BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年2月中旬 『大陸西遊記』~


チェコ共和国 ブルノ市 ~ 市内人口 39万人、 一人当たり GDP 24,000 USD (全国)


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  ポーランドの 世界遺産都市クラクフ から ブルノへ バス移動する(4時間半、15ズロチ)
  古城時代の 城門「メニンの門」の 今昔エピソード と「おもちゃ博物館」
  ブルノ駅前を歩く ~ 駅を南北に挟む 2つのバスターミナル と Hotel Grand、旧市街地
  南面城壁の跡地 と デニス庭園、対ナポレオン戦争祝勝紀念柱
  【豆知識】1918年 チェコスロヴァキア建国に 尽力した、仏歴史家 アーネスト・デニス ■■■
  15世紀の 城郭都市ブルノ 全景図
  法廷闘争の末に開業された、市内唯一の 5つ星ホテル「バルセロ・ブルノ・パレス」
  【豆知識】聖ペトロ&パウロ大聖堂の 午前11時の 鐘エピソード ~ 30年戦争から ■■■
  南北に一直線の フソヴァ通りを歩く ~ 西面城壁の跡地、国立モラヴィア・ギャラリー別館
  旧市街地の 中心「平和広場」にある、ペスト終焉紀念柱 と 天文時計、聖ヤコブ教会
  【豆知識】聖マリア・マグダレーナ教会 と フランシスコ修道会の 歩み、青果市場 ■■■
  【豆知識】聖ヨハネ教会 と マイノライト修道会の 歩み ■■■
  ロオセヴェルトヴァ通りを歩く ~ 高等裁判所、国立劇場、モラヴィアン・ギャラリー
  【豆知識】聖トマーシュ教会 と 聖アウグスチノ修道会 歩み ~ ブルノの北出丸 ■■■
  ヨシュトヴァ通りを歩く ~ 憲法裁判所、マサリク大学、初代大統領像、コメンスキー教会
  堅牢な城壁が連なる、シュピルベルク城塞の丘に登る
  【豆知識】聖トマーシュ修道院 と 「遺伝学の父」メンデル博物館 ■■■
  シュピルベルク城塞の 城門、内堀、主郭部(”監獄”博物館)を 歩く
  【豆知識】シュピルベルク城塞の 歴史 と オーストリア帝国時代の 悪名高き大監獄 ■■■
  【豆知識】難攻不落の城塞都市「ブルノ」の 華々しい戦歴 ■■■




ポーランド・クラクフ から、チェコ 第 2の都市 ブルノ へ移動する。
クラクフ・バスターミナル(Kraków MDA = Kraków Malopolski Dworzec Autobusowy)は、旧市街地近くにある鉄道駅すぐ裏に立地しており、非常に便利だった。16:00に出発し、 20:40に ブルノ・バスターミナル(Brno Ustrední Autobusové Nádrazí)着の予定だった。

チケットは事前にネット予約しており、9ズロチ + 座席選択 5ズロチ(2階の 一番先頭座席、通路側を予約!!) + カード手数料 1ズロチ で、合計 15ズロチ。


クラクフ・バスターミナル へは、バス発車 10分前の 15:50にギリギリで滑り込んだ。
しかし、バス発着情報が表示された電光掲示板に筆者の乗車予定のバスがなく、売店のおばさんに地上 2Fへ行くように助言される。すぐ目の前のエレベーターで上へ上がって、Information の女性に再質問し、 17番ゲートに行くように指示されて、なんとかバス乗り場にたどり着けた。ちょうど乗客が並んで乗車しつつ、自分たちの荷物をトランクルームに詰め込んでいる最中だった(下写真左)。
運転手に「ブルノ??」と聞くと、トランクルームに荷物を積むように言われる。電光掲示板にはブルノの文字は無く、最終目的地のみ掲示されているので、初めての客は 100%、乗車ホームを発見できないと思う。。。

16:03、予定通り、長距離バスが出発する。
ポーランド国内の高速道路はきちんと舗装されており、ほとんど揺れなかった。
しかし、驚いたことに、道路交差点や一般道への連絡口、民家が付近にあるところは街路灯があるのだが、森林地帯にはまったく街路灯がなく、真っ暗な道をひたすらぶっ飛ばすだけとなっていた。森林地帯なので、もちろん周囲も真っ暗で、こんな中を時速 100キロも出して運転しており、よく怖くないものだと感心した。2Fの先頭座席に座っていた筆者は、真っ暗闇の中を行き過ぎる自動車の赤いランプだけを目で追うという、異様な映画館スクリーンを見せられている印象だった。
前方に急な事故があったり、「あおり運転で路駐」とかしていると、運転手らは 100% 視認できないに違いない。一度、事故が発生したら、連鎖事故へと発展しかねない危険な殺人道路の印象を受けた。しかし、自動車の数自体が少ないので、事故がなければ、スイスイと飛ばしていける。

ブルノ ブルノ

途中、バスは高速道路のパーキングエリアに停車し、運転手が「18:10~18:30 まで休憩」と言い出す。皆、買い物したり、食事を購入したり、トイレや喫煙などで一息ついていた。
もう一台、同じように停車している高速バスがあり、プラハ 行と表示されていた(上写真右)。ブルノも併記されており、途中にブルノに寄ってから移動するのだろうか?最終目的地プラハ着は 22:00過ぎとなる、かなりの長距離バス路線だった(経由地に Katowice と掲示されており、どうやら、ポーランド南部の町 カトヴィツェにも立ち寄っていたらしい。。。)。筆者の乗車中のバスも、ブルノ経由で別の都市が最終目的地だったし。
バスが移動を再開し、しばらく経った 18:55ごろ、携帯電話のローミングがチェコ会社に切り替わる。真っ暗闇の高速道路上で国境を越えたようだ。

なんとかブルノ鉄道駅南側の バスターミナル(Brno Ustrední Autobusové Nádrazí)に到着する(20:35)。途中、高速道路での休憩もスケジュールとして組み込まれていたらしく、見事に予定通りの到着時刻だった。バスの座席横に座っていた青年に「ここはブルノ??」と問うと、そうだと言う。で、下車して自分でトランクルームから荷物を降ろす。

自分の手荷物を整理中の近くのおばさんに、「ここはブルノ??」と聞くと、「そう」と改めて回答してくれる。「鉄道駅はどっちですか?」と問うと、自分も鉄道駅に向かうのでついて来なさいと言ってくれた。で、歩道橋のような立橋を登り、ショッピングモール内(ブルノ鉄道駅のすぐ北に隣接。スーパーやマクドナルドなどが入居する)を突き抜けるのかと思いきや、降りしきる雪道をモール外の自動車道路沿いに鉄道駅を目指す。欧米の人は歩くのが速く、筆者も遅れじとついていく。バス下車したばかりの軽装備だった筆者は、寒さがひどく身にしみた(手袋もしてなかった)。
我慢して雪が降りしきる外を歩いていると、10分弱で鉄道駅とショッピングセンターとの間の道路まで到着する。ここでおばさんと別れを告げ、筆者は鉄道駅の地下道を通って、反対側へ出ることにした。

これまでのポーランドやドイツの中央駅に比べると、なんとも 30年前の共産主義時代の風情が漂う、寂しい印象の地下道だった。イメージとしては、映画に出てくる「ニューヨークの危ない夜の地下鉄駅」みたいな雰囲気だった。駅の北側へ出る必要があり、ひたすら北上していると、その地下道も行き止まりとなり、駅の反対側まで来たかな、と思わしきポイントから階段で外に出ると、まだまだ濃い雪がしんしんと降り続けていた。

ちょうど正面に路面電車と Hotel Grand が見えたので、とりあえず軽装備を何とかしようと、Hotel Grand のロビーに駆け込む。ここで手袋など防寒対策を施し、再び、外へ出た。スーパーの店員や、歩行者らに住所を確認しながら、しばらく道に迷ったあげく、ようやく ホステル(Hostel John Galt)の建物入口に到着する。入り口のベルを二回鳴らし、エレベーターで 3Fへ上がる。
ホステル・ジョン・ガルトのフロントは、22:00までオープンなので、 21:30前という、ギリギリでのチェックインだった。
ダブルベットルームを一人で占有しつつ、バス・トイレは共同スタイルだった。ここに 2泊する。ホテル予約サイトでは 66 EURの料金表示だったが、 100 EUR札を出すと「釣銭がない」ので、34 EUR分のお釣りを チェコ・コルナ現金で返してくれた(約 750コルナ。当時のレートは、 1コルナ = 5.3円)。この釣り銭を使って、最寄りのケバブ料理屋で遅い夜食を食べる(ライス 35 + ケバブ 85 + ケバブ 75 + 水 20 = 215 コルナ)。
なお、日本円から チェコ・コルナへの両替は手数料がかなり高いので、ユーロ現金を先に用意しておき、少しずつコルナ現金へ両替するのがベストだろう。基本は各所でクレジットカード支払いが可能なので、為替手数料などの面からも、カード利用がオススメ。

鉄道やバスなどの交通費にせよ、食費にせよ(500円ぐらいで、中華定食ぐらいは普通に食べられる)、チェコは他の欧州圏と比べても安かった。しかし、ブルノ市内のホテルだけは高かった。世界でも屈指の歴史と規模を誇る国際見本市が開催されるシーズンには、どこのホテルも満室となるらしく、これを見越したビジネスホテル以上の選択肢は豊富なようだったが、筆者の好むバックパッカー形式の宿に関しては、数自体が少ないために価格競争が無いようだった。




翌日朝 9:30 ごろにホステルを出発する。
ホステルの建物すぐ横に、ブルノに唯一残るという、古城時代の 城門「メニンの門」跡を発見した(下写真の左端)。現在、内部は「おもちゃ博物館」になっているらしい。

ブルノ

そもそも「メニンの門(Měnín Gate)」の「メニン」とは地区名を指し、 13世紀に初期ブルノを構成した 4地区の一名称という(1293年、初めて史書で言及されている)。当時、城塞都市ブルノには 5つの城門が装備され(下模型)、それぞれ 走者の門、幸福の門、ブルノ門、ユダヤの門(当時、ユダヤ人のみ通行が認められていた)、メニンの門(下写真の白〇)と命名されていた。

ブルノ

1348年の記述では、まだまだ小さな城門に過ぎず、東方面へ通じる街道につながっていたという。今日のような 3~4階建ての楼閣式城門になったのは、1500年ごろと推定されている(上模型の白〇)。当時、東面は重要な交易ルート上に立地したことから、城門が 2箇所設けられていたため、都市の弱点ともなっていた。そのため、ブルノ攻防戦では毎回、真っ先に攻撃目標に定められることとなり、特に入念に防衛力強化が施されたポイントでもあった(戦時には、城門上の楼閣は武器や弾薬庫として機能した)。17世紀中葉になるとバロック様式で城塞化が図られ、市城壁や城門前に複数の稜塁が増設されると、城門としての第一機能が失われることとなる。1839年、城門建物が縮小&改装され、民家へ転用される。 その 10年後には城門の空間も封鎖され、もはや城門跡の痕跡が失われていたという。

それから間もなく、オモロウツ・チーズをブルノへ独占販売していた地元の 女性経営者(ナブラチロワ女史)が建物全体を購入すると、 独特な匂いを発する オモロウツ・チーズを、この城門地下に貯蔵し熟成させたという。彼女は売上利益を使って建物全体の修復も手掛け、以後、子孫たち 4世代が数十年にわたって、建物を改修しながら住み続けている。第二次大戦末期の 1945年、この城門建物も連合軍の砲火によって大きく損壊する。
1960年代後半にはブルノ市の所有物となるも、再び、個人オーナーに売却される。しかし、この個人オーナーは建物の修復を一切行わず、市に返却するまで荒廃するがままに放置したのだった。市が再び買い戻すと、1978~1982年に大規模な改修工事が施され、そのまま建物管理がブルノ市博物館に委ねられる。最終的に 2010年、「おもちゃ博物館」として一般公開されたのだった(下写真左)。

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続いて路面電車が走る「ロオセヴェルトヴァ通り」に出ると、正面に(駅北)バスターミナルが見えた(昨日の巨大な駅南バスターミナルとは別のポイントで、ここからプラハ行の長距離バスが発車していた)。ちょうど、昨夜に雪宿りした Hotel Grand の真正面に位置していた(上写真右)。あとでネット検索してみると、ポーランド・クラクフ からこのバス発着所(Brno Hotel Grand)に到着する高速バスもあった。。。ブルノ入りに際しては、どちらのバスターミナル表示になっているか、事前確認がポイントとなるだろう。

その斜め後方に鉄道駅が見えた。昨夜は雪で全く周囲が見渡せなかったが、こんなに近い距離だったとは、と驚嘆してしまった(下写真)。

ブルノ

Hotel Grand 前のバスターミナルにあった、FLiX バスのチケットカウンターで、翌々日のための プラハ 行チケットを先に買っておくことにした。
11:00発 79コルナ、11:40発 234コルナ、12:00発 79コルナ、12:40発 234コルナ、という、異様な値段差だったので、12:00のチケットを購入する。高額なチケットは寝台バスなのか、座席数が少ない高級バス形式なのだろうか??

そのままブルノの旧市街地を巡ることにした。昨夜、思いっきり降った雪が積もりきった中での散策となった。

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鉄道駅正面のやや登り坂になった、マサリコヴァ通り(上写真の右端へ延びる。路面電車も通行している)が旧市街地の中心部を貫通するメインストリートで、当地の繁華街となっている。レートの良い両替ショップも、ここに集積している。
筆者が散策した時間帯が日曜日午前だったこともあり、街中は未だ目覚め切っていない様子だった。路上は、ぽつりぽつりと通行人が歩く程度だった。

筆者は、そのメインストリートの西側の斜面沿いに、城壁らしい壁面が見えていたので、西廻りで旧市街地を巡ってみることにする(上写真中央の坂道)。

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この「バシュティ通り」の坂道を登り切ると(上写真)、やはりかつての城壁片が残されていた。公園化のため完全に加工されていたが、城郭都市時代、崖山上に築城されていた様子が実感できる場所だった。

下写真は、この崖山上からブルノ鉄道駅周辺を眺めたもの。

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ちょうど、絶壁の丘上に 聖ペトロ&パウロ大聖堂(Katedrala sv. Petra a Pavla)が立地し、その外壁と融合する形で城壁面が残されていた(下写真)。複雑に何層にも城壁が積み重ねられている様子は、圧巻とまでは言い難いが、往時を妄想するに非常に有意義な光景だった。

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城壁面は、公園「デニス庭園(Denisovy sady、Denis Gardens)」の北端まで続いており、ここからシュピルベルク城塞の全景が一望できた(下写真の左中央)。あの麓まで城壁が延々と続いていたかと思うと、身震いする長大さである。

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なお、デニス庭園を西廻りで 散策中(下写真左)、対ナポレオン戦争祝勝紀念モニュメントの石柱を発見する(下写真右)。一本の石を削って作られたオベリスクで、1818年10月4日の公園開園時に設置されたという。

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このデニス庭園(Denisovy sady)は、城郭都市ブルノの市城壁跡地と、その外郭を守った稜塁を改修する形で整備された公園で、ペトロフ丘の斜面上に立地する。
当初、市長 カウント・ラジャンスキー(Count Lažanský)が、市城壁下の丘斜面で小さな公園整備に着手するも(1805~1813年)、ナポレオン軍のブルノ占領を受けて工事が中止されてしまう。ナポレオン軍の撤退後、公園化事業はモラヴィア王 アントニーン・ベドルジハ Antonín Bedřich が主導する形で、都市ブルノ議会と協力して完遂されることとなった(1814~1818年)。このとき整備された庭園は、チェコ初、モラヴィア地方初の公立公園として歴史に刻まれることとなる。

公園整備が完了した 1818年10月4日、ここで 対ナポレオン戦争(1815年11月20日、第二次パリ条約締結で決着)の祝勝セレモニーを兼ねた開園祝賀会が催され、同時に 戦勝記念碑(モニュメント)や 噴水が設けられる。当時、オーストリア帝国を勝利に導いた 皇帝フランツ 2世(1768~1835年。神聖ローマ帝国最後の皇帝)にちなみ、「フランチェスコビ公園(Park Františkov)」と命名されることとなった。

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その 100年後、第一次大戦の敗戦により、オーストリア=ハンガリー帝国が解体され、チェコスロヴァキア共和国が建国されると(1918年)、翌 1919年にデニス庭園(Denisovy sady)へ改名される。これは、フランスの歴史家 アーネスト・デニス(1849~1921年)に由来するもので、チェコスロヴァキア共和国の建国に貢献した人物として顕彰したものであった。もともとドイツとボヘミア史に関する専門家で、戦勝国フランスを中心とした戦後処理審議の渦中、スラブ系民族史の権威として、その民族国家樹立を強く主張したことから、チェコスロヴァキア政府により建国の恩人と称えられ、彼の死後、同国政府により パリ にあった彼の自宅建物が購入され、スラブ研究所が開設されることとなる。

さて、デニス庭園のその後であるが、1961年と 2000年にさらに大規模な改修工事が施され、今日に見られる小道と展望台を有したスタイルに完成される。毎夏恒例のブルノ花火大会に際しても、最初の花火がこの公園から発火されるという。




下模型は、15世紀当時の城郭都市ブルノの全景図。小高い丘上に市城壁が建造され、その外周にも城壁を配された、二重構造だったことが読み取れる。

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デニス庭園を抜け、いよいよ旧市街地に入ってみる。
この丘上の教会を一度、見ておこうと、ビスクプスカー通りの坂を上ってみた。ちょうど日曜朝だったこともあり、礼拝のため多くの人が出入りしていた(下写真左)。

下写真右は、ビスクプスカー通りの坂下の Silingrovo 広場 にあった、市内唯一の 5つ星ホテル「バルセロ・ブルノ・パレス」。
オーストリア・ウィーン出身の建築家 フランツ・フレーリッヒ(1823~1889年)が設計した ネオ・ルネッサンス様式の洋館で(1854~1855年に建設)、元々はブルノ市政府の事務所の一部が入居する建物であったが、後に管理が行き届かず荒廃してしまう。その廃屋をスペインのホテル会社 コムサ社が 3,200万コルナで購入し(2009年夏)、4つ星ホテルとして開業するも、 2011年12月に同国の ホテルチェーン・バルセログループ(17か国にチェーン展開し、チェコ国内ではプラハ以外で初の出店となった)に売却する。しかし、両社の交渉はまとまらず、スペイン、ブルノでの法廷闘争を経た後、バルセログループが渋々、最終合意に応じた経緯を持つ、いわくつきの物件でもあるそうだ。

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このペトロフ丘上にある、カトリック系の 聖ペトロ&パウロ大聖堂(Katedrala sv. Petra a Pavla)であるが、 11世紀末に創建された当時はロマネスク様式であった。14世紀にゴシック様式へ、1904~1905年にネオゴシック様式へ改装され、高さ 84 mの尖塔が 2つ増築されて(建築家アウグストキルシュタインが設計)、現在の姿に完成されている(内部のデザインはバロック様式)。
この尖塔は上まで登ることが可能で、市街地を一望できる絶景スポットとして人気という(有料)。

なお、この大聖堂は通常の教会と異なり、正午 12時ではなく午前 11時に正午の鐘を鳴らすことでも有名で、これは 30年戦争(1618年~1648年)時にボヘミア、モラヴィア地方に侵攻したスウェーデン軍が城郭都市ブルノを包囲し、 4ヶ月間もの間、攻撃を加えるも落とせずにいた際、最終的に 8月15日正午までに都市の占領が完遂できなければ撤退する、という内容が、スウェーデン軍首脳部で議決される。これを聞き及んだ宿屋の亭主が、聖ペトロ教会の鐘の番人へ使いを送り、この作戦内容を漏らしたのだった。この日もスウェーデン軍の猛攻が繰り返される中、落城間近を見てとった鐘の番人が、戦闘の大混乱の最中の 11時に先に鐘を鳴らしてしまい、そのままスウェーデン軍の攻撃を停止させた、という逸話に由来するという。事実はどうあれ、以降、ブルノはこの 30年戦争の期間中、スウェーデン軍を撃退した唯一の城塞都市として、歴史にその名を刻むこととなった。




再び、ビスクプスカー通りを下り、フソヴァ通りに至る。ここは、先程の祝勝紀念モニュメントと(下写真左)、コメンスキー教会(下写真右)を一直線で結ぶ南北道路であった。かつて西面城壁が連なっていた跡地である。

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このまま北のコメンスキー教会前まで直進していると、城塞公園の下に何やら厳重に封鎖された巨大岩の入り口があった。かつての防空壕を改造したものだろうか??また道路向かいには、国立モラヴィア・ギャラリー別館建物が 2つあった。ここも歴史的建造物と解説板が掲示されていた。

コメンスキー教会前には、地元裁判所や大学などの巨大洋館がいくつも立地していた。ここから東側の路地に旧市街地へ入り込んでみると、歩行者天国マサリコヴァ通りへと繋がっており、そのまま旧市街地の 中心地(自由広場)に行きついた。下写真

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この石畳の自由広場の周囲に立つ洋館群は、一等地ということもあり、もともとモラヴィア貴族や富豪の邸宅であったものである(上写真)。そして、中央に建つ金色の派手な銅像は、ペスト終焉記念柱。欧州各地の都市に建立されたもので、ペスト(黒死病)の終息と宗教戦争終結による未来への希望を祈願したモニュメントの一つである。なお、これと同じペスト終焉紀念柱として聖三位一体柱があるが、ブルノでは後述する「青果市場」に別に建立されている。

また、広場の別の場所には、天文時計も設置されていた(下写真左の中央にある、巨大な黒色のピストル弾丸みたいなもの)。先の聖ペテロ&パウロ大聖堂から午前 11時に鐘が鳴り響くと、この天文時計からガラス玉が落とされる機械仕掛けとなっており、それを拾った人に幸運が訪れるということで、多くの人々が毎日午前 11時に集うという。

さらに、下写真左の中央奥に見える教会は、13世紀に創建された聖ヤコブ教会。 16世紀にゴシック様式に建て替えられて、今日に至るという。高さ 92 mの尖塔がシンボルとなっている。さらに先に、後に訪問することになる、聖トマーシュ教会と 国立モラヴィアン・ギャラリー(Moravian Gallery in Governor's Palace)が立地する。

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マサリコヴァ通りをトラム線路沿いに鉄道駅へ 南進中(上写真右)、やや上り坂となっている箇所がある。ちょうどその最頂点に、聖マリア・マグダレーナ教会が立地していた(下段の写真左)。東西に長い建物で、まさに一等地の 1ブロックすべてを、教会と修道院の建物で占有していた。


かつてユダヤ人の民家があった場所に、ユダヤ教会シナゴーグが創建されていたが、1454年に廃止されると 聖マリア・マグダレーナ教会(St. Mary Magdalene Church)へ転用される。
30年戦争中、スウェーデン軍(新教徒派)の攻撃を退けたブルノでは、カトリック派フランシスコ修道会も市民に協力したことから、その代償として、この聖 マリア・マグダレーナ教会と近隣する 4軒の民家を寄贈されることとなる。直後より、新教会の建設に着手し、 1673年4月16日に完成を見る。
また、民家を改修した 修道院建物(現在、診療所と薬局が入居中)には、 1656年当時、55名のフランシスコ修道会の見習い実習生らが生活していたことが分かっている。
オーストリア帝国皇帝 ヨーゼフ 2世(1741~1790年。女帝 マリア・テレジアの長男)の治世下、大規模に貴族層改革、宗教体制の改革が断行され、他都市の修道会同様に、当地のフランシスコ修道会も廃止に追い込まれる(1787年)。以後、教会建物は地区教会となり、修道院建物は軍隊のための倉庫へ転用される。 1912年に修道院が復活されるも、1951年~1990年代初期までの共産党時代、再び、廃止される。民主化後に復活された後、2011年にカトリック教会の地区教会に指定され、今日に至る。
今に見る外観は、1852年の大火後に再建されたもので、ネオ・ロマネスク様式となっている。

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この教会の西隣に、「青果市場」という古くからの庶民広場がある。その名の通り、地元で産出された農作物などを露天市スタイルで売買するエリアであった(上写真。筆者訪問時は冬だったので、駐車場に代わり果てていた。。)。広場内には、ペスト終焉を紀念した聖三位一体柱が建立されている(上写真の赤色洋館の前に見える)。先程の自由広場にもあった紀念柱と同種のもので、当地には二本が同時並列されていたわけである。なお、世界遺産に指定されている、オモロウイツの 聖三位一体柱(ペスト終焉紀念柱)ほどには、巨大さや華美さはない。また、16世紀に建てられた「旧市庁舎」も広場に面して立地しており、内部見学も自由という(1Fに観光案内所が入居中)。

さらに、広場の一角にはバロック様式の 宮殿建物(1817年建設。上写真中央の巨大洋館)を利用した、チェコ国内で第二位の規模を誇る「モラヴィア博物館」も立地する。中世の大モラヴィア王国時代に関するものなど、数百万点を超える展示品を有する。
なお、この「青果市場」の地下には、昔に作られた「地下迷路」が残されており、ツアー参加スタイルで見学できるという。



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このままトラム線路沿いにメインストリートを南下すると、先程のブルノ鉄道駅前に到達する。駅正面の交差点に KFC店が立地する、駅前ナードラジュニー通りには、レストランや各種店舗が入るショッピングモールがあり、その地下にはスーパーが入居していた。ほぼバス、鉄道旅行者対象のバラ売り形式で、ヨーグルトなどはまとめ買いも単体買いも同じ値段設定だった(76コルナ)。

そのモール横に、筆者が当地滞在中に愛用した、アジア料理屋 Bistro SUSHI があった(上写真右)。ここはベトナム系華僑移民が営む、立ち食い料理屋で、いわゆる「寿司」はやっていない。筆者は栄養満点の野菜炒め定食をよく食べた(85コルナ)。テイクアウトだと +5 コルナかかるという。味、ボリュームともに文句なしだった。店長らしき男性が、香港人俳優 ジェット・リーが 10歳ぐらい年取った感じの雰囲気だったのが印象に残った。

再び、聖マリア・マグダレーナ教会まで戻り、裏通りのヨセフスカー通りを直進していると、正面に聖ヨハネ教会が現れる(下写真左)。

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チェコに、マイノライト修道会(カトリック派の一派)が最初に導入されたのは、 1230年と考えられており、ブルノでの修道院開設もほぼ同時期であったと目されている。しかし、その創立に関しては所説あり、南モラヴィア州の町ボスコヴィツェ出身の Jan Velen Černohorský が主導した、という説が有力視されている。
ブルノにおける最初の 聖ヨハネ教会(洗礼者ヨハネ教会、The Church of St. John)建立は、 1257年の オモロウツ 司教 Bruno von Schauenburg(1205–1281年)によるものであったが、 1262年の町の大火で、すべてが消失されてしまったという。その後、国王ヴァーツラフ 2世の多額の寄付により、修道院が大規模に再建され(1285年)、 1304年には修道会の地区参事会が開催される中心拠点となる。
しかし、再び大火に遭って焼失してしまうと、14世紀中葉にブルノ市議会によって再建工事が進められる。フツ戦争の期間中、ボヘミア地方から避難してきた多くのマイノライト修道会員らとともに、ブルノの修道会員らも郊外へ避難し、戦火を免れている。戦後になって、数が減少した修道会員らを補うため、イタリアから追加の修道会員らの派遣を受けた。
30年戦争初期の 1619~1620年、ブルノ市内にはこの聖ヨハネ修道院とドミニコ会修道院のみが、カトリック系の修道会として残留していたという。その他の教会はすべてが新教徒派に改宗される。しかし、1639年にマイノライト修道会員らも聖ヨハネ修道院から退去すると、6年後にスウェーデン軍が襲来してブルノ攻防戦が繰り広げられるのだった。この時代、教会建物は誰も手入れすることなく荒廃が進んだという。戦後の 1660年代に教会建物が修築されるも、1678年にはゴシック様式の尖塔が縮小される。その後も修道会の維持は困難を極め、修道院の敷地の大部分がブルノ市や市民らに売却されていったという。

1715~1716年、教会建物の一回目の大改築が施される。さらに 1733年には建築家 モリッチ・グリム(1669~1757年。ドイツ出身で、終生、ブルノに住んだ建築家)によって二回目の大改装工事が手掛けられ、それまでのゴシック様式からバロック様式へ全面的に生まれ変わる。そのまま 18世紀中葉、聖ヨハネ教会とマイノライト修道会は全盛期を迎えることとなった。 修道会はオーストリア皇帝ヨーゼフ 2世の政治改革下でも追放を免れるも、1784年、修道会建物は地区教会へ改編される。
さらに時は下って、ナチス統治時代にもマイノライト修道院は継続して存続するも、戦争末期の空襲によって建物は大きく損壊する。 1950年に共産党政権が成立すると、修道会の建物は地区教会として接収され、また付属の図書館はブルノ大学が管理することとされた。その他の施設は、国立 モラヴィアン・ギャラリー(アート美術館)の従業員寮や事務所施設として転用され、民主化後、再び修道会が接収して今日に至るという。

なお、当教会に埋葬されている有名人の一人に、温泉学の権威で、 ブルノで梅毒蔓延の予防に尽力した トマーシュ・ヨルダン(Thomas Jordan。1540~1585年)がいる。しかし、この教会が一時的に新教徒派に帰属した時代に埋葬されており、再びカトリック化したタイミングで、新教徒派の位牌はすべて撤去されてしまう。この中に、ジョーダンの位牌も含まれていたと考えられている。彼は ドイツ、フランス、イタリアなどの諸大学を巡った後、1569年からブルノに住み、地元政府お抱えの物理学者として勤務していた、という。




そのまま聖ヨハネ教会脇のヤーンスカー通りを東進し(上写真右)、トラムが走るロオセヴェルトヴァ通りに至る。ちょうど マヘン劇場(Mahen Theatre)の真正面に出た。

この全面、石畳の道路を北上していると(下写真左。かつての北面の城壁跡に相当)、ブルノ高等裁判所、国立劇場などの巨大洋館がぜいたくな空間を活かして転々と配置されていた。
正面の大通り モラヴスケー・ナーム通りとの交差点に、国立 モラヴィアン・ギャラリー(Moravian Gallery in Governor's Palace)の建物があった。このチェコ国内で第 2位の規模を誇るアート美術館は、入館無料だった(毎週水曜~日曜日 10:00~18:00 開館。月曜&火曜休館)。聖トマーシュ教会が隣接して立地する(下写真右)。

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現在、国立 モラヴィアン・ギャラリー、および聖トマーシュ教会が立地する場所に、最初に建てられた建造物は、聖アウグスチノ修道会 の教会と修道院であった(1352年)。 1346年にブルノに参入して以来、ようやくモラヴィア辺境伯 ジョーン・へンリーによって、モラヴィビア広場に修道院の建設が許可されたという経緯であった。
下模型は、15世紀当時の様子が再現されており、城郭都市ブルノの最北端に位置し、出丸の役割も担っていたことが伺える。18世紀半ば、建築家 モリッチ・グリム(1669~1757年)によって、修道院はバロック様式の洋館へ全面改装される。

1780年代、オーストリア帝国皇帝ヨーゼフ 2世(1741~1790年。女帝マリア・テレジアの長男)の政治改革により、修道会が追放されると(直後に、後述するメンデル博物館の場所へ引っ越すこととなった)、皇帝はこの修道院の好立地を気に入ったため、教会建物は普通の地区教会施設へ転用させる一方、修道院建物はブルノ市政府のメイン事務所棟に転用されると同時に、行政官らの住居スペースに供されることとなった(15世紀当時の下模型からも明らか通り、都市側とは一線を画するロケーションにあった)。
第一次大戦の敗戦により、オーストリア=ハンガリー帝国が解体され、チェコ=スロヴァキア共和国が建国されると、完全に事務所棟のみとなる。行政官の居住空間は廃止されるも、以後も「行政官の 邸宅(Governor's Palace)」という名称だけが継承され、今日に至ることとなった。

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現在、国立 モラヴィアン・ギャラリーの内部は、12世紀のゴシック時代から 19世紀のモダン・アートに関する美術館となっており、また 150席を有するバロック様式の公会堂ホールも内設されている。




ちょうどその教会前に、古城時代の模型があった(上写真)。この三次元の立体的な模型は、地形の起伏などがリアルに再現されており、非常に見応えがあった。現在の市街地でも十分に体感できる地形も散見され、往時の生活を妄想する上で非常によい材料となる。

さらに聖トマーシュ教会前を通過するトラム沿いに、ヨシュトヴァ通り を前進していると、チェコ憲法裁判所(国家機関から独立し、政府諸策や議員資格、大統領弾劾などを審議する特別機関)があった(下写真の右洋館)。入口に EUの旗が掲示されていた。

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上写真のトラム後方の建物は、マサリク大学の 学生会館(かつては、ドイツ工科大学だった)。この正面に、トマーシュ・マサリク(1850~1937年。チェコ=スロヴァキア共和国初代大統領)の銅像が立つ(下写真左の左端に見える、黒い立像)。また、学生会館の後方にそびえ立つのが、本日の 最終目的地「シュピルベルク城塞」である。

憲法裁判所隣にあるコメンスキー教会(下写真左。赤レンガ作りから、地元では「レッドチャーチ」が通称)前のフンヴァ通りに至ると、そのまま南進する。先程の国立 モラヴィア・ギャラリー別館建物が 2つ続いた後、シュピルベルク城塞の丘に登る登山口に戻ってきた。

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午後 近くになると晴れ渡ってくる。
まだまだ残雪が一面に残る緩い坂道をジグザグに上っていくと、東面の城壁面にたどり着く。要塞には入口が 2箇所あり、市街地側は閉鎖されているので(上写真右)、城塞 裏手の入り口へ向かう。

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なお、この城塞公園の頂上まで至ると、午前中に散策した 聖ペトロ&パウロ大聖堂があるペトロフ丘が遠望できた(上写真)。その第一印象は、雲海に浮かぶ天空の城ラピュタそのものだった。かつては、これら全体を市城壁が延々と取り囲んでいたわけである。

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城塞を守る城壁の高さ 5~8mほどだった。特に城塞 裏手側(西面)の城壁面が、堅牢であった(上写真)。下写真右は、途中にあった倉庫。

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また、丘下に目を向けると(城塞の西面)、眼下に長大な壁で囲まれている巨大教会がやたらと目立っていた(下写真の中央)。後で分かったことが、ここがカトリック系の 聖母マリア被昇天大聖堂(Basilica of the Assumption of the Virgin Mary)と聖トーマス修道院であり、その一部にメンデル博物館が開館されていたらしい。かの有名な「メンデルの(遺伝)法則」が生み出された場所である。

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聖トマーシュ修道院(St Thomas's Abbey)は、聖アウグスティノ修道会が統括する施設で、「遺伝学の父」として世界的に有名な グレゴール・ヨハン・メンデル(1822~1884年)が司祭を務めた場所である。1853~1868年の滞在期間中、メンデルは修道院の庭で忍耐強く、かつ勤勉にエンドウマメの交配実験を繰り返し、1866年、後世に「メンデルの法則(優劣の法則、分離の法則、独立の法則など)」と称される論文を発表するのだった。多くの人々の推薦を受け、1868年に修道院長に就任すると、日々の仕事に忙殺され 1870年頃には植物学の研究をやめてしまう。彼の論文が注目されるようになるのは、1900年に別の 3人の学者によって遺伝法則が再発見された際で、初めて脚光を浴びることとなるのだった。

なお、この論文発表前年の 1865年、少年 レオシュ・ヤナーチェク(1854~1928年)が同じ修道院の付属学校に入学している。後に、スラヴ民族文化とモラヴィア地方民謡を応用し、数多くの管弦楽曲やピアノ曲作品を世に送り出す、世界的音楽家となる人物である。

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ところで、この聖母マリア被昇天大聖堂および聖トマーシュ修道院を統轄する聖アウグスティノ修道会であるが、もともとは先に見た、国立 モラヴィアン・ギャラリーの場所が本部であった。しかし、 1780年代、オーストリア帝国皇帝ヨーゼフ 2世の政治改革により、追放された修道士らは郊外へ移住し、廃墟となっていたシトー修道会の施設を占拠して(上模型の右下)、なんとか存続することとなる。その場所こそが、まさに当地なのであった。
その後、聖アウグスティノ修道会は聖トマーシュ教会に復帰するも、元修道院の建物であった洋館を取り戻すことがかなわず、現在の国立モラヴィアン・ギャラリーへと継承されるわけである。

さて、当地に拠点を構え直した聖アウグスティノ修道会であったが、その司祭の一人に グレゴール・ヨハン・メンデルを輩出し、大いにその存在感を世界に示すこととなった。現在、修道院建物の一角にメンデル博物館が開館されているが、 2002年よりマサリク大学の一部門となり、2007年より一般公開に至っている。まさに、この場所にメンデルが住み、歴史的大挙を成し遂げたわけである。なお、メンデルはエンドウマメの交配実験以外にも、気象学やハチの繁殖に関する研究も行っており、これらを緻密に記録したノート類が保管、展示されている。




下写真は、シュピルベルク城塞の入り口。無料で入れる。下写真左は城門の外面、下写真右は城門の内側。

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このすぐ内側にはさらに空堀が設けられ(下写真左)、外周城壁と 城塞建物(監獄スペースの展示が有名な、ブルノ市立博物館が入居する。入場にはチケット購入 120 コルナが必須。毎週月曜休館)を明確に区分けしていた。

城塞建物以外の空堀や中庭は無料で見て回れた。下写真右は、城塞の東面。ちょうど旧市街地から見える方である。ここからの、ブルノ旧市街地の眺めも素晴らかった。

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シュピルベルク城塞は、チェコ政府によって文化遺産に指定されており、ブルノでも屈指の観光名所となっている。ブルノ旧市街地の西端の丘上には、もともと集落を守るための物見台が設置されていたが、13世紀前半より プシェミスル家(ボヘミア王)の オタカル 1世(1155?~1230年)により大規模な城塞の建設工事が着手されると、次王の ヴァーツラフ 1世(1205~1253年)の治世時代も継続され、最終的に オタカル 2世(1233~1278年)の治世時代に完成を見る(1277年)。モラヴィア地方を支配する プシェミスル家(ボスニア王)一族の権力の象徴として、頑強な居城を建てるため膨大な国費が投入された王城であったが、14世紀半ばにモラヴィア地方貴族の居館として下賜される。
その後も、度重なる改修工事が加えられ、バロック様式の巨大な城塞へと変貌を遂げる。最終的に 17世紀、オーストリア=ハンガリー帝国によって監獄施設へ転用され、その悪名を全欧州に轟かすことになるのだった(本格的に監獄施設への転換工事が着手されるのは、1784年からであった)。ナチスドイツも利用した監獄機能が主にクローズアップされがちな史跡であるが、実際には一貫して軍事基地として機能しており、城郭都市ブルノの守護神として君臨し続けたのだった。監獄施設は城塞機能の一部のみだったわけである。

特に、その城塞として大活躍を見せたのが、30年戦争末期のスウェーデン軍によるブルノ包囲戦であった(1560年にブルノ市が王家から城塞を買い取っていた)。この時、多くのチェコ国内の都市がスウェーデン軍により陥落、占領される中、ブルノ防衛戦勝利に大いに役立ったという。スウェーデン軍の襲来前には丘全体が完璧に要塞化されていたが、戦後も都市ブルノの守護神として、さらなる強化工事が施され続けたという。

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なお、この 30年戦争初期の 1620年11月8日に勃発した白山の戦いに際し、カトリック派の強かったブルノはハプスブルク家側に属し、プラハ近郊で新教徒派のボヘミア軍が大敗すると、プロテスタント貴族や市民ら 27人がプラハの旧市街広場で公開処刑される一方、モラヴィア地方の反ハプスブルク勢力やプロテスタント派も逮捕され、このシュピルベルク城塞内の監獄に、何年もの間、収容されたのだった。この新教徒派の収監が、史書に登場する最初の監獄囚として記録されている。
また、オーストリア帝国ハプスブルク家の支配下、民族自決や独立運動を展開した 1848~49年の革命騒動に際し、その参加者らを他の 犯罪者、盗賊、軽犯罪者と共に当地に収監している。

ここに収容された個人にスポットを当てて見てみる。
まず最初に挙げられる有名人は、オーストリア継承戦争に際し、シュレージェンやベーメン地方で対プロイセン相手に大いに戦功を挙げた、民兵主体の 軽歩兵隊「トレンク・パンドゥール」を率いた隊長 フランツ・フォン・デア・トレンク(1711~1749年)であろう。 1745年のゾーアの戦いにおける軍旗違反などを問われて収監され、当地で 1749年10月4日に死去している。

また、フランス革命時、ルイ16世一家が パリ からウィーンへ逃亡中に、その存在が目撃された町 サント=ムヌーの郵便局長で、最終的に国王一家を逮捕する大手柄を挙げた ジャン=バティスト・ドルーエも当地に収監された記録が残る。
この時代、フランス革命の影響を受け、全欧州で反王制の機運が高まる中、中世の名残りが色濃く残るハンガリーでも革命運動が活発化し、ジャコバン主義の秘密結社が結成されるも失敗してしまい(1795年)、その主要メンバー 15名が当地に収監されている。

この前後に城塞は大規模に拡張され、北側に監獄区域がさらに増築されると、1822年より、イタリア愛国主義運動家の 秘密結社「カルボナリ 」メンバーらが大量に収監される。この中に、詩人 シルヴィオ・ペリコも含まれており、8年の収監時代について記述した『我が牢獄』が後世に出版されると、全欧州にこの監獄の存在や恐怖が知られることとなるのだった。こうした革命家や知識人らはもともとの出身が貴族や富裕市民層で、その政治的、文化的な影響力が強かった人物らであった。
これを題材に、スタンダールの 小説『パルムの僧院(1839年出版)』で登場する 監獄「ファルネーゼの塔」が描写された、とも指摘される。

最後に収監された、大規模な国家的政治犯集団は、ポーランド独立のための革命活動家ら約 200人であった。このほとんどは、1846年2月の クラクフ 蜂起に参加したメンバーらであった。
その後、オーストリア帝国皇帝の フランツ・ヨーゼフの決定により、このシュピルベルク城内の監獄施設は閉鎖され(1855年)、 3年かけて囚人らを別へ移送させた後、軍事基地化の大工事が手掛けられることとなる。
シュピルベルク城塞が苦難と抑圧の象徴「国家の刑務所」として、再び人々の記憶に蘇らせたのが、第一次大戦であった。この時代、オーストリア=ハンガリー帝国体制に反対する市民から、各種戦争犯罪人らがまとめて収監されている。
また、第二次大戦直前に ナチス・ドイツがチェコスロヴァキアを軍事占領すると、チェコ人愛国主義者ら数千人がこの監獄に収監され、うちの何人かはそのまま処刑されている。ほとんどの者は、ドイツ国内やナチス強制施設に送られるまで短期間の収監場所となった。

1939~41年、ドイツ軍と ゲシュタポ(秘密国家警察)はこの城塞の大規模改修工事を手掛け、軍事施設として機能を拡充させる。ドイツ第三帝国の愛国主義思想に則った、彼ら好みの城塞基地にデザインされたという。戦後~1959年にはチェコスロヴァキア国軍の基地へ転用されるも、 1960年、敷地全体がブルノ市博物館の管轄下に組み込まれ、今日に至るわけである。

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さて城塞見学後、空堀を一周し、再びゲートを出て、下山する。
そのまま午前中と同じルートで旧市街地の自由広場を経由し、駅方向へ向かった。もう午後の時間帯だと、たくさんの買い物客や観光客らがメインストリートを埋め尽くしていた。午前中とは打って変わっての晴天となっていた。

ホステルに戻る前に、駅前のアジア料理屋で軽食を食べ、さらにホステル近くのロオセヴェルトヴァ通り沿いの庶民的な ケバブ店「ROJ KEBAB」で翌朝の朝食を テイクアウト(95 コルナ)した。また最終日、都市間バスで プラハ へ出発する際も(12:00発、14:30にプラハ着)、車内でのランチ用に、このケバブ店でサンドイッチをテイクアウトさせてもらった。


ブルノ滞在中、ブルノ中央駅で チェコ・コルナ現金の両替をやってみた。
ブルノ駅周辺では、駅外にある売店を兼ねたトルコ系店主の雑貨店兼両替屋が、最も良いレートを提示していた。最悪なのは、ブルノ駅構内にある小さな円形型の両替店。ポーランド・ズロチ「5買 6.8売」というスプレッドの悪さだった。
このトルコ系店主の雑貨店兼両替屋で、110 ポーランドズロチ → 748 コルナに両替する。釣銭はなく、750 コルナを手渡してくれた。非常に良心的な店だった。
なお、旧市街地の メインストリート「マサリコヴァ通り」沿いにも、たくさんの両替ショップが軒を連ねている。




 難攻不落の 城塞都市「ブルノ」の 華々しい戦歴

12世紀末、モラヴィア辺境伯領の首府に定められると、ブルノの町を取り囲む市城壁の建造が着手される。1243年にはすでに完成されていたことが史書で確認されており、当時、城内面積は 36ヘクタールで、櫓や塔をそなえた重装備の城郭都市であったという。また、この時代、地理的な近接性や神聖ローマ帝国の属国となった経緯から、多くのドイツ人が当地に移住し、文化的なドイツ化が進むこととなる。
13世紀半ば、ボヘミア王ヴァーツラフ 1世によって都市特権を認められるとともに、ボヘミア王のための城館建造がスタートする。これが後のシュピルベルク城塞となる。
14世紀中葉~15世紀初頭にかけて、シュピルベルク城館がボヘミア王からモラヴィア辺境伯へ下賜され、その居城となる。

フス戦争時(1419〜1436年)、ブルノはカトリック派のボヘミア王ジギスムントを支持したため、フス派によって 1428年と 1430年に攻撃を受けるも、撃退に成功している。以降も、北部の オモロウツ と並び、モラヴィア地方の中心都市として君臨した(オモロウツがカトリック司教座の牙城で宗教上の中心都市であったのに対し、ブルノは政治上の中心都市であった)。
1486年以降の大工事により、現在の国立 モラヴィアン・ギャラリー、および聖トマーシュ教会の辺りまで城域が拡張される。さらに 1世紀かけて外周部分の強化工事が進められ、外堀や吊り橋などが整備されていった。
30年戦争後半の 1641年、南下する(新教徒派)スウェーデン軍に対抗すべく、神聖ローマ帝国皇帝兼モラヴィア王であったフェルディナント 3世は、オモロウツからブルノへ行政機能を全面的に移転させる。これは、スウェーデン軍が宗教都市オモロウツをカトリック司教座の中心地として狙いを定めたことから、政治機能をあらかじめ避難させる試みであった。 翌 1642年、オモロウツはスウェーデン軍の攻撃を受けて降伏に追い込まれると、以後 8年間もの間、軍事占領されることとなる(下地図)

続いて、スウェーデン軍(名将 レンナート・トルステンソン【1603~1651年】が指揮)はさらに南下してブルノを攻撃するも、Jean-Louis Raduit de Souches 将軍に率いられたブルノ側は徹底的に籠城戦を戦いぬく。こうして、スウェーデン軍を撃退したブルノは、モラヴィア地方で唯一、防衛戦を成功させた都市として全欧州に知れ渡ることとなった。

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1648年に 30年戦争が終結し、スウェーデン軍が撤退すると、ブルノはモラヴィア地方唯一の 首府(モラヴィア辺境伯の首都)として大発展を遂げるとともに、さらなる防衛機能の強化が図られる。この首府として定義は、後の 1782年に神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ 2世が、また 1849年にはモラヴィア憲法により明言されることとなった。
18世紀半ばのオーストリア継承戦争に乗じ、今度はプロイセン軍がブルノ征服を図ったが、これも撃退に成功する。 当時、この地方で炭坑が発見されたことから、工業化や資源地帯としても重要エリアと見なされつつある時期であった。

1805年11月、王都ウィーンを占領した フランス皇帝ナポレオンは、オーストリア帝国の主力部隊とロシア連合軍との決戦に備え、ウィーンから北上し、ブルノに入城する。翌 12月、このブルノ郊外で アウステルリッツの戦い(三帝会戦)が勃発し、ナポレオン軍が劇的勝利を収めることとなるのだった。このとき、都市ブルノ自体が戦場となることはなかったが、フランス軍を率いた皇帝ナポレオンは戦勝後、再びブルノに数日間、滞在している。また、ナポレオンは 1809年にもブルノに立ち寄っている。
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1839年にはブルノ鉄道駅が開設され、ウィーンと鉄道で結ばれると、チェコ初の鉄道敷設となる。この時代、ブルノでは繊維産業が勃興し、「オーストリアのマンチェスター」との異名をとるようになる。

都市の拡張と近代化のため、1859~1864年にかけて市城壁の撤去が徐々に進められ、環状道路の整備が着手される【現在でもわずかに市城壁の遺構は残存しており、冒頭で見たメニンの門以外に、フソヴァ通り沿いの デザイナー学校【Střední škola umění a designu】校舎裏に一部の石積みが見られるという)。この北と西の環状道路の交差ポイントに、このとき コメンスキー教会(赤レンガ作りから、地元では「レッドチャーチ」が通称)が建立されたのだった。建築家 Heinrich Ferstel の設計という。なお、この環状道路を設計したのは、Ludwig Förster で、ウィーンの環状道路を設計した建築家集団の一人でもあった。
1869年には、路面電車がブルノ市街地に開通し、これもまた、チェコ初のトラム運行となった。

現在も、ブルノはチェコ東部のモラヴィア地方最大で、同国第二の都市として君臨し、憲法裁判所、最高裁判所、最高検察庁などの重要機関が配置されている。中部ヨーロッパの中心に位置し、また繊維業を中心に早くから産業が勃興したことから、オーストリア帝国時代より毎年、国際見本市が開催されており、その伝統は今も健在で、毎年の国際見本市シーズンには市内のホテル価格の高騰は恒例行事という。

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