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張家川回族自治県
訪問日:2015年 5月中旬 『大陸西遊記』~
甘粛省 天水市 張家川回族自治県 ~ 県内人口 35万人、一人当たり GDP 14,500 元(天水市 全体)
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隴県城(隴城寨)
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イスラム教徒が 多く居住する土地
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多種多様な 中国風モスク
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張家川回族自治県の 歴史
【 龍山県 と 張家川回族自治県の 概観 】
街亭の古戦場跡
(三国志遺跡)を視察した後、そのまま 龍山県、張家川県へ移動した。当地にはそれまでの中華世界とは全く異なる、イスラム教徒がたくさん住む別世界が広がっていた。
中国風の屋根や鬼瓦、粉飾を持つイスラム寺院がたくさんあり、文化融合の傑作群に圧倒された。また男性の頭上にはイスラム帽子、女性はスカーフを身にまとっていた。 それ以外の衣服は、漢族と同じ現代風のものばかりだったが。
この地にイスラム教徒が多く住むようになったのは、モンゴル帝国に組み込まれた元代からであろう。下写真は、龍山県の中心部。
下写真は張家川回族自治県の中心部。巨大モスクがそびえたつ、ムスリム都市は壮観であった。
【 天水市張家川回族自治県の 歴史 】
4000年前の古代世界において、張家川回族自治県一帯は西戎の諸族が割拠する地域であった。
周朝の時代、秦の襄公が関中盆地の西側の領土を分与されて以降、 秦国による西域諸族との戦闘が繰り返され、現在の甘粛省一帯は徐々に秦の版図下に組み込まれていくこととなる。
紀元前 279年、秦は 隴西郡(郡役所は 狄道【今の 甘粛省
定西市
臨洮県】に開設)を新設し、現在の張家川回族自治県エリアもここに帰属された。
ついに紀元前 221年、秦国は中原の統一に成功するも、その栄華は短命で、間もなくの紀元前 206年に滅亡してしまう。その後、楚漢戦争に勝利した劉邦により、紀元前 202年、前漢王朝が建国される。前漢朝は、秦朝の統治体制を踏襲し、隴西郡がこの地域一帯を統括した。
そして、7代目皇帝・武帝の治世下の紀元前 114年、前漢朝の勢力圏がさらに西方へ拡張されるに伴い、隴西郡から天水郡が分離・新設される。現在の張家川回族自治県一帯は、天水郡下の 16県の一つである
隴県城
の管轄区となる。当初、隴県役所は、今の張家川回族自治県の旧市街地に開設されていた。 後漢時代の一時期、凉州刺史部の役所も併設されることとなる。
後漢時代の 74年、天水郡は漢陽郡へ改称され、その下には 13県が配されることとなる(上地図)。このとき、清水県と戎邑道が廃止され、隴県へ編入される。
後漢時代の紀元 42年から隴県城内に一時的に移転されていた凉州刺史部の役所が 188年、冀県城(今の 天水市甘谷県)へ転出される。それでも、後漢時代の 150年近くもの間、今の張家川回族自治県の中心部が凉州一帯の 政治、経済、文化の中心都市であったわけである。
三国時代に入り、魏は清水県を復活させ、代わりに今の張家川回族自治県に開設されていた隴県役所を廃止して、その管轄行政区を清水県に吸収合併させる。 220年、曹操の後を継いだ曹丕により、天水郡から広魏郡が 分離・新設される。清水県はこの広魏郡の管轄下に置かれる(上地図)。以後、張家川回族自治県エリアに県城が設置されることはなく、 常に清水県と秦安県の管轄下に置かれる郷鎮レベルの集落となる。
228年の街亭の戦いでは、曹操により廃城とされた隴県城のあった張家川回族自治県から やや西側の
旧シルクロード街道(上地図の略陽県一帯)
を巡っての争いとなったわけである。
時は下って、金朝治世下の 1130年、行政区はより細分化され、現在の張家川回族自治県エリアは秦州の 冶坊県(今の 清水県黄門郷)と、隴城県(隋代に略陽県から改称。今の 秦安県隴城里)の 2県に分かれて帰属される。
しかし、元代の1270年、隴城県は
秦安県
へ、冶坊県は
清水県
は吸収合併され、以前の通り、清水県と秦安県に分かれて統括を受けることとなる。この体制は 明代、清代も継承され、近代まで続いた。
なお、 現在の張家川回族自治県の中心部にあった 県城(後に鎮へ降格)跡は全く跡形も残されていない。
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