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訪問日:2019年 4月中旬 『大陸西遊記』~
雲南省 昆明市 嵩明県 ~ 県内人口 41万人、 一人当たり GDP 31,000 元(嵩明県)
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嵩明州城(嵩盟万戸府、嵩盟州城、崧盟部、嵩明部、長州城)
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楊林県城(楊林所城、羊林千戸所城、羊林県城、金馬里)
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【豆知識】嵩明県の 歴史 ■■■
昆明中心部から北へ地下鉄で移動し、終点駅にある
昆明北部客運バスターミナルから、嵩明行の郊外バスに乗車する(運行時間 6時~20時)。約 15分に一本発車しており、所要時間は 47分(距離 54 km)。運賃 11元
。
当地の 嵩明汽車客運バスターミナル(嵩明県盟台西路 516号)は、市街地の南側に立地しており、ここから盟台西路をまっすぐ 2 kmほど北上すると古城地区に至る(下地図)。
当地には地元の郷土博物館がないので、古城地区を散策するだけとなった。
路地名に往時の名残がしっかり感じられる。下巷、上巷、東北街村、孝友巷、東街、西街、鴨子巷、南街、南岔街、朝宗巷、崇陽北城派出所、湯家巷、趙家巷(紅軍攻城戦闘遺跡)。
嵩明はもともと「崧盟」ともいい、かつて各部族長が当地に集い、会盟を行ったエピソードに由来すると解釈されており、一説によると、三国時代に蜀の諸葛亮が南征した折(225年)、帰順した当地の部族長らを集めて秀嵩山の山麓で主従の盟約が交わされた地であった、と指摘されている。
【 嵩明県の歴史 】
現在の嵩明県一帯には、新石器時代から古代人類の生息が確認されているという。
紀元前 221年に中原を統一した秦朝は、直後より周辺諸国への遠征を繰り返す。その一環で雲南省東部も秦領に組み込まれると、街道整備が進められ、今の昆明市嵩明県楊林鎮老城村に 驛駅(役人移動する際、駅馬の乗り換えや 休息・宿泊するための施設)が開設される。当時、この官舎の東門に羊のような形の石が複数あったため、羊林と命名されることとなる。
以後、しばらく秦朝、前漢朝に支配された雲南省の地場豪族たちであったが、紀元前 116~111年に自立の動きを強めて、前漢王朝に反旗を翻すと、紀元前 111年、7代目皇帝・武帝により大軍が派兵され、紀元前 109年に完全に鎮圧される(下地図)。鎮圧戦は苛烈を極め、街道沿いには万単位の地元民らの遺体が放置されたという。
武帝は地元の統治体制を強化すべく、郡県制を導入し、牧靡県(今の
昆明市尋甸県仁徳鎮の北東部にある 上古城村、下古城村あたり
)や 昆澤県(今の
昆明市宜良県北古城鎮
)が新設される(益州郡に帰属)。現在の嵩明県域は、これら両県に分かれて統括されることとなった。
唐代から南詔国前期のころ、今の嵩明県エリアは崧盟部と通称されていた(下地図)。
大理国の治世時代も引き続き、崧盟部と呼ばれる。
元代の 1250年ごろ、崧盟部が嵩明部へ改称される(上地図)。
1256年には、現在の 昆明市嵩明県楊林鎮老城村(かつて、秦代に官舎が新設されて以降、集落化していた)に羊林千戸所が設置される(嵩盟万戸府に帰属)。 間もなく、羊林県へ改編される。
最終的に 1275年、羊林県が楊林県へ改称される(湖畔沿いにヤナギが群生していたため)。
同 1275年、嵩明部(今の 昆明市嵩明県)が長州へ昇格される。
1278年、長州が嵩明府へ降格されるも、1285年に嵩明州へ改編されると、そのまま 旧・嵩明部の集落地が州都を兼ねた(中慶路に帰属)。下地図。
明代初期の 1382年、嵩明州が嵩盟州へ改称される(中慶路から改名した雲南府に帰属)。
1481年、楊林県が廃止され、楊林所へ降格される。下地図。
清代の 1700年ごろ、楊林所が廃止され、金馬里へ改名される。
最終的に中華民国が建国された翌 1913年、全国で州制度が廃止されると、嵩明州が嵩盟県へ降格され(同年、金馬里も楊林鎮へ改称)、さらに翌 1914年に嵩明県へと漢字変更されて今日に至ることとなる。
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