BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年4月中旬 『大陸西遊記』~


雲南省 昆明市(中心部)五華区 ③ ~ 区内人口 90万人、 一人当たり GDP 46,000 元(五華区)


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  五華山の南東山麓にあった 華山幼稚園脇の古民家 ~ 大商人か、高級官吏の 邸宅跡
  圓通路を歩く ~ 圓通禅寺 と 昆明県 役所跡(現・昆明市第一職業中等専業学校)
  圓通路と青年路の交差点に立地した、小東門の 今昔
  東面の外堀跡の盤龍江 と 城郭資材の転用を妄想させる 河岸壁
  北門街 と 北門書店(中華民国時代、民主主義運動に没頭した、李公朴の 旧家兼事務所)
  圓通山の尾根上にあった、北門の今昔
  丘陵地帯の尾根伝いに建造されていた 北面城壁
  丁字方から圓通山を下り、翠湖の湖畔へ ~ 雲南大学の南門前
  大西門の跡地と 国際色豊かな 文林街(古城時代の雲南府 役所前)
  かつての西面城壁 と 銭局街
  洗馬池 ~ かつて翠湖西岸にあった 練兵所の軍馬を洗った水辺
  眠山公園 と 巨大モニュメント「滇緬公路(ビルマ公路)紀念雕塑碑」
  【豆知識】ビルマ公路(Burma Road)滇緬公路 ■■■
  苴蘭城(通称:庄蹻故城)跡地 ~ 五華区黑林鋪 昆明平板玻璃広生活区一帯
  車家壁駅の新設により、車家壁彝族村も バブルへ??
  終点の西山公園駅へ、滇池湖畔の西の 要衝・碧鷄関を見る
  碧鷄関(昆州城、益寧県城)~ 隋朝、唐朝の雲南支配拠点



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さて、大東門エリアを撮影後、再び人民西路を正義路まで戻り、いったん、宿泊先の 7天ホテル(昆明五華山店)で一休みする。

なお、このホテルの裏手には華山幼稚園があり、園児たちのにぎやかな声が聞こえていた。その方向へ目を向けてみると、幼稚園との間に木造の古民家を発見する(下写真)。こんな街のど真ん中にあって古民家が残っていることに驚かされるとと同時に、そのロケーションと家屋の大きさから、それなりの大商人か、高級官吏の邸宅であった往時が偲ばれた。

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休憩もそこそこに、このホテル前の バス停「小緑水河(華山南路)」から、適当に通過した 路線バス(マイクロバス型)に乗車してみた(1元)。
下のバス路線マップにある通り、いずれのバスも 圓通路(北門街口)を通過するので、どの便でもよかったわけである。

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5分程度のドライブの後、バス停「圓通路(北門街口)」で下車する。そのまま圓通路を東へ散策してみた。
徒歩 5分程度で、圓通禅寺の正門前に至る(下写真左)。筆者が通過したのが夕方 17:00を回っていたので、すでに閉門されていた。この境内は広大で、後方の圓通山の山裾まで広がる。

さらに 1分ほど歩くと、昆明市第一職業中等専業学校の正門前に至る(下写真右)。 かつて昆明城時代、ここに昆明県役所が開設されていたわけである。

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そして、圓通路は 青年路(東面城壁の跡地)との交差点へと通じる(下写真左)。左手側の樹木エリアが、圓通山の昆明動物園入口となっている。

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上写真右にある、この交差点上に小東門が立地していたわけである。
下写真は、往時の 小東門(敷澤門 と 壁光楼)。

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下写真は、古城模型に見る小東門一帯。圓通山の丘陵斜面を利用して、東面城壁~北面城壁が建造されていた。

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下写真は、古城時代に東面の外堀を成した盤龍江の現在の様子。下写真左は、圓通大橋上から北側を眺めたもの。下写真右は圓通大橋の下から同じく北側を臨んだもの。盤龍江沿いの 遊歩道(江濱西路)は非常によく整備されていた。

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下写真は、盤龍江の河岸壁。ここで用いられている石材は、古城時代の城壁石材のように感じられる部分もあった。

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さて、圓通路を再びバス下車ポイントまで戻り、続いて北門街を北上してみることにした(下写真左)。丘陵斜面上を歩いていることが実感できる緩やかな登り道が続いた。歩道はかなりデコボコしていた。

下写真右は、北門街沿いにあった 2階建て古民家。北門書店の跡地という。現在、内部は 料亭「廣益飯店」となっていた。

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ここは 1942年12月、著名な愛国者で民主主義活動家であった 李公朴(1902~1946年。江蘇省淮安市出身。1928年にアメリカ留学)が創設した北門書店が立地した場所である(1階部分)。彼は他にも、昆明市内で三聯書店と華僑書店も開店していた。
翌 1943年、同志の張光年らと共に、北門出版社も当地で創業する。

日中戦争の戦時下にあって、北門書店と北門出版社は中華人民の団結を訴え、また独裁反対、民主主義の確立を謡う、進歩的な思想をモットーとする書籍を数多く発行、販売していた。

北門書店の二階部分は李公朴の寝室と書斎となっており、また、民主主義に闘志を燃やした 同志(楚図南、聞一多、呉晗、潘光旦ら)や文化人らを迎え入れた居間となっていた。まさに、「民主主義の家」と化していたのだった。

日中戦争終結後は独裁反対、民主国家の樹立に労を惜しみなく注ぐも、 1946年 7月11日、夫人とともに帰宅途上、国民党特殊部隊により射殺され、翌日未明に絶命したのだった。
それから 4日後の 7月15日、同志の聞一多も襲撃され、中枢メンバーを失った北門書店や出版社は、そのまま営業停止へ追い込まれるととなった。
以降、地元財界人・李琢の私邸となる。1983年3月28日、昆明市政府により歴史遺産に指定された。



そのまま北門街を前進し続けると、だんだんと森林地帯が多くなってくる(下写真左)。この西隣は雲南大学のキャンパス敷地となっており、その付属の実験小学校が立地していた。

そして、この辺りで登り坂道も終わり、逆に下り坂が始まろうとしていた(下写真右)。
ちょうど、この坂上の折り返しポイントに北門が設置されていたわけである。

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下写真はかつての 北門(拱辰門 と 望京楼)。1899年に城内方向から撮影されたもの。
城門楼閣の望京楼は眺京楼とも別称され、王都・北京 や皇帝への忠誠を示す意味が込められていたという。
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下写真は、古城模型の北門周辺。ちょうど下り坂となる直前に建造されており、門外は坂となって郊外への田舎道が続いていた。
また北門周辺は粗末な民家が建ち並び、城内でも貧しいエリアだったと推察される。

なお、北門内の脇に貢院の巨大な建物があるのが見える(下写真)。ここは、昆明府城内で開催される科挙試験会場となっていた場所である。

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ここから丘陵沿いに北面城壁が連なる。現在、この丘陵地帯は雲南大学のキャンパスとなっている。

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さて再び、北門街を戻って、一つ目の 三差路「丁字方」を下り(下写真)、翠湖北路に至る。

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翠湖北路沿いに雲南大学の南門入り口があった(下写真左)。
なお、その正門前には 王九齢(1880~1951年。中華民国時代に雲南省政府内で検察庁長官、税関庁長官などの要職を歴任し、東陸大学【現在の雲南大学】の創設に尽力した)の旧家が保存されていた。現在、旧宅内には、雲南大学の文化発展研究院や国家文化産業研究センターが入居していた。

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さて、雲南大学の正門を過ぎると、翠湖北路は文林路と枝分かれすることになる。筆者は北面城壁の跡地を追って、文林路の坂道を登ってみることにした(上写真左の奥側)。

この大学キャンパス沿いの 文林街(上写真右)は目下、外国人向けのカフェやバーが数多く集積しており、非常に国際色豊かなエリアとなっていた。実際、白人の若い女性や老夫婦などに何組も出くわした。

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文林街を西進すると、東風西路との交差点に至る(上写真左)。この交差点と、一つ内側の銭局街の 三差路(上写真右)との間に、かつて大西門が立地していた。

下写真の古城模型は、この北面城壁と西面城壁の角エリアを俯瞰したもの。この北西端に、雲南府役所が立地していたことが分かる。現在の 文林路 の北側に相当する。

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そして、 先ほどの銭局街沿いに西面城壁が南北に連なっていた(下写真左は、銭局街にある バス停「省図書館」前)。 この西面城壁には外堀がなかったようである。

銭局街を南下してみる。途中、倉園巷という古城時代の名残りをムンムン漂わせる路地があったので撮影してみた(下写真右)。このまま直進すると、翠湖に至る。
その他、西倉坡、染布巷などの路地もあった。

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この銭局街の南端に、 筆者が初日に投宿していた君楽酒店 があった。下写真は、初日の朝に最上階から写真撮影していたもの。眼下には、まっすぐに伸びる銭局街が見える。
なお、写真中央に見える巨大な建物は、省図書館。

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この図書館前には公園が整備されており、洗馬池の銅像が立っていた(下写真)。
古城時代、この翠湖西部は洗馬池と呼ばれ、湖畔にあった練兵所の軍馬などを洗ったことに由来するという。

この時、すでに夕方の時間帯だったので、ホテルで荷物を回収すると、再び銭局街を北上し、 上写真の バス停「省図書館」で 125番路線バスに乗車する(1元。マイクロバス型)。だいたい 15分ぐらいのドライブで 7天ホテル(バス停「小緑水河」で下車。冒頭参照)に到着できた。

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さて最終日の午後、地下鉄線で 眠山駅(昆明市西山区)まで出向いてみた。
ここを下車後、地元の バスターミナル(眠山車場)を越えて、その先にある眠山公園を目指した。

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公園入口には、日中戦争の戦時下、附近の農民らが山岳地帯の難工事を手作業ですすめた工事風景を描写した 巨大モニュメント「滇緬公路(ビルマ公路)紀念雕塑碑」が設置されていた。上写真。

このモニュメント前の 南北道路・春雨路(滇緬大道)は、かつてミャンマー昆明間に敷設された 戦略物資輸送ルート(援蒋ルート)の名残りで、米英から総計 49万トンもの軍事物資が大陸中国内へ運び込まれた道路だった。下写真。

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 ビルマ公路(Burma Road)滇緬公路

日中戦争が開始された 1937年7月以降、中国大陸は大混乱に陥ることとなる。
戦況が悪化する中、海路や陸路での戦略物資の輸入が滞るようになり、何とか海外からの輸入ルートを確保すべく、蒋介石の国民党政府は四方の国境を調査する。

この過程で、昆明市の西郊外から、英国領だった ミャンマー(ビルマ)中部の町ラーショーまでの全長 1,146 kmにわたる道路整備が決定されることとなった。
この ビルマ公路(滇緬公路)の敷設に際し、険しい山岳地帯を越えねばならず、雲南省内の老若男女 20万人の多民族で構成された農民らが大動員され、近代装備がない中で、人海戦略による手作業が進められたのだった。

日本軍も道路開通を阻止すべく、度々、空襲を行い、その道路や橋を破壊するも、手作業の建設工事はそのまま強行され、多くの死傷者を出すこととなる。記録によると、負傷者 1万人以上、事故死者 3,000人と言われる。
1937年12月より着手され、わずか 9か月の突貫工事を経て、1938年8月に全面開通する。

1940年、欧州戦線でフランスがドイツに降伏すると、日本軍が ベトナム に進駐し、ベトナムからの陸路支援ルートも封鎖されるに至る。この頃には、大陸中国の海岸地域も完全に日本軍に占領されており、いよいよ、この ビルマ公路(滇緬公路)が唯一の 海外支援(援蒋)ル―トとして残されることとなった。

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しかし、1942年5月には日本軍によりビルマ作戦が決行され、怒江より西部の山岳地帯までも軍事占領されるに及び、このビルマ公路も遮断されてしまう。
以後、3年もの間、奪還作戦が繰り返され、ついに中国軍が怒江を強行渡河し、ビルマ公路沿いの要塞拠点をめぐる日本側の進駐部隊との激烈な攻防戦を制し(取り囲まれた日本軍部隊はすべて玉砕)、最終的に雲南省内の失地回復に成功したのだった(1944年5月11日)。

戦後、共産党中国によりビルマ公路は幾度も改修工事が手掛けられ、最終的に国道 320号として今日まで利用され続けている。この眠山公園脇のモニュメントは、2004年8月15日の終戦記念日に建立されたものという。



さてさて、眠山自体は低い丘陵地帯で、狭い山道を 30 m ほど登った程度で(下写真左)、頂上には工場の廃屋が残っていた。
登山道沿いには動物をかたどった不思議なゴミ箱が点々と設置されていた(下写真右)。

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さてさて、眠山の下山後、116番 路線バス(環城南路行)に乗車し、西山区の中心部まで移動する途上でなんとかギリギリ、眠山の東隣に立地した平板玻璃広一生活区の一帯を撮影できた。下写真。

この緩やかな丘陵地帯の麓に、春秋戦国時代の紀元前 279年、楚軍を率いて進駐した庄蹻らが建造した 苴蘭城(通称:庄蹻故城)があったと考えられており、以後も漢代まで城塞として利用されていたという。

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下写真は、眠山のモニュメント前からガラス工場地帯を臨んだもの。春雨路(滇緬大道)の奥側に見えるマンション地帯が、その古城地区である。

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後で分かったことだが、この眠山車庫から直接、西北部バスターミナルへアクセスできるバス路線もあった(下写真)。この日、 西北部バスターミナルから 富民県 へ視察に出かけた。

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夕方、再び富民県から昆明市西山区に戻ってくる。そのまま、地下鉄で終点駅の一つ 手前「車家壁駅」まで南下し、碧鷄関の周辺を散策してみることにした。

車家壁駅はちょうど碧鷄関の北端に位置しており、往時から一帯には港町や街道沿いの交易集落が形成されていたと推察される。

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この車家壁駅の西側の坂上に彝族の集落という「車家壁村」があった。路地は人通りもなく、閑散としていた(上写真)。
その南側に、昆明の湖畔エリア随一の 要衝・碧鷄関を形成した山々が連なっていた。下写真。

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この車家壁村のすぐ正面を ビルマ公路(滇緬公路。下写真左)が通っており、戦時中は、ここの村人らも道路工事に駆り出されたと思われる。
2019年4月現在、道路の拡張と立体化工事が進行中だった(上写真)。

なお、このビルマ公路沿いである以外、車家壁村自体は昆明市街地から遠く離れた西端の山裾にひっそりと形成されており、静かな町だったはずだろうが、前面に地下鉄駅が新開発、幹線道路が再整備されるにつれ、その地価は暴騰し、訪問者の激増にびっくりしていることだろう。

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車家壁駅の周辺では地元の青空マーケットが広がっており、さらに海側へ向けて新興マンションの建設が進んでいた(上写真右)。

夕方の時間帯、駅前の青空市場は大混雑しており、一部の訪問客はここで購入した果物などを、次の地下鉄駅の西山公園まで持ちこみ、森林公園内で遠足するために食糧調達しているようだった。
西山公園駅と車家壁駅の一駅区間の運賃は 2元だった(8分に一本、電車あり)。

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いよいよ 終点の西山公園駅へ出向いてみる。
当駅訪問者のほとんどは、さらに南側にある 西山風景区・森林公園前に形成された、飲食店が立ち並ぶ 歩行者天国ストリート「茶馬花街」へ向かうようだった。駅前には、日本語が併記された案内板も設置されていた(上写真右)。

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この碧鷄関エリアでは、山々が滇池湖畔ギリギリまで迫っており、陸路での移動は峠越えとならざるを得ず、古代から形成されていた南西シルクロードで最初の難所と言われてきた。

先のビルマー昆明ルートの建設工事では、この山脈にトンネルが掘削されて、ビルマ補給線を確立したのだった(下写真)。

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なお、この滇池の西岸エリアの急峻な斜面沿いには、昆明平野への侵入を防ぐべく、古代より関所や城塞が設置されてきた。その防塁設備を拡張する形で、隋朝が昆州城を築城する。当時、雲南省東部一帯の支配拠点としたわけであるが、平野部からは遠く離れた丘陵地帯にあり、行政府としての機能よりも、防衛施設としての機能が重視された配置だったことが読み取れる。

しかし、中国が長い間、南北朝時代で周辺支配力が弱まっていた間に、独立の機運を高めていた雲南エリアの部族長らは隋朝の支配を良しとせず、昆州城は落城し、隋朝も雲南支配の放棄へと追い込まれるのだった。

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続いて、中原で強大な勢力を誇った唐朝が建国されると、雲南省の地場部族らもこれに帰順することとなる。
唐朝は 618年、旧昆州城跡に益寧県役所を新設し(下地図)、滇池の北半分の行政区を統括させた。

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750年ごろに唐朝の勢力を駆逐し、雲南省の独立を勝ち取った南詔国は、滇池北岸の支配監督を強化すべく、昆明平野の中央部に【初代】拓東城 を築城する(上地図)。

以降、大理国時代、元代、明代、清代を通じて、雲南省の中枢は昆明市五華区へと移行されたのだった。その後も、昆明平野の西端を防備する拠点として、益寧県城跡地には関所や城塞が設置され続けたと考えられる。

また、周囲の丘陵斜面には、地元有力者らの別荘や、仏僧により華亭寺や太華寺などの大寺院などが建設される。平野部に取り囲まれる滇池湖畔エリアにあって別格の地勢を有したことから、特殊な土地利用が進められたのだった。現在、この丘陵地帯は西山風景区として整備され、昆明市民へリクリエーションの場を提供している。

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なお、「碧鷄関」の地名であるが、伝説によると、このエリアには野生のクジャクが生息しており、当地の地元住民らはその鳥種を知らず、その鳴き声から碧鷄と呼称していたことに由来している。

附近を散策後、西山公園駅からホテル最寄りの 五一路駅 まで移動した(4元)。約 30分。


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