振興財団(1990年~、米沢藩 上杉家)
公益財団法人 徳川記念財団(2003年~、徳川宗家)
公益財団法人 犬山城白帝文庫(2004年~、尾張藩付家老の 旧犬山城主・成瀬家)
特に、旧大名家で最も早くに設立された「公益財団法人 前田育徳会」 は、前田家 16代目当主・前田利為(としなり。1885~1942年)の高い 教養、伝統文化への 強い責任感により、発足が決定されたものであった。彼は生前、「加賀百万石の殿様」と 呼ばれ、東條英機とは陸軍大学校で同期であったが、エリートの利為と留年常習犯の英機とは、犬猿の仲だったという。
明治維新以降、長い歴史を持つ旧大名家が私蔵していた多くが家宝が、 売り払われる時代が続いており、 さらに 日清・日露戦争やこれに絡む大増税、昭和恐慌(1927年~)などの 世相を経て、多くの文化財が散逸していた(海外流出を含む)。 そんな渦中の 1923年9月1日正午、関東大震災が発生する。
当時、前田侯爵家の邸宅は、現在の東京都文京区本郷にある 東京帝国大学(現・東京大学)キャンパスの南西角に立地し (この東京大学本郷キャンパス自体が、そもそも江戸期の前田家上屋敷の旧敷地であった
。 ちなみに、中屋敷は駒込邸、下屋敷は現在の板橋区にあった平尾邸)、その火災により、 危うく先祖伝来の家宝を収蔵した土蔵が焼失してしまうピンチに直面することとなる。 こうした事態に危機感を頂いた前田利為は、3年後の 1926年2月26日、前田家伝来の文化財を保存し後世に伝えていくため、 「公益法人 育徳財団」の設立を決定した、というわけであった。同時に、 本郷の邸宅を大学へ寄贈し、代わりに駒場にあった東大農学部用地の一部を譲り受けると、 新邸宅を構えて、ここを財団本部としている。
当初、前田家が所蔵する古典籍の複製刊行を主な活動としていたが、 その後、加賀前田家および前田侯爵家が収集した所蔵品の寄贈を受け、 収蔵品の保存と公開を目的とする公益法人へと移行し、それに伴い、 「侯爵前田家 育徳財団」、「前田育徳会」へと改名していったという。 なお、この「育徳」の名称であるが、江戸期、この前田家上屋敷にあった 庭園「育徳園」に由来している。
この他、前田家は 旧本国・加賀にあった 別邸・巽御殿(たつみごてん)を成巽閣へ改称し、 その建物を管理する公益財団法人も 設立・運営している。 そのまま旧本国に残存していた、前田家に所縁ある 建物、庭園、美術工芸品、 資料等の保存も託され、今日まで存続されている。
この前田利為であるが、その死は ボルネオ沖(現在の マレーシア領)での飛行機墜落事故であった。 犬猿の仲であった 首相・東条英機の密命により、撃墜されたと世間で噂されることとなる。 この時、当時の相続税法第 7条で「戦地による被相続人の死に際し、相続税は免除」という規定があり、 巨額の資産を持つ前田家にとって利為の死因は非常に重要なものであったが、 政府内での調整の結果、「戦死」として扱われ、何とか相続税を免除される。この財産喪失の危機が、 前田一族をますます財団活用へと走らせ、終戦直後の 財産税課税、預金封鎖を潜り抜けさせたわけである。
続く翌 1927年8月20日には、旧佐賀藩主・鍋島家 12代目当主・鍋島直映(1872~1943年) により、「財団法人 鍋島報効会」が創立されている。
既に鍋島家により開設されていた 博物館「徴古館」の経営、郷土の史跡、 地元の旧家臣らの遺跡保存事業の助成、教育事業に対する助成、社会事業に対する助成などを目的とし、 鍋島家の郷土佐賀にあった私有地の大部分を寄贈する 形で設立されたという。この「報效」という文字は、「恩に感じて力を尽くす」の意味で、 郷土佐賀に根付く鍋島家への忠誠心への謝意を反映した命名となっている。
これらに続き 1931年には、
旧・尾張徳川家
19代目・義親(1886~1976年)も、 自家が保有する私財を寄付し、財団法人 黎明会(現在の公益財団法人 徳川黎明会)を創設している。
なお、旧薩摩藩主・島津家だけは非常に特殊で、明治維新以降も代々、 守りの資産保全よりも、攻めの資産運用を行っていることで知られる。 現在ある「一般財団法人 島津宗家記念財団」は、歴代の 藩主・島津家の墓地を管理するのみで、 島津家自体は「株式会社 島津興業(1922年1月5日設立)」を一族経営し、 今でも鹿児島県全体で 観光業、土建業、林業業を手掛けており、地元鹿児島では知らない人はいない古参企業となっている。
引用:東京都文京区役所サイト より
では、そもそも「財団法人」とは、どのようは組織形態なのだろうか?
慈善活動を行う公益法人には、社団法人と財団法人という 2種類が存在する。
社団法人とは、ある目的のために人々が集って組織化された団体で、 その運営には、主に参加者の知恵と労力が動員されることとなる。 これに対し、財団法人は、ある目的のために、出資者が 財産(不動産、文化財、 美術品、株式、現預金 など)を出し合い、その運用益や事業収入などで その目的遂行を目指す団体を指す。その活動のすべては、設立者の決めた目的のために執行されることとなり(基本的に目的変更不可)、 その監視役として監事の選任が義務付けられている。
これら公益法人は、その名の通り、「公益に資する」ことを主目的に 設立される団体であることから、税金面での優遇が認められているわけである。 収益事業に関しては、通常通りの法人税課税があるが、公益性の高い事業は 非課税とされたり、法人名義の財産は固定資産税などが免除されるなど、 法律上、保護された法人格ではあったが、これまでは主管官庁の許可を受けて、 登記される必要があった(規定根拠は民法第 34 条のみで、その解釈による公益性と、 法人登記は主管官庁が独自裁量で一体判断していたことから、「特例民法法人」と通称されてきた)。
こうした 主管官庁(国や県)との結びつきから、官僚の天下り先となる場合も多く、 さらに、その法人ガバナンスに関して、民法上の詳細規定の定めもなく、 運営母体である理事会や 評議会、評議員会は独自判断により、 任意に設置されるだけの機関となっていた(主務官庁の指導監督により、 構成人数や要件などは完全に恣意的なものであった)。こうしたパターンは、 国や県などが政策実行のために、外部機関として新組織を創設する際にも同様に運用され、 公務員どうしの天下り先の融通が常態化していたのだった。
そのブラックボックスぶりが問題視された 21世紀初頭、公益法人改革が進められ、 2008年に法人設立の条件や税務上の取り扱いに関し、公益法人三法として明文化されることとなる。
こうしてガバナンス規定が法律により定義付けされ、その権限や義務もまた明示されたのだった。 以降、より厳格、かつ透明性ある組織運営を求められた公益法人は、 簡易版と高度版に分離され、それぞれ「一般財団法人」と「公益財団法人」に区分されることとなったわけである。
これまでは、資産家個人や大企業が、数十億円規模の財産を 寄贈(拠出)し、 美術館や文化財団の運営などが行われてきたが、「一般財団法人」枠が新設されたことにより、 許認可不要、資産 300万円以上の条件だけで、設立登記が可能となっている。
なお、「一般財団法人(非営利型)」は、親族関係(三親等以内)にある理事の数が、理事全員の人数の 3分の 1以下であることが必須条件となる。 この条件や、他に条件などをクリアすることで、財団への財産寄付時の税負担がゼロとされたわけである。
また、「一般財団法人(営利型)」の場合、その活動内容は株式会社スタイルと全く同じで無制限であるが、 オーナー側からの 財団寄贈(出資)の段階から課税されるため、 実質的には株式会社よりも税務上の条件は悪い。このため、ほぼ 100%の財団法人は、非営利型を目的とする団体として登録されることになる。
以降、行政庁から十分に公益認定基準を満たすと認定されれば、一般財団法人格から「公益財団法人」格への昇格が許可される、 という二段階システムとなっている(これにより、所轄官庁の監督をより強く受けることとなる)。
このため、多くの財団が、情報公開やガバナンスの透明性を担保、アピールすべく、 運営目的や 役員・会員名簿、決算資料などをホームページ上で公開するようになってきている。
財団法人(慈善基金団体)を使った、節税スキームとは
公益法人格とは、建前上、社会慈善活動を目的とする団体であることから、 それらへの私財の寄付は、自治体や国への税金と同等の社会的効果があるとみなされ、 税金の減免措置が認められている。それは所得税から 固定資産税、贈与税、 相続税にまで広範に及んでおり、資産や収入の大きな富裕層にとっては、 特に大きな意味を持つ法人格であった。こうして、必然的に資産家のマネーは財団法人へと流入していくこととなる。
私財の寄贈後は、その財団法人が存続する限り、 財産の差し押さえや投げ売り、物納などの心配もなくなり、 先祖伝来の家宝や資産を永続的に 保全&継承できることを意味した。 こうして財団の理事会や幹部に、資産家一族や関係者が入り込むことによって、 彼らの意向と監視を受けながら、財団運営が進められ、同時に、 理事らには給与が支給されることで、子々孫々にわたって一族の生活保障も同時実現されているわけである。
例えば、日本最大の 財団法人『日本財団』は、 競艇(モーターボートレース)王・笹川良一氏の寄贈財産によって設立されており、 現在の 2代目理事長は、息子の笹川陽平氏がが就任されている。その他、理事に名を連ねる面々も、 元政治家や官僚など天下ってきた人々が多く、財団法人を一つの歯車として、 一族経営の事業や財産を保全しつつ、行政機関とも密接な関係性をキープするという、一石二鳥の団体として機能しているわけである。
その他、故・田中角栄一族の「公益財団法人 田中角榮記念館」、 ZOZO創業者の前澤友作氏の「公益財団 法人現代芸術振興財団」、 居酒屋ワタミ創業者の渡邉美樹氏の 3団体「公益財団法人 School Aid Japan」、 「公益財団法人 Save Earth Foundation」、「公益財団法人 みんなの夢をかなえる会」 などなど、財団法人制度はかなり広範囲に活用されている。
財団法人 管理資産上位 100団体リスト
参照。
ただし、露骨な租税回避利用を抑止するため、政府側でもさまざなま条件を付している。これらは、 2008年の公益法人改革により明文化された条文群で、それ以前は、全くの ブラックボックスとなっており、 所轄官庁のさじ加減があったことから、財界と政界との癒着の温床となっていたわけである。
主な制約条件は、以下の 4点に整理される(相続税法 66条4項にて規定)。 もし、これらの条件がそろわない場合、租税回避行為と判定され、財団法人を個人とみなし、そのまま贈与税や相続税が課税されることとなっている。
① 理事 6名以上、監事 2名以上、評議員 6名以上(目安として)を擁する団体であること
② 役員等は、その地位にあることのみに基づき、給与等の支給を受けない
③ 他の関連法人の 役員・職員等が、その財団法人の役員等を兼務する場合、全体の 3分の 1以下であること
④ その事業内容に応じて、社会的存在として認識される程度の公益性を有していること
また、2008年の公益法人改革により、財団法人は「一般財団法人」「公益財団法人」に 区分けされており、後者には所轄官庁の認可が必須とされている。このため、 最初は一般財団法人の設立からスタートとし、その組織規模や活動範囲を拡大させながら、 所轄官庁へ申請し、公益財団法人への昇格を図っていく流れとなっている。
公益財団法人枠に認定されると、寄付者らへの免税枠が拡大し、ますます寄付を受けやすくなるわけである。
これまで見てきた通り、日本でも 2008年の公益法人改革を経て、 個々人レベルでかなり容易に財団法人の登記ができるようになっている。
自らの資産を、NPOや他の公益法人などに寄付するだけが社会貢献の選択肢でもなくなっており、 自らの意志と財産を使って、社会をより良くしたいという思いが、具現化しやすい法制度が整いつつあるわけである。 最低財産要件も 300万円と低めに設定されており、最初は小さくスタートした団体であっても、 そこから多くの人の共感と支援を得て、公益財団法人へと認可されれば、 さらに税務上の優遇措置を受けて、ますます活動の幅が広げられるようになっている。
今後、日本でも、ビル・ゲイツのような富豪ではなくても、 中小企業のオーナーや個人レベルで作る「ファミリー財団」 が増えていくことだろう(上写真は、ビル&メリンダ・ゲイツ財団 本部)。ちなみに、米国には「ファミリー財団」が 4万ほど存在する。 その半数以上が、資産 1億円未満の規模という。法制度がどんどん明確化、 簡便化することで、財団法人設立と運営のハードルはかなり低くくなっており、 今後は公に頼らない、民間発の公益事業が数多く勃興してくるのかもしれない。
以上、本章では、国民側から見た 資産保全策、文化財保全策の一例として、 財団法人制度について触れてみたが、次章では、日本政府や自治体側の視点に立ち、 彼らが展開中のさまさまな施策、特に文化財保護のための税制措置について、 俯瞰して行きたいと思う。
6、
自治体、国よる史跡保存政策 ~ 文化財登録による 減税、修繕費補填など
全国で激増する空き家などの古民家に対し、各地の自治体は、 建物、土地などの遺贈寄付を呼び掛けている(
奈良県 生駒市役所 ホームページ
)。 これにより相続税が免除され、残された遺族への負担も軽減されると同時に、 街の環境保全でも自治体として一体対応できる、と訴えているわけである。
このような公の力に民間資源が保護されることについては異論は無いが、 何から何まで公依存に傾斜していく危険性はないのだろうか??
引用:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/520867
上写真は、神奈川県逗子市にある、旧・正力松太郎 邸 (読売新聞社長で、プロ野球・巨人軍の創設者。”プロ野球の父”と称される )。1965年1月2日の新年会で、巨人軍の 川上哲治、王貞治、金田正一、長嶋茂雄ら、当時の 球界スーパースターらがもてなされた応接室がウリで、現在でも曽孫にあたる御家族が 居住されている。
戦前期からの資産家邸宅という歴史的価値、そして プロ野球・巨人軍に関するエピソード、 さらに現在も子孫の家族が居住中、という点が高く評価され、 2022年2月に文化庁から登録有形文化財の指定を受け、話題となっていた。
このように、歴史的建造物や 歴史・文化的エピソード満載の施設を、オーナー一族 の相続人が大切に保全しつつ、引き続き、生活を継続される様子、さらには、定期的に一般開放して見学者の訪問を受け付けるなど、 公共文化財としての社会的役割も担っておられるという点で、筆者も高く評価したい成功事例と考えている。
しかし、こうした事例はごく稀なのが現実で、人口減少が進む日本では、 一般民家の維持継承にも苦心し、全国至るところで空き家が急増している。 中小企業や 寺院、地方議員職などの後継者も見当たらず、泣く泣く廃業に追い込まれ、それまで継承されてきた伝統や文化などが霧消しつつある。
2023年1月23日(月)付 の朝日新聞デジタルに、「相続人なき遺産、647億円が国庫入り 2021年度 過去最高」 という記事が配信されていた。
盛岡市の中心部に多くの土地を保有する 大地主・大平吉郎氏が、2014年3月に亡くなった際、一人暮らしで身内もなく、 死後に判明した財産 20億円相当分が、すべてが国庫へ接収されたというエピソードが紹介されつつ、 相続人のいないまま、相続財産が国庫へ自動接収される事例が年々増加している現状が報じられていた。 2001年度は約 107億円、2011年度は約 332億円と、うなぎ上りに上昇中で、 ついに 2021年度に過去最高の 647億459万円に達したという。 その背景として、身寄りのない「おひとり様」の増加や、不動産価格の上昇などが指摘されていた
。
今後、こうした身寄りのない「おひとり様」や空き家の増加に比例し、 彼らが管理してきた山林や 神社仏閣、史跡、高級車、各種コレクションなども、 未管理のまま放置されたり、市場へ投げ売りされていくことが予想される。 それらの多くは、新興の アジア・マネーによって買収されていくことになるのだろうか?
(市により名称や範囲が異なる場合あり)
日本では、いちおう、築 50年以上の建造物は文化財登録の申請ができるが、 そのような家屋は日本全国にごまんとあり、どの基準で文化財指定を進めるか、文化庁も手探り状態となっている。 このため、その申請件数と 審査基準、担当人員数の問題から、なかなか認定が下りない狭き門というのが実情である。
上図表は、国(文化庁)や自治体から「文化財指定」を受けた場合に享受できる、 オーナー側の税金軽減措置を整理したものである。木造建築物の多い日本では、 築 50年以上を経過した建物は、基本的に、その資産価値を喪失しており、 実質的に、土地だけの値段で資産価格や税額が決定されるわけだが(それでも建物に固定資産税評価額がつけられない場合、 再建築価額から経過年数に応じた減価償却費を引いて算出する)、家屋と一体で価値を成していると認定された土地は、 山林であっても税額評価減措置が適用されることとなる。また、上図表にある 2つの「国税」枠に 関しては、その土地上に存在する他の構造物も減税対象に含まれる。他方、 地方税である固定資産税に関しては、土地へは優遇税制は適用されず、家屋のみ 50%の 減税が認められるだけとなっている。
そして文化財認定後は、建物の保存修理にかかる設計、監理事業で補助があり、保存・活用に 必要な修理等の設計監理費の 50%を国が補助してくれるが(登録有形文化財建造物修理等補助事業)、物件売却や増改築に 制限を加えられることとなり、なかなか自分自身の私有物というわけにもいかなくなる。 なお、地震などの被災時には、全額公費負担で修復してもらえる特典は大きいだろう。
こうして建物の価値を評価してもらい、長期保存の目途が立ったとしても、 決して相続税、固定資産税などが 100%免除されるわけでもなく、 あくまでも一部減免のみに限られる。地価が数十億もある物件だと、軽減されても 億単位の相続税が発生することは避けられない。
さらに、この文化財指定を受けた家屋以外の 資産(現預金、保有株式、別荘、山林など)に対しては、 容赦なく通常の相続税率が課されてしまい、結局、現金納付がかなわない場合、 邸宅の土地の一部などを売却して、なんとか資金を捻出せざるを得ないわけである (冒頭の田中角栄氏の相続税問題など)。もしくは、文化財登録の家屋ごと、 自治体へ物納してしまうこととなる。
この結果、屋敷と庭園が一体で構成していた邸宅設計は崩壊してしまい、 バラバラに分断されていく。さらには、分割された土地に住宅や マンションが新築されると、景観や空間設計は全く異物のものとなり、 もはやその邸宅を文化財として保全する意味が激減されてしまうわけである。 このような結果は、国や自治体が目指す文化財保護の 理念が貫徹されていると言えるのだろうか??
引用:https://mainichi.jp/articles/20191207/k00/00m/040/136000c
他方、自治体や国の保護支援を受けられない中、今日現在でも日本全国に残る文化遺産は、 着々と破却&解体が進められている。
特に、80年前の太平洋戦争に絡む戦争遺跡に関しては、保全に関する明確な定義や評価基準が策定されておらず、 これまでは地権者の善意の下、破壊を免れてきたが、 その地権者も世代交代を繰り返す中で、どんどん風化や解体が進んでいるのが現状である。
上写真は、宮崎県日向市にあった旧日本海軍の「富高飛行場」。 太平洋戦争初期の真珠湾攻撃に出撃した航空部隊の秘密訓練施設だったわけだが、 その飛行機を格納する 掩体壕(えんたいごう。太平洋戦争末期に建造)が破却されている(2019年12月)。
下写真は、兵庫・加西市にあった旧日本海軍の「鶉野飛行場」。 残存していた防空壕が解体されている(2022年8月)。
引用:https://www.ktv.jp/news/feature/220822-3/
このように、多くの土地が個人私有地となっている日本では、その地上に立地したり、土中に埋まっている史跡や文化財は、 土地所有者に管理責任義務が課され、押し付けられた状態が続いている。 さらに、地方では山林や 島嶼、私道などで、共同名義、集落名義となっている物件も多く、 権利関係が複雑すぎて解決不能になっている上、そのまま史跡の保全管理も放棄され、風化に任せたままのものも多い。
そもそも日本列島は、石器時代から 13万年もの長期に及ぶ歴史を有しており、 こんな狭い島国に、のべ数百億もの人々が生活してきた。 当然、それらの痕跡は土中に積み重なって、残存し続けているわけである。
それらは、現在、「埋蔵文化財包蔵地」として、全国に 40万ヶ所以上が指定されている。
もし「埋蔵文化財包蔵地」に自宅の建設を予定する場合のロードマップは、上記の通り。
「遺跡、遺構が発見された場合」に、県や市の教育委員会や文化財担当者と、事業主や土地の所有者との間で協議が行われるわけだが、 ここでどのような調査をするか、どんな工事をするか、 また費用負担の割合などが決定される(自宅建設の場合のみ、自治体の全額負担となるが、 その他の目的で土地開発していた場合、土地所有者に費用負担が課される)。
工事が埋蔵文化財を損傷する恐れがなさそうなら、注意して工事を進めるだけでよいが、 数ヶ月以上かかる発掘調査が行われる場合、建物の設計変更を指示されるケースもあるという。 なお、大掛かりな遺跡が発見された場合、その遺跡に自分の 名前を冠することもできるらしい。
その上、日本では、多くの史跡が今でも民家や私有地の敷地の土中にかなり多く残存していると考えられており、その大部分は未だ未発見、 未確認のままとなっている。
その私有地内で、たまたま遺跡などが発見されると、地元の役所へ届け出た上で、 自腹で 発掘調査費(目安 300万円前後)まで捻出せねばならず、 地権者の大きな負担となっていることも長らく問題視されてきた。それが自宅改築時など、生活上、必須の場合のみ、 自治体が費用負担してくれる規定となっている。
また、
2015年7月付の日本経済新聞オンラインに、「関西に古墳 4万ヵ所超、個人所有が大半」という記事が掲載されていた。
自治体が指定する「周知の埋蔵文化財包蔵地」のうち、 「古墳・横穴」分類のものは全国に約 16万ヵ所あり、そのうち計約 47,000ヵ所が、 関西 2府4県内に分布するというが、それらのほとんどは個人の所有物という形で私有地内に 立地しており、史跡指定されるケースは大きな規模のものなど、ごくごく一部に とどまるという(関西地方では、107ヵ所のみが国指定史跡となっている)
。
歴史的な重要度に応じ国や自治体が「史跡」に指定するわけだが、 登録後は文化財保護法に基づき開発に厳しい規制がかかるため、 結果的に自治体などが買い上げることが多いという。
その他の 古墳類はきちんと管理されるケースは稀で、荒れ放題に放置されることが一般的と指摘されていた。 さらに所有者が届け出により、古墳自体を取り壊すことも可能という。 特に戦争直後から高度経済成長期の宅地開発により、100基ほどあったとされる堺市の 百舌鳥(もず)古墳群も、 現在は 44基を残すのみとなっている(そのうち、5基はまだ史跡指定も受けず、 個人管理に委ねられた状態)。そして、その保存を促進すべく、 ユネスコ登録を目指している、というわけだった。下絵図。
以上、国や自治体が展開中の文化財保護政策を俯瞰してみた。
民間による財団法人設立や一族継承による文化保全策とともに、公と民の努力がうまくかみ合って、日本が誇る 文化的価値、 ソフトパワーの向上と温存に精進していきたいものである。
7
、仙人からの緊急提言 ~ 日本の「戦略的国家資源=ソフトパワー資産」の活かし方
現在、我々が日本で豊かな生活を謳歌できているのも、 すべては先達たちの文化的、経済的遺産の上でのことである。 そして、この富を未来世代へも承継させていく責務を有している。
もともと、このような伝統や資産の継承というものは、 血縁などの家族単位や、学校や組織などの 集団、派閥等で 強く保持されてきたわけだが、それを「日本国民」という 列島住民、 日本語話者という地理的文化圏へ拡張し、その盛衰が回り回って、 家族や学校、会社など自身の身近な集団の命運に影響を与えることは、 既に広く認識される事実だと思う。自分だけの利益追求よりも、他者との共存共栄こそ、 中長期的に自身の安寧と幸福をもたらす、という社会合意に基づき、 まずは日本列島が富める環境を整備すべく、我々は祖国日本の強みとは何か? 海外から外貨を稼ぎ出すための競争力とは何か?を真剣に精査していくべきであろう。
2023年2月末現在、ウクライナを巡り、ロシアと世界列強がハードパワーを駆使して衝突を続ける中、その周囲では様々な外交戦、 情報戦が繰り広げられている。まさに目に見える武力だけではない、 ソフトパワーと言われる国の総合力が激突しているわけである。 このように情報ネットワークが発展した 21世紀の世界では、 ますますソフトパワーが物を言う時代となっており、 それらの運用手法やタイミングなどのセンスも、非常に重要となっている。
目下の日本でも、アニメなどを中心にソフトパワー強化が図られているが、 筆者は、資産とコンテンツから成るソフトパワーの二重構造性に着目し、 その全体をプロデュースすることで、より長期的な効用が期待できる と考えている。今日、地方の観光地で コンテンツ・ツーリズムが盛況だが、 このように イメージ・コンテンツと現実の事物を結びつける発想に倣うもので、 日本が誇る 企業ブランド力、芸能文化面でのコンテンツ力といったソフトパワーを支えてきた 人、モノ、空間に、特殊な付加価値を見出し、 それらを「ソフトパワー資産」として 保全&活用していくことを提案したい。
すなわち、第 2章、3章でも見たような、国内外で知名度、人気を博した 歌唱界、映画界、ドラマ界、アニメ界、漫画界、政界、 財界等で活躍した 有名人(俳優や 作家、編集者、プロデューサー、政治指導者など)らが 生活し活動した 現場(生家、私生活空間、製作現場、撮影所、ロケ地)や、 愛車、コレクション、人脈など、幅広い分野にまで広がる 事象、文物にも、 強弱はあるが、それぞれに「ソフトパワー資産」的価値があると 考えていくわけである。それらの事物が 連結&集結して、日本の繁栄、 栄光ある一時代を築き、世界的にも名を馳せる映像作品やスーパースターが 生み出されたわけであり、また 彼・彼女らが時に愛した事物や現場、その背景や足跡をたどることは、 今後の作品創造上でも、大きなインスピレーションやインセンティブを与えてくれる、と考る。 同時に、芸能界や経済界での成功を目指す野心ある若者や事業家ら、後進の者たちにも、 具体的な目標や夢を見せてくれる役割が期待される(今日でも世界の多くの音楽家が、 モーツアルトやベートーヴェン関係の史跡などを巡る精神に通じるものがある)。
何も熱烈ファンだけが興味あるものとも言い切れず、謎に満ちたスーパースターや 作品関係者、 有名ブランド関係者らの私生活に関心を抱く人は、普通に多いことだろう。
作品自体や商品ブランド等の結果的産物のみに焦点を当てるのではなく、 それに関与した人々を同じ人間として見る視座を持ってもらうことで、 より作品や日本そのものへの理解を深めてもらえる、と考える。 このようにコンテンツ創出に寄与した場所やエピソード空間をも包括し、 それらを「ソフトパワー資産」と定義づけ、可視化していく方策として、 名所化、聖地化、博物館化、ホテル化へアレンジしていくわけである。
第 2章で触れた 故・志村けん邸の場合、これを博物館化するとか、 旅館化するなどすれば、東アジアを中心に多くの観光客に興味を持ってもらえる上、 未来の野心家たちにも好影響を与える施設になり得るはずである。 この志村邸を 3年間も放置する姿勢が、まさに日本政府や国民が未だに「ソフトパワー資産」の有効活用の重要性、 その可能性に気付けていない象徴と言えないだろうか。
この動きをバックアップすべく、文化庁は現在の 文化財登録制度(第 6章)とは異なる、 「ソフトパワー資産」登録制を導入し、「日本にあって他国にない唯一無二の資産」 の保全と活用を目指すべく、優遇税制(相続税や 贈与税、固定資産税などの減免)と、価値保全策を総合的に実施していくべきである。 人口減少と空間的ゆとりの出現という逆境をうまく利用し、逆転の発想で、 現存する「ソフトパワー資産」を 全体的、一体的に保全し、それらから富を創出させる施策へと、発想を転換していくわけである。 相続税や贈与税という一過性の税収にとらわれず、中長期的に日本全体へ 富をもたらす 国民的資産(外貨獲得の源泉として)への包括的な支援策が、 生産年齢人口の激減が確定する未来日本には、絶対必須となってくるはずだ。 同時に、次世代の野心家たちが、先人らの資産を糧に、また日本経済を奮起させてくれるはずである。
第 5章では、一族の祖先が蓄積してきたプラスの遺産を活用し、現在、 そして未来への承継を図る手段として、財団法人の活用スキームについて俯瞰してきたわけだが、 その過程で、「公益財団法人 立花財団」を創設した 立花文子(1910~2010年)氏の存在を知ることとなった。 彼女の人生の軌跡は、まさに危機的状況に陥りつつある、現代日本人に大いに参考になる。
戦国武将として人気の高い 立花宗茂(1567~1643年)を祖先に持つ、旧・柳河藩主(福岡県柳川市)・立花家もまた、 終戦直後の財産税や預金封鎖などで危機に瀕することとなるも、 立花本家の 一人娘・文子氏は(姉は夭折)、婿養子に入っていた和雄氏と共に、 先祖伝来の別邸を改装し、旅館&料亭を開業する(1950年)。 その売上金を基に土地と建物を守り抜き、一族経営による財団法人を設立して、今日まで立花家のご子孫が事業を継続させている。
激動と逆境の時代にあっても、三男三女を育てつつ、立花家の存続に奔走した彼女の人生に、 我々日本人も学ぶべき点が多いのではないだろうか?
彼女が守ろうとした「立花家」を、21世紀国際社会における「日本列島」ととらえ直してみる時、 我々はどのような教訓を見い出すことができるだろうか?
この立花家と財団の 設立・運営には、地元に根を張る旧家臣団の末裔らの惜しみない支援や理解も多々あったはずであり、 そうした住民の心と協力をうまくまとめ上げ、立花財団という形に昇華し、今日まで継続させている事業体系を、 是非、日本国全体でも実現させていきたいものである。
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