BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


海南省 万寧市 大茂鎮 旧州村 ~ 鎮内人口 3.1万人、一人当たり GDP 29,000 元(万寧市 全体)


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  旧州古城(万安県城、万安州城、万全郡城、万全県城、万安軍城、万寧県城)
  荊王太子墓(元朝廷から左遷された、モンゴル人王族の墓)



午前中、高速鉄道で 海口市瓊山区(中心部)から、 文昌市(文城鎮)へ移動し(20分に一本あり。28分、23元)、現地の旧市街地を散策後、午後からさらに南下すべく、高速鉄道に再乗車し、万寧市まで移動する(20~30分に一本あり。35分、37元)。

高速鉄道で万寧駅に接近する直前、龍尾河にかかる立橋を渡る。この線路上から、南方向を写真撮影したい。これから訪問予定の旧州村一帯を見下ろす構図となっている(下地図)。

万寧市内(万城鎮)では、時間を節約すべく、駅前から白タクをチャーターし、 2ヵ所を一気に立ち寄ってもらうことにした。太子墓村と大茂鎮旧州村である(下地図)。

大茂鎮旧州村/太子墓村

まず、北へ 2kmの地点にある太子墓村を訪問する(上地図)。

元代に建立されたという荊王太子墓であるが、山外塘という池の南端の、平坦な場所に立地し、横約 20 m、縦 15 mの長方形で南向きに設計されている。周囲は草木が生い茂るだけの土地だが、現在、海南省政府によって史跡指定を受け、保護対象となっている。


そもそも、荊王太子とはモンゴル人の皇族で、早くに皇位継承が約束されていたが、朝廷内部での権力闘争に巻き込まれ、讒言を受けて追放されてしまった人物だった。 王都・北京 から遠く離れた万安軍の地へ左遷されるも、水や風土が体に合わず、数年後に病没することとなる。 その遺体は、万安軍城の北 4,000 mの場所にあった巨内な 池「山外塘」の南端に葬られることとなり、以降、太子墓と通称されるわけである。
なお、この荊王太子墓の北側に広がる山外塘の縁には、長く白い玉のような形をした岩石があるのが特徴で、この池の水深は最高 3.2 mあるも、水質も良好という。この池には複数の水源があり、長らく干からびることもなく、現在でも多くの水生生物が生息している。

明代末期の混乱期、陳氏の兄弟が山外塘の荊王太子墓の北面あたりに住居を構えると、間もなく呉氏の一族もこの地に移住してきて、共同で集落を形成させることとなった。さらに、符氏の兄弟も移住してくると、全員で力をあわせて周囲の平坦な土地を開墾し、豊富な 池、小川、樹木などの自然環境を活かして農業、林業、家具製作や織物業などに従事していく。 さらに 20年後に、文氏と蒋氏の一族も移住してくると、五氏の家族で集住することとなった。自ら生産した家具や織物、米、イモ、落花生などを他地区で売っては生計を立て、ますます生活を向上させていったという。

しかし、村の名称を決めておらず、外部の人々からバカにされるようになると、村民が集まって協議し、「太子墓村」と正式に名乗るようになり、以降、万州の州役所でも正式に登録される。この名称は、歴代の村民が一丸となって守り通してきた太子墓と太子廟に由来しており、その霊魂を村の守り神として称えてきた賜物であった。
現在でも、太子墓村には五氏の末裔が数百人、居住し続けており、強い結束が保たれているという。



大茂鎮旧州村/太子墓村

続いて、北へ 4 km の地点にある大茂鎮旧州村へ向かった。
聯光小学校前で白タクと別れる。この北側一帯が、古城エリアである。その範囲は、東面は旧州村の四隊大道、西面は聯光小学校脇から入る村道、南面は聯光小学校の北壁面、北面は 旧「軍田洋」のエリアで、面積は 14,600 m2 となっている(上地図)。

かつて、万安県城(【初代、三代目】万安州城 & 万全郡城、万全県城、万安軍城、万寧県城)が立地した場所で、現在でも古城壁の一部や石碑等が残されている。
しかし、城門などの本格的な城郭遺構は全く残っていないため、軽く散策後、郷村バスで 万寧市中心部(万城鎮)へ戻ることにした。



 旧州古城

唐代初期の 631年、万安県通化都(今の 大茂鎮旧州村)の地に、万安県城が新設される。以降、1400年近い歴史を有する。
662年、万安県が万安州へ昇格されると、周囲の万安県、陵水県、富雲県、博遼県の 4県を統括する、地域行政の中核都市となる。後に 万州(萬州)へ改称され、海南島で設置された 4州(瓊州儋州崖州、万州)の一角として君臨した。

以降も長らく、土壁による簡易な城塞だった万州城であるが、北宋時代の 1110年ごろ、一度、大規模な修繕工事が施されるも、南宋時代の 1230年ごろ、初めて城壁が全面レンガ積みへ改修されることとなる。しかし、この時の城壁の全長は 333 mにも満たず、単に南門一つだけを有する、簡易な城塞であったという。

元代末期の 1343年、万州長官代行であった鄭寛が、城壁を全面石積みへ改修すると、あわせて、城域も一気に拡張される。この時、城壁の全長は 1,107 mで、高さ 6 mの規模となり、東門、西門、南門の 3城門が設置されることとなった。

大茂鎮旧州村/太子墓村

明代初期の 1374年、千戸(地方武官)の劉才により、万州城のさらなる大規模拡張工事が着手されると、城壁の全長が 1,420 mへ、高さも 6.7 m、厚さ 5 mへと、大幅に増強され、同時に北門も増設される(上絵図)。この時、東門は朝陽門、南門は鎮南門、西門は徳化門、北門は拱北門、と命名された。

1472年、指揮の李泰により、東門、西門、南門に、甕城と楼閣が増築される。
1527年、指揮の徐爵が城壁の外周に外堀を掘削すると、全長 1,657 m、幅 8.3 m、深さ 2.3 mの外堀が完成する。外堀上には吊り橋ではなく、固定タイプの石橋が 1か所のみ、設置されていたという。
1642年、万州長官の曽光祖が、東門、西門、南門の甕城と楼閣を全面改修する。

大茂鎮旧州村/太子墓村

当時、万州城内には、州署衙門(州役所)、学宮(上絵図)、城隍廟、関帝廟などのメイン施設以外にも、八街二市九巷の市街地が広がっていた。
「八街」とは、東門前の朝陽街と迎恩街、南門前の鎮南街、西門前の徳化街と渲勝街、北門前の仙河街、さらに城内中央部にあった武丁街と永福街を指し、また「二市」とは朝陽街の東門市と鎮南街の南門市を意味し、最後の「九巷」とは、羅宅巷、徐宅巷、楊宅巷、唐宅巷、陳宅巷、半斗米巷などの、細く枝分かれした路地を指していた。

中華民国時代に入っても、引き続き、万州城の城壁は補修工事が手掛けられ、地元で大切に取り扱われてきたが、今日まで残存できた城壁はごく一部であった。
2015年11月29日、海南省政府によって史跡指定を受けるに至る。



続いて、地元バスに乗車しつつ、万寧市 中心部(万城鎮)東端にある、東山嶺文化旅游区を訪問してみる(冒頭地図)。標高 184 m ある山頂から、万安市一帯を撮影する。
そのまま市街地を軽く散策後、再び、高速鉄道で 海口市 瓊山区(中心部)への帰路についた(20~30分に一本あり。66分、59元)。

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