BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~


広東省 珠海市(中心部)香洲区 ② ~ 区内人口 150万人、一人当たり GDP 27,000 元(香洲区)


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  【初代】香山県城(香山鎮城、文順郷、香山場)と 現存する城隍廟
  前山寨城(城壁、香山城寨)
  九洲城市博物館(珠海市博物館)
  獅子山の 砲台
  淇澳島の 砲台
  唐家湾鎮の 旧市街地
  烟古倫墩頂(現在、頂上部にあるホテル脇に 小石を積み上げた遺構あり)と 観音古廟
  東澳島砦(マカオと香港の間の 海峡にある島)



その昔、五桂山脈(現在の 広東省中山市 中央部に立地する山地エリア)の南端に立地する 鳳凰山(現在の景山公園と板樟山森林公園)には(下地図)、当時、たくさんの種類の珍しい花々や植物が自生しており、地元民らが度々、山へ分け入っては、神仙茶の茶葉とすべく、競って採取していたという。中でも香りの強かったランの花が重宝されたと伝わる(特に、鳳凰山の南面に多く群生した)。

こうしたランをはじめとする香料の産地ということで、地元で「香山(香山島)」と総称されるようになる。なお、つい 1000年前まで香山島は、珠江の河口部の伶仃洋上に浮かぶ離島の一つであり、完全に独立した巨大な島だったのだ(下地図)。

香洲区

また当時、この鳳凰山の北面に深く入り込んでいた浅瀬の湾があり(今の 珠海市香洲区山場村あたり)、南北を高い山に囲まれた良好な湾岸エリアを形成していた。地元では 濠潭(濠潭澳)と通称され、その天然の良港には早くから集落地が誕生していた。実質的に、現在の 中山市、珠海市、マカオ の 3地区にまたがる 巨大島(香山)の中心集落として機能していたのだった。

香山(香山島)」は前後漢時代、番禺県(今の 広州市)の行政区に属し、東晋時代の 331年に 東官郡(郡都は宝安県城。今の 広東省深圳市南山区の南頭古城)が分離・新設されると、これに属した。
当時、この 巨大島(香山)の 沿岸部(山場、坦洲、拱北、下栅など)には塩田が広がり、人々は海水を囲み込んで水を熱し、塩を採取していた。また、香山島の西側は金斗湾と通称されたことから、西側は金斗湾塩場、東側は香山崖銀場と総称されていた。

唐代初期まで、この金斗湾までを含む香山島一帯は、東岸の東莞県下に統括されており、両者は海をまたいでの行政区となっていた(下地図)。
このため、東莞県は下部組織として、香山島の最大集落地だった 濠潭(濠潭澳)の 港町(今の 珠海市香洲区山場村あたり)に出張所を開設し統治していた。この集落地は当時、文順郷(香山場とも別称)と呼ばれ、現在の 中山市、珠海市域一帯を統括する最初の行政機関となっていた。

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唐代中期の 757年、宝安県(今の 広東省深圳市南山区の南頭古城)東莞県(今の 広東省東莞市莞城区)へ移転・改称されると、香山島はそのまま東莞県に帰属する。
直後に、東莞県役所は香山島上の集落拠点・文順郷を香山鎮へ昇格させ、現地に守備部隊を配備する(上地図)。沿岸の塩田を海賊の襲撃から守るべく、また、それらの塩製品を安全に輸送できるように、軍隊が派遣されたというわけだった。当時、鎮単位の武人将軍は県長官と同等の権限を与えられていた。

このまま北宋時代まで香山鎮が継承される。
1082年、徐九思(香山鎮出身の進士)が 広東運判(塩の 流通・生産を管理する 地方官吏「従六品」。運塩司)に着任すると、時の 鄂州通判(中央から派遣された州役所の監視役人)・梁杞と協議し、朝廷に香山鎮を香山県へ昇格させるように上奏する(下地図)。

しかし、香山郷の経済開発はいまだ未熟で、農業生産高も低いままとなっており、商業都市の形成も遅々として進まず、手工業の基礎も未熟であったため、県への昇格は時期尚早として却下される。

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この上奏から 70年後の南宋時代の 1152年、時の 香山寨官(海岸エリアの防衛武官、鎮役所の一機関)で、仁厚郷(今の 中山市 石岐区)出身の進士であった陳天覚が、行政上、引き続き 香山島を統括していた東莞県長官の姚孝資を説得し、「香山地区は東莞県下に属するも、ここで生産された塩製品を船で海上輸送する際に、多くの海賊船にねらわれる事件が頻発しており、これを警護する軍部の負担も大きい」とし、南宋朝廷に香山島の軍役を東莞県下から広州府下へ担当変えしてもらえるように進言する。
ついに、朝廷はその上奏を許可し、広州府下に新たに香山県を新設する運びとなる。
当時、南宋朝廷は華北の金朝と死闘を繰り広げており、軍遠征&財源として食糧や塩の生産と補給が第一の国家事業とされていた非常事態の時代で(下写真)、この姚と陳両名の上奏は容易に、朝廷を動かすことができたのだった。

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しかし、南宋朝廷(王都・臨安)の香山県への関心は薄く、県役所の新設には至らなかった。朝廷の関心は香山県下から生産される食糧と塩、租税だけだったのだ。
中央朝廷から遠く離れた珠江河口部の小さな県役所は行政区としての関心は特に払われず、以後、17年間もの間、香山県の長官職は空席のまま放置される。陳天覚がその空席の期間中、香山寨官の身分で、県長官業務を司った。陳天覚はそのまま実質的な県長官職を一代で 17年間も担当し、県制度が導入される前に寨官として香山鎮の監督行政に従事した期間を含めると、香山島で実に 27年間も行政長官を務めたことになり、珠海市の歴史上、最長記録の行政官とされている。

新たに新設された香山県は、もともと東莞県の西部を成した 香山鎮(旧・文順郷)がそのまま分離される形となっており、さらに 南海県、番禺県、新会県の三県下の海岸エリアに位置した集落も追加されて、10郷から成る県行政単位として誕生していた。

県城もそのまま 香山鎮城(旧・文順郷。今の 珠海市香洲区山場村)が継承され、朝廷から直接的な県城の築城命令が発せられることもなかった。
こうした朝廷の遅々とした対応に業を煮やし、香山寨官・陳天覚の主導の下、県城の建設計画がまとめられる。地元からの徴税と人夫動員が進められ、新たに 石岐平野(現在の 広東省中山市 石岐区孫文西路あたり)に、1154年より建設工事が着手される。2年後に完成を見ると、鉄と土砂を混ぜ合わせたレンガ材を積み上げたことから、鉄城との異名もとることとなった。こうして、【二代目】香山県城が誕生する。



 【二代目】香山県城

建設予定地として、東に石岐山が、西側に蓮峰山、北側に庫充河が立地し、南側に岐頭涌の平原地帯が広がる、開けた土地が選定された。

こうして、東門(启秀門)は、現在の孫文中路沿いの月山公園内に、南門(阜民門)は今の民生路と民族路との交差点に、西門(登瀛門)は今の民族路と孫文西路との交差点にある西山寺の麓に、北門(拱辰門)は今の 拱辰路と太平路との交差点にあるガジュマルの樹のあたりに立地するよう、設計が進められた。
なお、これら各所には、今日現在でもわずかな城壁遺構が残されている。

県署衙門(県役所)は、県城内の中心部に配され仁山の南側、すなわち、今の孫中山紀念堂の一帯に開設されていたという。



以後、現在の珠海市域に県城が開設されることはなく、中山市 に統括される沿岸部という位置付けに落ち着くこととなる。

しかし、【初代】香山県城(今の 珠海市香洲区山場村あたり)跡地は、大幅に住民人口が減少したものの、引き続き、一定の集落地が存続し、以後も香山県域の南端を統括する拠点であり続けた。
残った住民らにより旧県城内の城隍廟は保護され、今日まで継承されている。


2006年に珠海市香洲区の保護遺跡に指定された、現在の珠海市香洲区山場村に残る城隍北帝廟であるが、史書によると唐宋時代にすでに建立されていたとの記述が残っているという。香山鎮や香山県役所が廟を建て、修繕を担当しつつ、祭祀や地元民らの集会所を兼ねたという。

明代、清代には城隍廟信仰もますます高まり、幾度もの建て替えが実施される中で、境内は壮麗さを増していったのだった。
城隍廟と北帝廟を合体し 1つの廟所を形成しており、前殿、中庁、后廟が縦長に連なる三合院スタイルとなっていた。前殿は 天神「北帝」を、后殿は 地神「城隍」を意味し、二つの神廟で一つを成したので、天地合一の意味が含意されていたとされる。これが、当地の城隍廟の特色となっているという。



南宋末期、皇帝らを有した亡命政権の逃避行に多くの軍民が随行し、その滅亡後(崖山の戦い)、多くがこの珠海市一帯の海岸エリアに住み着くこととなり、人口が急増する。
こうして元代以降、香山県の経済開発は急速に進展を見ることとなった。

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時は下って明代後期の 1553年、濠鏡澳(上地図。今のマカオ半島の南岸部、リスボア・ホテルなどの一帯。「澳」は入り江の意)が、ポルトガル人に租借される。
長期滞在用のコロニー化を図るポルトガル人らに対し、警戒心を強めた明朝廷は 1574年、国境監督所(関閘)を設置する。また、香山県本島(蓮花茎とも別称)や周辺の諸島群を防備すべく、マカオ半島 から北へ距離 10 kmの地点にあった山裾の平地部に軍の駐屯基地を開設する。

明末の 1621年、この駐屯基地に土壁が建造され、正規軍の常駐地となる。これが 前山寨城(珠海市前山鎮の旧市街内)で、マカオ半島のポルトガル人らに対する監視と軍事的けん制を意図された。

この時代、前山塞城を司ったトップは 参将(正三品 歩軍営)で、当時、広東省下にあって参将武官クラスはわずか 7名のみの中、そのうちの一人が当地に赴任していたのだった。その本部として参将府が開設される。

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1649年、尚可喜(1604~1676年)が平南王として華南地域を領有すると(上地図)、常駐兵を 1000名に拡大する。その直前の 1648年には駐屯兵 500名の記録が残されており、倍増されたことになる。
三藩の協力体制の下、大陸中国の大部分を平定した清朝であったが、福建省の一部と台湾島は未だ鄭氏政権が強い勢力を保持し、日々、戦闘が続行されていた。
そして 1664年、ようやく金門と廈門にて鄭氏政権の主力を撃破すると、さらに圧力を強化すべく、福建省、広東省の海岸沿いの防衛網の整備を進める。
この一環で、翌 1665年、前山寨城の 参将(正三品 歩軍営)をワンランク・アップさせて 副将(従二品 歩軍営)とし、さらに兵士を増派し、駐屯兵を 2000余りまで拡大させる。軍馬も 100匹余りが送り込まれ、步兵 700、水兵 1000名余り(大小 50の船舶)、騎馬兵がすべてそろった本格的な正規軍が配備されることとなった。それぞれの分隊の各階級の司令官も常駐する、まさに軍の遠征基地といった様相であったという。引き続き、マカオ国境(関閘)と マカオ半島周辺の島々 の防衛を司った。

1680年、三藩の乱が平定され、守備兵らは清朝直属の指揮系統に組み込まれる。
そして 1717年、前山寨城は石材と粘土を使った本格的な城壁へと大規模改修が手掛けられ、面積も大幅に拡張される。下絵図。

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前山寨城の周囲に建造された粘土と石材を積み上げた城壁は、高さ 3 m、根底部の厚さ 1 m(上部は 0.67 m)で設計され、全長は 1,583 m にもなったという。そして、67 m ごとに約 3m出っ張った子城が増設され、のべ 80 m 分にも達していたとされる。

城門は 3ヵ所に設置され、南門(前豊門)、東門(物阜門)、西門(晏清門)と命名された(上絵図)。北面はすぐ目前に山が迫っていたため、城門は設置されなかったという。
当時、すぐ南面まで海岸線が広がっており(下古絵図)、海岸からの侵入が想定される西門と南門の 2城門上には兵舎と砲台が増設されていた。
また、城内には 衙門、兵房、軍装局、兵房、関帝廟、火薬局、演武亭の建物が建設される。
その城郭の堅固さと規模は、当時の 香山県城(今の 中山市 石岐区)と同等クラスの装備を誇り、香山県下で No.2 城塞として機能していくととなる。

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マカオ半島でポルトガル人らとの民事トラブル案件が日に日に増す中、その事務処理を迅速化すべく、1730年、清朝廷は前山寨内に「香山県分防マカオ県丞」衙門という役所を新設し、外国人絡みの民事案件を専門処理するようになる。この県丞衙門が、前山寨内に設立された文官管理の役所機構の最初であった。

続いて乾隆帝は 正七品(県レベルの文官)の県長官職が有する権限があまりに少ないため、正五品(府レベルの文官。府長官は従四品)の広州府副長官を新設し、広州領域の海防事務が膨大とある中、これを分担する職務として赴任させる。
1743年、広州府(番禺、東莞、順徳、香山等の海防を統括)下の支部の一角として海防軍民府同知署の開設が決定され、翌 1744年にその役所が城塞内に入居される。マカオ海域に関する事務を管轄したことから、「澳門同知」と通称されることとなる。
このとき、県丞衙門の役所はマカオ半島内の望厦村へと移転され、その跡地に軍民府が入居することとなった。

こうして、正式に文官管理システムが導入され、前山寨城は単なる軍事駐屯基地としての機能から、防衛、行政管理を一体的に取り扱う政治機構へと様変わりすることとなる。
1809年、前山営の役所建物も完成する。

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なお、英国との対立が決定的となる中、前山寨城も軍事拠点としての重要性がますます高まっていく。
1839年、欽差大臣の林則徐が前山寨城を視察した折、守備長官は 副将(従二品 歩軍営)から駐軍将領へ昇格され、一師団を統括する権限が付与される。中央からさらに水軍・陸軍らも増派される。

翌 1840年、アヘン戦争が勃発すると、イギリス軍は九洲洋からマカオ附近の海域へ侵入し、一部の上陸軍が陸路より国境の関閘を突破し、前山寨城へ猛攻撃をしかける。しかし、守備兵らは良く戦い、海軍力を発揮できなかった英国側は 10数名の死者を出した時点で撤退することとなった。

最終的に清朝は南京条約締結を経てアヘン戦争で大敗すると(1842年8月。下地図)、マカオ半島内のポルトガル政庁は、防衛網の復興がままならない清領の離島や 香山県南部(現在の珠海市域)への侵犯を繰り返すようになる。
マカオ半島内にあった地元中国人の集落地も露骨なポルトガル人の暴力をうけることとなり、そのうちの一つの村(望厦村。下地図)に開設されていた県丞衙門の役所も強制閉鎖に追い込まれ、ついに前山寨城内に再移転されてくることとなった(1849年、ポルトガル総督フェレイラ・アマラルの 刺殺事件に関する報復措置)。

なお、下地図の望厦条約が締結された場所こそ、このマカオ半島内の望厦村に開設されていた清朝方の県丞衙門の役所であった(現在の林則徐紀念館あたり)。ここでマカオに一時滞在中のアメリカ特使との交渉が重ねられ、最恵国待遇の条件下で、アメリカとも南京条約同様の不平等条約が締結されたのだった(1844年7月)。

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前山寨海防同知もこのポルトガル人らの不当侵略に対し、都度、軍隊を出動させてはトラブル防止につとめるも、すでにその権威も治安能力も完全に失われていた。
1864年、ポルトガル側の軍はついに前山寨城内にまで侵攻し、マカオ半島を統括する県丞衙門が先の事情で臨時転入されていた石将軍廟ごと破壊し、勝手にマカオ独立を宣言することとなる。これに際しても、清朝政府は何らの抵抗もできなかった。

1887年、清政府とポルトガルとの間で 中葡和好通商条約(葡清条約)が締結されると、正式にマカオ半島における主権が喪失される。あわせて、両国間で拱北国境を介した正式な通商交易体制がスタートされることとなった。

ここに至り、清朝はマカオ半島におけるポルトガルの直接的な勢力拡大を防ぐ目的だった前山寨城の重要性を再認識し、修繕されず放置状態だった城壁を再び改修することとなる。

改修後、新たに前山寨城に配備された清の正規軍であったが、1911年 10月10日、武昌蜂起が起きると(辛亥革命スタート)、翌 11月、マカオ同盟会に呼応し決起することとなり、香山県と広東省での辛亥革命の重要なけん引役を担うこととなるのだった。

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中華民国が建国されると、守備隊は解散されるも、前山寨城は一時的な軍の駐屯基地などに使用され続けることとなった。
後に蒋介石の国民政府内部で中央委員にまで上り詰めることとなる 鄧演達(1895~1931年)が 粤軍第一師参謀にあった際、ここに駐屯し、アヘン禁止を願う禁烟亭を建立している。
1924年には、後に中国共産党幹部となる 葉剣英(1897~1986年)もまた、粤軍第二師軍を当地に駐屯させ、後に香洲へ進軍させている。
以後、公的な利用記録はなくなり、共産党中国時代も放棄された。城壁の修築整備は滞り年々崩落していったという。

現存する 北面城壁(前山鎮にある逸仙路沿い。この道路は、大陸中国で最初に孫中山を紀念した亭が設置されたことに由来するという)は 136 mで、南面城壁は 24 mのみという。いずれも、加工した石材を積み上げたものとなっており、その上部は土壁が連なっている。底の厚さは 2.4 m、高さは 3.2 mという。
1986年、珠海市政府により歴史遺産に指定される。

かつての東面城壁は、今の前山百貨大楼と糖果工場の一帯に立地し、また西面城壁は西門大街沿いに、南面城壁は前山房管所あたりに、北面城壁は前山中学の前に相当し、その専有面積は約 15ヘクタール(約 15,000 m2)あったことが分かっている。
中華民国時代に公的管理を放棄された古城内には、住民らが流入し、庶民市場(貿易墟市)が開設されて、古城資材はこの時代に民間へ流用されていったと考えられる。



 【 唐家湾鎮 】

唐家湾鎮へのアクセスは、香港ーマカオ大橋の国境・大橋口岸交通ターミナルから 3番路線バス、もしくは、マカオから陸路で珠海市へ至り拱北国境エリアから出発の場合は、 10番路線バスで移動できる。

当地の旧市街地に残る唐家古鎮は、清末民初の近代中国における華南地方と西洋建築様式の融合スタイルの家屋が数多く残っており、会同古村などの古民家建筑群も含め、非常に見応えがある風情を漂わせている。
また、この近代以降、唐家湾から輩出した人材は、政治、経済、軍事、文化、教育、外交、農業等、多くの分野で活躍している。特に清朝の晩年、120名の官費留学生が海外へ派遣された際、唐家湾出身者はその中の 13名も占めていたという。
彼らは中国の近代化に大きな足跡を残しており、故郷に錦の御旗を持ち帰ることとなる。稼いだ資金を投入し共楽園や望慈山房を造園したり、唐紹儀故居、蘇兆征故居、蘆慕貞故居、唐国安故居、古元故居などの旧家や、栅蘆氏宗祠などの廟所がそのまま残っている。


当地の歴史も古く、4000年以上前の新石器時代の 集落遺跡(沙丘遺跡や東澳湾遺跡)が淇澳島内で発見されており、すでに古代よりこの海岸沿いに人類の生息があったことが確認されている。3000年前には階級社会が誕生し、集落社会の大規模化が進展したと考えられている。

当地に最も早くに住み着いた中国人は、江、程、馮の三姓の一族とされ、初期は三家村と通称されていた。唐代、宋代以降に、釜涌境へ改称されたという。
この「釜涌境」の地名が最初に史書に出てくるのは 1000年以上前で、「北宋朝時代、広州府から南へ百余里にある釜涌境では、銀を含有する鉱石が海岸エリアでとれたため、人々が争って採取していた。ある者は一族で移住し銀採取に専念しており、…」という文言とされる。
後になって、形成された集落の形状が魚の養殖漁場に似ていたことから、塘家村と通称されるようになる。

時が下ると、塘家村には 唐、梁、鐘、何の四姓を中心に、他にもいくつかの姓の氏族が混在して居住するようになっていく。
最終的に唐家の一族が集落内で多数派を占めたため、塘家村は唐家村と通称されるようになる。

なお、当地で最大勢力を誇った唐家の祖先である唐紹堯は、南宋時代の 1205年、朝廷が華南地方の東部にある 珠玑古巷(今の 広東省韶関市南雄市珠玑鎮)に逃亡中の宮廷女官の蘇氏を捕縛すべく兵を派遣した際に、同地へ移住することとなり、その子孫が珠玑古巷から 淇澳島、塘家村、鷄山などへ移住したことで、当地に根付いていったという。
また、梁家の祖先である梁応元は、南宋末期の 1272年に 始興県(今の 広東省韶関市始興県太平鎮)から移住してきた人物であった。

この唐家と梁家は唐家村の二大姓の氏族となり、各世代を通じて通婚が進んでいくこととなったのだった。
清代の 1800年ごろに至ると、集落内の居住人口は 1,800人以上を数えるまでになり、この時代になると、盗賊らの襲撃から身を守るべく、集落の周りには石垣が建造され、龍慶門、万安門、享衢門、启明門の四城門が設置されたという。

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また、唐家村と対岸の淇澳島との間にあった 海峡「金星門」は、珠江三角洲エリアにおいて、重要な水運交通の要衝となっていた。
これに伴い、欧米などのアヘン商船らも多く通過、停泊する海峡となっており、大規模に密輸アヘンが陸揚げされていたという。この取締りのため、広東水師提督の李增が軍隊を引き連れて唐家村に駐屯するようになる。彼は、この金星門を土砂や石で埋め立て、船舶の運航を阻止しようと作業を始めるも、結局、水流が激しすぎて工事は頓挫することとなる。

アヘン戦争で清朝が大敗し、いよいよ対外開放の時代に突入すると、もともと外洋船や海外交易を身近に感じていた唐家村の人々は果敢に海外渡航や事業に乗り出していくこととなる。

唐廷枢がここ唐家湾から香港や上海へと至る定期航路を開設すべく、輪船招商局(中国最初の汽船航運会社。1874年、北洋大臣兼直隷総督李鴻章は,イギリス,アメリカの航運会社に対抗するため,民間から資本を 募集(招商)し 半官半民(官商合辧)の輪船公司招商局を設立した)を創設すると、直接、当地からの海外航路が整備されたのだった。この事業に成功した彼は、後に開平砿務局の創設にも関わることとなる。
海外航路の開設に伴い、19世紀のアメリカが描いた世界地図に唐家村の地名が記載されるまでになる。

また、太平天国の乱が大陸中国を席巻した時期、唐家村の海岸沿いには太平天国軍の大小の船舶が 200隻ほど集結したことがあり、その一部が上陸して唐家村に野営陣地を設置していたという。

さらに時は下り、1895年に 孫文(1866~1925年)が第一次広州決起を行うも失敗すると、夜陰に紛れて船で唐家村まで落ちのみ、ここで身を隠したという。当地の友人である唐雄が手助けし、変装させてマカオへ逃亡させている。

最終的に辛亥革命が成功すると、孫文は唐家村での恩やすでに定期便が運行していた海外航路港の将来性を重視し、唐家村のさらなる開発計画を策定することとなる。
さらに孫文は唐家村を広東省の第二の重要港として宣言し、その地形上の優位を力説して海軍司令の程璧光に唐家村に軍港を指示するなど、相当な力の入れようだったという。

1925年に孫文が死去すると、その遺志を組んで、1929年、中華民国政府は孫文の出身地である 中山県(旧・香山県から孫文にちなんで改名されていた)を全国模範県として指定し、省レベルの厚遇を与えることとなる。国際免税交易港である「中山港」の開設なども検討されたという。

さらに、1932年3月、孫文と親交の厚かった、唐家村出身の 唐紹儀(1860~1938年)を中山県長官に任命している。彼は 1912年3月に中華民国政府が樹立されると、初代中華民国国務総理となった人物でもあった。
この唐紹儀の名声と唐家港の開発計画が相乗効果を発揮し、中山県役所も 旧香山県城(今の 広東省中山市石岐区)からこの唐家村へ移転されることとなる。この 5年後、唐家村に小規模ながら本格的な近代港湾施設が完成を見る(中山港)。
この頃から、中山県の海岸部は唐家環と通称されることとなり、これが回り回って、今日の唐家湾という地名につながっていくわけである。



 【 淇澳島 】

淇澳島は珠海市の 中心部(香洲区)の北東 13 kmにある 島(面積 23.8 m2)で、珠江口内の西岸に立地している。対岸の唐家湾鎮をはじめとする大陸側との距離は 1.2 kmで、戸籍上の島民人口は 2,189人(2016年)という。
基本的な地盤は花崗岩で構成され、表面は黄沙粘土が覆い、長い年月かけて島の 90%が森林となっているのだった。

唐家汽車客運バスターミナルから、85番路線バス(唐国安紀念館 ⇔ 淇澳北)に乗車する(下地図)。

香洲区

淇澳島(別称:金星山)自体の歴史は非常に長く、 島内で発掘された沙丘遺跡や東澳湾遺跡は 新石器時代末期の漁業狩猟生活集落の遺跡とされる。
この他、島内には宋代に建立された淇澳祖廟、また明代の天后宮、清代の文昌宮等などが現存し、さらに樹齢 280年にもなるガジュマルの大木が残っているという。


本島で特に有名なエピソードは、アヘン戦争前に勃発した淇澳島の島民とアヘン密売外国人らとの間で勃発した、いざこざであった。

1833年(旧暦)10月13日(新暦 9月1日)正午ごろ、淇澳島民の蘇上品ら 4人が金星門の港湾エリアで漁業を行っていると、同村の郭亜祥が「外国人が牛を盗んだ」と叫ぶ声を耳にする。蘇上品らが岸へ上がってみると、まさに外国人が牛を引っ張っていこうとするところをだったので、そのまま窃盗人として捕縛したのだった。
同村の自警団は牛窃盗犯が外国人ということで役所へ届け出ることなく、そのまま釈放する。

同日夕方、約 50人を越える外国人らが村内に殴り込みにやってきて、村民に言いがかりをつけて喧嘩を始め出した。その騒動を聞きつけた村民らが一斉に集結してくると、多勢に無勢となって外国人らは一目散に退散することとなる。
しかし、その中の一人が転倒し取り残されると、剣と猟銃をつかって追いかかる村民に反撃を加えると、蘇上品の腹に刀剣が突き刺ささり、そのまま死亡してしまうのだった。

先に逃げた外国人らは逃亡の途中で、地元民の郭名秋とその従者の黄亜仰が田んぼで農作業をしている姿を目にすると、郭名秋を誘拐し、そのまま船に載せて引き上げてしまう。従者の黄亜仰は必死の思いで助け出そうとするも、外国人らに発砲されて負傷すると、後にその傷がもとで死亡してしまうこととなった。

10月15日(新暦 9月3日)、商船団長マーチは商船十隻余りを引き連れ、淇澳村の前までこぎつけると、村めがけて一斉射撃を加える。その突然の攻撃に抗議した防夷千総の倪応龍に対し、外国商船団は「この村は従順でないので、壊滅させるのみ」という一方的な回答があるのみであったという。
その日、村民の一人であった孫亜福がちょうど村前の海で漁業を行っており、逃げ遅れたため、外国人の猟銃で負傷させられている。

清朝地方政府はこの外国船の襲撃事件の報告は入るや、すぐに兵を派遣し、村に駐留して、防衛警備を強化することとなった。あわせて、両広総督、澳門同知、香山県令などが英国商船団に向けて警告を発し、誘拐された郭名秋の釈放を要求するとともに、凶器となった猟銃の提出を指示する。そして、外国船舶は内陸部に侵入しないように再訓告を出したのだった。

この事件は、アメリカ人の モース(Hosea Ballou Morse、1855~1934年)が 1920年代記した 名著『東インド会社対華貿易編年史』の中で言及されており、英国船長グラントによると、外国商船の壊れた船体から銅材や鉄材を引き抜こうとしたいた窃盗犯の地元中国人を捕まえたという報告が記載されていたという。その直後、彼は武装船団を引き連れて淇澳島へ侵攻し、到着早々に村落に向け発砲したとし、あわせて島民側からも反撃の発砲があったと触れている。

なお当時、こうした散発的な極地的トラブルは、珠江沿岸エリアで頻発していたという。

このアヘン戦争前夜の清代後期、アヘン密輸を手掛ける多くの外国商船が珠江沿岸部に航行しており、特に淇澳島と唐家村との間の 海峡「金星門」には、多くの外国船が停泊し、夜陰に紛れて密輸アヘンが大量に陸揚げされていたのだった。
この外国商船の船員らは度々、淇澳島や唐家村に上陸してきては地元民らとの間で度々、騒動を起こしており、東インド会社による公式記録にも多くのトラブル事案が記載されていたという。

例えば、1833年 8月17日、淇澳島の地元民一人が英国籍のアヘン商船上の貨物を盗もうとしたという理由で捕縛され、そのまま金星門の海峡上に停泊する船内に監禁される。中国国民は清朝側が裁くという法的取り決めを無視した英国船の対応に抗議した澳門同知は、英国商船側に犯人の引き渡しを要求し、無事に保釈されることとなった。

また別のケースでは、1833年 9月7日、地元民の黄亜秀の父子 3人が魚を売りに海へ出ていると、金星門に停泊中の外国船員らとの値段交渉の折、船員側が強引に値切って買おうとしたため、双方で言い合いとなり、外国人側が黄亜秀を推して海へ突き落すと、そのまま溺死させてしまったのだった。

こうした一環で、同年 10月に淇澳村へ武装商船団が報復急襲した事件も記載されていたわけで、まさらに当地に停泊中のアヘン密輸組織船団の一員らであったわけである。
なお、この砲撃事件の解決金として商船団側は賠償金を支払い、その資金を元手に 1836年、淇澳島のメインストリートである白石街が石畳に整備されたという伝承が残るも、この事実を裏付ける歴史資料は未だ発見されていないという。

こうしたアヘン戦争前夜のアヘン密輸商人らの横暴事件は、香港でも報告されている通りで(1839年 7月、尖沙咀村で起こった英国水兵による 林維喜撲殺事件)、詳しい資料整理が待たれる分野となっている。



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