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訪問日:2015年10月下旬 『大陸西遊記』~
浙江省 寧波市 余姚市 ~ 市内人口 85万人、 一人当たり GDP 105,000 元(寧波市 全体)
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余姚県城(余姚州城、姚州城)
呉の 名将・朱然が県長官に就任。陶謙、虞翻の故郷。
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余姚南城の 全景模型
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通済橋 と 舜江楼
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中国浙東越窑青博物館 と 有田焼のルーツ
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陽明学の 創始者・王陽明(本名:王守仁)の生家 と 記念博物館
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日本に朱子学を伝えた 朱舜水の故郷と 龍泉寺
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余姚北城の 全景模型
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寧波市余姚市の 歴史
【 余姚県城 】
余姚市北バスターナル(高速鉄道の
余姚北駅
)から乗車した路線バス 101番を、新西門路で下車する(下写真左)。ここから、余姚南城の南側城壁があった世南西路を歩く(下写真右)。もともと南側の外濠であった最良江は、現在、より南側へ移動されている。
途中、大黄橋路から南雷路の一帯は、再開発された 巨大ショッピングモール(銀億・四明広場)となっていた。下写真左は南雷路の南側を臨んだもの。ここにかつて南門があった。
下はかつての
余姚南城
の様子。ちょうど新西門の方角より東側を臨む。
南雷路を北上すると、城下路、学弄、保慶路(余姚市の電器街を自称していた)などの古城時代の名残を残す路地名が目に飛び込んでくる。下写真。
現在、ここら一帯は、地元の若者が集う流行の ショッピング・ストリートとなっていた。カバン、靴など、どれも安い。
なお、学弄(「弄」は「小路」、「路地」を意味する)は、その名の通り、かつて学宮が開設されていた場所である。下地図。
この南雷路の北端が南浜江路で、かつての余姚南城の北側城壁があった場所である。
この眼前の
余姚江
が、北城と南城のそれぞれの堀川として活用されており、古城時代、その間には一本だけ橋が架けられていた。それが、目下の観光名所となっている通済橋である。
通済橋を北側へ渡り切ると、かつての余姚北城の 南側城壁跡(高さは 4 mぐらい)の一部と 城門楼閣(舜江楼:別から移転されてきた)が待ち構えている。
下写真左は、通済橋の上から南城側を臨んだもの。
下写真右は通済橋の石段に刻み込まれた、荷馬車の車輪が走った跡(轍:わだち)。
ちょうど、この通済橋と 城壁跡(舜江楼)が残る一角は、古城時代の北城の南城門に設けられていた甕城の城壁部分に当たる。本来の南門は、この城門楼閣の後ろに広がる ショッピング・モール(マクドナルドあり)に位置した。下写真。
上写真左は、かつての古城時代の通済橋付近の様子を再現したもの。甕城沿いにも、当時としては違法建築かどうかは不明であるが、たくさんの民家が軒を連ねており、戦時以外は居住や商売が黙認されていたのであろうか。
現在、
余姚江
沿いはカフェやバーとなっており、夜にはおしゃれな空間となるようである(上写真右)。日中は、地元の老人たちが占いや骨董品販売などを手掛ける、小マーケットの様相を呈していた。試しに占ってもらった。一案件につき 10元だった。要は、誕生日で運命判断しているだけだったが。。。
この 城門楼閣(舜江楼)跡の東側に中国浙東越窑青博物館がある(上写真左)。古代から精製されてきた陶磁器などが展示されている。余姚市は後漢末から北宋時代にかけて、中国での一大陶磁器産地となっていた場所である(日本の有田焼の先祖にあたる)。
実際のところ、1Fから 2Fへつながる階段に架けてある長い網が、一番、見応えがあった(上写真右)。
また、三官堂路と新建路との間の一帯は旧家がたくさん残されているものの、徐々に廃屋となり、新たな開発を待つ地区となっていた。上写真。
陽明東路沿いにはかつて、城隍廟があった。今は完全に撤去されてしまっているが、わずかに地名のみにその名残が刻み込まれていた。上絵図。
陽明東路から東門側へ移動し、東側の外堀沿いを北上する(三官堂路:かつて天官、地官、水官の三官を祭る廟があった)。そのまま南河沿路を西へ移動し、再び巨大な ショッピングモール(新大新・天一広場)が目に飛び込んできた。
下写真左は、ショッピングモール前にある候青門というバス停。ちょうど北城の北門跡にあたる。
下写真は、このバス停前の 大通り(新建路)の南側一帯。古城時代、ここには水路が通っていた。今では、北岸地区のメインストリートとなっている。
これらの
旧古城地区
での再開発中に、きっと数多くの歴史的文物が発掘されたに違いないが、その大部分は保存努力もされずに破棄・破壊されていったことであろう。
ここから陽明西路まで南下し、そのまま西進すると、その北側沿いに 王陽明(本名:王守仁)の生家が史跡名所として無料開放されていた(上写真)。
明代中期、彼はこの地で生を受け、後に大将軍、河南省一帯を統括する行政長官の地位にまで上り詰めることとなる。
彼の祖父は、当時から行政官僚兼教師をしており、この陶哲を受けて育ったようである。王陽明の父は、当時の科挙試験で第一位の成績に叙せられるほどの天才であったようで、もともとが学業熱心な家柄といえる。
王陽明の思想は、日本や朝鮮半島に伝えられ、陽明学として隆盛を極めることとなる。伝播した日本での発展ぶりについて詳しく解説されていた。
また、当地は
朱子学
の祖となる 朱舜水(1600~1682年)の故郷でもある。明末の混乱の中、清軍に抵抗するも、逃げ延びた地から船で日本へ亡命し、日本に多くの文物を伝えることとなった人物である(下写真左)。
その西隣に龍泉寺があった。これは下の古城時代の模型にもある通り、当時から同じ場所に存続し続けている由緒ある寺院である(下写真右)。
この前を走る北濱江路沿いにも、かつて北城側の城壁が連なっていた(下写真左)。
下写真右は、通済橋から龍泉山の方角を臨んだもの。
龍泉山の西側は老西門と呼ばれる地区で、かつて甕城を持つ堂々たる西門が配されていた。ちょうど、その付近に余姚市博物館がある。また、この博物館の南側に観光案内所が設置されていたが、絶対に見つけられないだろう、という地点に配置されている感じが、中国らしかった。
観光案内所のあるべき目的、提供すべきサービスが、いまいち理解されていない気がする。
下の模型は、西門側から
北城
一帯を臨んだ様子。
帰りは、陽明東路から路線バス 302番に乗って、余姚市北バスターミナルへ向かった(西側を大きく遠回りするルート)。1元。
そして、再び
慈溪市
へ向かう路線バス 293番(終点:
観海衛鎮
)で、慈溪の中心部に戻った(2元)。「商都」というバス停で下車。ちょうど慈溪市役所と人民公園の正面付近だ(慈甬路沿い)。
ここから ②番路線バスで西の古城地区まで戻った(1元)。
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交通アクセス
慈溪市
西バスターミナルより 路線バス 291番に乗車する(2元)。
約 30分で、終点の余姚市北バスターナルに到着する。ここは高速鉄道の余姚北駅でもある(下写真)。
途中に見える田園地帯は、まさに同じく四季に恵まれた日本の田舎風景と重なって見えた。
さらに、余姚市側の バスターミナル(余姚市北バスターミナル)から、路線バス 101番に乗車して、余姚市旧市街地の古城地区まで移動する。 乗車時間 約 20分(1元)。
【
寧波市余姚市の 歴史
】
秦代に 余姚県(一説には漢代との見方もある)が新設され、会稽郡に帰属された。西側にあった余山と、南側を流れる姚江との自然環境を反映し、余姚と命名されたという。
三国時代の200年、本格的な城郭の拡張工事が着手される。
このとき、呉の孫権を支え、後に名将として称えられることとなる朱然が 19歳で、余姚県長官を務め、改修工事を監督した。
また朱然が修繕工事を実施する前の余姚県城は、すでに人材の宝庫でもあったようで、 193~194年にかけて徐州で、劉備ととも曹操と戦った陶謙の出身地でもある。
また、呉の古い功臣で、関羽討伐戦では公安城を守備する博士仁と、南郡城を守備する糜芳を説得し降伏させた功績を持つ虞翻の出身地でもあった。
時は下って、唐代初期の 621年、余姚県が姚州へ昇格される。
北宋時代には望県とも通称されており、江東地方でも屈指の貿易都市に成長する。
元代の 1295年、姚州が余姚州へ改称される。
明代の 1369年、余姚州が余姚県へ降格される(上地図)。
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