BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2015年 9月中旬 『大陸西遊記』~


湖北省 武漢市 新洲区 ~ 区内人口 11万人、 一人当たり GDP 36,000 元(武漢市 全体)


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  邾県城(西陵県城、江夏郡城、南安県城、衡州城、黄崗県城、黄州城、新洲鎮城)
  「孔子使子路問津処」と 新洲問津書院
  新洲区役所の近隣に漂う 官僚接待システム
  三店鎮城
  新洲区の 歴史
  黄祖 VS 孫堅の地(江夏郡都の 西陵県城)
  唐末の二重「黄州城」時代 呉討 VS 杜洪



【 邾県城(西陵県城、江夏郡城、黄岡県城、黄州城、新洲鎮城) 】

武漢市

武漢市武昌区 の中心部で投宿した 7天酒店近くの、博家波バスターミナルから新洲区 行きのバスに乗車する。バスは、途中で高速鉄道駅の武漢駅を経由しつつ、約 2時間で 新洲区バスターミナル(邾城客運駅)に到着した(23元)。

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新洲区内の路線バスは、すべて 新洲区バスターミナル(邾城客運駅)を起点としているので、区内の移動は非常に分かりやすい。
ただし、乗車運賃は一律 2元で、結構高い。武漢市の一区を成すとはいえ、これだけこじんまりした地区を巡る市バスにしては、値段設定にややムリがあるのではないか、と感じた。

武漢市 武漢市

旧市街地を散策してみたが、古城時代を感じさせてくれる遺跡は、全く見当たらない。
地名の一部に、わずかな面影が垣間見れた程度だった。城東地区、南安街、古城大道、沿河大道、邾城街道、護城河路、連城街、城東村 など。

武漢市 武漢市
武漢市 武漢市

唐代には、黄州の州都であり、一帯の 政治、経済、文化の中心地として君臨していた新洲地区であるが、唐末期の 885年に県と州役所が今の 黄岡市 黄州区へ移転されて以降、鎮城へ降格され、以後、1000年以上もの間、単なる地方集落都市に甘んじてきたわけである。

しかし、東側の城壁跡と思わしき、護城河路と連城街をたどってみると、城域はかなり大きなレベルを維持していたのではないか、と推察される。


さてさて、新洲区の東端にあった新洲博物館 を訪問してみたが、全く観覧者がいないのであろう、筆者が訪問して初めて、博物館の部屋の鍵を開けて、電気をつけ出した。

ここの売りは、儒教始祖の孔子が当地を通過した折、第一弟子の子路に河の渡し口を地元民に質問させた際にあった問答のエピソードにあるらしい。
これにまつわる展示で、部屋一つがあてがわれていた。これ以外は、全く見るものがなかった。現在、史跡指定されている 新洲問津書院(今の 武漢市新洲区孔子河村)は、湖北省で残存する唯一の孔子関連の遺跡という(下写真)。

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孔子は紀元前 497年、55歳の時に故郷の魯国を出発し、全国遊説後、紀元前 484年に 66歳で魯国へ帰郷し、以後は文献制作と後進育成に注力したわけであるが、『論語(長沮・桀溺)』には、その遊説の道中であった紀元前 489年(孔子 63歳)の逸話が言及されている。下絵図。

大国・楚の王都「郢(今の湖北省湖北省 荊州市 江陵県の北西部)」への遊説途上にあった孔子は、眼前に広がる河の渡し場を見つけようと、弟子の子路に質問させる。
しかし、そこに居合わせた耕作中の 老農夫二人(隠居していた思想家の長沮と桀溺)に、「天下国家を論じるべく、全国遊説されている孔子先生でも、河の渡り方一つ知らないのか?」「無謀な遊説放浪の旅をせず、自分たちと一緒におとなしく隠居しなさい」と逆にヤジられる。これを聞いた孔子は、「彼らのように世間や世相から逃げていては、何も変えられない。人間の場合は、誰かが志を持って道理を説いて回らないとダメであろう」と嘆いてみせたという。下絵図。

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前漢朝 5代目皇帝・文帝により淮南王に封じられ、当地を統括していた 劉安(劉邦の七男で、淮南厲王・劉長の実子)の 治世時代(紀元前 164年~前 122年)、邾県(今の 武漢市新洲区)下の農夫が、孔子山で耕作中に「孔子使子路問津処」と掘られた石碑を発見する。

高い学識を有した劉安は、その発見場所に亭を設置させ、その石碑を亭内に安置させる(後に紛失)。同時に、孔子山の山麓にあった孔子河の川辺に孔子廟を開設し、学校を併設して以降、数々の王朝の庇護の下、全国でも屈指の学問の地へと成長していくこととなった。


なお、新洲区の旧市街地であるが、紅旗街 沿いの武漢市新洲区役所の向かいには、巨大な KTVがあり、まさに役人接待エリアの一角を成す様子が一目で分かる都市設計となっていた。その横には当地で最高級ホテルである新洲新大酒店があり、重要人物らを接待して宿泊してもらうホテルとなっているのだろう。
一帯は、週末には市民らが街歩きする場所にもなっているようで、ファ―ストフード店のCKLや、百貨店、アイスクリーム屋などがあり、極めつけは日本料理屋まであった(下写真右)。

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なお、適当に新洲区内を走る路線バスに乗れば、起点の 新洲区バスターミナル(邾城客運駅)まで往復しているので、容易に戻れた。上写真左。
新洲区バスターミナル(邾城客運駅)から 17:10発の 武漢市(武昌) 行のバスに乗り込んだ。2時間、23元。


三店鎮城

武漢市 武漢市

新洲区の北側に位置する三店鎮も訪問してみた。新洲区バスターミナルから三店行きのミニバスで 30分ぐらいだった(片道 4元)。

ここにかつて、三店鎮城があった。

武漢市

今では、城門も城壁も全く残されていないが、鎮内の地名に古城時代の記憶が刻み込まれていた。西門口、小南門、大南門、東門村、南橋村など。下写真。

武漢市 武漢市
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三店鎮は非常に田舎で、道路の舗装もなく砂埃が舞う毎日のようであった。
こんな砂利の道沿いに歯医者があり、吹きさらしの施術室にはぎょっとさせられた。。。

鎮内には土壁の旧家も各所に残されており、まだ人々が普通に生活を営んでいた。下写真。

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下写真左は、各家の軒先にあった水道の蛇口たち。
下写真右は、古城地区の路地。電柱と電柱の間を結んで、道路の真ん中に洗濯物が干されていた。。。。

武漢市 武漢市

下写真は、古城地区の東西のメインストリート。

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下写真左は三店鎮の 幹線道路(新洲区行のバス降乗車ポイントでもある)。ここだけはきれいに舗装されていた。道路沿いには、中国農業銀行や中国電信など、大手企業の立派なガラス張りの店舗も見られたが、明らかに、この町では浮いた建造物だった。

武漢市 武漢市

上写真右は、村で唯一の病院。砂利道から砂が舞い込み、衛生環境が心配なのだが。。。

ここの住民らは毎日が暇なようで、昼間から多くの市民らが麻雀やトランプなどの賭け事に興じていた。平和な村だった。


武漢市新洲区の 歴史

新洲区一帯は、早くも今から 3000年余り前には人類の生息が確認されているという。

紀元前 1066年、商国の武王が夏王朝の紂王を討伐して、商王朝を建国すると、現在の山東省 済寧市 鄒城市に邾国が新設される。

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しかし、戦国時代を通じて、魯国や斉国などの周辺国から度重なる侵略を受け、邾国の領土は縮小の一途をたどる。最終的に、南の 強国・楚の半属国となり命脈を保つも、楚の宣王の時代に、邾国は完全廃止され、その旧領土は楚国に併合されることとなる。
こうして邾国の王族とその国民らは、現在の武漢市新洲区邾城街道の一帯へ移住させられ、ここに新たに居所を与えられる。こうして以後、一帯は邾城と通称されるようになる。

秦代、邾城は邾邑へ改編される。

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その秦朝が滅亡した紀元前 206年、覇王となった項羽は各地に諸侯を配置していく。このとき、呉芮が衡山国王に封じられ、その王都を邾邑城に開設した。上地図。

前漢朝を建国した劉邦により、邾邑が邾県へ改編される。

前漢朝 7代目皇帝・武帝の 治世下(紀元前 121年)、荊州内で江夏郡が新設されると、郡役所が 邾県城(今の 武漢市新洲区の中心部)に開設される。

後漢時代の後期、邾県は西陵県へ改称される。引き続き、江夏郡都を兼ねた。
当時、江夏郡下には 西陵県、竟陵県、西陽県、襄県、邾県(今の 黄州禹王城遺跡。湖南省 黄岡市 黄州区禹王城村。東晋時代の 338年に戦火のため廃城となる)、軑県、鄂県、安陸県、沙羡県、蕲春県、鄳県、雲杜県、下雉県、鐘武県の 14県が配されていた。下地図。

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後漢時代 に入ると、襄県と鐘武県の 2県が廃止され、平春県と南新市県が新設される。

なお、後漢末、劉表が荊州長官に任命されていたが、北側の南陽郡長官の袁術と対立し、191年、袁術が孫堅を派遣して、荊州へ侵入すると、国境地帯の 江夏郡(郡都は西陵県城)を守備していた黄祖が迎撃することとなる。下地図。黄祖の最初の本拠地であった 西陵県城(江夏郡城)は陥落し、黄祖は敗走するも、劉表が籠る襄陽城まで攻め上がった孫堅を挟撃し、見事に孫堅を戦死させ撃退に成功する。

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江夏郡を守り切った黄祖の下には、ますます人材が集まるようになるも、黄祖自身の器量の狭さから、彼らを有効活用することはなかった。当初、軽んじていた甘寧を、 部下に勧められ 邾県(今の 湖南省黄岡市黄州区)の長官に任命するのがやっとのレベルであった。上地図。

195年から築城工事を進めていた 郤月城(今の 武漢市漢陽区の亀山の北側山麓)が、翌196年に完成すると、黄祖は、江夏郡の郡役所を 西陵県城(今の 武漢市新洲区の中心部)から郤月城へ移転し、自らの本拠地に定める。

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江東地方を制した孫堅の子である孫策は 3度も、江夏郡の 黄祖(本拠地:郤月城)を攻め圧迫を加えるも(上地図)、200年に暗殺され、孫権が後を継ぐ。

206年、勢力を盛り返した黄祖は鄧龍を総大将として、孫権領の 柴桑県城(今の 江西省九江市の南西部)を攻撃するも、孫権旗下の周瑜により大破されている。
最終的に 208年、孫権の猛攻撃を受けて、本拠地の 郤月城 は落城し、黄祖は戦死することとなる。下地図。

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その直後に、空白となった江夏郡長官として、劉表の長男の劉琦が赴任する。この時、廃城となった郤月城は放棄され、新たに亀山の南山麓に 魯山城 が築城される(上地図)。これが後に漢陽城となるものである。

間もなく、劉表が死去して、弟の劉琮が荊州長官を継承するも、曹操の南下を受けて降伏する。
劉琦は魯山城にあって劉備と合流し、孫権軍とともに赤壁の戦いに臨むこととなる。下地図。

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三国時代、曹魏と呉のそれぞれが江夏郡を設置した。下地図。

曹魏の江夏郡都は当初、石陽県(今の 武漢市黄陂区の東部)に開設されるも、後に 上昶城(今の 湖北省孝感市雲夢県の西南部)へ移転される。下地図。
他方、呉側の江夏郡都は最初、沙羡県(今の 武漢市江夏区金口街)に開設されるも、後に夏口城へ移転される(孫権が公安城から 武昌県城【今の湖北省 鄂州市】へ王都を遷都した際、江夏郡が武昌郡へ改称されるも、すぐ後に江夏郡へ戻され、そのまま武昌県城が郡都とされた。下地図)。

この頃、魏呉の国境地帯に位置した西陵県城は廃止されていることが分かる。すでに後漢末に孫堅に攻められた際、黄祖により放棄されて以降、廃城となってしまっていたのだろう。下地図。
なお、陸遜が劉備軍を撃退した後(222年)、宜都郡にあった夷陵県城を西陵県城へ改称している。

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280年に西晋が呉を滅ぼすと、江夏郡は武昌郡へ再変更され、その郡役所は曹魏時代の江夏郡都である 安陸県城(現在の 湖北省孝感市安陸県)へ統一されることとなる。

時は下って南北朝時代、復旧されていた西陵県城が南安県へ改称される。 一時期、斉安郡や衡州の 郡都(州都)も兼務した。

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隋代初期の 585年、衡州が黄州へ改編される。 605年には黄州が永安郡へ、また 南安県(今の 武漢市新洲区の中心部)が黄崗県へ改名される。下地図。
また、同時に江夏郡と武昌郡も廃止され、鄂州(今の 武漢市武昌区)に編入される。

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唐代の 620年、永安郡は再び黄州 へ改称され、黄崗県城内に総管府が開設される。
総管府は 黄州、蕲州、亭州、南州の 4州を統括することとされ、以後、300年近くにわたり、現在の武漢市新洲区の中心部が黄州と黄崗県の中心都市として君臨することとなる。下地図。

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唐朝末期の兵乱の時代、各地には節度使を筆頭とする軍閥がしのぎを削っていた。そんな中の 883年、杭州城(今の浙江省 杭州市)の守将である董昌が唐朝に対し反旗を翻し、朝廷が派遣した杭州長官の路審中の杭州城入りを阻止する。
このため、路審中は逃亡の途上で、黄州城(黄崗県城)に立ち寄り、ここで兵 3千を募って、鄂州城(今の 武漢市武昌区)を占領してしまう。このとき、鄂州長官の崔紹は病に伏しており、抵抗もままならなかったという。

唐代に 鄂州、岳州、黄州の 3州を統括していた武昌軍節度使の職にあった杜洪は、この路審中の動きに同調し、岳州城を落とし、自ら州長官も兼務することとなる。下地図。

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彼らが占領した鄂州、 岳州の 2州と、元々の黄州の一帯は、大陸中国の中央部に位置し、軍事上の要衝地帯であった。上地図。 路審中は 885年、黄州の州役所を黄崗県城から、後漢時代に起源を持つ 旧邾県城跡(今の 黄州禹王城遺跡。湖南省 黄岡市 黄州区禹王城村。東晋時代の 338年に戦火のため廃城となっていた)へ移転する。

旧黄崗県城跡(旧黄州城。今の 武漢市新洲区の中心部)は放棄され、以後、清末まで鎮城レベルの田舎町となってしまう。この後、黄崗県の西側に位置したことから、黄崗西郷、もしくは旧州とも別称されたという。

間もなく、路審中と仲違いした杜洪は兵を率いて、路審中の討伐を図る中で、鄂州城(今の 武漢市武昌区)を攻略して入城すると、唐朝廷の僖宗より正式に武昌節度使に任命される。
杜企は 鄂州、岳州、蕲州、黄州の一帯を一気に勢力下に治めるべく進軍するも、一帯の地元豪族らの猛反撃に直面する。下地図。

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こうして呉討をリーダーとする地元豪族集団が 旧黄州城(旧黄崗県城跡。現在の 武漢市新州区)を占領してしまうと、杜洪が本拠地とする 黄州城(今の 黄州禹王城遺跡。湖南省黄岡市黄州区禹王城村)と区別され、新黄州城(本当はこっちの方が古いのだが)と通称されることとなる。二つの黄州城の両立時代は 8年続いた。

呉討と杜洪は共に、北の大軍閥であった朱温の配下として勢力の拮抗を保ってきたが、 894年3月、黄州長官(唐朝廷が追認していた)の呉討が、朱温の最大ライバルであった淮南節度使の楊行密へ内通すると、杜洪は 黄州城(今の湖南省 黄岡市 黄州区禹王城村)から出陣し、呉討征伐を試みる。これに恐れをなした呉討は逃走してしまい、黄州の二重統治時代はあっけない終わりを迎える。新黄州城は廃城とされ、黄州役所や府役所、県役所はすべて、後漢時代に起源を持つ 旧邾県城側(今の 黄州禹王城遺跡。湖南省黄岡市黄州区禹王城村)へ合併されることとなる。上地図。これが現在の黄州区、黄岡市の地名として存続されている由縁である。

以後、楊行密は度々、当地への圧力を加え、杜洪は朱温へ援軍要請に奔走することとなる。最終的に 905年、杜洪は楊行密により捕縛され、処刑される。

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旧州と通称されていた 黄州古城(今の 武漢市新洲区)も、時が流れ、人々の記憶があいまいとなる中で、旧州はいつしか新州と呼称されるようになったという。
別の説では、以後も五代十国時代を通じて、戦乱が続き、人々は新しい平和な世の到来を期待して、いつしか願いを込めて旧州を新州へ通称するようになったとも指摘されている。

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明代後期になって「洲」の字が使用されるようになり、 黄州府下の 黄州古城一帯(黄岡県の西部一帯。当時、黄岡県は現在の武漢市新洲区と 団風県、黄岡市 黄州区を統括した)は新洲と通称されることとなる。上地図。

以後、新洲はこのエリア一帯を指す名称として確立されていくわけであるが、 1951年6月21日、黄岡県が東西に分割されるに至り、 新洲鎮から新洲県へ昇格される。
1983年8月、新洲県は武漢市へ編入され、一時、郊県へ改称されるも、最終的に 1998年9月、区制が導入されるに至り、新洲区として再スタートを切ったわけである。


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