BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2019年7月下旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 潮州市(中心部)湘橋区 ① ~ 区内人口 57万人、一人当たり GDP 50,000 元(湘橋区)


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  高速鉄道で 潮汕駅に到着。K1バス(8元)で 市街地へ
  潮州市博物館 ~ 海外移民らの苦難 と 成功エピソード !! 李嘉誠、謝国民、陳旭年、鄭信 .....
  110番路線バス(2元、30分弱)で 韓文公祠、韓山師範学校 を訪問する
  【豆知識】7ヵ月間だけ 左遷されていた 潮州刺史・韓愈、伝説の善政と 韓文公祠の建立 ■■■
  18隻の小舟を連結させた浮き橋、24の 橋脚(人工島)で両岸を延伸させた 広経橋を渡る
  【豆知識】中国四大古橋の一つ、広済橋の 歴史(南宋時代にほぼ完成) ■■■
  東城門 と 広済楼、太平路沿いの 石牌坊、唐代開山の 古刹・開元寺を歩く
  池や湿地帯が多かった 西門跡地を歩く ~ 南門前から移転された 病院と教会の 今
  古城時代の 庶民空間と 路地街が残る、国王宮巷、打銀街、旧西門街、劉察巷、北馬路 ...
  西湖 ~ 韓江を掘削した運河が 西面外堀を形成していた
  西湖公園の葫芦山頂に残る 葫芦山腰城(西湖山腰城)
  手つかずの 城壁遺跡が織りなす 秘境感は、まさに『天空の城ラピュタ』降臨 !!!
  葫芦山腰城の歴史から見る、地元の英雄・劉進忠 の 一代盛衰記
  小山の斜面を蛇行する 中国長城スタイルの 城壁遺構は見事 !!!
  中華民国時代の 激動の国共内戦期を駆け抜けた、涵碧楼 と 周恩来



高速鉄道で 潮汕駅 に到着後、専用バスで潮州市街地を目指す。
まず潮州粤運中心の建物にある乗車券カウンターで、バス・チケットを購入する(8元。左端に掲示。窓口は 3つのうち、いずれに並んでも OK)。パスポートを提示した。

湘橋区

2列 × 2列の中型バス(高鉄 K1線)は乗客が一杯になり次第、出発するスタイルだった。約 15分に一本。
潮汕路をまっすぐ北上した先にある、潮州粤運中心客運バスターミナル前で下車した(25分)。ここから潮汕路は潮楓路と名称を変えるわけだが、瓷興路との交差点を過ぎた地点にある 7天ホテルを目指す。飛び入りだったが、部屋は空いていた。初日は 109元だったが、2日目から最安値部屋(99元)へ引っ越し、5連泊することとした。

翌日、潮州博物館を目指す。また昼休みとかで正午 12:00から閉館されては困るので、急いで博物館に入館すべく、ホテル前の潮楓路交差点でバイク・タクシーを捕まえる。人民公園の南側まで回ってもらい、潮州博物館(下写真)の裏手にある福安路沿いで下車した(5分強、10元)。

湘橋区 湘橋区

肝心の潮州市歴史コーナーは来年公開に向けて整備中ということで、特別展しか閲覧できなかった。入口脇には、南宋時代初期の 1134年鋳造の巨大な銅鐘が展示されていた(重さ 1.5トン。潮州総鎮署【府役所】の東側に設けられた、武術場脇の馬王廟に安置されていたもの)。その横に掲示されていた古城地図は特に役立った(本稿で多用している)。また、勤勉で手先の器用な潮州人(民族)の代表作として、木彫り芸術や刺繍作品、潮州花灯(巨大人形のライトアップ)などが解説されていた。

独立ホールでは、海外渡海した潮州出身の華僑らの活躍や苦労エピソードが展示、解説されていた。特に、清代後期(1782~1868年の間だけでも、潮州から 150万人以上が渡海)に移住した東南アジア華僑たちが インドシナ独立戦争、ベトナム戦争、カンボジア内戦などで移住先を追われ、再び海外難民として アメリカ(70万)やカナダ(14万)、豪州(8万)、欧州(16万)へ飛散していった話は初耳だったので非常に印象深かった(このとき、東南アジアから約 30万人が大陸中国に帰郷している)。
特にアヘン戦争後、英国人やオランダ商人らを中心に 汕頭市 には多くの 海外労働仲介会社(特に「徳記行」と「元興行」の 2社が有名)が設立され、海外からの安価な工業製品の流入で職を失った中国人らを、期間契約労働者として海外の労働現場へ派遣していたという。正式名称は「招工館」であったが、人々から豚仔行、咕哩行、客頭行などと俗称され、実質的には人身売買事業であった。労働者らは苦力、咕哩、豚仔などと称され、契約期間が過ぎた後はそのまま現地で放出されたという。その後、実質的に自由移民となり、自ら起業する者、肉体労働を続けるものなど運命が分かれ、世界中に見られる中華街を形成していく原動力となっていったわけである。
こうして海外移住し成功した大富豪らによる、故郷への寄付や慈善活動も多く紹介されていた。特にその筆頭格は、香港、いやアジア第一の大富豪である李嘉誠として、華々しく掲載されていた。

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上写真は、シンガポール、マレーシア・ジョホールバル一帯で大成功を納めた華僑閥のドン、陳旭年の解説コーナー。ジョホール王国が採用した独特な開拓移民政策である「港主制度」下で大躍進を遂げた人物で、マレーシア華僑の中で知らない人はいない

博物館見学後、西隣の潮州大路沿いにあるバス停「人民広場」で 20分ほどバスを待っていると、正午ごろのタイミングで 110番路線バスが到着する(上写真右のオレンジ色バス。下は路線図)。運賃は一律 2元だった。
バス停「南橋市場」を通過し、さらに韓江の大橋を渡って対岸の韓公祠を目指す(30分弱)。

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バス下車後、正面に韓文公祠が広がっていた。唐代の政治家、思想家、文学者として名を馳せる韓愈を祀った、中国で最初の廟堂で、笔架山(韓山)の山裾斜面上に建立されていた。下写真。

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入場の際は、身分証の提示が求められた(無料)。潮州市内でも有名な観光地で、老若男女問わず訪問者は途切れないようだった。庭園を抜けて頂上を目指す。

湘橋区 湘橋区

頂上部の 建物内(上写真右の上端)では登山者たちが汗だくで座り込んでいた。クーラーこそなかったが複数台の扇風機が設置され、涼しかった。内部は韓愈の解説や廟所の古写真などが掲示されていた。
この前面のテラスから、古城地区を一望できた(下写真)。往時には、この対岸の端から端まで長大な城壁が連なっていたわけである。

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一休みした後、下山はスイスイと進めた。その南隣には韓山師範学校が立地しており(下写真左)、ちょうど正面に学生寮が建ち並んでいた。窓枠に大量の洗面用具が無造作に並べられていたのが印象的だった。
下写真左が韓文公祠公園とつながっている入口(西門)。下写真右は韓文公祠公園のトイレ前から見た、両敷地の境目。なお、本来の学校正門は、南面の東山路沿いにある。

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幼くして両親を亡くし苦学の末、科挙に合格した 韓愈(768~824年。今の 河南省焦作市 孟州市の出身)は朝廷に出仕する前から、美辞麗句を多用する当時の形式的な 詩吟・書体文化を批判し、秦代、漢代当時の質素簡明な文体の起用を提唱した人物であった(古文復興運動)。その思想は一貫しており、後発の仏教や道教を批判し、古代中国から継承されてきた儒教の復権と王朝統治体制の再確立を目指し(当時、崩壊が見えつつあった律令国家体制に代わって、全国各地に割拠した軍人らが直接支配する藩鎮体制へと移行しつつあった)、多くの弟子を育てたという。後世、政治家というより、思想家、文学者、詩人として評価された人物である。

しかし、当時、仏教が大流行した宮廷内では出世も遅く(『西遊記』の元となった玄奘三蔵が天竺まで赴き、645年に原典を 長安 に持ち帰って翻訳して以降、仏教は歴代皇帝の庇護を受けていた)、目立った活躍としては、宰相・裴度(765~839年)と共に行軍司馬として同行した呉元済の乱の平定戦ぐらいであった(817年。今の 河南省駐馬店市 一帯)。その功績により 刑部侍郎(司法省副長官)に抜擢されていたが、 819年、仏教や道教に傾倒する 唐朝第 14代目皇帝・憲宗(李純。在位:805~820年)を戒めたことから死罪を言い渡されるも、居合わせた宰相の裴度らの取り繕いにより、潮州刺史へ左遷されることとなる。下地図。

当時、すでに 51歳になっていた韓愈は潮州刺史に任命された際、当時の人の平均寿命ではすでに老暦に相当し、いつ死んでもおかしくない年齢であったため、出立前に見送りに来てくれた知人らに対し遺言と時世の詩句を複数、残している。結局、憲宗が間もなく宦官らによって暗殺されたため、翌 820年に 15代目皇帝・穆宗(李恒。在位:820~824年)が即位すると恩赦が発せられ、韓愈は再び 王都・長安 へ召還されて 吏部侍郎(朝廷内の人事部の副長官職)へ出世することとなる。それから 4年後に長安で没した。

この潮州赴任中の 7~8か月の間、彼は当時、王都から遠く離れた僻地であった潮州地方の文化発展に大きな影響を与えたという。中原の先進文化を華南地方に持ち込み教育の向上や奴隷解放、また当時、地元で脅威とされていた イリエ・ワニの駆除を進める。こうした善政が評価され、潮州の人々から神として崇められ、笔架山が韓山へ、山下に流れる 鱷溪(その原義は、ワニの住む川という意)が韓江へと改称されるほどであった。こういう熱い地元支持があったため、彼を祀る廟所建立が中国全土で最も早い土地となった、という結果につながったわけである。

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その最初の建立は北宋時代初期の 999年で、当時、潮州通判(潮州長官ら行政役人らの監督を司った上級官僚)であった陳堯佐が、金山の麓にあった義安郡役所 前の、夫子廟正室の東側に「韓吏部祠」を設置したものである(つまり、当時の潮州府城の 中枢部【子城】内に建立されていた)。
100年後の 1090年、潮州 知軍州事(州長官に相当)の王涤がこの韓吏部祠を潮州城の南 3.5 kmの場所に移転させる。この新廟建立にあたり、王涤の指示を受けた潮州出身者が当時、一流の詩人として名高かった 蘇軾(1037~1101年)に詩文を依頼し(1090年)、その名作が全国に知られて潮州の韓文公祠の存在も全国に流布されたのだった。その詩を銘記した石板『潮州韓文公廟碑』が 1092年3月に完成され今も現存する。

さらに 100年後の南宋時代 1189年、潮州 知軍州事の丁允元が韓公祠を今の潮州城東の山裾に移転する。往時には韓愈自らもしばしば散歩したという郊外エリアで、城下の人々にとっても至近距離に戻されたわけである。なお、別説では潮州 知軍州事の李邁がすでに韓公祠を今の韓山に移転させていた、という指摘もある。後者の場合、李邁が潮州長官に赴任していたのは、南宋時代初期の 1130年代後半のため、この丁允元よりも 50年早いことになる。しかし、現在の学会では前者の説が有力という。以後、韓山に設けられた韓文公祠は度々、破壊されたり、修繕が滞り倒壊の憂き目に遭うも、都度、再建を重ねて復活してきたという。

最後の大規模な修繕工事は、清代後期の 1887年という。現在の韓文公祠の主な建築様式は、大部分がこの当時のものらしい。 1984年に現在の姿に修復された後、中央政府により史跡指定を受け今日に至る。



下山後、その正面にある広済橋を渡る。入場料 20元だった。この日は日曜日だったので、観光客も多かった。

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上写真は、韓江の対岸の古城地区を見たもの。川の両側は橋脚を複数、設置して人工島を配置させ、中央部のみ小舟をつなぎ合わせた浮き橋スタイル(ポンツーン橋)であった。ちょうど、江戸時代に 岩国藩(今の 山口県岩国市)で架設された錦帯橋を思い出した

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上写真左は、先程の 韓山一帯(韓山師範学校や韓公祠)を振り返ったもの。かつて日中戦争時代、この韓山に日本軍が布陣し、潮州城の攻略戦を展開したわけである

上写真右は、浮き橋上から南の下流側を見たもの。中央は韓江に形成された巨大な中州、その左端は 鳳凰塔(別名:涸溪塔)。明代後期の 1585年に潮州府長官・郭子章によって建立されたもので、清代初期の 1691年に再建され、その後、幾度も改修されてきた 7階建て八面体の 塔(高さ 47.72 m)である。 1962年7月に広東省政府によって史跡指定されている。現在、中に入れるという(見学料 4元)。

広済橋は、潮州城外の東を流れる巨大な韓江を渡るために架橋された橋で、湘子橋とも別称される。趙州橋(安済橋。河北省石家荘市 趙県趙州鎮)、洛陽橋(萬安橋。福建省泉州市 洛陽鎮を流れる洛陽江の河口部)、盧溝橋(北京市 豊台区)とともに、中国四大古橋の一つに称えられ、中国史上、最も古い開閉式の浮き橋として知られる。その全長は 518 mで、24の橋脚(人工島)と 18の船(浮き橋)で構成されている。
度重なる洪水や急な水流もあって、近代以前の技術では河川中央部に 橋脚(人工島)が築造できなかったわけだが、現在もこの浮き橋スタイルが採用されるのは、この韓江が古くから広東省東部、および福建省西部の重要な交通路を成しており、現在でも日々、大型船が航行されているためという。舟をつなぎ合わせた浮き橋部分はいつでも切り離し、河道を開放できる設計となっている。現在、韓江では毎日、朝 10:30~午後 4:00までの航行が禁止されている。

この潮州城東の韓江に最初に架橋を試みたのは、潮州 知軍州事(州長官に相当)の曾汪であった(南宋時代の 1171年)。当時、86もの舟を連結させ、その上に板を乗せた浮き橋のみであった。康済橋と命名された浮き橋も 3年後の 1174年、洪水のために破壊されてしまう。
同年、潮州 知軍州事を継承していた常煒がすぐに再建工事に着手した際、東門外すぐに創傑閣という橋脚を一つ、増設する。これが西岸における最初の人工島で、以後、54年間に朱江、王正功、丁允元、孫叔謹ら歴代の潮州 知軍州事がリレーして、西岸のみに追加の 橋脚(陸橋楼)の増築工事を継承し、合計 10の橋脚が西岸側に完成する。残りの部分は、そのまま浮き橋スタイルが採用され続けた。
その中でも 1189年に了允元が手掛けた橋脚の補強工事は最大で、その功績から西半分は丁公橋と通称されることとなる。

1194年、潮州 知軍州事の沈宗禹が初めて東岸側に橋脚「盖秀亭」を建造すると、東半分は済川橋と通称されるようになる。以降、陳宏規、林驃、林会ら歴代の州長官らが東岸での石橋脚の建設工事を継承し、1206年までの 12年間に 13の橋脚が誕生することとなった。東西両岸で橋脚の増設工事が進む中でも、中間部分は引き続き、浮き舟を連結させたスタイルが採用され続け、現在に見られる原型が姿を現すこととなった。下絵図。

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中国全土で戦火が絶えなかった南宋末期から元代初期、せっかく架橋された広済橋も度々、破壊と復旧を繰り返すこととなる。ようやく明代中期の 1435年、潮州府長官の王源が主導して空前の規模で橋脚の全面石積み工事が着手される。完成後、西岸には「橋脚 10、全長 165 m」、東岸側は「橋脚 13、全長 186 m」、中間部分は「24艘による浮き橋 91 m」の今に見る姿となったわけである。この時から広済橋と命名される。

1530年、潮州府長官の譚綸がさらに一つ橋脚を増設すると、浮船が 6隻減らされ、今日に見る「18梭船 24洲」スタイルが完成されたのだった(上絵図)。
当時、橋脚の部分には 休憩所(亭)や 126もの商店が軒を連ね、ちょっとした屋外市場を形成していたという。その盛況ぶりから「一里長橋一里市(500 mの橋上の 500 mの オープン・マーケット)」「二十四楼台二十四様(24の橋脚それぞれの賑わいと彩り)」と謡われる。

さらに 200年以上が過ぎた清代中期の 1724年、潮州府長官の張自謙が広済橋を修復した際、橋の安全と治水を祈願して二匹の鉄製の水牛像を橋上に設置する。当時、西側の 8番目の橋脚と東側の 12番目の橋脚上に置かれたが、 1842年に洪水被害により東側の水牛像が流出してしまう。以後、再建されることはなく、地元の民謡で「潮州湘橋好風流、十八梭船二十四洲、二十四楼台二十四様、二只鉎牛一只溜」と謡われ、記憶の中に留められるだけとなった。

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国共内戦時代、広済橋は破壊され長らく通行不能となってしまうも、1958年に潮州市政府によって再建される。石脚部分は鉄骨を河底に打ち込み、さらに上下を三段の鉄骨で補強したものの、18の浮き橋部分はそのまま継承されることとなった。1976年にも改修工事が手掛けられ、自動車通行も可能な 7 mの道幅にさらに両側 2 mずつを増築して遊歩道が設けられる(上写真右)。1988年3月、その歴史的価値が評価され、中央政府により史跡指定を受ける。

現在の橋は 2003年10月に再強化工事が施され、3年の工期を経て、旅行者向けの橋として 2007年6月18日に完成されたものである。その際、橋脚上に並ぶ亭(休憩スペース)も再建されるにあたり、域内外の同郷人から多額の寄付があったことが石碑に銘記されていた。李嘉誠、陳伝南、謝正明、謝大民、謝国民、タイ同郷会、香港潮州商会、マカオ潮州同郷会、などなど。



そして、橋を渡り終えると、いよいよ 東城門 へ至る(下写真)。ここの広済楼への登頂は入場料 10元という。入口まで行ってみたが、階下はこれほどの訪問客なのに、建物自体(2004年1月完成。高さ 24.5 m。 1Fと 2Fは地元潮州史に関する展示スペースで、3Fが展望台)は誰も見学していなかったので筆者も辞めておいた。

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そのまま古城地区を散策してみる。
東門路を進むと 太平路(かつて北に潮州府役所、南に南城門が配置された、城内の主要街道)との交差点で開元寺に行き当たる。このエリアは騎楼群が連なる歩行者天国ショッピング・ストリートで、行楽客たちでごった返していた
その道沿いに古井戸が保存されていた(下写真左)。市民らの共同利用のために清代中期の 1775年に掘削されたものという。他にも旧市街地区には複数の古井戸が保存されている。

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さて、潮州城内で最古を誇る開元寺の境内に入ってみる。ここもたくさんの訪問客、参拝客で大賑わいだった(上写真右)。入口脇に掲示されていた寄付者一覧には、香港の 大富豪・李嘉誠、香港潮州商会、タイ、シンガポール、米ロサンゼルス、台湾の現地同郷会の名が刻銘されていた。

唐代の 738年、当時、宮廷で厚く信仰された仏教の全国布教のために勅令によって建立された寺院で、元々は茘峰寺と命名されていた。元代に 開元万寿禅寺、明代に 開元鎮国禅寺(鎮国開元禅寺)と定められ、以降、今日まで開元寺として通称されることとなった。長らく公寺として潮州府によって保護され、歴代の皇帝を祀ってきたという。1961年に広東省から、2001年に中央政府から史跡指定を受けた名刹である。

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上絵図は、ここまでの移動ルート。
開元寺横の太平路沿いに記された複数の 漢字群(下地図中央の青〇)は、当時、街頭沿いに設置された 39の石牌坊を解説したもの。明代中期の 1517年を皮切りに明代に 34坊、清代に 5坊(最後の建立は 1785年)までに設置されたものが今も保存されている。この石牌坊は中国の多くの城郭都市でも採用された風習で、地元出身の科挙合格者、親孝行者、貞操を守った未亡人、殉国した地元名士などの功績を石柱に刻み称えたもので、朝廷への忠誠と儒教道徳の浸透を図る政策の一環として利用されてきた

そのまま開元寺前の開元路を西進すると、環城西路 との交差点に至る(下写真左)。
この四つ角には KFC、ピザハット、マクドナルドの 3大外食チェーンが取り囲むようにな形で店舗を構えていた(下写真右)。マクドナルドで軽食を食べる。汗で水分が抜け切っていたので、コーラがとてもおいしかった。

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店を出ると、そのまま環城西路を北上する。
一つ北隣の西馬路との交差点が、かつての西門跡に相当する(下写真左)。付近には、「西門水果(フルーツ・ショップ)」というお店もあり、一帯の由来を物語る。

その北西側に、潮州西門古バスターミナルが立地していた(下写真右)。ここはバスターミナルというより、バス発着ポイントといったものだった。写真のように潮州市バスターミナルを発着する中距離バスが、途中で立ち寄るスポットとなっていた。

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下絵図が、ここまでの移動ルート。西門周辺には池が点在されていたことが伺える。

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西山公園へ向う環城西路沿いに、潮州市中心医院があった(下写真の左右の白い建物)。駐車場入口脇に立地していた感染病科の建物前に、香港の 大富豪「李嘉誠の寄贈」という石板が掲示されていた。
その奥に、洋式で由緒ありそうな教会がひっそりと建っていた(下写真右)。
ちょうどこの敷地は、環城西路から一段、土地が低くなっており、かつて池だった跡地かと思われる(上絵図)。

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なお、これらの教会や病院は、もともと南門外に立地しており、清末に英国人宣教師によって設立された施設群であった。共産党時代に入り、当地に開校されていた潮州衛校と敷地交換して転入されてきたという

さらに北上を続けると、西山公園 に到着する。
その東側は古民家や細い路地が連なるエリアで、東半分のように観光地化が進んでいない住宅地区だった。その路地名も 国王宮巷(下写真)、打銀街、旧西門街、劉察巷など、往時の名残りをプンプン漂わせるものだった。

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西山公園の南側から、かつて西面外堀であった西湖を撮影する(下写真)。

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下絵図は、南宋時代後期の潮州城。韓江を掘削し、河道によって城域が四方を取り囲まれるように設計されていた。現在の西湖はこの人工河道の一部だったことが分かる

なお、この当時、すでに東門外の韓江には浮き橋が架設されていた(下絵図の赤文字)。

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そのまま南門から西山公園に入園した。筆者が 6年前に訪問したときは門番がいて入園料を徴収されたが、今は自由開放されていた。おかげで随分と明るく賑やか公園に様変わりしていた。昔は筆者以外、誰も訪問客もおらず、寂れた風景が広がっていたのだが。。。

公園に入るだけでも課金されていた当時、地元民は入場無料だったことをよく覚えている。商売人であり、また団結力が強い「潮州人」の排他的な気質を見せつけられた気がした。

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そして、急な崖斜面に設けられた石階段を登ってみる(上地図の赤ライン)。かなり急な坂道で、あちこちに巨大石がごろごろ転がっていた。下写真左は、登山途中で見つけた 石塔「雁塔題名」。

汗を猛烈にかきながら 葫芦山(西湖山)の頂上部に至ると、狼煙台を模したコンクリート建造物が中央に設けられていた(薄暗い内部は、やる気のない売店が入居していた)。風見鶏を意味するのだろうか、巨大な鳥のモニュメントが上部にくっついていた(下写真右)。

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と、その脇に凹凸型の黒い影を発見する! お目当ての 葫芦山腰城(西湖山腰城)の城壁遺跡だった!!
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天空の城ラピュタ を彷彿とさせる秘境感で、大いに感動させられた。無謀な補強工事も無く、手つかずに残る状態は「神々しい」の一言に尽きる。その規模がまた長大で、非常に驚かされた。

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もともと は潮州城の出城して、古くから簡易な烽火台などが設けられていたと思われる小山であるが(軍事目的の他、城内の人々の憩いの散策地でもあったらしく、唐代の 796年に潮州刺史・李宿がこの湖山の南岩上に観稼亭を建立したのを皮切りに、各時代を通じて趣向を凝らした建物が山頂に建設されていたらしい)、実際に史書に登場するのは、三藩の乱に便乗し反清で挙兵した劉進忠による築城であった。

遼陽(遼寧省遼陽市)出身の劉進忠は清軍に帰順後、1669年から 潮州総兵官(軍長官)に就任していたが、清朝は彼を完全には信用していなかったため、沈瑞、鄧光明らも同時に潮州城の守備に配置させていた。案の定、1674年4月に劉進忠が反清で挙兵すると(1673年11月の呉三桂の雲南地方での挙兵、および 1674年3月の 靖南王・耿精忠の福建省での挙兵に呼応した)、この西湖山の中腹部分に防塁柵をめぐらせた簡易な城塞を建造する。同年 9月、平南王(広東省)の尚可喜が清朝の命により潮州城を包囲するも、台湾の鄭経の支援を受けて、この清軍の撃退に成功する。
しかし、1676年8月に清朝の大規模な南征軍が派遣されると、 1677年3月に耿精忠が福建省で清軍に降伏し、鄭経も台湾へ撤退してしまうと、いよいよ孤立無援となった潮州城の劉進忠も清方に降伏したのだった(同年 6月)


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そのまま帰順を許され潮州総兵官の職位に留任された劉進忠であったが、もはや清朝は彼を全く信用しておらず、その監視役として同じく潮州総兵官に馬三奇、守道の仇昌祚、潮州知府の林杭学らが派遣されてくると、彼らの手により、劉進忠の建造した 葫芦山(西湖山)の城塞がさらに強化され土壁スタイルの城壁が築造される(1678年)。このとき、潮州府下の 11県城の住民らが総動員され、西湖山の中腹にあった木柵をなぞって山を取り囲むように城壁工事が進められたという。当時、この城壁の高さは 3.4 m、幅 2 m、周囲の全長 1,717 mを誇り、紫竹門、水仙門、西門、靖北門の 4城門が設けられていた。

以後、湖山城と通称され、潮州本城とは外堀を挟んで向かい合って立地し、劉進忠に対する監視拠点として清方により利用されることとなる。最終的に鄭経も 病死(1681年)し鄭氏政権の勢力も衰えが見えた 1682年、劉進忠は北京に呼び出された際、拘束され処刑されてしまうのだった。
彼のこの一代盛衰記は、潮州の 地元民謡集『三春夢』にも綴られており、地元で一定の支持を得ていたようである。また劉進忠を祀る廟堂も建立されていたという


以後、清朝はこの山城と潮州本城との連携を強化すべく、1700年代と 1850 年代に 2回に渡って大規模な増強工事を手掛け、最終的に湖山城の南城壁と 潮州本城の城壁とが連結されることとなる。
そのまま中華民国時代も維持されたが、日中戦争などの戦火と昭和路の敷設、および共産党時代の公園整備等により、湖山城、潮州本城ともに大部分の城壁が撤去されてしまうのだった。現在、本稿写真に見られる数十 m程度しか残存されていないという。

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また、城門に設けられた甕城跡かと思われる 構造、馬道(城壁上の通路)や石階段跡など、往時にはこれらの地形と城壁がどのように組み合わされ展開されていたのか、想像力を掻き立てられる見どころが満載だった。

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この崖山は 2~3つの頂上部からなる凸凹な地形であったが、中国の城壁らしく、それらの尾根にうまく順応して設計されていた。

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山の頂上部分にはよく残っていたが、下山を開始した北側の通路沿いや休憩スペース、遊園コーナーなどでも、城壁面の一部が所々で確認できた。

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そのまま城壁は山裾まで延々と連なっていたらしい。
児童公園を抜けて公園東門前に出ると、革命烈士紀念碑「抗戦陣亡将士紀念碑」が立っていた。

西湖沿いの少し奥まった場所に、古い洋館の 涵碧楼(1922年建設)がライトアップされていた(下写真)。ここは 中華民国時代に共産党軍が南下し潮州城占領を果たした際(1927年9月)、周恩来(1898~1976年)や 賀竜(1896~1969年)らが司令部を置いた建物という。2002年に広東省指定の歴史遺産となっている。
湘橋区

西湖公園の東門を出たあたりで、たくさんの 三輪タクシーやバイク白タクが客待ちしていた。
楓渓広場まで帰りたいと言うと、自転車タクシーでは無理なので、電気三輪タクシーで 20元と言われる。思ったより遠かったので 22元あげておいた。


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