BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年2月上旬 『大陸西遊記』~


広東省 珠海市(中心部)香洲区 ① ~ 区内人口 150万人、一人当たり GDP 27,000 元 (香洲区)


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  山場北帝城隍廟(文順郷城、香山鎮城、【初代】香山県城)
  前山寨城(香山城寨)
  九洲城市博物館(珠海市博物館)
  獅子山の 砲台
  淇澳島の 砲台
  東澳島砦(マカオと香港の間の 海峡にある島)



珠海市の中心部を構成する香洲区には、2つの古城が存在した。

香洲区

一つは、明代にマカオを占領したポルトガル植民者らを監督するために設置された 前山寨城(上絵図)と、もう一つは唐代初期に設置された県役所の下部組織の文順郷城である。後者は、後に 香山鎮城(唐代中期)、さらに 香山県城(南宋時代)へと昇格され、実に 400年もの間、今の 中山市、珠海市一帯を統括する拠点だった場所である。香山県城だった時代は数年で、すぐに今の 広東省中山市 の中心部へ移転されることとなった。

香洲区

この 初代「香山県城」の跡地であるが、現在はマンション開発されてしまっており、全く遺構が残されていない。
しかし、香洲区書香路沿いに、唐代から継承されてきたという山場北帝城隍廟が保存されており(下写真)、2006年に地元の珠海市香洲区指定の史跡となっている。

唐代に文順郷城が築城されて以来、郷役所や鎮役所はこの廟を保護し、また、他方で地元民らに集会所や祭祀場を提供してきたとされる。明代、清代には城隍廟信仰がますます高まり、県城が中山市へ移転されて以降も、旧城内に残されていた城隍廟は保護され、適宜、修繕が施されてきたという。

幾度もの建て替えを経てきた城隍廟と北帝廟であるが、あわせて一つの廟所を形成しており、前殿、中庁、後廟の三つに分かれていた(下写真)。
前殿は天神北帝を、後殿は地神城隍を意味し、二つの神廟で一つを成したので、天地合一の意味が包括されているといい、当地の城隍廟の特色となっているという。

香洲区


【 香洲区の 歴史 】

現在の珠海市一帯は、前後漢時代、南海郡下の 番禺県(現在の広州市)の管轄下にあり、東晋時代に東官郡が分離・新設されると、東官郡下の郡都・宝安県(今の 広東省深圳市南山区の南頭城跡)に属した(下地図)。

香洲区

北宋時代まで、珠海市域は珠江の河口部に広がる伶仃洋上の島の一つを成しており、海上に浮かぶ巨大な独立系の島であった。この遠浅の 島嶼エリア(今の 中山市 坦洲鎮を含む)は当時、金斗湾と通称されていたという。
現在の珠海市内の 山場、坦洲、拱北、下栅などの地には、海水を囲み込んだ塩田の水を熱し、塩を採取する作業場が広がっており、金斗湾塩場と総称されていた。

珠海市域は東莞県下に帰属しており、唐代初期、宝安県 役所は下部組織として 文順郷(今の 珠海市香洲区山場村)を新設し、当時、独立系の島全体を統括させることとした。その範囲は、今の 中山市珠海市 エリア一帯を内包するもので、珠江の西岸河口部で最初の行政機構が設置されたことを意味した。

この時代、文順郷役所が開設された土地は濠潭とか濠潭澳と通称されており、文字通り、海辺の海岸線沿いに位置していた。ここは、現在の珠海市洪北エリアのやや北部に相当し、香山場とも別称されていたという。
この香山の地名であるが、当時、鳳凰山の 香山崖(今の 珠海市香洲区銀坑村)から現在の珠海市内にある吉大街道沿いの香炉湾に至るエリアに神仙花卉がたくさん咲き乱れており、人々はこれを採取して生活していたことに由来するという。

香洲区

唐代中期の757年、宝安県が 東莞県 へ改称されると、そのまま東莞郡東莞県下の文順郷が継承される。
同時に、香山地区の豊かな塩田を海賊の襲撃から防衛すべく、また、それらの塩制品を安全に輸送できるように、東莞県役所は 文順郷(別名、香山場、香山寨)内に軍隊を駐留させ、香山鎮へ昇格させる。
香山鎮の管轄エリアは引き続き、その巨大な島全域とされた(下地図左)。当時、この鎮城の軍事長官は県長官と同等の行政権限を与えられていたという。

香洲区 香洲区

北宋時代に入ると、桂角と 香山崖(今の 珠海市の北東部にある唐家鎮。上地図左)の二つの 銀山(銀場) が発見され、中国南部でも第一の銀生産高を誇る銀山として台頭するようになる。この銀生産が香山鎮の 経済発展を一気に押し上げすることとなり、南宋時代の県城への昇格をスピードアップさせたと考えられている。

1082年、広東運判の徐九思が香山郷の進士として採用されると、時の鄂州通判であった梁杞に建議し、朝廷に、唐代から続く香山鎮を香山県へ昇格させるように上奏する。
しかし、香山鎮エリアは銀山を除く経済開発がいまだ未熟で、農業生産高も低迷しており、商業集落の形成も遅々として進まず、手工業の基礎も未熟であったため、県への昇格は時期尚早として却下される。

この徐九思が最初に香山県への昇格を立案してから 70年が経った南宋時代の 1152年、香山鎮の 寨官(海岸エリアの防衛武官、県役所の一部機関)で、仁厚郷(今の広東省 中山市 石岐区)出身の進士であった陳天覚が再度、県への昇格を朝廷に申し出る。

当時、行政上、香山島を統括していた 東莞県 長官の姚孝資を説得し、二人で「香山地区は東莞県下に属するも、ここで生産された塩製品を船で海上輸送する際に、多くの海賊船にねらわれる事件が頻発しており、これを警護する鎮軍部の負担が大きい」として、南宋朝廷に香山島の軍役を東莞県下から広州府の直属へ担当変えしてもらえるように上奏する。

ついに、朝廷はこの上奏を受領し、東莞県の西部が分離され、香山鎮が香山県へ昇格される運びとなった。こうして、いよいよ県行政区として独立することとなったわけである(広州府に帰属)。
もともとの東莞県下の香山鎮の 行政区域(独立系の巨大島)を継承し、さらに 南海県、番禺県、新会県の 3県下の海岸エリアに位置した集落地も追加されて、10郷から成る行政区画を統括することとなる。

当時、南宋朝廷は華北を占領した金朝と死闘を繰り広げており、軍事用の食糧や塩の生産と補給を第一目的としていた時代で、この姚と陳の 2人の上奏理由ももっともということで、朝廷を動かすことがかなったのであった。
しかし、南宋朝廷は中央から遠く離れた珠江河口部の小県だった香山県への関心はほとんど無く、新設の県役所予算をつけなかった。朝廷の関心は香山県下から生産される食糧と 塩、租税、銀だけだったのである。

以後、17年間もの間、香山県の長官職は空席のままとなり、 寨官の身分で陳天覚がそのまま実質的な県長官として統治業務を司ることとされた。 彼はこの 17年間と、県制度が導入される前に寨官として香山鎮の監督行政に従事した期間を含めると、香山島で 27年間も行政長を務めたことになり、香山エリアの歴史上、最長記録の首長となっている。

また香山県へ昇格後も、県役所はそのまま 鎮城(今の 珠海市香洲区山場村)が継続利用されていたが、在地の住民らの寄付を集めた陳天覚は、自身の出身地である広東省 中山市 石岐区への県役所の移転を決行する。 こうして、陳天覚の主導の下、県城の建設計画がまとめられることとなった。

香洲区

広東省中山市石岐区での新県城の建設計画では、予定地として東には石岐山が、西側には蓮峰山、北側には庫充河が立地し、南側には岐頭涌の平原地帯が広がる開けた土地が選定された(石岐平原)。

そして、東門(启秀門)は、現在の孫文中路月山公園内に、南門(阜民門)は今の南門頭民生路と民族路との交差点に、西門(登瀛門)は今の民族路と孫文西路との交差点にある西山寺の麓に、北門(拱辰門)は 今の拱辰路と太平路との交差点にある榕樹頭のあたりに配置されることとなった。
これら各所には、今日現在でもわずかな城壁跡が残されている。

県署衙門は、県城内の中心に配され、仁山の南側、すなわち、今の孫中山紀念堂の一帯に設置されていた。
南宋時代の 1154年に建設が開始され、2年の工事を経て、香山県城が完成を見る。当時、鉄と土砂を混ぜ合わせてレンガを生成したことから、鉄城との異名をとったという。

香洲区

南宋末期に、端宗ら亡命政権一行がモンゴル軍の追撃を受け崖山で滅ぼされると、この戦いに生き残った南宋皇族やその配下の役人たちの末裔が香山県内に落ち伸び、ひそかに定住するようになったとされる。今でも、珠海市(斗門区 など)内ではこの末裔による祖廟が残されている。

明代に入り、香山県の北部が陸地となり、大陸側と陸続きになる。

香洲区

清代に入ると、珠江の河口部の三角洲一帯では堤防建設が進み、徐々に土地面積が拡大されるようになる。香山県下の農地面積も増加の一途をたどり、農業生産高は年々、最高値を更新していったという。
清代中期の 嘉慶年間(1796年~1820年)には、その農業生産高はかつての上位監督県であった 南海県、番禺県、東莞県 らの大県クラスと同水準にまでのし上がったという。


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