BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年 4月中旬 『大陸西遊記』~


雲南省 楚雄彝族自治州 武定県 ~ 県内人口 33万人、 一人当たり GDP 19,000 元(武定県 全体)


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  武定県 旧城村 ~ 元代後期の 武定路城(易陬籠、羅婺万戸府、北路総管府城)跡に迫る!
  武定県獅山鎮の 旧市街地(1570年~)へ 突入! ~ 武定府城(武定州城)跡を見る  
  南街集貿市場 ~ 武定府城外に発展した 庶民マーケット と 地元民の日常空間  
  東門跡 ~ 中新街と獅山大道との交差点、武定県政府の庁舎前スペース
  中馬路、中溝路、小箭道、復興街 ~ ほとんど破壊されてしまった古民家群
  古城マップ と 散策ルート
  環城南路 ~ 南面城壁の跡地 と 外堀跡
  武定府城(武定州城)後方にそびえ立つ獅子山  
  県人民医院の入口に掲示されていた彝族の文字!
  清代に武定府役所の敷地だった武定第一中学 と 獅子山からの水源を利用した城内水路の跡
  南門跡 と 南面城壁  
  南西端の 武定バスターミナル ~ 主要街道の 交差点(環城南路、中馬路、中新街、南街)
  【豆知識】武定県の 歴史 ■■■
  羅婺彝寨(南詔国時代に発展した 彝族羅婺部の集落地跡に開発されたショッピング街)
  和曲州城(現在の 武定県旧州村)
  北 60 kmの山岳集落・武定県環州郷(明末の古城塞跡、清代の彝文崖刻遺跡など)



昆明市 中心部(五華区)にある西北部バスターミナルから、禄勸(禄勸彝族苗族自治県 屏山鎮)行の郊外バスに乗り(29元)、まず先に 禄勸県 中心部(屏山鎮)の古城地区 を散策した後、続いて、バイク白タクで南西 15 kmに位置する 武定県(楚雄彝族自治州 武定県 獅山鎮)へ移動してきた(約 20分、40元)。

バイクは、ひたすら武定河沿いの 禄武路(国道 108号線)を西進し、禄屏線を左折する(旧城村)。

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禄屏線に入ると、すぐの場所に何やら古城砦をイメージした巨大レストランやマンション群があったので、写真撮影しておいた。城壁や見張り台など結構、本格的に模して造られていた。おそらく、上旧城村にある武定雲南彝家大酒店ホテル辺りだと思われる。上写真。

この斜面下にある武定河沿いの旧城村に、かつて大理国時代から発展した 環濠集落・易陬籠があり、元代の 1257年~ 明代初期の 1382年にかけて、羅婺万戸府(1271年に北路総管府へ、1276年に武定路へ改編)の城塞都市が設置されていたわけである。明代に入って、武定府へ改編された後、府役所は 禄豊県屏山鎮南甸村 へ移転され、1570年にいよいよ武定県 中心部(獅山鎮)の旧市街地に立地されることとなるのだった(下地図)。

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ここから坂道を下り、武風橋を渡って武定河を越え(下写真)、獅山大道と武康路との交差点あたりで、バイクを降ろされた。20分ぐらいのドライブで、40元をあげておいた。

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そして、獅山大道を南側にわたり、そのまま坂道を上る形で西進する(下写真左)。

ちょうど坂道途上でパン屋があったので、歩きながら食べるべくパンを調達した。
その西隣に 地元信用組合(雲南省農村信用社)の支店が立地しており、入口脇に地元の高齢者たちがたむろしていた。地元高齢者らの寄り合い集会所になっている様子だった(下写真右)。

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また、この獅山大道沿いにはオレンジ色の帽子をかぶったボランティアなのか、県職員なのか分からないが、複数の人が交差点沿いに立っており、時折、高齢者や障がい者の道路横断を手伝っている様子を見かけた。特に集中的にいたのが、獅山大道と中新街との交差点だけだったが。。。。
ちょうど、武定県の政府庁舎の正面交差点エリアだったのが、何かしらじらしかった。。。

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さて、地元信用組合の脇に裏手の路地へと続く細い道があったので(上写真の右上の入口門)、気になったため中に入ってみた。地元・彝族の年輩女性がゆっくりと歩行中だったので、写真撮影させてもらった。

さらに路地を進むと、屋外市場ストリートにつながっていた(南街集貿市場)。そこには 鶏、ウサギ、鳩、淡水魚、肉や野菜などを売る露店商が広い範囲で営業していた。下写真。

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地元の高齢、中年女性たちは日常的に民族衣装を着ているようで、この路地市場にあっても、何人も見かけた。
それにしても鶏糞などは垂れ流しで、生々しい空間だった(下写真右)。鳥インフルエンザとか地元で疫病が発生する場合、この市場が一番に疑われるだろうな、、、と容易に思い至る光景だった。

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南街集貿市場の路地マーケットを北上すると、中新路へと至る(下写真左)。かつての 東(南)面城壁が連なっていた通りだ。
つまり、この南街市場とは、城郭都市の南郊外を意味する地名だったわけである。

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上写真右は、この中新街と獅山大道との交差点。かつての東門跡地だ。
この 横断歩道(上写真右)で目にした光景が、先のオレンジ帽子をかぶった、ちょっと白々しい介助ボランティア要員たちだった。

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この交差点の北側に、地元の武定県政府の庁舎が立地していた(上写真の左奥)。
その右脇を中新街が続く。やや丘陵斜面となっているのが分かる。中新街は西へと進路を変え、途中から環城西路へと名を変える。

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上写真は、この交差点から獅山大道の西側を撮影したもの。ちょうど、東門から古城地区を眺めた形になる。緩い丘陵斜面を登る形となっていた。
現在は巨大な 自動車道路(後方にそびえ立つ獅子山緑地公園へのアクセス向上を目指し、いち早く開通された。2009年)と、周辺のマンション開発で、全く往時の古城時代の姿をとどめていない。

一帯のマンション開発は、地元政府庁舎の目の前とあって、きっと政府関係者らの多くが優先的に部屋購入を手掛けているような直感がした。

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上写真は獅山大道から、東門跡地の交差点、さらに麓へと続く東側を臨んだもの。

そのまま照り付ける太陽の下、獅山大道 を東進していると、忽然と古民家が姿を現した(下写真左)。かつて、この古城地区にはたくさん存在していたであろう古民家の残骸のようだった。

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この脇の路地は「中馬路」といい、ここから 古城地区(城区村)へ入り込んでみた(上写真右)。
途中に、脇道の中溝路が枝分かれしていた(下写真左)。その名称から、かつて城内水路が通っていた名残かと妄想した。この先は、獅山大道沿いのマンション開発地区へとつながる。

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さて、そのまま中馬路を直進し続けると、その先の古民家群は完全に撤去されてしまっていた(下写真)。もう 2~3年、早く当地を訪問できていれば、貴重な写真を残すことができただろうに。。。と悔やまれる。
仕方なく、中馬路から西へ折れ曲がり、小箭道を進む(上写真右)。

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すると、すぐに復興街との三差路に行き当たった(下写真左)。
上写真は、この復興街沿いから、破壊され尽くした「さら地」エリアを眺めたもの。

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復興街をそのまま南進すると、環城南路との交差点に行き当たった(上写真右)。
下地図は、これまでの古城散策ル―トを青線で示したもの。

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続いて、この環城南路の坂道を登る形で西進してみる。下写真

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この環城南路の道路脇に溝があり(上写真右&下写真)、かつての古城壁を囲んだ外堀の名残だろうか。。。と妄想してみた。

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なお、環城南路沿いは比較的、自動車の往来が多かった。度々、近郊バスや地元路線バスが通り過ぎていった。
下写真は、環城南路から見上げた獅子山。巨大にそびえる山頂は自然公園として整備されている。

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また、環城南路の道路脇には、土砂と石材を積み上げた民家の壁などもあり(下写真)、もしかして、古城時代の城郭資材をそのまま転用しているのかも。。。。などと勝手にイメージした。

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この何もなさそうな環城南路沿いに、ひときわ、バイクや人だかりがある場所があった。よく見ると、県人民医院の入口だった(下写真)。
この正門に掲げられた横断幕に、漢字と彝族の文字が併記されているを発見した!!(高齢者や田舎の出身者には中国語ができない人も多い)。
当地で走る路線バスの案内にも、同様な民族文字が併記されていた。

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さらに環城南路の坂道を進む。空気が乾燥しているため汗は出ないし、気温も 25度ぐらいと快適なのだが、高原地帯からか日光ががきつかった。

さて、武定第一中学の裏手あたりに到達すると、所々の急斜面下に小川や水路が設けられている点が気になった。下写真。

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なお、このひときわ広い敷地と緑地帯を有する武定第一中学は、かつて清代初期から開設されていた 武定府参署衙門(府役所)の跡地という。丘陵地帯に建造された城内にあって、最も高台に立地した府役所からの景色は壮観だったであろう。
清末の 1871年、府役所の敷地の一部に学校施設が開設され、獅山書院と命名される。後に孔子廟も開設されるも、中華民国時代の 1935年10月、敷地全体が改修され雲南省立武定初級中学となったのだった。

清代、山側から流れる小川の水を、まずはこの府役所の官吏などが使用し、それが斜面を下って城の 東側(つまり、先ほどの中溝路を越えて、城外の南街の屋外マーケットなどの庶民エリア)へと流れ出ていた構図が見えてきた。

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最も高台となった環城南路沿いの道路にも溝が設けられており(上写真右)、古城時代の外堀跡の名残かと妄想してみた。

もう少しで獅山大道との交差点に至り、古城エリアの 北半分(環城西路、西門街、北街、北門坡 などの路地)も散策してみたかったが、前方のマンション工事に伴う砂ほこりがすごかったので(上写真右の奥)、泣く泣く環城南路を引き返すことにした。

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環城南路の坂道を下って行き、先ほどの復興路との三差路も通り過ぎる。ここの最初の曲がり角に、かつて南門が立地していた(上写真左は、南門跡地から環城南路の 東側【バス・ターミナル側】を眺めたもの)。ここに延々と南面城壁が連なっていたわけである。

この 武定府城(武定州城)跡地には、もはや城壁も城門も何も残されていないが、わずかな路地や地名から、往時の姿を推察する以外に術がない状態だった。この南門跡地も、ちょうど曲がり角にあった 南門小吃(食堂)から推察できたぐらいである。

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そして、いよいよ武定バスターミナル前の繁華街に到着した。
ちょうどこの交差点は環城南路が、中新街(東面城壁の跡地)と中馬街と合流するポイントで、交通の要衝となっていた。

なお、この 中馬路(上写真左)は、先ほどマンション開発地区の獅山大道から城区村へ入った路地だったが、途中から旧市街地がさら地化され通行止めとなっていた。本来はここまで一本道でつながってたわけだ。筆者の訪問時(2019年4月)、すでに民家エリアは粉々に破壊されており、もはや古城地区の名残りは一切、残っていなかった。

また、武定バスターミナルの斜め前には南街もあり(上写真右)、古城郊外に発展した屋外マーケット地区へとつながっている構造だった。

武定県

さてさて武定県バスターミナルだが、もう相当に年季の入ったローカルさだった。パスポートを提示して、昆明 行チケットを購入する(運賃 35元)。
ここのトイレはバス駐車スペースの脇、つまり建物外にあった。完全にニーハオ式トイレで、しかも手洗い場もなかった。。。
トイレから出ると、まさに発車しようとしている昆明行の郊外バスに飛び乗る。ギリギリでラストの座席を確保できた。
ここでも、乗客が一杯になったら、順次出発するスタイルのようだった。使い古され年季の入った大型バス(40~50人乗り)だった。

1時間10分のドライブを経て、昆明西北部バスターミナルに帰着できた。
バスターミナル からは、少し離れた河北路と小屯路との交差点脇にあるバス停留所で、①番バスに乗って 昆明市 中心部(五華区)のホテルまで戻った(下写真)。

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今回、往路の 禄勸県 から復路の武定県へと、2か所を巡れた理想的な三角ルートを達成できた。そもそも、この 両都市(禄勸県屏山鎮と武定県)は 2500年もの間、雲南省北東部に大勢力を築いた羅族の本拠地の一角を成した場所で、武定河でつながった一心同体の都市圏と言える。

紀元前 700年代から当地に住み着いた羅族は独自の民族文化を開花させ、特に 大理国(王都・大理市)が勃興すると、これに合流し、三十七部族連合の一角を成して、中原の北宋朝や南宋朝に対抗すべく、連合王国内にあって絶大な影響力を誇ったという。


武定県の 歴史

現在の武定県一帯は、春秋戦国時代から秦代にかけて、楚出身の 大将軍・庄蹻が建国した 古滇国(王都は、現在の 雲南省昆明市晋寧区晋城鎮 に開設)の版図下に組み込まれていた。
前漢時代の紀元前 109年、新設された 益州郡(24県を統括。郡都は 滇池県城)の管轄区となる。

時は下って三国時代の 225年、蜀の諸葛孔明による南蛮遠征を経て、益州郡が 建寧郡(味県【郡都】、同楽県、談槁県、牧麻県、漏江県、同瀨県、昆澤県、新定県、存邑県、同并県、万安県、毋单県、新興県の 13県を統括)へ改編されると、これに属した。

その蜀も 263年に 魏(後に西晋)により滅ぼされると、西晋朝は雲南地方のさらなる統治強化策を導入すべく、270年、寧州を新設する。以降、味県城(今の 曲靖市麒麟区三岔)は建寧郡の郡都と寧州の州都を兼務することとなる。

南北朝時代、現在の武定県エリアは 晋寧郡(滇池県【郡都】、建伶県、連然県、谷昌県、秦臧県、俞元県、双柏県の 7県を統括)と 建寧郡(味県【郡都】)に分かれて統括された。下地図。

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隋代、唐代初期には、南寧州総管府下の昆州が直轄した。一部のエリアは、632年新設の戎州都督府(府都は今の 四川省宜賓市)に統括される。

今の武定県エリアは 南詔国時代(737~902年)から 大理国時代(937~1254年)中期まで、地元を統括する役所機関が存在せず、いくつかの部族集落が点在するだけであった。

1174年、大理国 18代国王の段智興が、彝族の 大族長・阿歴(阿而)を羅婺部の長に任じると、和曲州(今の 武定県旧州村)を併合し、羅婺部は 37の大部族集落の筆頭格に位置付けられるようになる。
彝族(東爨烏蛮)は各エリアの族長らは連合して集合体を維持しており、当時、その族長会議で選出されていた大族長が 阿歴(阿而)であった。部族どうしの結束は強く、兄弟親戚のような大家族集団を形成していた、と史書は語る。
直後に、阿而は自身の本拠地の 山間部(今の 禄勸県雲籠村)に易龍城 を築城する(下地図)。

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しかし、大理国は 1253年にモンゴル帝国の侵攻を受け、翌 1254年に降伏に追い込まれると(下地図)、翌 1255年に 梁王国(雲南王国)が建国され、元王族らは朝廷内の高級貴族層として好待遇を受けて存続されることとなった。

同時に、雲南省東部 37部族拠点の支配体制もそのまま追認される。

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1257年、当時の彝族の大族長であった矣格も羅婺万戸侯に封じられ、引き続き、旧領地(現在の 禄勸県元謀県、武定県と 四川省凉山自治州会理県の一部)の統治が認められる。

同年、モンゴル軍との交戦により荒廃した 易龍城(今の 禄勸県雲籠村)は放棄され、新たに 易陬籠(上地図。今の 武定県中心部の獅山鎮旧城村あたり。地元語で「籠」は城塞集落の意で、もともと環濠集落が存在していたことになる)へ中心拠点が移転されて、羅婺万戸府が開設される。

1271年、彝族の統括するエリアが拡大され、現在の 貴州省 最西部の黔西南州 普安県エリアまでも内包されることとなり、あわせて羅婺万戸府が北路総管府へ改編される。
さらに 1276年、北路総管府は武定路へ改編され、引き続き、彝族集団の族長会議で選ばれた長が統治者としての地位を継承していった。

また 1289年、禄勸州(現在の 禄豊県屏山鎮南甸村。地元部族語で掌鳩甸と呼ばれた集落拠点があった)が新設される。
同時に、北部の山間に立地していた彝族のかつての 旧本拠地(元羅婺部。易龍城跡。今の 禄勸県雲籠村)に 易龍県(簡籠県)が開設される(地元語で「籠」は城塞集落の意)。また、他方では 石陽県(現在の 禄豊県屏山鎮南甸村)も新設されると、易龍県と共に禄勸州に属した。つまり、石陽県城は禄勸州城を兼務したことになる。

武定県

明代初期の 1382年、朱元璋が派遣した明の大軍により 梁王国(雲南王国)が征服され、モンゴル勢力が駆逐されると(上地図)、武定路は武定軍民府へ改編されるも、基本的にモンゴル統治時代から続く、地場の 族長ら(土司と命名される)を通じた 間接統治体制(土帰流)がそのまま踏襲されることとなる。

この時、元代に開設されていた 武定路城【今の 武定県中心部の獅山鎮旧城村】が攻城戦により焼失してしまったため、武定府役所が近くの 石陽県城【現在の 禄豊県屏山鎮南甸村】内へ再移転される。以後、二州四県(禄勸州 と 和曲州【今の 武定県旧州村】)を統括することとされた(下地図)。

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1384年、易龍県(今の 禄勸県雲籠村)が廃止され、禄勸州の直轄地に組み込まれる。
1389年、今の 禄勸県中心部(屏山鎮)の旧市街地 に、新たに禄勸州城が建造される。
1507年、石陽県(現在の 禄豊県屏山鎮南甸村)が廃止され、禄勸州の直轄行政区に吸収合併される。以後、禄勸州下には県行政単位がなくなる。

この改編は、明の中央朝廷が地元部族長による 間接統治体制(土帰流)を排除する目的で、徐々に行政職を減少させていったことに由来する。こうした官職の減少により、権限が縮小されていった各地の 部族長ら(土司)は、反明で挙兵し武力闘争に訴えるも、各個撃破されていくこととなった。

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ついに 1567年、地場豪族の 鳳氏(明皇帝から姓を下賜されていた)が世襲した武定府の長官職も取り上げられ、禄勸州長官職のみが残される。州役所は引き続き、今の禄勸県 中心部(屏山鎮)の旧市街地 に開設された。

そして、新たに武定府の長官として、明朝廷から中央官吏が派遣されてくる(改土帰流)と、府役所の移転が決行される。
こうして、地場豪族・風氏のおひざ元だった 旧禄勸州城(今の 禄勸県屏山鎮南甸村)から、今の 武定県中心部(獅山鎮)へ移転されることとなった(1570年)。ここに、禄勸県屏山鎮南甸村が武定府城として機能した 184年の歴史は幕が閉じたのだった(下地図)。以後、廃城となる。このようなパターンで、明末には部族長の 行政区長官職(土司)の大部分が消滅していった。

あわせて、多くの漢民族らが当地への移住を斡旋され、人口構成が大きく変化していくこととなる。

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清代の 1700年、武定府が 武定直隷州 へ降格されるも、引き続き、元謀県禄勸県(同年に禄勸州から降格。県城はそのまま今の 禄勸県中心部(屏山鎮)の旧市街地に立地。これにより、地場部族の間接統治体制は完全に消滅することとなる)の 2県を統括した。

同時に、和曲州(現在の 武定県旧州村)も廃止され(上地図)、武定直隷州に吸収合併される。

中華民国が建国された直後の 1912年、全国で州制度が廃止されると、武定州は武定県へ降格される。


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