ジョホール王国は以後、陸路でも旧王都マラッカへの攻撃が可能となり、ますます戦線が拡大することとなった(ペラク
Perak王国を建てた実兄 ムザファル・シャー Muzaffar Shah
の協力もあった)。なお、この時代、マラッカではポルトガル軍が ファモーサ(Famosa)要塞を完成させており(下絵図)、より守備体制が整ってしまっていた。
この大敗により、同年中に国王 アラウディン・リアヤット・シャー二世は、王都をジョホール川のさらに上流に位置する サヨン・ピナン(
Sayong Pinang : 別名 Kota Sayong )へ移転させる(下地図②)。
彼の重臣で右腕でもあった宰相 Seri Nara
Diraja
が、間もなく死去すると、国王は再び、サヨン・ピナンから、旧王都 コタ・カラへ戻るも、因縁の総司令官 エステヴァオ・ダ・ガマの率いるポルトガル軍が再攻撃をしかけてくる。これより少し前、エステヴァオ自身も、実弟の パウロ・デ・ガマ(Paulo
da Gama)とその従者 30 名余りの兵士らを、別の地でマレー軍により殺害されており、
ジョホール王国に強い憎悪を抱いていたとされる。
この治世時代、一貫して、宰相 Seri
Maharaja Tun Isap Masai が国王を補佐した。
彼は当地にて、孫に トゥン・スリ・ラナン(Tun Sri
Lanang)を授かっている。実子 Orang Kaya Paduka Tun Ahmad と妻
Tun Genggang との間の息子で、後に名宰相 トゥン・スリ・ラナン Paduka Raja
Tun Muhamad となる人物である。
初代国王 スルタン・アラウディン・リアヤット・シャー二世(1528~1564年)の皇女であった Raja Fatimah
と結婚した、パハン州長官の一族出身の Raja Umar
、つまり、婿養子が国王に即位することとなる。 3代目国王 アブドゥル・ジャリル・シャー 1世の急死により、宮廷内で力を増していた実姉 Raja Fatimah
が強く次期国王に推したのが夫の Raja Umar であった。宰相 Seri Maharaja
Tun Isap Masai や 他の重臣らもこれに同意し、
アリ・ジャラ・アブドゥル・ジャリル・シャー二世(下絵図)が誕生する。
彼の治世時代初期、長らく宰相を司ってきた
Seri Maharaja Tun Isap Masai が死去する。
直後に、その孫の トゥン・スリ・ラナン Tun Sri Lanang
に宰相職を継承させ、また、Paduka Raja
長官のタイトルも同時に授与されて、先代の功績をたたえられ、大きな期待と重責を背負うこととなった。
以後、彼は 2代の国王を補佐し、その政治手腕を発揮していくこととなる。
国王に助言する常設機関である 重臣会議(the Majlis Orang Kaya
= Council of Rich
Men)がすばやく王都 バトゥ・サワールで招集され、使者を ムアル Muar
州(ジョホール川中流域)へ派遣し、ムアル州長官であった Sa Akar DiRaja
に国王即位を打診する。彼は、元国王の叔父に当たる人物であった。
しかし、Sa Akar DiRaja
は宰相職にあった トゥン・ハバブがその皇位を継承すべきであると辞退したため、重臣会議でも異論なしに、
宰相 トゥン・ハバブの国王即位が決議されることとなった。
重臣会議で全員一致の下、アブドゥル・ジャリル・シャー四世(Sultan Abdul
Jalil IV.)として国王即位が成る。