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尋甸回族彝族自治県(尋甸県)
訪問日:2019年4月中旬 『大陸西遊記』~
雲南省 昆明市 尋甸回族彝族自治県 ~ 県内人口 50万人、 一人当たり GDP 17,000 元(尋甸県)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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昆明市街地から 尋甸県へ バス移動(1時間25分、35元)最新設備の 北部バスターミナル
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高速道路上、嵩明県下の「軍馬場」と「阿子営」から、中原王朝の雲南支配を妄想する!
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炎天下の尋甸バスターミナルに停泊する、黄色一色の近郊バスの車列!
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尋甸県仁徳鎮の古城地区から、東郊外(上古城村、下古城村)を白タクで巡る
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上古城村から、地元農夫らが道路上で草干しの作業空間が広がっていた
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洗馬村 と洗馬河 ~ 【初代】潯甸府城(牧靡県城、升麻県城、新丁部、潯甸部、仁徳府城)
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母親河から南へ、下古城村に突入する
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下古城村の 中華風イスラム寺院
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母親河の北岸に広がる 中古城村と 滙龍湿地公園
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【豆知識】初代~三代目・潯甸府城の変遷史と 地図 ■■■
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【豆知識】三代目・潯甸府城(潯甸州城。迤東兵備道の道都)の古城地図と 路地解説 ■■■
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潯甸府城の唯一残る 古城遺跡「東面の石積み城壁面」~ 官井路と 翠屏路の交差点
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東門跡地と 東門街、馬街子后街
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東鐘街 / 南鐘街、学府路 / 十字街の 交差点
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明代、清代の 潯甸府役所(後に潯甸州役所)跡地 ~ 南屏街と 南鐘街の交差点 ~ 南門脇
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西面城壁の跡地 ~ ひたすら坂道の 玉屏街
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西門跡(現在の 尋甸県郵便局)と 西門街
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実は史跡指定されていた、石畳路地だった「学府路」 ~ たこ焼き屋があった
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西門街 / 北営街沿いに枝分かれする 裏路地群 ~ 北営東巷、西巷、南巷、大巷
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二代目・潯甸府城(1483~1532年)の跡地 ~ 北観路の今
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北門跡 と 青龍路(北面城壁跡)
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菜園路の坂上へ ~ 西面城壁の跡地と 西郊外
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西郊外から 古城地区を見渡す
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【豆知識】尋甸県の 歴史 ■■■
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通泉県城(易隆堡、易龍百戸、木密守御所。今の 尋甸自治県 易隆村)
秦代の 古街道「五尺道」と、諸葛孔明の 南征軍ルート
昆明市 中心部(五華区)
にある「
交三橋駅
」から地下鉄に乗車し、最北端にある地下鉄 1号線の 終点「北部バスターミナル(北部客運駅)」まで乗車する(4元)。20分強。
地下鉄駅のすぐ北隣に巨大な北部バスターミナルが連結されており、エスカレーターで直接、つながっていた(下写真左)。
そのまま三段のエスカレーターを降りて、正面にあるチケット売り場まで移動し、尋甸行のバスチケットを購入する(35元)。
そして、その後方にある別の建物が待合スペースとなっており、ここの入り口で再度、チケットと身分証の確認を受け、いよいよバス待合スペースに至る(下写真右)。
この待合スペース、なんと座席がすべてリクライニングシートとなっていた!(上写真右)。どうして、こんな所に金をかけてるんだか。。。建物、施設ともに新しく、トイレも洋式が一つ設置されていた。非常に手の込んだターミナル施設は好感が持てるものの、他のバスターミナルとかけ離れた高級設備群にかなり違和感を覚えた。
さて、そそくさと尋甸行の郊外バスに乗車すべく、建物の外に出るも、バスの停車ポイントは結構、端っこにあった。
バス前に運転手が待ち構えており、チケット半券をちぎって乗客数をカウントしていた。乗客数が一杯になった時点で出発する仕組みで、これは昆明市内すべての郊外バスに言えるスタイルだった。
このパターンで、
尋甸行
の郊外バスは平均して 1時間に 2本ほど、運行されているという。
バスは発車後、すぐに高速道路に上がる(昆明北。上写真左)。
上写真右は、高速道路上で目にした 道路標識(筆者は先頭に座っていた)。「軍馬場」とか「阿子営」とか、何やら軍事用語が並ぶ地名が気になった。
あとで調べてみると、「阿子営」とは、もともと 地元・彝族の言葉で、「阿子」はその族長の名前、「営」は軍の駐屯基地を意味したことから、このあたりに彝族の軍事拠点が設けられていたことに由来していた。現在、
昆明市嵩明県
下の村となっている。
また、「軍馬場」とはその名の通り、かつて大規模に軍馬が飼育された渓谷地帯を意味し、現在でも中国各地に同様な地名が複数、残っている。特に有名なのは、前漢時代から現代まで継承されてきた
甘粛省張掖市
山丹県一帯で、その広大な面積は
香港
全域の約 2倍もあるという。
今の
昆明市嵩明県
楊橋街道にある大成村は豊富な水源と年中温暖な山谷地帯に位置し、古代より馬の飼育が盛んな土地柄だったという。伝説によると、紀元前 277年に庄蹻が古滇国を建国すると、この一帯の湿原エリアを整備し、巨大な湖を造成する。西湖と命名され、現在の嘉麗澤の西側の湖水の元となったと考えられている。もともとあった嘉麗澤は東湖と命名され、両者は用水路で接続されていた。庄蹻はこの大城村に軍駐屯基地を開設し、一帯で軍馬の飼育を行ったという。
高速道路上から、
嵩明県
あたりの大平原が見渡せた。
ここを三国時代に蜀の 孔明軍(225年)や、始皇帝の 秦軍(紀元前 210年ごろ)、武帝の 前漢軍(紀元前 111~109年)、文帝の 隋軍(597年)、玄宗の 唐軍(751~55年)、朱元璋の 明軍(1381年)などの大軍勢が移動していたのだろうな、、、と妄想してしまった。
乾燥した空気と土地が続き、遠征軍も水分補給しながらの行軍だったに違いない。
なお、中原王朝にとって雲南省の統治は厄介で、決して安定したものではなかった。山岳地帯が延々と続く中、各部族らが強固な独立勢力圏を構築しており、また中国文化の浸透が進まず、漢民族らにとっては生活上のストレスも高かったと思われる。
中央朝廷から派遣された役人らは総じて風土病に悩まされたという背景から、長らく現地の部族長を通じた間接統治が採用されてきたわけであるが、実際には気候や気温は非常の温暖で過ごしやすいわけで、むしろ食事や 水、風習が中華世界とあまりに違いすぎたために、体調を崩しやすかったと思われる。
漢民族らを多く移住させた明代、清代以降には、中華世界の食事や風習が現地にも定着し、中央派遣の役人も定住が可能となっていったのだろう。
そんな妄想をしながら、
車中
、うとうとしているとバスはいつしか高速道路を降り、一般道路(三月三路)を走行していた。そして、東川線の鉄道線路を越えると、 いよいよ 尋甸県(仁徳鎮)の市街地に到達する。ここから一般道は月中路と名前を変え、乗客を順次、下車させていった。
龍泉路を左折後、ようやく町はずれの尋甸バスターミナルに到着できた。 1時間25分のドライブ。
広いバスターミナル内には、尋甸 ⇔
昆明
往復の同じ色の黄色バスが大量に並んでいたのは壮観だった(上写真左)。また、その出口附近には、さらにローカルな郊外行の ミニバス(軽ワゴン!)乗り場が広がっていた(上写真右)。
全く日よけする場所もない、だだっ広い駐車場が広がるだけのバスターミナルだった(下写真左はターミナルビル。建物は真新しく巨大だが、内部はほぼ無人だった)。
さてさて、月華路と龍泉路との交差点で(下写真右)、タクシーや白タクが出入りしていたので、バイクタクシーを止める。旧市街地の中心にあたる「学府路」まで 5元で送ってもらうこととなった。
5分強のドライブだった。道路をくねくね曲がり、結構、長い距離に感じられた。市街地の交通量は少なく、スイスイ移動できた。旧市街地に入ると、それまでの広々とした自動車道から、細く狭い路地と商店が入り混じるエリアへと急変貌した。
さて
、古城地区の学府路に到着後、せっかくバイクタクシーを捕まえたので、改めて 洗馬河(下地図中央の河川)まで往復で連れて行ってもらうことを交渉すると、30元という。二つ返事でOKし、そのまま出発する。
間もなく 県白線(県道 085号線)に入り、龍泉路の交差点を渡って(
下写真左
)上古城村へ至ると(上地図)、いったん下車させてもらい、周囲を写真撮影した。
ちょうど、地元民たちが道路のど真ん中に草を干して乾燥させていた(上写真右)。これから先、この風景はあちこちで目にすることになる。
附近にあった四つ角を少し散歩してみた。この四つ角から南下すると、中古城村に至るようだった。
さて、県白線(県道 085号線)をさらに前進してもらうと、今度は下古城村へ南下する三差路に到着する。下写真。
この路地を右折し(上写真右)、名もなき住宅沿いの道をまっすぐ南下する。
下写真
。
すると、洗馬河が脇を流れる交差点に行き当たる(下写真)。
古城時代、この小川は掘割や城内水路の役目を果たしていたに違いない。
こんな泥川でも洗濯している人がいた。。。下写真。
なお、この辺りの地名は洗馬村といい、下古城村はまだ南だった。
さらに
バイクで南下してもらう。至る所に干し草が敷かれていた。まれに通過する自動車やバイクはその上を通過していた(下写真左)。
前方に大きな河川が見えてくる(上写真右)。バイク運転手曰く、「母親河」という名前らしい。
なお、このバイクタクシーの運転手は集落の地名や地理に詳しく、さらに、道路の所々で地元住民らと顔見知りのように挨拶や会話しており、どうやら地元に関係する人であることが伝わってきた。
「このあたりに住んでるんですか?」と質問してみると、「そうだ」との回答。
筆者があちこち写真を撮りまくっているのを地元民らが不思議に思って質問してくるも、運転手が「自分の友人だ」と言ってくれるので、すべて無難にこなせた。非常に頼もしい存在だった。
「この辺りに城壁や城門は残っていますか?」と質問するも、「ない」との回答。
さて、母親河を越えると、ここから南が下古城村となる。上写真。
道路沿いに側溝が設けられており、かつての古城時代の城内水路の名残かも、と度々、妄想するのだった。至る所に、木造土壁の古民家が残る。
道中
、イスラム寺院があった(下写真左の右手に見える、三角窓の建物)。
筆者が写真撮影しようと内部を覗いていると、出入りしている信徒の子供に、先のバイク運転手が中に入って良いか聞いてくれた。
中央に中華風の本殿がでんと鎮座していた(下写真)。これがモスクに相当する。
下写真の右手前には石碑があり、当寺院の詳細が解説されていた。そこには地元信者らが寄進した金額と氏名が明記されていた(上写真右)。
さて、そのまま下古城村の道路突き当りまでドライブしてくれた。ここから先は、だだっ広い畑地帯が広がっていた。
再び、来た道を北上し(
下写真左
)、母親河まで戻る。そして、母親河沿いに旧市街地へ戻ってもらうことにした(下写真右)。
この母親河脇の道は未舗装の砂利道だった。すると、右手側に母親河を渡る小さな橋を通り過ぎた(下写真)。この先に見える集落地が、中古城村である。
間もなく、滙龍湿地公園が現れる(下写真)。かつて、この一帯は同様な湿地帯が広がり、その豊富な水脈を利用して環濠集落が整備されていたと推察できた。
母親河の左手側には、住宅地と草原地帯が広がっており、馬が飼育されていた(下写真左)。
下写真右は、龍泉路沿いにあった滙龍湿地公園の正門。
バイクはようやく龍泉路から舗装道路に復帰し、スイスイと古城地区まで戻ってくれた。
途中、この気の回るバイク運転手は、古城地区の官井路に残る東門遺跡を案内してくれた。
この東門あたりから自分で古城地区を散策したかったので、ついでに、ここでお別れすることにした。40分間、至れり尽くせりの運転や現地案内だったので、チップ含め 120元をあげておいた。
お互いに
いい一日になったと思う。
明代中期以前にあった潯甸府役所と市街地は、この尋甸県中心部の東郊外にある 上古城村、中古城村、下古城村と道院村の一帯に広がっていた
(下地図の 青〇)
。
当時、明朝は地元豪族らを通じて現地支配する間接統治体制を採用しており、地元部族の反乱リスクを抑えるために、防塁壁や城塞の建造を禁止していた。このため、この【初代】潯甸府城には外堀以外、何も特別な防衛設備が付随されていなかった。
そうした折、地元の 族長・安暘が反明で挙兵すると、瞬く間に潯甸府城は 占領・破壊されてしまう。
明朝廷はいよいよ地元への直接統治体制の導入に着手し、 1483年、潯甸府長官として初めて 中央官吏・李祥(江西省出身)を派遣する。この制度変更に反発する土着部族らの暴動に対抗すべく、潯甸府城に土壁による築城許可を下す。
このとき、今の尋甸県仁徳鎮の 北観路一帯(【三代目】府城の北門あたり)に新たに城域が定められ、簡易で低い土塁壁が構築されて、【二代目】潯甸府城が誕生することとなる
(下地図の緑〇)
。
府役所の移転に伴い、旧市街地から多くの市民らも移住しており、あわせて イスラム・モスクも引っ越しされた記録が残されている。 それが今の北観路沿いに立地する巨大イスラム寺院で、元末の 1366年に建立されたばかりだったという。
この周囲に門前町が栄えるようになると、【三代目】潯甸府城の築城の際、府城内に取り込まれることとなり、そのまま現在の北営街から北へと続く北観路沿いに立地し続けたというわけだった。
しかし、初代 潯甸府長官・安洋(明朝が初めて任命した 彝族出身の現地代官)の孫にあたる安栓が反明で挙兵すると(1527~1528年)、この土塁壁も突破され【二代目】府城が破壊されてしまう。
反乱が平定されると、1532年、雲南巡撫の命により、新たに赴任してきた 潯甸府長官・劉乘仁と 府官(通判)の文誠が住民らに増税と重労働を課し、1年1か月を費やして、翌 1533年に完成させた城塞都市が【三代目】潯甸府城であった
(上地図の赤〇)
。これが現在の旧市街地にあたるもので、先の土塁壁の【二代目】府城から南へ 250 mほど引っ越しされたものだった。初めて、常駐の兵士らも配備されたという。
当時、城郭都市は西高東低の斜面上に建造され、周囲の全長は 1,500 m余りであったとされる。
この外周を取り囲むこととなった石積みの城壁は、全長が約 1,700 m、高さ 6.3 m、基礎部の厚さ 8.3 mで、城壁上には矢狭間付きの凹凸壁が 900箇所も設けられる本格的なものであったという。土砂や材木などが旧府城から運びこまれて建造された新城壁は、内部基礎を土塁で固め、外壁部分に石材を積み上げたものとなった。
東西南北にそれぞれ城門が一か所ずつ設置される ― 東門(启明門)、南門(朝宗門)、西門(宝成門)、北門(拱宸門)。
下地図
。
上地図に見える通り、【三代目】仁徳府城の東門は、今の青龍路と翠屏路との交差点に立地し(現存する明代の古城壁遺跡はその一部)、また、北門はだいたい青龍路が北営街から枝分かれする交差点から西へ 50 mほど離れた場所にあった(今日の県第一医院の南面あたり)。北門からそれほど遠くない場所に、午街(現在の馬街子)があったという。
西門は西門街と玉屏街との交差点付近にあり、現在の郵便局の場所に立地していた。
最後に、南門は南鐘巷と南鐘街との交差点から南へ約 60 mの地点にあり、南門外にはかつて仁徳一小学校、公安局、検察院と法院などが立地していたという。
また、【三代目】潯甸府城内には街道が 南北二列(主要街道)と 東西三列が敷設されており、だいたい台形型に街並みが構成されていた。
南北二列の街道のうち、一本は西門と 北門との間を連結し(西門街と北営街)、残りの一本は東門と南門との間を連結していた(東鐘街と南鐘街)。
東西三列は上から 官井街、学府街、南鐘巷と命名され、南北二本と合わせて五本の街道が織りなす町並みは、だいたい「日」の字形で構成され、四城門はちょうど、その「日」の字の四つ角に立地していたという。つまり、四城門は必ずしも、東西南北、正確な方角にはなかったわけである。これは山の斜面上に設計された土地の地形に順応したためと指摘される。
また東鐘街沿いには、吏目衙、協署、左営守府が立地しており、東鐘街と南鐘街との交差点あたりには、左右二つの鐘塔を有する鐘楼があり、現在の政府大院内政協事務所がある南側に 府署衙門(当地へ引っ越しされてきた【三代目】潯甸府役所であるが、清代の 1669年に潯甸州へ改編される)が立地していたのだった。
また、西門と北門との間、すなわち、今日の北営街と西門街と玉屏山の山麓部分あたりに 文廟、城隍廟、察院所などが配されていた。
まず一番北側から順に、左営遊府(北営街と命名された理由でもある)、城隍廟(廟は城壁の角部分にあり、東向きに建立されていた。現在の農業局内にあった)、文廟(聖廟、孔廟、夫子廟とも呼称された。今の県一中学の旧跡地)、武廟(関帝廟。今の農業局の西側)、鳳梧書院(今の粮食局内。城隍廟は今の 農業局の後方にあった、この鳳梧書院の敷地を抜けて訪問できる仕組みだった)、金字招牌(学府路と北営路との交差点あたり、今の 県粮食局大門の前)が立地していたという。
1938年に城隍廟内の塑像壁画が崩れ落ち、そのまま修復されずに放置される。
最終的に 1953年12月、400年以上もの歴史を刻んだ重厚な石積み城壁が撤去されてしまうのだった。こうして、城壁が連なっていた 東面、南面、北面の跡地に、一本の外周道路が敷設される(全長 1,770 m)。これが環城路で、おおよそ今日の 青龍路 ~ 翠屏路 ~ 玉屏路 に継承されている。
翌 1954年、はぎとられた古城壁の石材が集められて、尋甸人民礼堂や 郵電大楼、仁徳一小学の校舎建設用の資材に転用されたという。
さて確かに
、東面城壁の一部分が遺跡として残ってはいたが、あまりにわずか過ぎて拍子抜けした。それでも、石材が生々しかった。 ちょうど、現在の 青龍路(北面の城壁跡)と 翠屏路(東面の城壁跡)との交差点にある官井路の入り口だった(下写真の右端にある青色看板)。
なお、この「官井路」であるが、同様の路地名が
昆明市晋寧区晋城鎮の 滇池県城跡の古城地区
にもあり、その由来と同じならば、この路地には住民らが共同で使用した井戸が立地したことから命名されたと考えられる。
城壁はちょうど 翠屏路沿い(上写真の店舗外面)までの厚さで、この遺跡部分は城壁内面の表面部分かと思われる。
続いて
、周辺路地の 東門街(下写真右。かつて東門から郊外へとつながる街道だった。現在も、馬街子后街などの枝分かれ路地あり)と 翠屏路(東面の城壁跡)を撮影する。
今日現在
、この東城門の一部石材以外は、城門も城壁もすべて撤去されてしまっているため、古城遺跡自体が現存しないことは最初から分かっていた。とりあえず、ここでも路地名や地名を参考に、古城時代の名残りをたどってみることにした。
翠屏路の一つ内側の 路地「東鐘街」をまっすぐ南下し(上写真)、最初にバイクタクシーで到着した学府路入り口へ移動してみた。途中、西側に北営大巷の裏路地があった(下写真左)。
1~2分ほどで、学府路との交差点に至る。東鐘街より西側を「学府路」、東側から翠屏路までの短い路地は「十字街」という路地名に分かれていた(下写真右)。
そのままさらに東鐘街を南下すると、どうやらこの学府路との交差点から、東鐘街も南鐘街へと名称が変わっていた(下写真左)。
途中、西側へ南鐘巷という裏路地が枝分かれしていた(下写真右)。
また東側へは南屏街という路地が枝分かれし、翠屏路へとつながっていた(
下写真左
)。
現在、この南屏街は地元の尋甸県政府庁舎の正面通りとなっている。この尋甸県政府役所の場所に、かつて 潯甸府役所(後に潯甸州役所)が開設されており、まさに数百年来の官庁街が今に継承されているのだった。
そして、南鐘街の南端、すなわち翠屏路との 交差点(下写真右。これより西は玉屏街へ名前が変わる)に行き当たる。ここに、かつて南門が立地していた。つまり古城時代、潯甸府役所は南門のすぐ内側に開設されていたことになる。
この交差点から
玉屏街
を西へ進み、坂道を上る形で西面城壁の跡地をたどってみた。
途中、民家の石組み基礎が露出しており(下写真左)、もしかして古城壁の石材の転用だろうか、と妄想してしまった。
また、玉屏街沿いの坂道の脇に設けられた歩道は凸凹が激しく(下写真右)、城壁時代の一部の城壁基礎が残っているのではないか。。と淡い期待を抱いてしまった。
そして
、玉屏街の坂上にたどりつく。ここはちょうど西門街との交差点となっており、これより先の坂道は 菜園路(西面の城壁跡)と名前が変わるようだった。
この西門街との交差点付近に郵便局が立地しており(下写真左)、ここがかつての西門跡地という。
そして、西門街へと進路を変え、北上してみる(上写真右)。
途中に、第二初級中学の校舎の脇を通る。緑豊かな緑地帯となっており(上写真右の奥手)、地元の高齢者たちがベンチでひと休みしていた。最後に、このベンチに筆者も再び戻ってくることになろうとは、この時はまだ予想だにしていなかった。
途中
、石畳の 路地「学府路」を通り過ぎる。どうやら歴史保存された路地だったらしい(下写真左)。そのまま学府路を下ってみることにした。
この坂道の途中に 有料トイレ(入口前に老婆が店番していた)や、たこ焼き屋(下写真右の野点傘のお店)があった。 8個セット 10元なので、買ってみた。普通においしかった。
とりあえず石畳の学府路を往復した後、再び先ほどの西門街へ戻ってみる。
西門街は、この学府路との交差点から北側は
北営街
へと名称が変わる。
そして途中、東西に北営南巷などの裏路地がいくつか枝分かれてしており(下写真)、細い通路沿いに住宅が密集していた。これらの路地脇の至る所で、地元の高齢者たちが座り込んで井戸端会議していた。
北営街
の北端まで至ると、青龍路と交差する(上写真右)。
この正面には北観路が続いており、かつて【二代目】潯甸府城が立地したエリアとなっている(下写真)。
この交差点から青龍路を西進する形で、再び坂道を上ってみる(
下写真
)。かつて、この斜面上に北面城壁が設置されていたのだった。
この坂上に 地元水道局(中国水利)の事務所ビルがあり、その右手に見える茶色壁の 裏(印刷工場だったが、廃業していた)あたりに、かつて北城門が立地していたのだった(下写真)。
そして、この北門と北面城壁のギリギリ端っこ周辺に(下写真の道路や自動車が泊まっている一帯)、かつて城隍廟などが建立されていた。 城内全体を見下ろせる最も高台に立地しており、城内の守り神としてベストなロケーションだったはずだ。
下写真左は、この水道局ビルから青龍路の坂道下を見下ろしたもの。かつて北面の城壁が連なっていた。ちょうど城隍廟の本殿の視座から、古城エリアを見下ろした角度に相当する。
下写真右は、水道局ビルを曲がって、青龍路のさらに先を眺めたもの。ちょうど西面の城壁が連なっていた斜面だ。山間部から流れ落ちてくる側溝は、かつての外堀の名残だろうか。
このまま青龍路を端まで登り切ると、道は折れ曲がり、
菜園路
へと名前を変えつつ、さらに坂道が続いていた(下写真左)。
ここで、薪を背負った木こりの男性とすれ違った。。。。下写真右。
なお、下写真右の奥に停車中の黒色の自動車の脇に、菜園路の曲がり角がある(下写真左の路地奥も同じ)。この沿いの茶色壁と 森林地帯(下写真右の後方)が、先の西門街沿いにあった第二初級中学の裏手にあたる。
この中学校裏手から菜園路の曲がり角を南下する形で、西面城壁が連なっていたのだった。
筆者は、とりあえず菜園路の頂上部を目指して、さらに坂上へと歩みを進めた(菜園路は西側と南側に二手に分かれるも、同じ名称のままだった)。
ようやく菜園路の頂上まで至ると、東川線の鉄道線路が通っていた(下写真左)。
また
、この菜園路の頂上附近には、畑や木造土壁の古民家がまだ複数、残っていた(上写真右)。緩やかな丘陵斜面上に、古城が建造されていた様子がはっきりと分かるポイントだった。
下写真は、頂上部の西端から、古城があった東方向全体を見渡したもの。
ちょうど、眼下の畑沿いに並ぶ低層民家あたりに、西面城壁が連なっていたわけである。頂上付近の畑や古民家群は、西郊外に相当していた。
菜園路は行き止まりとなっていたので、坂道を下って再び同じ道を戻ることにし、青龍路から 北営街、西門街を南進して、先ほどの第二初級中学前の緑地ベンチ前に帰り着く。ここで、地元高齢者らに混ざって、しばし腰かけて休憩をとった。
この向かいには、だだっ広い敷地に古めかしいが重厚な洋館が建っており、地元政府の施設が入居していた。この斜面下に、かつて 潯甸府役所(後に潯甸州役所)の広い敷地が設けられていたわけである。
しかし、こんなに豊かな歴史を誇る尋甸府城跡にもかかわらず、現地では郷土博物館はないので(昆明群衆文化館はあるが、地元民用の文化センターで博物館ではない)、このままバスターミナルまで戻ることにした。
なお、ここ昆明市尋甸県は 回族(イスラム教徒)と彝族との共同自治県なのだが、期待した以上に、イスラム寺院やイスラム風の人々を目にしなかった。店舗には数多くのイスラム系のお店があったが。
さて、しばし休憩していると、ちょうど西門街沿いにタクシーが通りかかったので、バスターミナルまでと伝えると 5元という。見た目はタクシーなのだが、メーターは一切使わない白タクと同じだった。ただ、往路も 5元と言われたことからすると、どうやらバスターミナルと旧市街地と間は、運賃相場が固定されているらしかった。
ボリもせず、だましもしない地元の人のおおらかさと素朴さに心を打たれた一日だった。
さて、尋甸県汽車客運バスターミナルに到着すると、ほぼ無人の窓口でチケットを購入し、昆明行のバスに乗り込んで発車を待つ。トイレはターミナル建物外にあるので、チケット購入前に済ませておくのがベストだろう。
さて、間もなくバスの乗客が一杯になると、運転手が乗り込んできて出発した。再び、高速道路をぶっ飛ばし、往路と同じ 1時間25分で北部バスターミナルに帰り着けた。
バス下車後、再び三段エスカレーターを上り、地下鉄「北部汽車駅」から電車に乗車し、昆明市街地を横断して、
西端の終点駅の一つ 手前「車壁駅」
を目指した(6元)。
【
尋甸県の 歴史
】
春秋戦国時代、楚国の勢力は今の
湖南省
、
湖北省
の一帯で強大化しており、長江をさかのぼる形で西へ向かって勢力を伸長させていた。すでに 滇池(現在の昆明市)周辺エリアの地場部族集団とも交易関係が存在していたという。
楚の 頃襄王(在位:紀元前 298~前 263年秋)の治世下の紀元前 279年、大将軍・庄蹻の率いる遠征軍が派兵され滇池周辺まで到達すると、軍事力で 地元勢力(僰と通称された)を併合する(下地図)。
以後、楚国の版図は雲南省東部にまで及ぶも、間もなく秦により
四川省
(旧蜀国、旧巴国)一帯の領土が再奪取されると(紀元前 277年)、滇池地区にあった進駐軍は雲南の山岳地帯から抜け出せなくなり、楚国の飛び地領土となってしまう。
こうして、庄蹻ら楚の遠征軍は本国から独立して古滇国を建国し、そのまま地元勢力を支配するも、リーダーの庄蹻が死去すると(紀元前 256年)、その部下らは分裂し、以後、数百年もの間、地場勢力と組んで割拠し合うこととなる。
この間、楚出身の兵士らと古滇国内の各部族間で通婚が進み、それぞれ混血となっていったという。
紀元前 221年、秦の始皇帝が楚など六か国を滅ぼし、中原を統一すると、その余力をかって周辺の異民族への征服戦争が繰り返されることとなる。
秦軍は占領地を拡大するごとに街道を整備し、その要所要所に役所や関所を設けていった。この一環で軍事併合された雲南省東部では 王都・
咸陽
から続く四川省・
宜賓市
までの官道が延伸され、全長 1,500 km強を越える山間道が整備される。
その道幅がわずか五尺(約 130 cm)しかなかったことから「五尺道」と通称され、今の
曲靖
から 昆明(当時の旧滇国の 王都・滇池は、現在の
雲南省昆明市晋寧区晋城鎮
に開設されていた)へと至る途上で、現在の尋甸県もわずかに通過していた(尋甸自治県 易隆村)。下地図。
秦代、漢代を通じ、滇池の北東エリアに割拠した 滇族、労浸族、靡莫族などの主要な 部族集団(同姓の血族集団)は、長髪で髪を結い、田畑を耕し、集落を形成していたといい、特に労浸族と 靡莫族の居住区は滇池エリアの最北東部に位置し、最前線にあって秦朝や前漢朝と最も早くから衝突を繰り返していた。中原王朝が開設した役所や関所を度々襲撃したという。
一進一退の攻防戦に業を煮やした前漢朝 7代目皇帝・武帝は、紀元前 111年、巴と蜀地方から大軍勢を発し、西南異民族エリアの本格的な征服に乗り出す。ようやく対立関係にあった労浸族と靡莫族を屈服させ、古滇国王もまた前漢王朝に降伏するのだった。上地図。
平定後の紀元前 109年、益州郡(郡都は
滇池県城。旧古滇国の王都跡地。 現在の 昆明市晋寧区晋城鎮)
が新設される。以降、滇池盆地とその北東エリアが前漢朝の直轄地となる。
この時、牧靡県が新設される(下地図)。労浸族や靡莫族らが跋扈したエリアだったため、このように命名されたという(牧靡は靡莫族の別名だった)。その県役所は現在の尋甸県 中心部(仁徳鎮)の北東郊外にある 上古城村、下古城村一帯に開設されたとされる。
また同時に、秦代に開通された五尺道が再整備され、さらに東方の 夜郎国(今の
貴州省
一帯)も朝貢させるべく、中央官僚の唐蒙が派遣されると、そのまま前漢朝に帰順することとなる。この新支配地には犍為郡が新設された(上地図。五尺道がさらに東へ延伸され、夜郎道が整備される)。
以降、
四川省
から ベトナム、ミャンマーの東南アジアや、インド、アフガニスタンなどの 中央アジアへと通じる西南シルクロードが形成されていくこととなる。
時は下って三国時代の 225年、蜀の諸葛孔明が南征軍を率いて当地に侵攻すると、軍事力で圧倒し、地元勢力を再帰順させることに成功する。そのまま地場豪族らを官吏に登用し間接支配体制を構築すると、益州郡が建寧郡へ改称される(上地図)。
郡都は
味県城(今の 雲南省曲靖市麒麟区三岔)
に開設され、味県以下 13県城を統括した(同楽県、談槁県、牧麻県、漏江県、同瀨県、昆澤県、新定県、存邑県、同并県、万安県、毋单県、新興県)。
諸葛亮は、今の尋甸県中心部から南東にある関嶺上に遠征軍の陣営本部を開設し、当地の南蛮部族の連合軍首領らを招いてその帰順を認め、これを記念して会盟碑の石柱を建立させている。今日、孔明を記念して諸葛山と称される山があり、その 西部(今の
雲南省曲靖市馬龍区旧県街道東村、西村あたり
)が陣所跡地にあたるという。
この時代、今の尋甸県一帯は仲札溢源部と通称され、労浸族や靡莫族らの末裔が引き続き、割拠していた。
しかし、 その蜀も 234年に諸葛孔明が死去すると国力は衰え、ついに 263年、魏(後に西晋)の侵攻を受けて全面降伏に追い込まれる。以後、益州全土は 西晋朝(武帝の司馬炎)に併合される。下地図。
270年8月、益州下の建寧郡と、興古郡(宛暖県【郡都】、漏卧県、律高県、西安県、句町県、南興県)、雲南郡(雲平県【郡都】、雲南県、東古復県、西古復県)及び、交州下の永昌郡の四郡が分離されて、寧州が新設されると、45県城を統括することとされた(結局、寧州は 282年に廃止され、益州へ再吸収されると、代わりに南夷校尉へ改編される)。州都は
味県城(建寧郡都。今の 雲南省曲靖市麒麟区三岔)
に開設された。
このとき、現在の尋甸県一帯はそのまま建寧郡に帰属され、引き続き、牧靡県(地元に跋扈した牧靡族や靡族の「靡」)の管轄下にあった(下地図)。
西晋時代後期の 310年、牧靡県が牧麻県へ改称される。発音が同じで、単に漢字を簡略化する目的だったと考えられる。
東晋時代の 346年、今日の尋甸県 中心部(仁徳鎮)が新丁部と命名される。「新丁」とは当時の彝族の族長名をそのまま冠したものだった。後にこの発音が同じ漢語の「尋甸」に置き換えられ、今日の地名へと継承されていくこととなる。
なお、そもそも彝族とは、春秋戦国時代からすでに当地の地場勢力として台頭した血縁部族で、その名が歴史に最初に登場したのが前述の諸葛孔明の南征戦争のときであった。孟獲を筆頭とする 孟氏(孟琰【朱提】、孟干、孟通ら)とともに、爨習も部族リーダーとして孔明の配下に加わったことが記録されており、孔明は蜀の後方地の長期安定を企図して、南中地方(雲南省)の 有力豪族(四姓の族長)を官吏に任命し、現地を間接統治するスタイルを採用する。このときに名前を連ねた、四氏の一人だった彝習の末裔が最終的に雲南省北東部で大勢力を形成することとなり、その実効支配を東晋朝廷が追認する形となったのだった。
しかし二百年を経て、爨氏の末裔らが東西に分裂すると、東爨派は烏蛮を崇め神仏化したため、東爨烏蛮族と通称されるようになり、西爨派は多くが「白蛮」地区に住んだので、西爨白蛮を呼称されるようになる。
この東西二派の爨氏が入り混じる境界線に位置したのが、現在の尋甸県一帯だったという。両者の間では度々、武力衝突が生じており、前述の彝族の 族長「新丁」が東爨烏蛮族の首領として西爨白蛮の勢力を駆逐し、以後、4代にわたって尋甸県一帯を支配したことに由来するという(下地図)。
唐代初期の 618年、山岳地帯から 升麻(解熱・発汗・解毒薬として用いられる 漢方薬のショウマ)がよく採れたことから、牧麻県は升麻県へ改称される。
蒙氏が洱海地区(現代の
雲南省大理市
)に割拠した六詔国を統一し、南詔国を建国すると、南西シルクロードを抑えつつ、勢力を急拡大し、ついに 滇池地区(現在の 雲南省昆明市)までも支配するようになる。
ちょうど この頃(750年)、今の尋甸県エリアは 升麻(新丁部)から潯甸部へ改名される。潯甸部の名が史書に最初に登場した瞬間となった。今日の尋甸県 中心部(仁徳鎮)の東郊外にある上古城村、下古城村一帯が、そのまま中心集落として君臨し続けたのだった。
南詔国の勢力はさらに拡大し、滇西地区から滇東地区へと至ると、もともとの東爨エリアの烏蛮族の統治エリアにまで侵入してくる。
当時、南詔国は北の 吐蕃国(西域ウイグル高原)と同盟して、唐軍との戦闘を繰り返し(3次)、ついに尋甸県エリアに割拠した烏蛮族も南詔国側に帰順することとなり、以後、南詔国の一地方勢力をなして 仁徳部(仁地部、新丁部)と称され、南詔国の三十七蛮部の一角を占めることとなった。下地図。
五代十国時代の 936年、後晋朝により潯甸部が仁地部へ改称され、西部は沙摩部と呼ばれるようになる。
南宋時代、仁徳部(仁徳鎮)に仁徳万戸府が新設される。
元代の 1271年、仁徳府へ改称され、後に潯甸府や潯甸州へ改編される。
明代初期の 1382年、仁徳府が潯甸軍民府へ改編される。
1431年、潯甸軍民府が仁徳府へ戻されると、そのまま
馬龍県
と
高明県
の二県を統括するとともに、復活設置された美県と帰厚県の二県も監督した。
1476年、仁徳府がさらに潯甸府へ改称されると同時に、配下にあった馬龍県と高明県の二県がそれぞれ
馬龍州
と
高明州
として昇格・分離独立すると、残った美県と 帰厚県の二県も分割され、七里に解体される。1550年の統計では、この七里に 1,151 戸、計 20,834名が登録されていたという。
この明代中期、部族長を通じた間接統治体制が見直されるようになり(改土帰流)、中央朝廷から官吏が派遣されてくるようになる。
清代の 1669年、潯甸州へ改編されると(上地図)、
曲靖府
に属した。
1730年、迤東兵備道(後に 迤東兵備道兼水利道へ改編)が新設されると、道台役所が潯甸州城内に併設される。配下には 13府を統括した。
中華民国時代の 1912年、この地は水害被害に度々悩まされたため、住民らの意向により、「氵」を外して、「尋甸」の漢字に改められる。
翌 1913年、全国で州制度が廃止されると、尋甸州が尋甸県へ改編される。
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