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新会区(中心部)会城鎮
訪問日:2018年2月上旬 『大陸西遊記』~
広東省 江門市 新会区(中心部) 会城鎮 ~ 区内人口 80万人、一人当たり GDP 74,000 元(新会区)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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【二代目】新会県城(岡州城、義寧郡城)の 西面城壁 跡地 ~ 城西一路 と 象山
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大西門跡 と 古城壁の範囲
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象山に残る大砲 と 城壁基礎の遺構(元代築城当時のもの)
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象山から一望する古城エリア ~ 全面が平野だった
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【豆知識】新会県城の二重城壁 ~ 旧城 と 新城 ~ ■■■
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慈尊堂 ~ 明代から大西門脇にあった由緒ある 守り神
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携帯パーツ Shop「釣魚島」
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煉丹井 ~ 北宋時代から残る 古井戸遺跡
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新会県 孔子廟(学宮)と 新会博物館
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孔子廟(学宮)の裏手にある 馬山に登る
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感動、馬山で発見した 古城壁跡!
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北面堀川を改造した 北園公園
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東面城壁の跡地 ~ 東関キリスト教会 と 城東路
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南面城壁跡 と 巨大な外堀跡 ~ 岡州大道
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新会区の 近代洋館遺跡 ~ 新会県景堂図書館
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【豆知識】新会区の 歴史 ■■■
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新夷県城(平夷県城、【初代】新会県城、牛肚湾巡検司)と 司前鎮
江門市蓬江区内にある白沙祠を訪問後
、その前の バス停「
白沙祠
」から 103番路線バスに乗車する(2.5元)。下路線図。
約 25分のドライブの後、バス停「城西一路(旧新会バスターミナル)」で 下車(下写真左)。ここから城西一路沿いを南下してみる(下写真右)。
左側には象山が連なる(下写真左)。かなり急峻な斜面だった。
次の バス停「象山」まで歩いてみると、狼煙台風の登山用階段が設置されていた(下写真右)。
下写真は、この登山用階段から、バス停「
象山
」前のロータリーを見下ろしたもの。かつての、大西門跡地である。
いよいよ、象山に登ってみる。
近代以降の都市開発に伴い、新会県城の古城壁や城門などは順次、撤去されてしまったが、この象山上と馬山上にのみ、わずかな城壁が残されているという(下地図)。
下は、新会県城の 全体地図(赤色点線は、明代後期の古城壁の範囲)。
さて
、象山の頂上部はきれいな中国式庭園に整備されており、その脇に清代の 1800年ごろに配備されたという大砲 2門(砲身の長さ約 3 m、重量 1.5トン)が、城外へ向けた形で保存されていた。下写真。
そのまま尾根伝いに象山の遊歩道を歩いていると、やや下りとなっている位置に、いよいよ城壁片が見えてきた。城壁片というより、城壁台座の基礎土塁の残骸、といった感じの土の塊だった。ところどころに、石材らしき、人工的に加工された長方形型の石が見受けられた。
下手に復元されているよりは、これぐらいリアルな城壁遺構の方が見応えを感じる。
城西一路沿いから見上げたように、象山の斜面はかなり急で(下写真左)、その地形を大いに利用して城壁が建造されていたことが伝わってきた。
そのままさらに尾根中間ポイントの「木榕台」を経て、別の尾根を登ってみる。その途中にも城壁片らしき土盛りの跡地が見られた(上写真右)。ほんの数えるだ程度だけだったが、城壁の石材も埋まっていた(下写真左)。
そして
、北端の頂上公園にたどり着く(上写真右)。
ここでは、地元の老人たちの憩いの空間になっており、実際にたくさんのご老人たちが中国式将棋を楽しんでいた。
こうした高齢者の横の交流は、老後の生活において日本でも見習うべき習慣かと思う。外の気温が 13度前後にもかかわらず、こんな山頂部まで毎日、登ってきては和気あいあいと時間を共有しているのだった。
なお、毎年旧暦 8月15日の中秋の名月時、多くの住民らが象山に登ってお月見する風習が古くから続けられているという。
上写真左は、この北端の頂上公園から象山の西面を臨んだもの。この西面から北面へと 90度に屈折する丘陵地帯が、ちょうどいい具合に城壁を補強した高度を有したのだった。
上写真右は、古城エリア一帯を眺めたもの。東と南側は広大な平地が広がっていた。
再び、木榕台まで戻り、ここから象山路沿いに下山する(上写真左)。途中、先ほどの北端の頂上公園の中国式風流亭が遠くに見えた。目で見るとかなりの距離があるようだが、全く疲労感はなかった。
象山路も麓まで来ると、民家が現れてくる。
象山の斜面を利用して建てられた集合住宅地で、その入り口が中国式城門を彷彿とさせるもので、思わずシャッターを切ってしまった(上写真右)。
【
新会県城の二重城壁 ~ 旧城 と 新城
】
象山古城壁遺跡として今日、我々が目にする城壁は、今の象山の北麓を下る辺りに現存する土壁城壁で、元代末年から 明代初期(1368年)に、堅い粘土と土砂を混ぜ合わせ、何度も打ち付けて地堅めされ建造されたものという(約 500 m)。
この 新会県城(今の会城エリア)で、最初に本格的な城壁が建造された当時のもので、城外に掘削された外堀から計算すると、その城壁の高さは 5~6 mはあったと考えられている。
土壁建造から間もなくの 1397年、千戸将の宋斌がレンガと石材による本格的な城壁の建造に着手する。以後、史書ではこの城郭を旧城と指すようになる(下地図の黒点線)。
明代中期の 1474年には、新会県長官の陶魯が子城を築城する。
明代後期の 1573年、兵備僉事の何子明と県長官の伍睿らが主導し、現地の土豪たちが資金を出し合って、外城(これを新城と呼称される)を建造する。
下地図の赤点線
。
こうして、新会県城は新旧二重の城壁を有し、その総延長は合計で 4,521 mにも至る巨大城郭となる。当時、7つの城門と、大水門 3箇所、小水門が 2箇所、設置されていた。
この新会県の新城は、以後、中華民国時代まで継承され、清代に多少の修繕工事が施されるも、各城門と水門群はともに大きな変化もなく使用され続けることとなる。
清代の 乾隆年間(1736~1795年)に書かれた『新会県志』によると、新会県城は広東省内でも三番目に巨大な城域を誇り、
広州城
と
潮州城
に次ぐ規模であったという。
中華民国時代に入ると、都市の近代化が開始され、城壁の撤去が進められて道路の敷設が促進される。最後まで残っていた北門も 1957年前後に圭峰山へ通じる自動車道路の建設で、ついに撤去されてしまったという。
さて
、象山も外面は急斜面だったが、内側は緩やかな斜面だったようで、それに符合するように住宅地が整備されていた(下写真左)。
その象山路と西隅路との交差点に、慈尊堂と古井戸があった(下写真)。
明代から継承された由緒ある廟で、かつて大西門脇の詩書街沿いにあったという。今も、お香が絶やさず焚かれていた(上写真右)。
そのまま西隅路沿いに古城地区内に入城してみると、慈尊堂の東隣 30mあたりに「
釣魚島
」の店看板が目に飛び込んでくる(下写真)。単なる携帯電話アクセサリーショップだったが、その勇ましい看板名に店オーナーの思いをくみ取って撮影してみた。
少し店内に入ってみたが、特に過激な檄文が掲示されているわけでもなく、大都市部から型落ちして流れ着いたような iPhoneケースが並ぶのみだった。
さらに前進すると、南北に走る鎮前路を通過する(下写真左)。かつて役所機関があった付近かと思われる。
さらに東横の朱紫路との交差点で、歩行者天国「星滙広場」前に行き着いた。スターバックス、マクドナルド、香港系のブランド店など、当地の繁華街が広がっていた(下写真右。ここは後述の通り、翌日も訪れることとなる)。附近のマクドナルドで軽食を取ってから、朱紫路を北へ進んでみた。
ここまで
の移動ルートは下記の通り。
朱紫路を少し移動し広辺街との交差点に(下写真左)、「煉丹井」というバス停があったので変わった名前だと思っていると、道路向かいに古井戸が保存されていた(下写真右)。北宋時代からの歴史を紡ぐ古井戸という(1995年に新会区により歴史遺産指定)。
なお
、この新会区エリアでは、バイク・タクシーが 公共機関前や 病院前、歩行者天国エリアなど、要所要所に陣取って営業していたが、客引きの声がけもなく、そのおとなしい営業スタイルにびっくりした。
朱紫路を北上し恵民西路に至った筆者は、その付近の妊幼保険院前から バイク・白タクをチャーターしてみた。新会博物館(下写真)まで 5元だった。
新会博物館は 孔子廟(学宮)の建物を利用して展示室が構成されていた。境内には、明末から清代に鋳造された鉄製の大砲が保存されていた(下写真右)。
すぐ裏手には馬山があり(上写真左)、登山口があった。ちょうどその脇に石塔があったので撮影してみた(下写真左)。この高台の広場では、たくさんの地元高齢者たちが座って話込んでいた。青空老人ホームといった趣だった。
上写真右は、登山道沿いにあった防空壕と思われる入口。すべて閉鎖されていた。
下写真は、馬山の中腹から、孔子廟(
学宮
)の境内、さらに遠方に見える象山を臨んだもの。
さらに登山を進めると(下写真左)、数分で頂上広場に到着できた(下写真右)。
頂上広場はきれいに整備されており、先ほどの象山上と同じく大砲が保存されていた(下写真)。
城壁跡を解説した案内板が遊歩道脇に設置されていた(
下写真左
)。
ここから少し入った草むらの通路から、地元民がわずかに作った険しい坂を下りていくと(上写真右)、城壁面が突然、姿を現した(下写真)!! この時の感動は表現のしようがなかった!!
幅 3cm ほどのレンガが整然と積み上げられた明代建造の城壁だった。
公園内の遊歩道上からは絶対に見れない、崖下に立地していた。この山頂公園内には、他にも複数の城壁片が埋まっていると思われる。実際、斜面上では遺構らしい部分が散見された(下写真)。
非常に大満足し、その余韻に浸りながら
馬山
の北面へ下山する。
すると、その正面に北園公園が広がっていた(下写真)。ちょうど、先ほどの 孔子廟(学宮)の北隣に立地し、かつて動物園だったという緑地公園だ。古城時代の北門外の外堀を改造して、庭園池としたものと推察される。
下写真右は、北園公園内から先ほどの馬山を眺めたもの。やや高い位置に、文廟の屋根も見える。
そのまま東へ移動すると、東関路沿いに東関キリスト教会が見えてくる(
下写真左
)。なお、この教会がある三差路の南側が城東路で、かつて東面城壁が連なっていた場所である(下写真右)。
筆者はこの日、東関路を東進し(下写真)、突き当りの東門路をさらに直進して、岡州大道との円状交差点の脇にあった バス停「潮江里駅」で 123番路線バスに乗車し、
江門市中心部(蓬江区)
へ帰った(約 25分)。
翌日
、
新会区司前区河村墟
を訪問後、再び、新会県城エリアを訪問してみた。
新会西バスターミナルから城西一路を通って、前日同様に象山を経由し、さらに南下して岡州大道まで移動してみた。岡州大道はかつて環城二路という名称で(下写真左)、古城時代には新会県城の南面城壁が連なっていた。
往時には、この南面外堀が最大を誇り(下古地図)、南に流れる潭江へとつながる水運河道を兼ねていた。地図内の右手の茶色ラインが、城壁跡。
しばらく岡州大道を歩いた後、南隅路(
上写真右
)を左折し北上すると、昨日の 歩行者天国(仁寿路)に行きついた(下写真左)。
この歩行物天国沿いに洋館風のハイカラな建物を発見する。地元の文化遺産で、新会県景堂図書館だった(下写真右)。
そのまま 歩行物天国(仁寿路)を東進し、城東路と岡州大道との交差点にある岡州広場沿いにあった バス停「東興北」で 123番路線バスに乗車し
江門市中心部(蓬江区)
へ戻った。
【
新会区の歴史
】
新石器時代、現在の江門市新会区ですでに古代人類の生息があったと考えられている。
秦代、漢代に中原王朝に併合された後、南海郡に帰属され、ようやく記録に残る人類史に組み込まれることとなった。
三国時代の
222年、呉の孫権により平夷県が新設される。県城は、今の江門市新会区司前鎮河村に設置された
。これが、現在の新会区内で最初に開設された行政庁であった。
西晋朝が呉を滅ぼした直後の 280年、新夷県へ改称される(上地図)。
東晋朝が滅亡し、劉宋朝が建国された直後の 420年、南海郡と新寧郡の一部が分離され、新会郡(郡都は盆允県城。今の 江門市鶴山市双合鎮。586年~589年に南朝陳王朝の亡命政権が最後の王都を開設した。唐代の 735年廃城)が新設される。このとき郡下には、宋元県、新熙県、永昌県、始成県、招集県、盆允県、
新夷県(今の 江門市新会区司前鎮河村墟)
、封平県(今の 開平市東部)、封楽県(今の 江門市新会区双水鎮小岡天台)、初賓県(今の 開平市)、義寧県(現在 の開平市古州墟。北宋時代の 972年、新会県に併合)、始康県(現在の 広東省開平市の南東部。隋代初期の 590年に義寧県に併合)の 12県城が配された。その戸籍人口は 1,739戸、10,509名を有したという。
ここに、「新会」の地名がスタートされることとなったのだった。下地図。
隋代初期の 591年、全国で郡制が廃止され、州制へ改編されると、新会郡は 允州(593年に岡州へ改称)へ改編され、また同時に、
新夷県(今の 江門市新会区司前鎮河村)が 新会県 へ改称される
。
隋朝 2代目皇帝・煬帝の治世時代の 605年、岡州が廃止され、南海郡に吸収合併される。あわせて、封楽県が新会県へ、封平県が義寧県へ併合される(すぐに元に戻される)。
唐代初期の 621年、岡州が復活設置されると、新会県、封平県、封楽県、義寧県の 4県を統括した。
唐代初期の 639年、今の 新会区中心部(会城エリア)に新たに城郭都市が築城される。新会県と岡州役所は共にここに移転されることとなった
。上地図。
742年、岡州が義寧郡へ改編されるも、間もなくの 758年に岡州に戻される(新会県と義寧県の 2県のみ統括した)。 唐末の 805年、ついに岡州は完全廃止され、新会県と義寧県は
広州
に直轄されることとなる。
以後、「岡州」の行政区名は歴史から姿を消すも、後に、この新会県出身の華僑らが世界へ移民し、それぞれの地で同郷会を設立したとき、岡州会館と命名され、州都であった栄光時代の名称が復活することとなる。今日でも、「岡州会館」は世界各地に見られるという。
以後、広州西部にあって、新会県は、香山(今の
中山市
)、順徳、恩平、新寧(今の台山市)、開平、鶴山、斗門、江門 などを含む、広大なエリアを統括した。下地図。
明代に入って、新会県の地位はますます栄華を極める。
明代初期の 1371年、新会県城に最初の石積み城壁が建造される(それまでの唐代から続いた県城は、簡易な土壁城壁のみだった)。
その城域は、西は犀山から東は馬山に至る、城壁の全長が 2,178 mにも及ぶという巨大なものになる。
明代末期の頃には、城域は会城河の河畔エリアにまで拡大し、これを取り囲む城壁の全長も約 5 kmにまで至り、新会県城は当時、広東省下でも屈指の規模を誇るスケールにまで成長していた。その城壁規模は、
広州城
と
潮州城
に次ぐ第三位に君臨したという。
この壮大な城壁も、中華民国時代に撤去が開始され、現在では象山と馬山上に数百メートルのみ残っているだけである。
清末に新会県内で新寧鉄道が敷設され、さらに中華民国時代に入り、新会区と江門市鶴山市、江門市中心部と
仏山市
などで急速に自動車道路網が整備されると、新会県城の北東 10kmの地点にあった
江門鎮(今の蓬江区)
が交通の要衝都市として台頭し、徐々に新会県からその中心都市の地位を脅かすようになる。
1925年11月26日には、正式に新会県から独立して江門市が設置されるも、再び、1931年2月26日に新会県に吸収されることとなる。
共産党中国時代の 1951年1月12日に江門市が再設立され、1977年9月22日が新会県をも吸収するに及び、その関係は完全に逆転されることとなった。
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