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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
海南省 三亜市 崖州区 崖城鎮 ~ 区内人口 13万人、一人当たり GDP 35,000 元(崖州区 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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崖州城(寧遠県城、臨振郡城、振州城、延徳郡城、寧遠郡城、珠崖軍城、吉陽軍城)
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孔廟(崖城学宮)
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唐代の高僧・鑑真(688~763年)の 台風被災後の上陸地点 と 1年間、滞在した「大雲寺」
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南山寺(海南島南部の 最大仏教寺院)
午前中に、
三亜市 中心部(吉陽区)東端の臨川県城跡を散策後
、55番路線バス(崖州区の 南山文化観光区 ⇔ 鹿回頭風景区)に乗車する。やや西へ移動し、高速鉄道駅「三亜駅」で下車する。
ここから普通列車に乗車し、西へ 40 kmの位置にある「崖州駅」まで移動する(1時間半に一本、所要時間 15~20分、13元)。この駅前に、崖州古城が立地している。
もしくは、
三亜市街地の北端にある鉄道駅「三亜駅」まで移動するよりも、三亜市 中心部(吉陽区)の三亜市バスターミナルに戻り
、ここから崖州行の都市間バスを利用するのがベストらしい(クーラー無バス 10元、クーラー付バス 11元。所要時間は 1時間強)。
崖州古城前で直接、下車できる。
かつて崖州古城には、東門、西門、南門の 3城門が設置され、それぞれ東門は陽春門、西門は鎮海門、南門は 文明門(すぐ内側に学宮が立地していたため)と命名されていた。北門はなく、北面城壁上に北楼という楼閣が増築されているだけだった。上写真。
現在、東門と西門は撤去されてしまっており、海南省政府により再建された南門(文明門)と、周囲のわずかな城壁面のみが、唯一の城郭遺構として残っている。下写真。
この南城門の北面には、清代に彫られた石碑「文明門」の三字が掲示されている。また、城門上には文明楼という楼閣が設置され、現在の崖州区のシンボルとなっている(開館時間 毎日 7:00~19:00。休館日なし)。
その他、旧市街地には、たくさんの貴重な歴史遺産が保存されており、前漢時代から数えて、2100年以上もの長きにわたる三亜文化を脈々と今に伝えている。
その筆頭が、中国最南端の孔廟である(崖城学宮。上写真中央の赤い屋根群)。
この崖城学宮は、北宋時代の 1044年に建立されて以降、数十回もの修繕工事に耐えつつ、今日まで継承されてきた歴史遺産である。設立当初より、崖州における最高位の教育機関であり続け、かつまた、中国で最南端に現存する孔廟として、「天涯第一(”最も遠方にある”の意)聖殿」と称えられてきたという。1994年11月2日に海南省政府から、また、2013年には中央政府からも史跡指定を受けている。
続いて、三亜市政府によって指定を受けている 13か所の歴史遺産(盛徳堂、広済橋、迎旺塔、文峰塔など)が挙げられる。さらに、三姓義学堂、何秉礼(1832~1892年。幼少期より独学で立身出世し、鰲山書院の教授に就任して、後継者育成に心血を注いだ)の旧家、廖永瑜の邸宅跡、孫氏宗祠など、 50ヵ所もの旧跡が旧市街地に残されている。なお、当地の関帝廟(武廟)は海南島最大規模を誇るものの、現代に入って建立されたもので、崖州時代には存在していなかったという。また、文明開化期の中華民国時代に建設された騎楼街も、見どころとなっている。
郊外には、鐘芳(1476~1544年。1508年に科挙最終試験に合格し、中央政界において戸部右侍郎にまで出世した官僚)の故郷、相公庁、唐代の高僧・鑑真(688~763年)の台風被災後の上陸地点(上写真)、黄道婆の居住地跡(南宋末期から元代初期にかけての 40年間、崖城鎮水南村に居住していたという黄道婆の旧家跡で、後に中国全土で知られることとなる、黎族の伝統的織物産業を革新的に発展させた人物)、鰲山書院(南山文化旅游区。末尾参照)などの見どころや、新石器時代の遺跡(河頭遺跡、卡巴嶺遺跡など)も 7か所ほど、保存されているという。
三亜市自体、かつて崖州と通称されており、その中心地が崖州の州役所が開設されていた、この崖州区崖城鎮であった。
古くは、前漢時代の紀元前 110年に臨振県が開設されたことに端を発する。紀元前 46年に一度、臨振県役所が閉鎖されて以降、650年間の空白期間を経て、隋代後期の 610年、臨振県城跡地に寧遠県が開設されることで、再び、歴史の表舞台に登場することとなった(付近を流れる、寧遠河から命名)。同時に、臨振郡の郡役所も併設され、海南島の南西部一帯の中核都市として再スタートを切ったわけである。
唐代初期の 622年、臨振郡が振州へ改編されると、同時に
臨川県(今の三亜市吉陽区臨春村)
が新設され、そのまま振州に属した。 628年には、延徳県(今の海南省楽東黎族自治県黄流鎮)の東半分が分離され、
吉陽県(今の三亜市海棠区藤橋鎮)
が新設される。以降、振州は 4県体制となる(下地図)。
742年、振州が延徳郡へ、756年には寧遠郡へ改称された後、 758年に再び、振州に戻される。
五代十国時代、このままの行政区が踏襲されるも、徐々に配下の県役所が削減され(特に南漢王朝時代の 950年ごろ)、最終的に寧遠県と
吉陽県
の二県体制となる。
北宋時代の 972年には振州が崖州へ、 1073年には珠崖軍へ、1117年には吉陽軍へ改称される。
南宋時代の 1190年代、それまで土壁であった寧遠県城が、全面レンガ積み城壁へ大改修されると(崖州千戸所城。1198年完成)、以降、崖城と通称されることとなる。
元代の 1233年、現存する東門、西門、南門の三城門の位置まで、城域が拡張される。
その後も明代、清代にわたって補強工事が施され、最終的に清代中期の 1830年ごろ、最終形態が完成されることとなる。この城域こそ、現在に残る古城地区そのものであり、東門(陽春門)、西門(鎮海門)、南門(文明門)、北門(凝秀門)が配されていた。城外には外堀が掘削され、それぞれの城門前には甕城と吊橋が設けられていたという。また城壁上には、敵楼(兵舎)や 譙楼(物見櫓)などの防衛付属施設群も完備されていた。下絵図。
この明代、清代も、一貫して州都を兼務し続け、清末の 1905年には崖州直隷州へ昇格される。しかし、間もなく清王朝が滅亡すると、中華民国時代初年の 1912年、崖県へ降格されることとなった。
共産党時代の 1954年、崖県役所が今の
三亜市中心部(吉陽区)
へ移転されると、当地には崖城鎮が新設される。 2001年8月、周囲の保港鎮、梅山鎮、雅亮郷などを吸収合併して、今日の行政区が成立するに至る。2015年1月、崖城鎮から崖州区へ改編される。
なお、中華民国時代の 1920年以前まで、崖州古城は往時の姿を留めていたが、 1920~1921年、崖県役所により東城門と西城門が撤去され、城内を貫通する道路が整備される。1928年には、さらに北門と北面城壁が撤去されることとなった。
共産党時代の初期、それでも古城城壁の基礎土台部分が未だ四方に断片的に残されていたが、文革時代に民衆らの手によって完全に撤去されることとなる。こうした事情から、海南省政府により修復、復元された南門(文明門)と、その両脇のわずかな城壁面が、古城遺跡として残されるのみとなったわけである。
なお、海南島という地は、唐代以来、多くの有能な官吏らが、皇帝に近い奸臣から迫害を受けるなどして左遷されてきた流刑地でもあり、その代表例が崖州(海南島の北部エリアに開設されていた時期もあった)への左遷であった。副宰相クラス以上の高級官吏や重臣だけでも、唐代の韋執誼や唐瑗、宋代の趙鼎、盧多遜、胡銓ら、元代の王仕熙、明代の王個や趙謙ら、14名を数える。このため崖州は、有能官吏の墓場(幽人処士家)、とも称され、中央政界から恐れられていたという。
しかし、こうした中央政界から左遷されてきた、文化人や学者、官吏らが度々、往来することで、また、
広東省
、
浙江省
、
福建省
等の経済先進地帯から渡海してきた新移民らの存在により、海南島の南端にあった崖州城も、順調に文化的、経済的発展を進めることができたわけである。
1755年記述の史書によると、崖州城内では、東関市、西関市、メインストリート老街上に、布店、酒店、首飾店、書店などが三十軒以上も軒を連ね、賑やかな商業エリアが形成されていたと言及されている。
こうした外来人の中でも、とりわけ我々日本人に知られた人物が、唐代の高僧・鑑真(688~763年)である。
唐代中期、五回にわたって日本への渡海をトライするも、高僧の渡海を阻止したい仏教界や弟子らの裏工作により、ことごとく失敗し、748年に五度目の渡海を試みた際、2週間にもわたる暴風雨の直撃を受けて、海南島の南部まで船が流され、ようやく崖州湾に上陸したされる。この時、当地の大雲寺に一年余り滞在し、もともとは日本へ持ち込むために準備していた仏教の経典などを当地に奉納すると共に、数々の医薬の知識を現地に伝えたとされる。
その他の見どころとしては、南山文化旅游区内にある南山寺がある。
鉄道駅「南山駅」ー 崖州駅間を往来する、①番路線バスに乗車し、アクセスできる(崖州古城正門前にも、バス停あり)。
帰路は、南山文化旅游区から 55番路線バスで、三亜市中心部(吉陽区)まで直帰もできる
。
この南山は、古来より観音菩薩の降臨する霊場(観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山)と考えられており、大光明山と尊称されてきたという。現在、南山寺の敷地は 400ヘクタールあり、海南島南部の最大仏教寺院となっている(
北部最大の仏教寺院は、海南省澄邁県老城鎮にある永慶寺
)。境内には唐風の建築スタイルで、仁王殿、大雄宝殿、東西配殿、鐘鼓楼、轉輪藏、法堂、観音院、悲田院などの建物が配置されている。
また、南山の南西端にある大小洞天風景区であるが、かつては海山奇観風景区や鰲山大小洞天と通称されていた。古くから「瓊崖第一の山水名勝」と称される、絶景スポットだったという。この風景区内には、小洞天、釣台、海山奇観、仙人足、試剣峰、さらに歴代の詩文が刻み込まれた石板(吉陽軍長官の周康が、南宋時代の 1240年代に記した石碑 ー『摩崖』や『石痕記』)などが、必見の地となっている。この高台に、明代に建立された鰲山書院が立地しており、南西のすぐ眼下には海岸線が広がっていたという。
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