BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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甘粛省 天水市(中心部)秦州区 / 麦積区 ~ 区内人口 130万人、一人当たり GDP 14,500 元(市内 )


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  諸葛亮孔明、天水に至れり!(228年春の 第一次遠征)
  諸葛孔明、天水に至れり!(231年春の 第四次遠征)
  諸葛軍塁(邽県城、【初代】上邽県城、孔明の北伐記念公園)
  イスラム教徒たちが営む「出店」がすごかった
  天水郡城(【ニ代目】上邽県城、秦州城)
  秦州区・麦積区の 歴史



【 諸葛孔明、天水に至れり! 】

天水市内の中心部には「諸葛軍塁」という三国志 記念公園がある。
ここには、春秋戦国時代より築城されていた上邽県城があったが、北宋~金王朝時代、モンゴル軍の侵入を受け、徹底的に破壊されてしまったという。

この旧上邽県城であるが、三国志では決定的なエピソードを刻む名所となっている。
それは諸葛亮孔明の北伐戦で、一次と四次の遠征時、孔明自ら当地に滞在し、魏軍と対峙していたことに由来する。
下地図は、第一次遠征で蜀軍が魏軍の援軍を迎撃するために構築していた作戦地図を示す。蜀軍は、主に北から 略陽県城清水県城、臨渭県城(広魏郡都)、冀県城(天水郡都)の 5箇所に分かれて、迎撃部隊を配置していた(10万)。
諸葛孔明は、蜀軍の各陣営を視察し、軍議を重ねて、来るべき魏の 援軍(張郃の率いる 3万)に備えていたわけであるが、その足跡が現在でも「諸葛垒村(清水県)」や 当地の諸葛軍塁として名残が残されている。
結局、蜀軍の防衛ラインは、北周りの略陽県城から街亭にかけての 山岳地帯に展開した馬謖軍が突破された ことで総崩れの危機に陥り、他の防衛拠点の蜀軍は、そのまま戦うことなく、早々に祁山まで撤退を余儀なくされている。

天水市

なお、まさにこの遠征で、姜維(当時 27歳)が諸葛亮の蜀軍に帰参することとなったのだった。

もともと天水郡一帯で、姜氏は代々「天水の四姓」と呼ばれる名門豪族であり、姜維は戦死した父に代わり取り立てられ、雍州刺史の従事、そして、天水郡の軍事担当トップへと栄転していた頃、諸葛亮の率いる蜀軍が北上してくる(第一次北伐戦)。このとき、天水郡太守の馬遵とともに姜維ら中核部下もその偵察に同行していたが、蜀軍に早々と降伏した前線の 西県(祁山の近く)などの話が伝わるにつれ、配下の姜維らも寝返ることを恐れ、馬遵は部下を放置して、この上邽県城へ逃亡してしまう。 姜維らは城内への入城を許されず、そのままやむなく、天水郡の郡役所があった 冀県城(今の 天水市甘谷県)へ引き返すも、ここでも入城かなわず、行き場を失った姜維らは諸葛亮に降伏することになってしまうのであった

天水市

次に孔明が当地に足跡を残すのは 231年2月の第四次北伐戦(5万)のことであった。上地図。

長安城内に待機中の司馬懿は、すぐに費曜と戴陵が守る 上邽城(今の 天水市秦州区の耤河南岸)に、雍州刺史の郭淮らを援軍に向かわせる。そして、自身は長安から大軍をつれて出陣する(上地図の通り、街亭ルートの遠回り策を選択する徹底ぶりで)。
同年 6月、先に上邽城下に達した蜀軍は魏援軍の郭淮の兵を敗走させ、そのまま上邽城を包囲してしまうも、攻撃を加えることはせず、城下に実っていた小麦を勝手に収穫してしまう。長期遠征に備えた食糧確保が目的であったらしい。

間もなく、司馬懿の率いる本隊が接近したため、いったん祁山方面へ兵を撤退させる。司馬懿は祁山の山岳地帯に強固な要塞を構築して、ひたすら持久戦に持ち込もうとする。
孔明は誘導作戦をとり、一時退却してはまた陣地構築、再び退却しては陣地構築で、徐々に魏軍との距離を開けるようになる。こうした蜀軍の撤退姿勢を真に受け、蜀軍は再び、食糧不足から撤退を始めていると魏首脳陣も信じ込み、ついに蜀陣営へ総攻撃をかけるのであった。この孔明の策略は的中し、魏軍をさんざんに撃破することに成功する。
勝利に湧く孔明本軍であったが、食糧調達担当であった漢中在陣中の李厳による偽の情報流布から撤退を余儀なくされる。この撤退戦において、祁山 の 木門道(今の 礼県羅家堡付近)で魏の名将・張郃を射殺する。


【 諸葛軍塁(【初代】上邽県城) 】

この諸葛軍塁は、この第一次と第四次北伐戦での諸葛孔明の上邽城での足跡を記念するものであるが、現在、天水市の避難区域に指定されているようで、仮設住宅などが周辺に設置されていた。先の四川地震では天水市も被害を受けている。

天水市 天水市

なお、この諸葛軍塁公園から前方に橋がかかっており、そのまま市街地へ戻れる(下写真)。

天水市 天水市

ちょうど橋の対岸地区は 出店街、とくにイスラム教徒が多く住む地区らしく、その出店群のド派手な装飾には圧倒された(下写真)。羅玉路の一帯。

天水市 天水市


【 秦州城(【ニ代目】上邽城、天水郡城) 】

天水市

秦代に設置された最初の 上邽城(邽県城)は、今の天水市秦州区の 耤河(渭河の支流)南岸の諸葛軍塁一帯にあった。
南宋時代、モンゴル軍の侵攻を受け荒廃した 上邽城(秦州城)は放棄され、その役所機能は北の 成紀県城(今の 天水市秦安県)へ移転される。元朝の時代を通じてこの体制が踏襲され、明代に入って秦州役所が再び、今の天水市中心部へ戻されることとなる。

このとき、耤河の北岸側、すなわち今の天水市秦州区の旧市街地に新たに上邽城が築城されたわけである。同時に、それまで州都であった成紀県城は廃城となる。

ただし今日、明代に建造された上邽城の城壁は、全く残されていない。かつての面影もわずかな路地名から努力して感じるしかないほどであった。双橋中路、環城西路など。

天水市 天水市

ちなみに、天水市一の繁華街である龍城広場の向かいにある 孔子廟(文廟)であるが、その創建は元代という。
モンゴル軍の侵攻で上邽城が荒廃した後、渭河の北岸に集落地が移転され、その直後に創建された廟所というわけだった。
モンゴル帝国が特に力を入れた西域とのシルクロード交易により、天水地区も繁栄を極めたに違いない。同時に南岸側の旧古城地区は寂れていったのであろう。


  交通アクセス

麦積地区(天水鉄道駅)と 秦州地区(天水市バスターミナルがある)との間には、たくさんの路線バスが往来しているが、特に ①番バスと ⑥番バスが重宝しやすいであろう。
①番バスは天水空港を通過する、遠回りルート(25分ほど)。⑥番バスは渭河の河畔の最短ルートを行く(15分ほど)。両者ともに、運賃3元。

天水市 天水市

秦州地区の龍城広場の解放路一帯は(上写真)、蘭州 への高速バス、⑥番路線バスの発着所となっており、非常に便利でもある。
また、解放路にある歩行者天国の東端には夜のバー街があった。



秦州区・麦積区の 歴史

この地域は、元来、渭河や 耤河(渭河の支流)が運ぶ肥沃な土壌を背景に動植物が繁茂し、かつまた、急峻な山岳地帯や草原地帯が広がっており、馬の飼育が盛んに行われていた。これが秦や西域民族の強力な騎馬軍団形成の基礎となっていく。紀元前 688年、秦国の武公はこの地を平定し、新たに 邽県(県城は 今の天水市秦州区の南岸側)を設置する。これが後に、上邽県へ改名されることとなる。
紀元前 221年、秦の始皇帝が中国全土を統一した後、全国を 36郡に分けて中央集権体制の浸透を図った。このとき、上邽県は隴西郡に帰属された。

そして、前漢朝の勢力圏がさらに西域へ拡張されるに伴い、7代目皇帝の武帝の治世下の紀元前 115年、上邦県から分離される形で 清水県(県役所は天水市清水県永清鎮李崖村の高台上に開設)が新設される。続いて、紀元前 114年に陝西郡から天水郡が 分離・新設され、上邽県および、清水県は天水郡へ移籍される。ちなみに、この「天水」の命名は、秦末の「天河注水」の伝説に由来するという。天水の地名は今日に至るまで継続的に使用され、中国でも最も長く使用された地名の一つとなっている。

天水市

時は三国時代。魏の曹操が 220年に死去すると、息子の曹丕が魏王となる。このとき、秦州が新設され、天水郡の郡都であった 冀県城(今の 天水市甘谷県の南東部)に州役所が併設される。天水市の南部一帯は、もともと秦王朝の発祥の地であり、これにちなんだ命名となったという。

翌 221年には、天水郡から広魏郡が分離・新設され、清水県、干襄県、略陽県、臨渭県(郡都を兼任)の 4県が広魏郡の管轄下へ移籍される。下地図。
一方、天水郡下には、冀県(今の 甘谷県南東部)、显新県(今の 秦安県 の北西部)、成紀県、西県、上邽県、新陽県(今の 天水市北道区の北西部)の 6県が残された。下地図。

天水市

228年の孔明による第一次北伐に際し、姜維はこの上邽県城で天水郡太守の馬遵に締め出され、郡都の冀県城でも入城を認められず、その郊外で孔明に降伏することとなったわけである(上地図)。


時は下って、唐代。天水市一帯は王都・長安から連なる西域シルクロードの交通の要衝となり、上邽県城は大都市へと発展していく。西インドへ仏教の経典を求めて旅立った玄奘もこの地に一泊し、また、唐中期の安史の乱を避けた杜甫も、この地へ一時避難している。

特に唐朝末期から五代十国時代のころには、西域の吐蕃族の大陸侵入が激しさを増し、清水県一帯まで占領される。その占領下、荒廃した 清水県城 は放棄され、清水県役所が 上邽城(今の 天水市秦州区)までへ移転されていたこともあり、管轄区の人口は激増する。しかし、間もなく吐蕃族によりこの地も占領されてしまうこととなる。
北宋が中国を再統一してしばらくした 1016年、秦州都部署の曹瑋が吐蕃族らを駆逐することで、ようやく北宋は秦州一帯の支配権を再奪取することとができたほどであった。

天水市

しかし、今度は東北地方から金王朝が、北方からはモンゴル勢が中原へ侵入するようになり、北宋は滅亡し、また南宋も続いて滅ぼされることとなる。元王朝の治世下、戦乱で荒廃した秦州の 州都「上邽県城」は放棄され、北の 成紀県城(今の 天水市秦安県)へ秦州役所が移転される。

明代に入り、成紀県城が廃止され、秦州役所が上邽の地へ戻される。このときに新たに築城された城郭都市が、今の天水市秦州区の耤河北岸の旧市街地である。

清代の 1729年、秦州は直隷州へ昇格され、甘粛承宣布政使司の直轄下に置かれた。
中華民国時代の 1913年、秦州が廃止されて、天水県が設置される。


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