続いて路面電車が走る「ロオセヴェルトヴァ通り」に出ると、正面に(駅北)バスターミナルが見えた(昨日の巨大な駅南バスターミナルとは別のポイントで、ここからプラハ行の長距離バスが発車していた)。ちょうど、昨夜に雪宿りした
Hotel Grand の真正面に位置していた(上写真右)。あとでネット検索してみると、ポーランド・クラクフ
からこのバス発着所(Brno Hotel
Grand)に到着する高速バスもあった。。。ブルノ入りに際しては、どちらのバスターミナル表示になっているか、事前確認がポイントとなるだろう。
このペトロフ丘上にある、カトリック系の 聖ペトロ&パウロ大聖堂(Katedrala sv. Petra a
Pavla)であるが、
11世紀末に創建された当時はロマネスク様式であった。14世紀にゴシック様式へ、1904~1905年にネオゴシック様式へ改装され、高さ
84 mの尖塔が
2つ増築されて(建築家アウグストキルシュタインが設計)、現在の姿に完成されている(内部のデザインはバロック様式)。
この尖塔は上まで登ることが可能で、市街地を一望できる絶景スポットとして人気という(有料)。
チェコに、マイノライト修道会(カトリック派の一派)が最初に導入されたのは、
1230年と考えられており、ブルノでの修道院開設もほぼ同時期であったと目されている。しかし、その創立に関しては所説あり、南モラヴィア州の町ボスコヴィツェ出身の
Jan Velen Černohorský が主導した、という説が有力視されている。
ブルノにおける最初の 聖ヨハネ教会(洗礼者ヨハネ教会、The Church of St.
John)建立は、 1257年の オモロウツ 司教
Bruno von Schauenburg(1205–1281年)によるものであったが、
1262年の町の大火で、すべてが消失されてしまったという。その後、国王ヴァーツラフ
2世の多額の寄付により、修道院が大規模に再建され(1285年)、
1304年には修道会の地区参事会が開催される中心拠点となる。
しかし、再び大火に遭って焼失してしまうと、14世紀中葉にブルノ市議会によって再建工事が進められる。フツ戦争の期間中、ボヘミア地方から避難してきた多くのマイノライト修道会員らとともに、ブルノの修道会員らも郊外へ避難し、戦火を免れている。戦後になって、数が減少した修道会員らを補うため、イタリアから追加の修道会員らの派遣を受けた。
30年戦争初期の
1619~1620年、ブルノ市内にはこの聖ヨハネ修道院とドミニコ会修道院のみが、カトリック系の修道会として残留していたという。その他の教会はすべてが新教徒派に改宗される。しかし、1639年にマイノライト修道会員らも聖ヨハネ修道院から退去すると、6年後にスウェーデン軍が襲来してブルノ攻防戦が繰り広げられるのだった。この時代、教会建物は誰も手入れすることなく荒廃が進んだという。戦後の
1660年代に教会建物が修築されるも、1678年にはゴシック様式の尖塔が縮小される。その後も修道会の維持は困難を極め、修道院の敷地の大部分がブルノ市や市民らに売却されていったという。
また、丘下に目を向けると(城塞の西面)、眼下に長大な壁で囲まれている巨大教会がやたらと目立っていた(下写真の中央)。後で分かったことが、ここがカトリック系の 聖母マリア被昇天大聖堂(Basilica
of the Assumption of the Virgin
Mary)と聖トーマス修道院であり、その一部にメンデル博物館が開館されていたらしい。かの有名な「メンデルの(遺伝)法則」が生み出された場所である。
都市の拡張と近代化のため、1859~1864年にかけて市城壁の撤去が徐々に進められ、環状道路の整備が着手される【現在でもわずかに市城壁の遺構は残存しており、冒頭で見たメニンの門以外に、フソヴァ通り沿いの デザイナー学校【Střední
škola umění a
designu】校舎裏に一部の石積みが見られるという)。この北と西の環状道路の交差ポイントに、このとき コメンスキー教会(赤レンガ作りから、地元では「レッドチャーチ」が通称)が建立されたのだった。建築家
Heinrich Ferstel の設計という。なお、この環状道路を設計したのは、Ludwig
Förster で、ウィーンの環状道路を設計した建築家集団の一人でもあった。
1869年には、路面電車がブルノ市街地に開通し、これもまた、チェコ初のトラム運行となった。