BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2019年4月中旬 『大陸西遊記』~


雲南省 昆明市(中心部)五華区 ① ~ 区内人口 90万人、 一人当たり GDP 46,000 元(五華区)


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  昆明旧市街地から、昆明市博物館へ移動 ~ 最強ルートの ①路線バス(一律 2元)
  750年代、唐朝との独立戦争の最中に 南詔国により建造された【初代】招東城
  市博物館前で声がけされた「請慢用」に象徴される、雲南省市民のおっとり気質
  昆明市博物館に展示されていた、地藏寺経幢とは
  圧巻の昆明府城 模型 ~ これから訪問する【二代目】招東城(鄯闡府城)跡地に驚く!
  第二次世界大戦中の援蒋ルートをめぐる攻防戦 ~ フライング・タイガース(飛虎隊)の展示
  【初代】拓東城の 東門跡地 と 拓東路
  人民解放軍の昆明入城 紀念門
  【初代】拓東城の東面の外堀跡 と 雲南省唯一の状元・袁嘉谷を記念した「状元楼」
  万慶塔(白塔)の 今昔
  【初代】拓東城の 北門跡地 と 白塔路
  真慶観(真武祠)~ 街中になって別空間の厳かさ
  【初代】拓東城の南門跡地 と 春城路 / 呉井路の交差点
  【初代】拓東城の西門跡地 と 地下鉄「塘子巷駅」、盤龍江
  【二代目】拓東城(鄯闡府城、昆明府城の出城)の 今昔
  東塔(常楽寺塔)と 西塔(慧光寺塔)、その間を接続する 歩行天国ショッピングストリート
  復元された 昆明府城の南門 と 楼閣・近日楼
  【二代目】拓東城(鄯闡府城)の 南門跡 ~ 東寺街と玉帯河との交差点
  明代末期から残る柿花橋と 出城部分の 外堀跡・玉帯河
  【二代目】拓東城(鄯闡府城)の 西門跡 ~ 金碧路と 玉帯河(沿河路)との交差点
  昆明最大のイスラム人街 ~ 順城路 と 順城清真寺
  女性や異教徒にも寛大な、中国式イスラム教に思う ~

  【豆知識】苴蘭城(庄礄故城。五華区黑林鋪 昆明平板玻璃広生活区一帯) ■■■
  【豆知識】谷昌県城(昆明市官渡区黑土下凹村あたり) ■■■
  【豆知識】益寧県城(昆州城。昆明市西山区碧鷄関あたり) ■■■
  【豆知識】初代・招東城(昆明市官渡区拓東路あたり) ■■■
  【豆知識】二代目・招東城(鄯闡府城。昆明市五華区金碧路。南城門の 外城) ■■■
  【豆知識】三代目・中慶府城(昆明城、雲南府城。昆明市五華区一帯) ■■■



華山西路沿いにある「永暦帝殉国処碑」を見学後、正面に設置されていたバス停「華山西路」から ①番路線バスに乗車し(運賃 2元)、「市博物館」前まで移動する(下写真)。バスは人民中路を東進し、青年路を経て拓東路に至ると、すぐに到着できた(約 15分)。

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なお、この①番路線バスであるが、始発は「西北部バスターミナル」で、終点は「市博物館」の次の「東駅(環城東路)」となっており、総走行時間は 1時間半強のバス路線なのだが、昆明市中心部と郊外視察には欠かせないルートであった。

特に、この「西北部バスターミナル」は、富民県禄勸県武定県元謀県東川区 などの西部、北部の郊外ルートを網羅しており、昆明 滞在中は非常に重宝させてもらった。

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さてさて、バス停「市博物館」の一帯は、拓東体育館などの地名が示す通り、かつて拓東城が立地したエリアで、その「東門」あたりに相当する。拓東城は 750年ごろに唐朝からの独立戦争中だった南詔国が全長 3 kmにも及ぶ土塁で築城したものである。

それまでの滇池湖畔北部の行政府は、現在の昆明市西山区碧鷄関にあった益寧県城(昆州城)だったが、防衛重視のロケーションで不便だったため、昆明平野の統治を目的として、そのど真ん中に新築されたのだった。下地図。

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大理国時代に城塞が西隣に移転されても(【二代目・拓東城】)、そのまま南詔国時代築城の【初代】拓東城跡地は庶民の生活空間として使用され続けていたようで、そのまま 元代、明代、清代も継承されていったのだった。ただし、西隣の昆明府城 の建造にあわせて、土塁資材は持ち去られており、以降、掘割のみが残っていたと推察される。

今日では最も新興ビルが林立する開発区となっており、特に拓東城跡の北郊外の発展ぶりが目立つ(下写真は、この北郊外エリアで発見した路線バス)。最初は観光バスかと思ったが、普通に何台も通過しており、通常の路線バスだった。年中が温かく雨天も少ない昆明ならではのデザインだと感心した次第である。

対する古城エリアは、低層住宅がメインのままで、清代の庶民空間がそのまま継承されている印象だった。だが、木造土壁の古民家は全く目にすることはできなかった。往時の名残りは、住宅街の路地名の所々に刻みこまれていた程度だった(太乙橋、石井路、呉井路、前衛路、石家巷、東川巷、玉川巷、環城巷 など)。

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さて、バス下車後、同じバス停で待つ女性に「博物館はどこですか?」と質問すると、「まっすぐ先です。 請慢用」と言われたときはびっくりした。ごゆっくりどうぞ、みたいな言い方をされたのは、大陸中国でも初めてだった。

その他、昆明市街地や郊外の自動車道路の運転ぶりを見ても、殺伐とした印象は一切なく、どこか東南アジアの時間感覚が流れていそうな、ゆっくりした気質が感じられた。その他、別日程でも地元民たちと会話した感覚では、皆とても物腰の柔らい温和な人が多かった。

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そんな現地人の緩い気質にうっとりしつつ博物館に向かっていると、今度は、カラスのくちばしみたいな尖ったマスクをした人や、核施設ででも働けそうないで立ちの女性たち(上写真左)に遭遇し、自由気ままなアジアの気風が心地よかった。

いよいよ 昆明市博物館(年中無休 9:30~16:30)に入ってみる(上写真右)。入館受付はなく、ただ荷物チェックの検査機に荷物を通すだけだった。

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博物館内はだだっ広いわりには展示内容はわずかで、ガラガラのスペースだけが続く印象だった。特に良かったのは 1階部分に展示されていた、拓東路沿いの真慶観の境内にあったという寺院仏塔の一部と(上写真左)、昆明府城の模型だった(下写真)。


地藏寺経幢はかつて、もともとは拓東路上の 古幢公園(今の真慶観)内に立地していた。正式名称は尊勝宝幢、もしくは 石雕梵(俗称:古幢)といい、大理国の治世時代に建立されていることから、大理国経幢とも通称される。

大理国時代(937~1253年)、議事布燮(宰相)の袁豆光が、初代鄯闡侯の 高智昇(その次男・高昇祥が二代目となる)の第八代目子孫として鄯闡侯を継承していた高観音の子で、早世した高明生の偉業をたたえて建立したものという。
碑文上には、鄯闡侯と宋王朝との親密な関係構築の尽力について明記されており、両国関係を研究する上で、非常に重要な歴史価値を提供しているという。

この高さ 8.3 mの八面直方体の塔の表面には、 300体もの神像が彫られており、大きいもので 1 m級、小さいもので 5~7 mmという多彩さであった。てっぺんは瓢箪型の宝頂が設置され、蓮花を表している。

地藏寺経幢はその建立から、一度も場所を移動されずに、元代や明代、清代を経て、 1919年の発見まで同じ敷地内にあった非常に珍しい仏塔とされる。1857年には兵火で地藏寺は焼失されてしまうも、てっぺんの経幢裸露は壁の中に隠される形で保護され、その後、人々がその存在を忘れ去ってしまうも、金汁河の河川氾濫の際、その土砂処理の際にたまたま発見されたのだった。
その精巧な雕刻芸術は高く評価され、東方仏教を代表する類まれな芸術性を有する歴史遺産として、1982年に国宝指定されるに至る。



また、昆明府城の模型は圧巻だった。特に、南門外の出城には外堀こそあれ、土塁などの防塁壁がなかったことに驚かされた(下写真)。おそらく、府城の建造の際、もともと大理国時代まであった土塁壁の資材が撤去されて、後方の巨大城郭の部材に当てられたものと推察される。

その仕組みは、現在いる【初代】拓東城跡であった当地区でも同じで、城壁土塁はすべて西隣へ持ち去られ、簡単な門と外周の掘割だけが残されていたと思われる。

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なお、昆明府城の模型を俯瞰していると、北門外が丘陵の坂道になっている点が印象的だった。北門、東門あたりの丘陵地帯はかなり粗末な家屋が建ち並ぶ、村落エリアだったらしい。

そして、博物館 2階は恐竜と 戦闘機フライング・タイガース(飛虎隊)に関する展示スペースとなっており、特に後者は非常に広い面積が割かれていた。対日戦争時の米軍との共闘関係がこれでもかと解説・力説されていた。

下写真左は、最後の援蒋ルートとして昆明 ー ミャンマー(ラシオ)とを結んだ自動車道「ビルマ公路」と、後に開発された 代替道路「レド公路」、そして両者の移行期間をカバーした空輸ルート(ハンプ越え)の 3ルートを示す。

雲南省内外でも、日米両軍は制空権、陸路の輸送ルートを巡って激しい攻防戦を繰り広げており、その模様がたくさんの写真と共に展示され、非常に勉強になった。

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また、その向かいの恐竜展示スペースは比較的に小さく、 昆明市晋寧区 夕陽郷の田舎で恐竜の化石が発見されたことから、恐竜全般に関する解説コーナーが設けられていたのだった。

なお、この博物館 2階部分には屋外テラスもあり、ちょうどここから前の拓東体育館などが撮影できた(上段の大理国経幢の石柱写真の右隣)。かつて【初代】拓東城の東門があった付近と推察される。
下写真左は、拓東路から【初代】拓東城の東門跡地を眺めたもの。右手の緑地帯に市博物館が立地する。

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そして、博物館を後にすると、拓東路を渡り(上写真左)、正面にあった省体育局事務所ビル前に設置されていた、黄色の門を撮影する(上写真右)。
ここは共産党軍が昆明市街地に入城した際、記念として建造された門といい、体育局事務所ビルが建設された後も、紀念門だけは残されている、というわけだった。


1949年 12月9日、国民党政権下の 雲南省政府主席(1945年12月~)であった 盧漢(1895~1974年)は、大陸側の国共内戦の戦局を見極め、中国共産党の呼びかけに呼応し、国民党から離脱して共産党に帰順する(昆明起義)。これに激怒した国民党軍の攻撃をしのぎつつ、人民解放軍の到着準備を進めることとなった。

翌 1950年 1月1日、雲南臨時軍政委員会は人民解放軍の受け入れ 準備委員会(人民解放軍莅昆大会筹備処)を発足させ、 同月 9日、昆明市内の各組織、諸団体に対し、国民党時代からの財産や 資料保存、案件整理、治安確保などが要請される。あわせて、工場や交通インフラの修復も指示され、第二次大戦戦争中に破壊されていた道路や鉄道、橋などが再整備され、また農村からの多くの人員と産物が供出されることとなった。

2月17日、人民解放軍の先遣隊が昆明市郊外の呈貢地区に到着すると、昆明市代表団 400名余りが呈貢まで歓待に出向いている。
そして、2月20日に人民解放軍がいよいよ昆明城に入城する儀式が執り行われ、当時、わずか 30万人しかいなかった昆明市街地にあって 12万もの群衆が街道沿いに立って人民解放軍を迎え入れたのだった。その入城パレードでは、人々の拍手喝采、音楽や舞いが止まなかったという。
そして、2月22日に昆明市下の各民族や各業界人らが拓東運動場に集合して、盛大に歓迎会を催し、陳賡、宋任窮、周保中、盧漢 らがスピーチした。

この歓迎会が行われる 1か月前、人民解放軍莅昆紀念のために、商工業組合が資金を出し合い、その会場付近に紀念門を建造する。それが、この今に残る 雲南省体育局事務所ビル(昆明市盤龍区拓東路)前の大門というわけだった。



さてさて、博物館の西隣にある石家巷を北上してみる。
その脇に流れる水路は、かつての【初代】拓東城時代の外堀の名残かと思われる。ちょうど、東側の掘割に相当するだろう。下写真左。

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清代の文筆家か詩家の解説を横目に、水路脇に設けられた緑地道を北上すると、尚義街との交差点に忽然と「状元楼」が姿を現した(下写真)。

2014年12月に再建されたものといい、歴史的な建造物の趣深さは一切なく、内部も鍵が閉まっていて、全く見学できず、さらにすぐ北隣は、壮絶なマンション群の開発ラッシュで(上写真右)、何やら片隅に追いやられた亭のような印象だった。

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ちなみに、この石家巷をそのまま北上し、新興マンション群を抜けると東風東路との交差点に、地下鉄「拓東体育館駅」があり、その沿いに 5つ星ホテルの シャングリラ・ホテルが立地している。

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この状元楼は、昆明を代表する伝統建築物で、2014年12月に再建されたもの。もともとは、清末の 1903年に 袁嘉谷(雲南省紅河哈尼族彝族自治州 石屏県の出身。1872~1937年。彼の旧家は現在も昆明市五華区翠湖北路沿いに保存されており、2002年に昆明市指定の歴史遺産となった)が 全国経済特科(科挙試験の最高峰)に合格した際、その雲南省出身の最初の状元を記念して建立されたものだったという。以後は後続も続かず、彼は雲南省出身で唯一の状元となった。

袁嘉谷は朝廷出仕後、日本へ視察団を連れて訪問するなど、国家教育の中枢を担っていくこととなる。それまで中国で使用されていた「曜日」制度(三国時代に諸葛孔明が日々の凶吉運勢を占った孔明六曜星に 由来 ー 先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口)を、現在の「星期」システムに変更したのも、彼の監修という。



さて、続いて状元楼の正面に通じる尚義街を西進する(上写真右)。
尚義街の南側に巨大な古い寺院の屋根が見え、その壮観さに感嘆していると、何やら中から子供たちのはしゃぎ声が聞こえてくる。中に 古幢小学校(1921年開校)が立地しているらしかった。下写真左。

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そして、尚義街が白塔路と交差するポイントに 万慶塔(白塔)があった(上写真右)。遠目で見ると、ショッピングモールに設けられた子供用の遊園パークにしか見えない。。。下写真。

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この 万慶塔(白塔)は、もともと今の白塔路と拓東路との交差点あたりに立地していたが、 1911年秋に道路拡張工事のため、破却されてしまう。
元来、その場所には元代から万慶寺が立地していたので、万慶塔とも呼称されていたが、明代にすでに寺院が撤去されるも、塔だけが存続されていたという。現在の白塔は、1896年にフランス人が撮影していた 古写真(下)を元に、2002年、当地に再建されたものだった。

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この白塔も元代に建立されたもので、南詔国、大理国、元代を通じて、北のチベット高原を拠点とした吐蕃の影響を受け、チベット建築様式の仏塔となっていた。喇嘛塔とも別称される。
白っぽい塔だったので、一般に「白塔」と通称されてきたという。



万慶塔(白塔)の東隣に走る 自動車道「白塔路」の北方向を撮影する(下写真左)。この先の東風東路との交差点付近に、かつて【初代】拓東城の北門があったと推定される。

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さて 続いて、もともと白塔があったという所まで南下する。
現在、拓東路(上写真右)との交差点角には真慶観があり(下写真左)、広大な敷地を有していた。この境内には、真慶観、塩隆祠、都雷府に代表される 明代、清代の伝統建築物が残されており、2013年には境内全体が国宝指定されている。下写真右。

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真慶観の一角は、もともとは元代に建立されており、真武祠と通称されていた。
明代の 1431年に再建された際、真慶観と変更されると、1444年に真慶観の前殿と東西回廊の増築を経て、清代の 1789年に全面修復工事が施され、全伽藍が確定する。
都雷府は 1419年から建設が始まり、1425年に完成以降、清代から中華民国時代にかけて 4度の修復、再建工事を経て今日に至っている。1816年に清風亭が増築されたという。

なお、この真武祠は諸葛孔明が南蛮遠征の際、漢代から存在していた城塞に駐屯したことを記念し、武祠候が設置されていたことに由来するという。つまり、この拓東城エリアには、かなり古くから何らかの軍事拠点が存在していたことになる。
上のフランス人撮影の古写真に見える、白塔の東脇にある建物が 真武祠(真慶観)である。



さらに 白塔路 を南下し(拓東路を越えると、春城路へ名前が変わる)、呉井路との交差点まで踏破する(下写真左)。ちょうど、この交差点付近が【初代】拓東城時代の南門だったポイントだ(下写真右)。

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この交差点から、呉井路を北西に進み(下写真左)、地下鉄「塘子巷駅」まで至る。この交差点一帯に【初代】拓東城の西門が立地したと推定される(下写真右)。

なお、この交差点は異様にたくさんの花が生けられており、特にバラの花が豊かに街を彩る様子には、なかなか感銘を受けた次第である。ここまでの散策で少し歩き疲れたので、交差点付近にあったファースフード店 Dicsで飯を食べる。

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続いて、塘子巷駅の北側を通る 拓東路(上写真右の交差点)を西進すると、 盤龍江を渡る。かつて府城の東面堀川を司った河川である(下写真左)。橋上にもたくさんの花が生けられていた。

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この川を越えると、拓東路 は金碧路へと名前を変える。そのまま西進すると金碧公園に至り、ここから西側一帯が昆明府城の 出城部分(【二代目】拓東城)に相当するエリアだった。下地図。
金碧公園の南側を走る書林街が、かつての出城部分の外堀跡である(上写真右)。

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なお、この出城部分であるが、902年に南詔国が滅亡し、しばらくの間、雲南省は各地の部族らが割拠する戦国時代に突入するも、937年に 段思平(893~944年)が雲南省西部を統一し大理国を建国する。しかし、雲南省東部は引き続き、群雄割拠状態が続き、南詔国の 東部拠点【初代】招東城も大いに荒廃することとなった。

大理国がようやく雲南省東部を併合できたのは、5代目国王・段素順の 治世時代(969~986年)であった。大理国が雲南省を完全統一すると、北宋朝との間で国境確定を行い、いよいよ安定期を迎えることとなる。この直後に、東部拠点として建造されたのが、【二代目】招東城(鄯闡府城)であった。
かつて存在した南詔国時代の【初代】拓東城を解体して建設資材を西へ移転する形での築城となった。この時、設置された土壁城壁は元代に撤去され、ただ外堀だけが残されて、明代、清代を越えて、今日まで継承されることとなる。

この【二代目】古城エリアであるが、前述の通り、城壁はすべて喪失されているが、西半分のみは堀川も現存し、また古城時代の名残りが多くの路地に刻み込まれていた。
球帯河(掘割跡)、西寺塔(恵光寺塔)、西寺巷、東寺街、司馬巷、南通街、崇仁街、碧鷄巷、東寺巷、常楽寺塔、石橋鋪、書林街など。

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とりあえず、古城地区の南半分、特に南西部の掘割跡を最終目的地として南下していくことにした。

金碧公園の南側を走る書林街を直進すると、間もなく、巨大な立塔である 常楽寺塔(東塔)に行き当たる(上写真)。 この西方向には、対を成すかのように 恵光寺塔(西塔)がそびえ立っていた。


なお、これら両塔の由来であるが、東寺塔はもともと常楽寺内にあり、現地で東寺と通称されていたので、東寺塔と称された。境内を提供していた常楽寺はすでに無く、現在は高い塔のみが残っている。
対する西寺塔はもともと慧光寺内にあり、西寺と通称されていたことから、西寺塔と呼ばれていた。同じく、慧光寺も今は無く、現在、寺塔だけが残された状態となっている。

史書によると、東寺塔と西寺塔はともに南詔国下の 弄棟節度使・王嵯顛が建立したとされ、【初代】拓東城の西隣に発展中だった集落地内にて建設工事が着手され(829年)、30年の歳月を経て、859年に完成したという。ちょうど、唐や吐蕃の国力が相殺され、漁夫の利で南詔国の勢力が頂点を極めた時代であった。

しかし、清代後期の 1833年に昆明地震が発生すると、東寺塔が倒壊してしまう。現存する東寺塔は 1882年に復元工事が行われた際、もともとの場所が地震の影響で地盤沈下しており、仏塔の巨体を支えるには不十分と判断されたため、さらに東へ数百メートルほど移動させた位置に再建されたものである。その跡地はもともと三皇宮があった場所といい、地震を経ても頑強に健在だった西寺塔と同じ建築スタイルで再建されたのだった。

1984年に修復工事された西寺塔もまた地震で倒壊した経験があった(1499年)。この時、半壊したが 5年後に完全修復されていたという。
明代には、東寺塔、西寺塔ともに明かりが灯されるようになっていたという。



この東西両塔を結ぶ東西寺塔歩行街は、現在、観光地化され時代劇風の歩行者天国エリアとなっていた(下写真)。しかし、中国の諸都市によくあるパターンで、店舗も往来客もまばらなゴーストタウンの様相を呈していたが。。。

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すると、歩行者天国の中央部に、復元された南城門と 楼閣・近日楼がそびえ立っていた(下写真)。

都市開発のあおりを受け 1924年に撤去後、本来あった 場所(百貨店・百大新天地)から南へ 900 mほど移動した形で、2002年に再建されたものという。

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城門内部は、翡翠石や花崗岩などの 加工場&販売店(南乾興翠商貿有限公司の直営ショップ)になっていた。その辺で拾ってきたみたいな石が 200万円で売られていた。。。

また、そのまま城門を通過して亀城部分へ出ると、西面に 乾興翠翡翠博物館(総床面積 2万 m2 強)があった(下写真左の左側面に見えるのが博物館入口)。入館料を質問すると 100元!という。誰が観覧に来るのか不思議だった。。。

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東面だけは自由に登れるらしく(上写真右)、城壁上、さらに 楼閣(近日楼)内まで登れた(下写真左)。

近日楼の入口が開いていたので、入ってみる。1階部分は応接スペースのようだった(下写真右)。2階部分は巨大な仏像が安置され、万はあるような多数の蝋燭が灯されていた。圧倒的な世界観に飲み込まれそうになる。この 2階の軒先にいた、駐在の僧に見学不可ということで下りさせられた。

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さてさて、南城門を出てから、歩行者天国ストリートをさらに西進する。正面に見える西塔を撮影後(下写真左)、前を走る 大通り「東寺街」を少し南下してみる。ここは 元代、明代、清代を通じて、出城部分(【二代目】拓東城)のメインストリートだった通りだ。

東寺街が玉帯河を渡るポイントに至る(下写真右)。ここにかかる橋は清代より「土橋」と通称され、出城の南門が立地した場所である。下古地図も参照。

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この玉帯河沿いはきれいに整備されており(上写真右)、近隣住民らの生活道路となっていた。たくさんのバイクが往来し、歩行に支障をきたす狭い箇所もあった。

玉帯河 が北へと折れ曲がる地点があり、ここが出城部分の南西角にあたる。
このポイントに、明代末期に架設されたという柿花橋が残されていた。下写真。

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この玉帯河上にかかる柿花橋は、元々の名称を賜官橋、もしくは西石橋といい、明末の 1600年ごろに架設されたものという。現在、橋の長さは 9 m、幅 5 mあり、表面はコンクリートで補強された形となっている。

下の清末&中華民国時代初期の昆明府城を描いた古地図上にあって、西郊外に柿花橋村が記載されている。

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なお、この玉帯河は大理国がここに【二代目】拓東城(鄯闡城)を築城した際、人工的に掘削した掘割で、南面の外堀を成していた。その水は紺碧色で非常に澄んでおり、玉帯のように鄯闡城を取り囲んでいたため、玉帯河と通称されるようになったという。上古地図に見える通り、西側は滇池までつながり水運交通の主軸を担っていた。

明末に架橋された当時、城内側に 戍楼(西面には鎮海雄関と記され、東面には金碧雄関と掲示されていた)が設置され、城内から南郊外へと出る際に重要な関所の役割を担っていたという。

しかし、清代後期の 1860年ごろ、戦火に巻き込まれて戍楼も焼失してしまうも、柿花橋自体は決して大きな橋でもなく、構造も簡単なものであったが、今日までの 400年以上もの間、同じ場所で生き残ることができたのだった。
2009年8月、昆明市西山区政府により、歴史遺産指定を受ける。



そして、玉帯河沿いをそのまま北上すると、真新しい ビル(下写真左の河川対岸)を中心に据える雲南省第一人民医院に行き着く。下写真左は西寺巷にかかる 金碧橋(北方向)。下写真右は、この金碧橋から南方向に玉帯河を見たもの。この先に、前述の柿花橋がある。

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さらに 玉帯河沿いに沿河路を北上すると、広い自動車道路の金碧路に至る。ちょうどこの金碧路が玉帯河を渡る ポイント(鷄鳴橋)が、出城エリアの西門に相当したわけである。

金碧路を北へ渡って、沿河路をさらに北上しようと四つ角に至ると、異様に電線の絡む樹木を発見した(下写真左)。大陸中国の都市では、電線類はすべて地下化されているのが一般的だが、この昆明市街地では電線があちこち空中を伝っていた。
ここから北へと延びる沿河路沿いにも電柱と電線があった(下写真右)。

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そのまま沿河路を北上していくと、順城路 に至る。
この辺りは 学校(下写真左は、沿河路沿いにある明徳民族中学校)や 寺院(下写真右は、順城清真寺)、食堂、衣装品店など全てがイスラム教一色になっていた。

このエリアでは、あちこちに緑色を目にするわけだが、これは現代イスラム教の象徴カラーで、イスラム教の預言者 ムハンマド(約 570~632年)が晩年を過ごし、死去した旧家跡に建立された最古の イスラム寺院「預言者モスク(ムハンマドの霊廟)」の屋根に関係するという。このモスク屋根が緑色に定められた 1837年以降、全世界のイスラム寺院、関連施設などの色として広まったという。

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さて、せっかくなので当地のイスラム寺院(順城清真寺)に入ってみた。
広い中庭の真正面に朝真殿という、ひときわ高台に設置された中国風建築の正殿が建っていた(下写真左)。階段上には登れないようだった。下写真右は正殿を側面から撮影したもの。

周囲にはイスラム教徒らの関連施設が取り囲み、学校や事務所などが入居している様子だった。中庭も含め、広々とした空間だった。

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また、他国のイスラム寺院と異なる点は、スカーフも巻いていない一般の地元女性らが、何の躊躇もなく正殿前の中庭を往来しており、中国らしい雑多な雰囲気が非常に印象的だった。何でも神格化する道教を旨とする漢民族らの緩い宗教観が、一神教を旨とするイスラム教徒を一宗派程度に認識し、特にそれ以上、興味を向けていない感じだった。

一方のイスラム教徒側も、一般女性の境内の通行やスカーフ有無、肌の露出などは不問といった姿勢で、世界でも珍しい寛容なイスラム世界が現出されていた。他国のイスラム教もここまで緩いと、また違った国際社会となっていたのかもしれない。


昆明市下の順城街に立地する イスラム寺院(順城清真寺)は、かつて昆明府城の城壁沿いに立地していたことから、順城寺と通称されてきた。現在、昆明市街地で最大のイスラム寺院の一つといい、また全国でも著名なイスラム寺院となっている。
当寺院は明代中期の 1425年に最初に建立され、清代中期の 1700年代を通じ、幾度もの修築を経て、最終的に 1821年、当地のイスラム教徒らの寄付により大規模に拡張されることとなる。

清代後期に入ると、現在の ウイグル自治区、甘粛省、隴西省一帯のイスラム教徒らが散発的に漢民族を優遇する清朝に対し、反乱を起こしては個別撃破されていた。
そんな最中の 1855年、雲南省で鉱物資源の採掘をめぐり、漢民族とイスラム教徒との間で対立が生じる。しかし、仲裁した清朝の役人が漢民族に肩入れしたことに激怒したイスラム教徒らは昆明府城下で挙兵することとなる。

翌 1856年、一帯のイスラム教徒 600名余りを集めたリーダーの馬凌漢は、この順城街にあった当イスラム寺院に拠点を定めて立て籠る。しかし、清軍は偽情報を流して教徒らを離間させ、最終的に一帯の民家や寺院らをすべて焼き尽くし、教徒らを大量虐殺したとされる。

1880年、清朝の許可を得て、地元のイスラム教徒らが寄付金を拠出し合い、イスラム寺院を再建する。中華民国時代の 1927年、礼拜大殿を拡張する。
共産党時代の 1979~1982年、雲南省政府は公費を投じて数度にわたる修復工事を手掛け、1983年7月、昆明市五華区政府により歴史遺産に指定される。現在、境内には雲南省イスラム教協会と昆明イスラム教経学院が入居する。



さて、そのまま順城路を北上すると、東風西路との交差点に行き着く。この正面に 雲南博物館(現在は雲南省茶文化博物館)がでんと立地していた(下写真左)。
下写真右は、先ほどの イスラム寺院(順城清真寺)前にあった、イスラム衣装ショップ。

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そして、交差点の東隣にある 地下鉄駅「五一路」を通り過ぎ、歩行者天国・南屏街まで至ると、そのまま北上して、正義路沿いにホテルまで帰りついた。

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 五華区の 歴史

昆明市 中心部(五華区)内で最初に城塞集落が建造されたのは、今から約 2400年前の古滇国時代のこととされる。

楚の遠征軍を引き連れて滇池地区に 進駐後(紀元前 279年)、庄礄(?~紀元前 256年)が現在の 昆明市晋寧区晋城鎮 に王都を開設して古滇国を建国すると(紀元前 277年)、各地の部族集落を制圧し、その支配基盤の確立を図ることとなった。その一環で、当時すでに滇池の北岸に形成されていた地元部族集落を制圧し、楚軍が城塞化したものが苴蘭城で、現在の五華区黑林鋪にある昆明平板玻璃広生活区 一帯に立地した、と推定されている。庄礄が建造したことから、「庄礄故城」とも別称される。

紀元前 109年に、前漢朝の武帝が派遣した遠征軍により古滇国が征服されると、新たに 谷昌県城(今の 昆明市官渡区黑土下凹村あたり)が築城される。
益州郡(郡都は 旧古滇国の王都跡に開設された 滇池県城【今の 昆明市晋寧区晋城鎮】)に帰属した。下地図。

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以降、南北朝時代末まで、この谷昌県が踏襲されるも、その上級行政機関には度々、変更が加えられる。三国時代の 225年には新設の建寧郡下に、西晋朝時代の 303年には再び益州郡下に、そして東晋朝時代には晋寧郡下に属した。

最終的に 南朝・梁王朝の末期、谷昌県が廃止されると、新たに 益寧県(今の 昆明市西山区碧鷄関あたり)が新設される。
隋代には益寧県城内に昆州役所が併設され、州都となる。

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750年ごろ、雲南省西部で勃興する南詔国が唐王朝の支配からの独立を目指し、北の吐蕃国に支援を求め、3度にわたる対唐戦争を勝ち進んだ後、【初代】拓東城(現在の 昆明市盤龍区拓東路あたり)を築城する(上地図の青枠)。城壁の全長は約 3 kmもなったという。

南詔国の領土を継承し、937年、段思平が 大理国(王都は 雲南省大理市)を建国すると、拓東城が盤龍江の西岸、すなわち、昆明市五華区の金碧路と三市街の交差点あたり(南屏ショッピング地区。上地図の緑枠)へ移転される(【二代目】拓東城。直後に鄯闡城へ改称)。

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元代の 1254年、モンゴル軍が大理国の 王都・大理 を落城させると、大理国 22代目国王・段興智は東の 拠点・鄯闡城まで逃亡するも降伏に追い込まれる。

こうして大理国がモンゴル王国に併合されると、鄯闡城 は昆明城へ改名されることとなる。
モンゴル帝国の支配下、雲南地方の中心が大理城から昆明城へと移転される(雲南行中書省を新設)。また同時に、大理国時代の鄯闡府から中慶府へ改編される。

その城域は急拡大されることとなり、現在の五華区の三市街エリアを中心に、東端は盤龍江の西岸まで 70 mの地点、南端は今日の 土橋(東寺街と玉帯河との交差点)あたり、西端は今日の福照街や鷄鷄橋あたり、北端は五華山までの広がっていく。
確定された市街地を取り囲む城壁の建造も着手され、あわせて外堀も掘削される。西面と南面は玉帯河を外堀に転用しており、河川上には三つの橋がかけられていた。

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1381年、明の大軍が昆明城へ攻め寄せると、モンゴル帝国下の 雲南王国(梁王国)の王都だった昆明城は落城し、国王・把匝刺瓦爾密は自刃する。最終的に 1390年、地場部族や貴族層の裏切りにより、残党勢力も掃討され、王国は滅亡に追い込まれる(上地図)。

明軍が昆明城を占領すると、一帯を統括する雲南布政使司を新設する。
また、翌 1382年より大規模な城壁の修築工事に着手する。それまでの土壁からレンガ積みの城壁へ改修され、 翠湖と圓通山をも内包する巨大城郭都市へ大幅拡張されることとなった。城門は 6箇所に設置され、東部の一部分を除いて、ほぼ全域がこの五華区内に立地したという。下絵図。

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 明代初期の 1382年に建造された 昆明城

昆明城は明代に築城された城壁都市の代表例で、陰陽五行の「堪舆(風水)」論に基づき都市設計されている。
当時、風水専門家として名高かった汪湛海が監修を委ねられると、風水理論「堪舆(堪=天道、舆=地道を指す)」を適用し、「亀蛇が交錯し、帝王の気流を生み出す」という意味合いが込められて設計図が作成されたという。

その結果、昆明城は亀型のような 楕円形(城門は 6箇所を装備)で構成され、南門が亀首で、さらに南側には巨大な 淡水湖・滇池が立地する設計であった。
北面が亀尾に相当し、北面の蛇山を背に、大東門、小東門、大西門、小西門が亀の四足を意味していたという。

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6城門とその上の城門楼閣は下記のように命名されていた。
南門(麗正門)と 近日楼、北門(拱辰門)と 望京楼、大東門(咸和門)と 殷春楼、小東門(敷澤門)と 璧光楼、大西門(宝城門)と 拓辺楼、小西門(威遠門)と 康阜楼、という。


清代に入ると、雲南省が新設され、昆明城が省都を兼務する。清代を通じて、居住人口は増加を続け、市街地は拡大の一途をたどることとなった。

中華民国時代に入ると、中心部にあった 五華山 上に、雲南軍政首脳部の役所機関が開設された。
1928年8月1日、昆明市政公所が昆明市へ改編され、今日に至る。当時の市域はわずかに 7.8 km2であったという。

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