BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年5月中旬 『大陸西遊記』~


湖南省 益陽市 沅江市 ~ 市内人口 76万人、一人当たり GDP 28,000 元 (益陽市 全体)


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  三国時代の 沅江地区
  沅江県城(昭烈古城、劉公城、薬山県城、安楽県城)
  万子湖郷の 涼雲塔
  景星寺



およそ 5000年前、現在の 赫山区 や漉湖などで集落が誕生し、青銅器時代に入って以降、今の蓮子塘一帯でも多くの集落地が形成されていったという。春秋戦国時代において、沅江市は楚国の黔中郡に属し、湘楚文化の発祥地の一つとされる。秦の統一後、長沙郡に帰属した。そして漢の時代、益陽県の管轄下となる。
下記の地図は、後漢時代 の荊州北部の様子。現在の湖や河川とは位置や流れが大きく異なっていた。現在の水脈は赤色で、当時のものは青色で明示されている。

益陽市沅江市

さて、時は後漢末から三国時代、当時、洞庭湖と 益陽県 ~資水上流域を結ぶ河川交通の中継地点として、現在の沅江市域には既に集落があったものと推察される。劉備が荊州拠点の 公安(江陵城)から武陵、長沙の 2郡を視察するため南下する際に、この地に一泊している。以後、同地を「昭烈古城」、もしくは 別名「劉公城」と地元民が呼ぶようになった、という。おそらく、中継拠点として簡易な土塁城壁を持つ環濠集落があったものと思われる。

当時の荊州内の交通は、陸路ではなく、主に豊かな水脈を活かした水上移動が主だったと考えられ、劉備の視察も船での移動であったに違いない。
もし、陸路移動の場合、ここから武陵まで直線距離で 70 kmほど、徒歩の軍隊で考える場合は、時速 4 km × 6時間で 24 kmが一日の標準移動時間だとすると、3日ほどかかったはずである。また、長沙へは 85 kmで、3~4日程度かかったと考えられる。武陵 から 長沙 へは、145 kmほどの直線距離、移動に 1週間ほど要したであろう。
船の場合、この 2倍の 速度(時速 8~10 km)が出せたし、物資の大量輸送も可能だったはずだ。


下記は、現在の「昭烈古城(劉公城)」の周辺地図である。

益陽市沅江市

三国時代から環濠集落があったわけであるが、実際にこの古城内に行政拠点が設けられたのは、南朝の梁王朝下の 522年、薬山県(沅江市の旧名)の県役所開設が最初である。
隋代には安楽県へ改名され、さらに後に、付近に流れていた沅江にちなんで「沅江」と変更される。宋代に入って、一時期、喬江県と改名されるも、最終的には、同じく宋代の 963年、沅江県へと戻され、以降、現在まで継承されることとなる。
明代初期に廃城とされるまで、土塁を盛り上げただけの 城壁都市(面積は 4.6 km2)が存在し続けたようである。

今もその土塁跡が所々に残る。ここは、上琼湖によって 3方に囲まれた岸部にあたり、その周囲を土塁で囲っていたようである。廃城後、この一帯は、古城塘鎮という地名で呼ばれていたそうだが、共産党中国の建国後の現在は、新沅居民区という地名になっているらしい。

益陽市沅江市
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近年、上琼湖の埋め立てが進められ、今ではもう池という感じである。引き続き、埋め立て工事が進行中で、かつての岸部の面影はなくなりつつある(わざわざ古城周辺の岸部を残して、池としつつ、それ以外の場所を積極的に埋め立てている印象で、いちおう歴史区域として認識はされているらしい)。土塁跡は、高いところで 3 mはあった。
途中に畑仕事中のご老人に出会ったので、畑内から写真を撮らせてもらった(下写真の上段)。土塁部分を開拓して、自分で畑を始めた、という。ここが土塁跡だとはご存じなかった。ちなみに、「洞庭湖博物館」の職員にも質問してみたが、古城跡については知っていなかった。もったいない。

益陽市沅江市 益陽市沅江市
益陽市沅江市 益陽市沅江市
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まだ土塁が健在のうちに、歴史保存活動が待たれる。それにしても、すべてが赤土の街だった。

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周囲では、かつて湖畔地帯で農業を専業としてきた住民たちの生活が急激に変えられている様が見てとれた。それまで湖畔にあった家屋は、今では池と化した水辺に残る。ここの住民らはトイレをそのまま「ボットン」形式で湖畔に落としていたようだ。その仕組みを残す 旧家(と言っても、まだ人が住んでいる)を横から撮影してみた(下写真右)。

益陽市沅江市 益陽市沅江市

また、現在の沅江市街区の南側は漁民街となっている。ちょうど市街地から出たすぐの所に「水産品交易市場」があった。今でも湖畔で獲れた水産物をここで市街地に供給している。
都市部の水辺は相当に変わってしまっていているようだが、東南湖や 万子湖(洞庭湖群の一部)に浮かぶ、たくさんの中州にはかつての原風景が色濃く残されていた。この湖畔地帯を南に下がっていく中で、多くの漁船が停泊していた。

益陽市沅江市 益陽市沅江市
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この万子湖沿いに 万子湖郷 というところがあり、ここに地元で名所の「涼雲塔」があった。専用の船着き場から塔のある中州へ渡れる。この塔には上ることもできるらしいが、景色はいまいちだろう。
沅江市街区東側の文化路にあるバスターミナルからの始発バスに乗っていける。30分に一本あり。

益陽市沅江市 益陽市沅江市
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この洞庭湖に住む魚や 鳥類、哺乳類に関する展示が、市内の「洞庭湖博物館」内にある。特に目についたのが、巨大淡水魚のくん製であった(下写真 2枚)。これは、1982年に沅江市近くの 万子湖(洞庭湖群の一部)で獲れたもので、古代魚系のチョウザメの一種である「中華鱘」と呼ばれる魚らしい。周の時代より、「魚王」と呼ばれていたらしい。このくん製は、長さ 270 cm、腹部 38.8 cm、重さ 242.5 kgということだ。

益陽市沅江市 益陽市沅江市

この沅江市には、先に見てきたように豊富な歴史があるにもかかわらず、歴史博物館は存在していなかった。というより、この「洞庭湖博物館」の一室が郷土資料館に当てられていた。漢代に中国人が履いていた木製の靴が展示されていたのはやや興味深かった(下写真左)が、それ以外は見るものがなかった。
退室前 に、あまりの展示の乏しさの理由を問いただしてみると、ここは小さな街で、発掘調査や歴史調査なども満足に行われていない、という回答であった。きっと新規開発途上のマンションや道路工事の際に、歴史遺産が出てきても、何か分からずに破壊されていっているのであろう。。。。

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この博物館の東隣に、寺院がある。その名を景星寺といい、唐代に開かれた。しかし、明末に破却されて荒廃する。清代に再建されたものの、再び兵火に遭い焼失する。そして清末の 1881年に、海印禅師(1860~1924年、上写真右)により再建され、湖面に休憩所やその他の施設を設置し、現在に至るという。
寺院の境内は広く正面玄関から入ると、広大な寺院の庭園がすべて畑となっていた。。。地元民が耕作していた(下写真右)。

益陽市沅江市 益陽市沅江市
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ちなみに、沅江市の繁華街は、この景星寺や洞庭湖博物館の前を走る琼湖東路と、南北に走る新源路の交差点一帯である。市内唯一のケンタッキーもここにあった。
なお、路線バスに関して、この市街中心地のメインストリート上のみ特定の停留所での乗り降りとなり、メインストリートから離れると、どこでも乗り降り 可能(手を挙げて乗車する)。

商貿通りと文化通りの交差点付近を歩いていたら、「信長ネット・カフェ」なる店舗看板を発見した。この街で、唯一、日本を感じられる場所であった(その他、一切の日本料理屋などは存在せず。2014年5月現在)。

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