BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2018年2月中旬 『大陸西遊記』~


ドイツ ベルリン市(中心部)ミッテ区 ~ 区人口 34万人、一人当たり GDP 49,000 USD(市全体)


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  ケルンから、新幹線 ICE にて ベルリン中央駅 に降り立つ(4時間半、5,100円)
  旧市街地 北西端にあった ローゼン通り ~ 往時の ユダヤ人街 と「闘う女性たちの記念碑」
  中世期の 城郭都市ベルリン(ケルン地区、ベルリン地区) 全景図!
  アレクサンダー広場 を歩く ~ 聖マリエン教会(聖母マリア教会)、テレビ塔、赤の市庁舎
  近世期の ベルリン(ケルン地区、ベルリン地区、ドロテーア・シュタット地区) 全景図!
  【豆知識】約 1270年建立の 聖マリエン教会 ~ 現役で稼働する ベルリン最古の教会 ■■■
  最古のベルリン教会施設「聖ニコライ教会」と 閑静な中世風エリア(聖ニコライ地区)
  旧市庁舎(アルテス・シュタットハウス)~ 旧東ドイツ首相官邸跡
  シュプレー川の 中州「博物館島」を歩く ~ ベルリン発祥の地「ケルン地区」と 王宮跡
  プロイセン王家の 家廟「ベルリン大聖堂」と 博物館島(ムゼーウムス島)の模型
  ウンター・デン・リンデンに残る 最古の建物「武器展示場」~ 今の ドイツ歴史博物館
  展示されていた「ベルリンの壁」の現物 表面&裏面 !!!
  ウンター・デン・リンデン通り、フンボルト大学、詩人ハインリヒ・ハイネ 記念彫像
  ウンター・デン・リンデン周辺の「ドロテーア・シュタット」地区 今昔
  【豆知識】プロイセン王国が輩出した 皇帝 ~ 5人のヴィルヘルムと 2人のフリードリヒ ■■■
  北面城壁跡 ~ ブルク通り、Sバーン「ハッケシャー・マルクト駅」、シュパンダウアー通り




ドイツ西部の都市ケルン から、新幹線 ICE 651 に乗車してベルリン入りした(14:48 → 19:06)。乗車券は売り出し直後の 3ヵ月前にすでにオンライン予約済だったので、5,100円と最安値で入手できていた。列車は指定席で、快適そのものだった。時差ボケや疲労もあり、車中はずっと眠っていた。下車前にトイレに行き、ホームに降り立つ。
とりあえず、駅周辺地図まで歩き、現在地を確認してみると、予定していた「アレクサンダー広場駅」ではなく、「ベルリン中央駅」という駅に到着したようだった。当初の予定では、ICEの終点駅がアレクサンダー広場駅で、そのまま徒歩でホテルまで移動する予定だったため、現在地の把握に戸惑ってしまったが、 10分ほど地図とにらめっこしていると、どうやら Sバーンで 3駅ほど離れていることが分かってくる。下地図。

ベルリン

仕方なく、Sバーンのホームへ移動し、2時間有効の ABゾーン(2.8 EUR)のチケットを券売機で買い、列車に乗車する。ようやく、アレクサンダー広場駅に到着できた。
出口は東西二か所あり、どっちがホステル側か判断できなかったが、最初、東側へ出てみて、地図を見ながら、この線路反対側かと考え直し、線路をくぐるとテレビ塔が見えてくる。この正面の広場がアレクサンダー広場だとすぐに推測できた。
そのまま北側の道路沿いに進み、聖マリエン教会(聖母マリア教会)の向かいにある 歩行者用路地(ローゼン通り) 50 m先に シティステイ・ホステル(Citystay Hostel Berlin Mitte)の看板を発見できた。この安宿で一泊する。


ホステル受付はバーを兼ねるカウンターで、24時間オープンだった。かなり人懐っこい女性が受付を切り盛りしていた。オンラインで 事前予約(27.91ユーロ)しており、チェックイン時に現金で支払った。
このホステルは ロッカ-鍵、タオル、部屋用カードキーなどを無料で貸与し、保証金はチェックアウト時に返金される、非常に良心的なシステムだった。ロッカー鍵(10 EUR)、タオル(5 EUR)、カードキー(2 EUR)など、細かく明細が分かれていた。
丁重にお礼を言って、何とか部屋にたどり着くと、シングルベット 2台と 2段ベット 2台の、合計 6人部屋だった(シャワー、トイレは全フロアーに 1か所ずつあり、共同使用)。ここに、中国福建省アモイ市 から一人旅中という若い女子と、二人だけの同部屋となった。しかし、筆者が寝たシングルベットにはダニがおり、深夜あまり熟睡できず、別の二段ベットの方へ移動せざるを得なかった。。。

翌朝 6:30過ぎに起床したが、ドミトリー同部屋の女子はまだ寝ているので、廊下でしばらく PC作業を進めた後、7:15にロビー階まで移動して 朝食(7~11時)を申し込んだ。食事する際に都度、申し出るスタイルで、その場で現金払いだった(5.5 EUR)。選択肢の多いブッフェ形式のメニューで、一番乗りだった筆者は思いっきり食べまくった。お腹いっぱいになった所で、部屋に戻る(8:30)。同部屋の女子も起床していたので、昨夜のダニの話をするも、彼女のベットは大丈夫だったとのこと。筆者は身支度後、早々に女子に別れを告げてホテルをチェックアウトした(9:40)。




ホステルを出ると、その正面に小さな公園があった(下写真左)。
園内には、第二次世界大戦中に迫害を受けたユダヤ人家族らを助けようとした、主にドイツ人妻らの抗議活動を称える「闘う女性たちの記念碑」が設置されていた。下写真左。

ベルリン ベルリン

どうやら、このホステル前の ローゼン通り(上写真右。Rosenstraße)は、中世期にユダヤ人らが集住していたエリアだったという。中世初期から、欧州のどの都市でもユダヤ人は嫌われ者で、ここベルリンでも城塞都市内の端っこに押し込められるように居住させられていた様子が伝わってくる(下絵図の赤〇)。この路地のすぐ外側に、かつて市城壁が連なっていたわけである

ベルリン


「闘う女性たちの記念碑」が立地する公園には、かつて古いシナゴーグが建立されていたが、第二次大戦時に破壊されたという。この路地は中世期からユダヤ人らが集住した地区で、ナチス政権時代に弾圧のターゲットとされたわけである。

ナチス政権下、ドイツ領内のユダヤ人は順次、拘束され強制収容所へ送られていたが、特殊技能者や、ドイツ人配偶者と結婚したユダヤ人らは収監を免れていたという。
しかし、ついに 1943年2月末、ベルリン市内にいた 8,000名を越えるユダヤ人の拘束も開始される。このうちの 2,000名が、ドイツ人配偶者を持つユダヤ人既婚者だったという(多くは、ユダヤ人男性ら)。彼らは、他の収監者たちと分離され、この路地にあったユダヤ人社会福祉事務所として戦前まで使用されていた 建物(シナゴーグ跡)内に一時的に収容されることとなる。
自らの夫や父親らの拘束に動揺した ドイツ人配偶者ら(多くは女性とその子供)は、この拘留に抗議すべく、収容施設となっていた建物前に集結し(2月27日夜)、自分たちの家族との面会を要求する。こうした騒動に直面したナチス当局は、収監していたユダヤ人配偶者の解放決定に追い込まれるのだった。 以後、3月6日に至る連続 1週間にも及んだ抗議活動には、毎日 600人前後のドイツ人女性らが脚を運んだという。最終的に折れた当局により、3月6日に最初の収監者解放が行われると、数日内に他の外国人を配偶者に持つユダヤ人らの抑留者も順次、解放されることとなった。以後も 1943年を通じ、ベルリン市内では度々、残留ユダヤ人の収監が行われたが、ドイツ人配偶者らの抗議行動により、都度、解放が繰り返されたという。
これら一連の抗議行動は一切、暴力的でもなく、平和的な陳情だけだったので、誰一人として刑罰を受けた者はいなかったという。この彼女らの勇気ある抗議活動を称えるべく、インゲボルグ・ フンツィンガー(1915~2009年)によって レンガ彫刻「闘う女性たちの記念碑」が制作され、この一時収容施設跡地に安置されたわけである。自らの命の危険を顧みず、配偶者らの解放に尽力したドイツ人女性らの勇気を顕彰したものとなっている。




そのまま、アレクサンダー広場へ移動し、だだっ広い平地に立地する、聖マリエン教会(聖母マリア教会)とテレビ塔を撮影する。ちょうど下写真中央にそびえ立つ 高層ビル(4つ星ホテル Park Inn by Radisson が入居)と、この聖マリエン教会との中間あたりに、かつて市城壁や外堀、稜堡などが建造されていたわけである。

ベルリン

下古絵図は、中世期に城郭都市が拡張され、最大化した当時の ベルリン(1688年)。国王 フリードリッヒ・ウィルヘルムの治世下で、大改造された 直後(1658~1683年)の様子を描いたもの(1835年作成)。上段↑ の白黒色の古絵図は、この大改造前の様子を示す。

ベルリン



 聖マリエン教会(St. Marienkirche、聖母マリア教会)

それまで、シュプレー川の中州島のみに形成されていた城塞集落が、1250年前後から右岸側へ市街地が拡大されると、市城壁もより外側に再建造されるようになる。
この新市街開発の過程で、住民らのための宗教施設も 6箇所が建立される ー フランシスコ修道会僧院、聖霊病院礼拝堂、聖マリエン教会、聖ニコライ教会など。ここに密集して建立されていた教会施設は、その後、時代と共に 4教会がより郊外へ転出されることとなり、最終的に残った 聖マリエン教会、聖ニコライ教会の 2つが今日まで存続し、ベルリン最古の教会遺産となっているわけである。
1270年ごろに建立された聖マリエン教会に関しては、1292年1月3日に地区教会として初めて史書にその存在が言及されている。シュプレー川河畔により近かった聖ニコライ教会の方が 50年ほど早くに建立されたと考えられており、市街地が東へ東へと拡大されるにあわせて、その住民らのために聖マリエン教会も建設されたわけである。

当初、聖マリエン教会の外壁は自然石を積み上げたもので、内部のホールは赤いレンガを積み上げた、ブランデンブルク領内に一般的にみられた典型的なゴシック様式が採用されていた。当時から、高さ 48 mもの尖塔を有していたが、火災により尖塔が焼け落ちると、全面改装工事が進められバロック様式の教会施設へと一新されることとなる(1663~1666年)。その後、1893~1895年の改装工事で再びゴシック様式へ一新され、そのままのデザインと高さで今日に至るわけである。宗教改革以降、新教徒派に属し、現役で稼働するベルリン最古の教会施設となっている(聖ニコライ教会は 1938年にベルリン市政府へ建物が譲渡されて以降、宗教施設でなくなり、以後、キリスト教博物館として利用されるだけになっている)。

第二次世界大戦時には連合軍による空襲被害に遭うも、戦後まもなく復興される。東ドイツ時代の 1969~1970年にも、アレキサンダー広場の全面改修工事にあわせ、この教会施設に改装工事が施される。東西ドイツ統一以降も ベルリン・ミッテ地区に住む、新教徒派のための地区教会として機能しつつ、他方では、全世界キリスト教会の大学向け本部拠点や教会音楽イベントの中心地としても活用されている。

なお、上古絵図にも描写されている通り、現在、アレクサンダー広場となっている広大な公園の敷地には、かつて数階建ての家屋が密集して立地していた(「新市街区」と通称されていた)。しかし、第二次世界大戦での空襲により完全に破壊されると、以後はそれらは再建されず、聖マリエン教会だけがぽつんと残る広場として放置されたのだった。戦後に広場全体が建物残骸などの埋め立てで地上げされて土地整備が進められると、往時からの教会床面と外周の土地との高低差は、実に 1.5 mにも至ることとなった。このため、この教会に入ると、階段で中へと下る設計であることも特徴という。近年の修復工事は 2014~2017年に手掛けられており、このため、今は真新しい外観となっている。


 ベルリン・テレビ塔(Berliner Fernsehturm)

ドイツで最高峰を誇る テレビ塔(高さ 368 m。ベルリン・タワー)であるが、 1965~1969年の建設工事を経て完成された当時は、世界第 2位の高さを誇ったという。現在でも、欧州第 4位に君臨する(第 1位は ロシア・モスクワ、2位は ウクライナ・キエフ、3位は ラトビア・リガ)。当初の施工主は東ドイツ郵政局で、1969年10月3日に一般公開される。この時代までベルリン最高峰だった、 1920年代建設の古い ラジオ塔(ベルリン西部)よりも 220 mも高いもので、瞬く間にベルリン市のシンボルとなる。以後、ドイツ国内でトップ 10に数えられる観光スポットとなり、毎年、数百万人が登頂しているという。映画などでベルリン市街地が映される際、ブランデンブルク門、戦勝記念塔、国会議事堂らとともに、必ず目にする光景ともなっている。
高さ 203mの展望デッキ内には、バーやレストランが併設されている。東ドイツ時代から残る旧ベルリンのシンボルとしても、ドイツの人々に記憶されている建物となっている。


 赤の市庁舎(Rotes Rathaus)

現在のベルリン市役所本館となっており、赤いレンガ積みの外壁から「赤い市庁舎」と通称される。
ルネッセンス様式に設計され、1861~1869年の工事を経て完成される。当時、周囲に密集していた家屋群を撤去して新築されたものという。その後、第二次世界大戦で破壊さるも、1951~1956年の再建工事を経て元通りに復旧され、以後、東ベルリン市役所として機能した(この時代、西ベルリン市役所はシェーネベルク区庁舎に入居していた)。東西ドイツが再統一されると、統一ベルリン市役所として 1991年10月1日から再稼働することとなる。




そのままアレクサンダー広場を通過し、赤の市庁舎前(下写真左)からシュパンダウアー通りを渡って、左手に見えたグルーナー通りを目指してみる。
右手に、中世風の街並みを残す古い路地群が見えたので、そのまま閑静なエリアを歩いてみる。この一帯では、先程までの大通りの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
第二次大戦時、連合軍の激しい空襲により、瓦礫と化したドイツ各地の都市では、戦後になって、ドイツ人がレンガ片を一つずつ回収し、各地の旧市街地の街並みを見事なまでにコツコツと復元してきた、と聞いたことがある。

ベルリン ベルリン

間もなく、ベルリン最古の教会とされる聖ニコライ教会の裏面にたどりついた(下写真)。この、こじんまりした広場の名は、そのまま「聖ニコライ教会広場」。周囲の中世風路地エリアも、そのまま「聖ニコライ地区」と通称される。

ベルリン

教会内に入ろうとするも、博物館化しているようで有料という。多くの訪問者たちが立ち去っていたので、筆者も入館を見合わせた。


聖ニコライ教会(Museum Nikolaikirche)は 1220~1230年の間に建立され、ベルリン最古の教会施設となっている。前述の 聖マリエン教会(聖母マリア教会)よりも 50年弱早い建設となっており、新市街区がシュプレー川河畔から東へ東へと開発されていった際、最初の起点ポイントに立地したことが決め手となったわけである。

もともとカトリック派の教会施設であったが、ブランデンブルク国王ヨアヒム 2世(1505~1571年)が 1539年に宗教改革を推進すると、新教徒派の教会へ変更される。以後、ドイツ史に残る、多くの偉人が当地に牧師として籍を置くこととなった。その代表が、教会賛美歌の作詞者 パウル・ゲルハルト(1607~1676年)、讃美歌作曲家 ヨハン・クリューガー(1598~1662年)、ドイツ敬虔主義の創始者 フィリップ・シュペーナー(1635~1705年)らであった。

第二次大戦直前の 1938年10月31日に最後のミサを終えると、ベルリンの新教徒派団体により、この聖ニコライ教会の建物がベルリン市政府へ寄贈される。以後、コンサート会場として、また同時に、キリスト教関連の博物館として利用されることとなった。これは当時、すでにベルリン中心部の都市開発が進められ、中世以来の住宅が減少し住民らはより郊外へと転出してしまっており、ミッテ地区内の住民が激減していたことが背景にあった。ミッテ地区に残った住民のための宗教活動は、近くの聖マリエン教会が担うこととなり、ベルリン市における最古の現役教会となっていくわけである。
第二次世界大戦中、聖ニコライ教会の屋根や尖塔の頂上部は激しい空襲の中で焼失されてしまうも、戦後すぐ簡易ながら補修が施されることとなる。しかし、建物の腐食は進み、1949年には北側の支柱も含む、アーチ形天井のすべてが倒壊してしまうのだった。具体的な宗教活動に供されていなかった教会施設に対し、共産主義政権の東ベルリン市政府は何らの手立ても講じず、そのまま廃墟として放置されたという。1981年にようやく正式に許可が下されると、往時のデザイン設計で教会建物の再建工事が着手され、ようやく今日に見られる姿に復元されたという。以後、戦前同様に博物館やコンサート会場として利用されている。




教会横の自然史博物館から、遠目に 旧市庁舎(アルテス・シュタットハウス)が見えた(下写真左)。

この建物は、市役所本館であった赤の市庁舎が手狭になったため、追加的な事務棟として 1902~1911年に建設されたものであった。その総工費は、 700万ゴールドマルク(現在価値で 4,000万ユーロ)といい、当時のベルリン市長のリーダーシップの下、建造されたという。1911年に完成後、新市庁舎と命名される。
第二次大戦後、この新市庁舎は 旧市庁舎(赤の市庁舎)よりもダメージが少なかったため、役所機能のメイン棟として使用されることとなる(この他にも複数のビルに分散して入居された)。1956年までは、保険会社の事務所テナントも入居するなど、雑居ビルとして使用されていたが、この年から事務所はすべて退去させられ、以後、東ドイツが終焉するまで、東ドイツ首相官邸として利用されるようになる。初代首相 オットーグローテブォール(1894~1964年)から、最後の首相ロタール・デメジエール(1940~)まで、歴代の首相がこの洋館に居住した。
1992年以降には、ボン州政府のベルリン支部事務所の 2箇所のうち、一つが入居していた。1990年代半ば以降、大規模な全面改装工事がスタートすると、以後、ベルリン市議会の上院議員会館として利用されるようになる。同時に、旧市庁舎(赤の市庁舎)が、再び市役所本館として復活されるのだった
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さらに歩みを西へ進めると、シュプレー河岸に到着する(上写真右)。水の流れが非常に速かった。シュプレー川上流からの雪溶け水を多く含んでいるのだろう。この左手の巨大な建物は、ハンス・アイスラー音楽大学ベルリン。東ドイツ時代から続く、統一ドイツでもトップクラスの音大という。

そのまま上写真右に見える 市庁舎橋(ラータウス橋)を渡って、中州「ムゼーウムス島(博物館島)」へ足を踏み入れてみる。
音大向かいにあった、ベルリン王宮(宮殿)博物館(Humboldt Forum im Berliner Schloss)へ入ってみたかったが、まだ再建工事中だった(上写真右の中央に見える白色壁)。

この王宮は 1701年の建造以降、一貫して プロイセン王国(ドイツ帝国)皇帝の居館であった。 1918年の第一次世界大戦に敗れて君主制が廃止されると、皇帝一家はオランダへ亡命し、空き家となった王宮はワイマール共和国政権下、博物館として利用されてきた。第二次大戦時、連合軍の空襲で焼失し、その廃墟となった建物は 1950年にすべて撤去されたという。ドイツ再統一後の 2013年から、王宮の再建工事が着手され、今もその工事が続行中、というわけだった

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上写真は、ベルリン大聖堂(Berliner Dom)。後方に、テレビ塔や聖マリエン教会が見える。

この大聖堂は、1888年に即位したヴィルヘルム 2世(1859~1941年。第一次大戦敗戦により廃位され、ドイツ帝国最後の皇帝となった)が国威をかけて建立した教会で、古くからあった教会施設を破却し(1894年)、欧州トップクラスの大都市に成長した王都ベルリンにふさわしい、威風堂々たるデザインで設計されたものである。建築家 ユリウス・カール・ラッシュドーフの指揮の下、1894~1905年にかけてネオルネッサンス様式で建設され、王家ホーエンツォレルン家の正式な墓所に定められた。しかし、第二次世界大戦で連合軍による空襲被害を受け(下写真)、戦後になって暫定的な復旧工事が施されるも、往時の壮麗なデザインとして完全復活されるのは、1993年まで待たねばならなかった。現在でも新教徒派に属するも、高さ 114 mの大ドーム上(270段もの階段を登る!)に設けられたデッキからの眺望が人気となり、観光名所となっている。

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下写真は、「ムゼーウムス島(博物館島)」北半分の模型。上辺ギリギリに、ベルリン大聖堂が見える。
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下写真左は、旧博物館前から見た、ベルリン大聖堂。
そのままシュロスプラッツ通りを横断し、中州の西岸へ移動した。下写真右(ボーデン通りから眺めた「シュロス橋」。上模型の右上に架かる橋)。

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そして、対岸の メインストリート「ウンター・デン・リンデン」に至る。その最初の建物が、ドイツ歴史博物館だった。現在、ウンター・デン・リンデンに残る最古の洋館だが、内部は一面ガラス張りのモダンな建物だった。


もともとは、フリードリヒ 3世(1831~1888年)の治世下、1695~1730年の工事を経て、バロック様式で建設された 巨大武器展示場(ツォイクハウス)であった。それは弾薬や兵器などを貯蔵する単なる武器庫ではなく、プロイセン王国の国威発揚を期待した、国産兵器の展示施設であった。時と共に、プロイセン王国(ドイツ帝国)の発展史を賞賛する、殿堂としての役目を担うようになる。まさに軍国主義プロイセン王国、ドイツ帝国のシンボル的建物であった。

特に歴史的に特筆すべきイベントは、1943年3月のヒトラー暗殺計画である。
当時、ドイツ国防軍少将であった ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ(1905~1980年)が、この博物館で開催されていた展示会の開会式に出席した、アドルフ・ヒットラーを自爆により暗殺しようとしたものであったが、未遂に終わる。結局、このドイツ帝国のシンボル的施設は、第二次大戦末期に連合軍の空襲を受けて廃墟と化してしまうのだった。
戦後しばらく経った 1949~1967年に、全面的な復旧工事が手掛けられる。この時、外観のみ往時のデザインが復刻されるも、内装は完全に一新されることとなった。未だ再建途上であった 1952年、東ドイツ政府により 美術館(フリデリシアヌム)の一部として、ドイツ歴史博物館が開館される。共産主義政権の視点から見た、ドイツ現代史にスポットを当てた展示がメインを成していた。2003年、統一ドイツに関する歴史博物館として一新され、今日に至る。




この博物館はドイツ全国史に関するもので、ベルリン史に特化したものではなかったが、 10:20 に入館し、正午 12時までじっくり見学した(入館料 8 EUR)。
筆者にとっては、特に中世期の城塞都市の建造パターンに関する解説コーナーが、最も勉強になった。あわせて、各時代におけるドイツ地図が展示スペ-スごとに掲載され、同時代的に勢力圏を確認できて面白かった。
最後の戦後ドイツのコーナーでは、「ベルリンの壁」の残骸が展示されていた。下写真は、壁の表面と裏面。
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博物館を後にし、前の ウンター・デン・リンデン をしばらく散歩してみた。
この博物館の並びには、ノイエ・ヴァッヘ(ドイツ帝国のために殉死した人々の慰霊所として、 1816年に建設された施設)、フンボルト大学が立地し、その向かいには 皇太子宮殿(1733年にプロイセン王家のために建造された、ロココ様式の宮殿。現在は、ドイツ銀行直営の美術館となっている)や、国立歌劇場(1741年7月から着工された、王家のための宮廷歌劇場)など、蒼々たる顔ぶれの建物が軒を連ねていた。下写真。

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下写真左は、フンボルト大学の正門。古本を売る、ノミの市をやっていた。
下写真右は、このフンボルト大学と ノイエ・ヴァッヘとの間の路地。この奥に、詩人 ハインリヒ・ハイネ記念彫像が設置されていた。

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フンボルト大学(ベルリン)は、ドイツ北部で急速に台頭しつつあったプロイセン王国が、ナポレオンのフランス軍との戦争で敗退し(1806~1807年)、領土を半分喪失した際に、さらなる国家強靭化政策の一環として、政治改革、軍政改革と共に導入された教育改革の目玉事業として創立されたものである(1810年)。このため、当時の皇帝 フリードリヒ・ヴィルヘルム 3世(1770~1840年)の名を冠して、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学と命名されたという(一般には、ベルリン大学と通称された)。こうした富国強兵に直結する大学開設は、後の明治日本政府の手本となる。
1933~1945年のナチス政権時代、それまでの自由な学風が禁止され、政治統制を受けるようになると、多くの研究者や学生、ユダヤ人らが排斥される。第二次大戦が終結すると、東ベルリン側に立地したことから、共産主義政権下での教育内容に準拠させられることとなり、同時に国王名が外されてフンボルト大学へ改称される(1949年)。この時、共産主義的な統制を嫌った学生や大学教授らが西ベルリンへ移住し、ベルリン自由大学を創設するのだった。冷戦後に東西ドイツが統一されると、両者はそのままの名称で存続され、今日に至るわけである。

このフンボルト大学出身のノーベル賞受賞者は 29人を記録し、現在でも世界ベスト 100にランクインする名門大学であり、特に、相対性理論を発見した アインシュタイン(1879~1955年)が 10年以上も同大学教授を務めたことでも有名である。 ここに通った偉人たちは、ノーベル賞受賞者以外でも、鉄血宰相ビスマルク(1815~1898年)、社会主義思想家 カール・マルクス(1818~1883年)、文学者 グリム兄弟(1785~1863年、1786~1859年)、森鷗外(1862~1922年)、北里柴三郎(1853~1931年)ら、蒼々たる逸材が名を連ねる。

この中に、上写真右で言及した詩人 ハインリヒ・ハイネ(1797~1856年)も在籍したわけである。フンボルト大学創立間もない 1821~1824年に、法学部の学生であった。この時、教授を務めていた哲学者 フリードリヒ・ヘーゲル(1770~1831年)から、大きな思想的影響を受けたとされる。ハイネは結局、卒業することなく退学した後、ゲッティンゲン大学へ編入し、翌 1825年に法学士として卒業している。

東ドイツ時代、共産主義思想下においてハイネは男らしい、堂々たる歴史上の英雄としてイメージされており、彼の死後 100周年を記念すべく、東ドイツ市当局がフンボルト大学脇、ノイエ・ヴァッヘ脇の一等地に彼の彫像設置を計画する。当時、勇名を馳せていた彫刻家 ヴァルデマー・グルチメク(1918~1984年)に発注されるも、 彼の原案デザインがあまりに弱々しい悲哀に満ちたイメージだったことから、何度も原案修正が指示された後、何とか完成にこじつけられ納品される。しかし、その後も政府系のマスコミ紙を巻き込んで ネガティブ・キャンペーンが繰り返され、当局関係者はこの不満足な彫像を計画の地ではなく、博物館島にある人気の少ない小さな 銅広場(ペルガモン博物館の道路向かい)に設置したのだった。2年後の 1958年には、さらに中心部から離れた ワイン山通り(Weinbergsweg)へ移設されることとなる。この一連の当局による処遇は、文化人らの間で議論を呼ぶも強行され、東西ドイツが統一された後の 1997年に、再び蒸し返されることとなった。
ベルリン市の上院議員がハイネ生誕 200年を記念し、この銅像を当初に計画されていたフンボルト大学脇への再移転を提案するも、すでに 40年近くもワイン山通りの広場にあり、これに馴染んでいた住民らの反対運動が起き、市議会を巻き込んで議論が再沸騰する。最終的に平行線をたどった後、ある篤志家の 125,000 EURにも及ぶ寄付金で解決をみることとなった。全く同型モデルでハイネ像コピーが 2体制作され、2002年12月13日(生誕 205周年の日)、1体がこのフンボルト大学脇に、もう 1体がブレーメンの旧市街地に設置されることとなったわけである(2010年10月1日)。こうした背景から、このハイネ像は現在、ベルリン市内に全く同じもの 2体が、数キロ離れて存在するという。




ウンター・デン・リンデン(もともとは、「菩提樹の下」という意味)はさらに西へと続いており、米英仏の大使館、宮殿並みの規模を誇るロシア大使館など、最重要級の国際機関が軒を連ねる。その最終ポイントに、ブランデンブルク門が立地するわけである。

下写真の遠方には、フリードリヒ 2世(1712~1786年)の 騎馬像(高さ 13.5 m)が見える。富国強兵政策を推し進めて強国化し、対オーストリアとの度重なる戦争に勝利して、プロイセン王国を欧州での一大勢力へ台頭させた、ドイツの英雄である。ナチス政権を率いた ヒットラー(1889~1945年)が、最も崇拝した人物でもあった。

ベルリン


このウンターデンリンデン通りを含む、新エリア「ドロテーア・シュタット」地区(下地図)を建造したのが、国王 フリードリヒ・ヴィルヘルム(1620~1688年)であった。それまでの、シュプレー川の 中州(ムゼーウムス島)を発祥地として 旧市街地(ケルン地区)や王宮、右岸側の 新市街区(ベルリン地区)で構成されていた王都ベルリンを、さらに大拡張させた際、新たに整備された敷地であった。

この王都大改造は、1658~1683年までの 24年もの歳月を費やして進められ、日々のべ 4,000人に及ぶ人夫が動員されたという。この時に整備された市城壁は、高さ 8 m、厚さ 6 mという巨大さで、その外部に 13か所の稜堡が増設されたのだった。これらの外周部に外堀が掘削され、市城壁には 6箇所の城門が設けられていた。
下絵図は、1710年当時の様子。

ベルリン

しかし、中世期の理論に基づいた城郭都市の建造は、すでに兵器・重火器の発展スピードに凌駕され、無用の長物となりかけていた。さらに四方八方へと拡大を続ける都市ベルリンの発展上、むしろ邪魔な障害物となってしまうのだった。

なお、現存するブランデンブルグ門もこの大改造の際に建造されたもので、都市へ通じる 6城門のうちの一角を成し、西に位置したプロイセン王国の旧王都ブランデンブルグへ通じる街道があったことから、命名されていた。都市の近代化の中で、外周の堀や稜堡、市城壁や城門が撤去される中で、唯一残された城門として今日に継承されているわけである。

ここで注意すべき点は、近世期の プロイセン王国 の皇帝名であろう。いずれも似通っており、非常にややいこしいものとなっている。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム(1620~1688年)
ポーランド王国、スウェーデン王国からの支配を脱却し、プロイセン王国を再興した人物。それまでの古い城郭都市ベルリンを大改造した国王である。

 フリードリヒ1世(1657~1713年)
ドイツ各地に散らばっていた、ホーエンツォレルン家の分家が有した大小の領邦を統一的に支配するようになる。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム 1世(1688~1740年)
倹約と税収確保により財政を充実させ、軍制改革に心血を注ぐことで、プロイセン王国の強国化を促進した。また、スウェーデン軍を撃破し、バルト海沿岸の支配権を確立する。

 フリードリヒ 2世(1712~1786年)
父から継承した強大な軍事力を背景に、自らも前線に立って幾度もオーストリア帝国と戦い、領土を倍増させた軍事家であり、また文化振興にも尽力した名君。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム 2世(1744~1797年)
さらなる軍備増強に努め、ポーランド分割を主導してプロイセン王国領をさらに拡大させる。この時代に、ブランデンブルク門が完成される。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム 3世(1770~1840年)
ナポレオンと対立し、フランス軍との戦いに敗戦して領土の半分を喪失するも、国王としての存続が許される。以後、臥薪嘗胆の日々を送り、教育、政治、軍制改革を推し進めることとなる。最終的にロシア、イギリスと連合してナポレオ軍を打倒し、旧領を復活させる。 フランス革命の思想に感化された民族主義者の フリードリヒ・ヤーンらを、シュパンダウ城塞監獄に収監する

 フリードリヒ・ヴィルヘルム 4世(1795~1861年)
自由主義に寛容な政策を採用し、民族主義者の フリードリヒ・ヤーンらを解放する。全面改装された ケルン大聖堂 の除幕式にも参列する。3月革命を経て、プロイセン欽定憲法を制定し、立憲君主制が確立される。
この治世下で、ウンターデンリンデンにフリードリヒ大王騎馬像が建立される(1839~1851年)。




再び、ドイツ歴史博物館前まで戻り、フンボルト大学との間の路地を北上して博物館島へ戻ってみる。この通り沿いには、ギリシャ神殿を思わせる新博物館や旧国立美術館などが、広々とした空間に立地していた。下写真。

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中州 を抜けてシュプレー川に架かるフリードリッヒス橋を渡り、対岸のブルク通りに至ると、フンボルト大学の学部機関や図書館の建物が立ち並んでいた(下写真左)。この並びに、かつて証券取引所があったらしい。

さて、13:15となってきたので、ホステルへの帰路に就く。やや寄り道して北側の Sバーン駅「ハッケシャー・マルクト駅」を経由し、シュパンダウアー通りを南下して(下写真右。かつての市城壁北面あたり)、ローゼン通り沿いのホテルに戻った。

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ホステルに戻って荷物を回収し、次なる宿があるカイザーダム駅まで移動する。午後は、Uバーン 2号線でほぼ街の反対側へ移動し、地下鉄 U7号線へ乗り換えて終点シュパンダウを訪問した

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