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訪問日:2018年6月上旬 『大陸西遊記』~
上海市 松江区 ~ 区内人口 180万人、 一人当たり GDP 66,000 元 (上海市 全体)
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松江府古城内にあった 城内水路跡「通波塘」と その脇の 袜子弄(靴下通り)
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普照路 ~ 松江区の 日本人ストリート
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松江府古城の 心臓部「松江府役所」 と 「華亭県役所」の跡地
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華亭県役所の南側の 城門楼閣「雲間第一楼」の 今昔
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【豆知識】方塔園 ~ 歴史文化公園 と 旧華亭県城の発祥地 ■■
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松江博物館 と 松江二中学(旧類県役所の敷地跡)
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【豆知識】邱家湾キリスト教会 ■■
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北側城壁 と 環城東路
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東城門跡地 と 水門跡
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東側掘割 と 新東門橋
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北城門跡地 と 北側の掘割。そのまま路線バスで泗涇老街へ Go !
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生々しく水郷時代の波止場や入り江が 旧市街地に残る泗涇老街
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【豆知識】泗涇老街 ■■
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松江東バス・ターミナルの路線バス網と 酷い! 天日干し 待合いスペース
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【豆知識】松江区の 歴史 ■■
松江区では地下鉄 9号線・松江新城駅近くの 7天酒店に投宿した(180元)。
ここから松江古城エリア中央に位置する方塔園へ、タクシーで移動した(10分弱、運賃 15元)。
城内
をもう少し散策してみようと、途中の袜子弄と中山東路との交差点で下車する。
ここで、古城時代の城内水路であった 運河「通波塘」周辺を散策してみた(下写真左)。
なお、袜子弄とは「靴下通り」という意味で、その昔、中亭橋巷、亭橋巷、北内路とも呼ばれていたという。明代から清代にかけて、松江府は全国屈指の紡績業のメッカとなっており、この通波塘沿いには近郊で生産された靴下を販売する商店が 100軒あまり集積していたそうで、その名残が路地名に残っているらしい。
また、この 城内水路「通波塘」はもともと顧会浦といい、南宋時代の 1165年に掘削された松江古城内の五大水路の一つで、当初から華亭県城の北側にあった 水門(通波門)を通って城内に流れ込んでいたため、後に通波塘と改称されたという。
かつて、この運河沿いは 民家、商家、倉庫が立ち並び、たいそうな賑わいを見せたであろうが、今はすべて撤去され、緑地公園化していた(北内路緑地)。上写真左。
城内の東西を横断する メインストリート「中山東路」を南側へ渡ると(
上写真右
)、この運河「通波塘」の西岸沿いの小さな道路「普照路」に行き着いた(下写真左)。突然、日本料理屋や飲み屋、カラオケ店、日本語マッサージ店など合計 10軒以上もの看板が一気に目に飛び込んでくる。おそらく、ここは上海市南部の松江区に住む日本人らの集うエリアなのだろうと直感できた。
そして、普照路と松滙中路との 交差点(上写真右)に立地する 上海紅楼載斯酒店(デイズ・ホテル・ホンロウ上海)が日本人ご用達のホテルになっているのだろうと推察できた。
これまでの移動ルートは、下記の通り。
下写真左は、松滙中路上の 橋「十八号橋」から通波塘の南側を眺めたもの。かつては、このような直線形の水路ではなく、大小の水路が城内を網目のように張り巡らされていた(下古地図 参照)。
松滙中路と通波塘との交差点エリアは、ニュータウン住宅街として再開発されており(
下写真左
)、ここだけ古城エリア内では別格のモダンな住宅地となっていた。
さて、このまま松滙中路を松江東バスターミナル方向へ東進する(上写真右)。
もともと、この松滙中路はかつて府前街や県府路と命名されており、その名の通り、明代、清代には松江府役所や華亭県役所が立ち並ぶ官公庁街に相当した。ちょうど、通波塘と方塔園との間の一区画で、上写真右内に立地する低層アパート群がその役所跡地にあたる。
下古地図は清代の松江古城の様子。先の 日本人ストリート「普照路」であるが、かつてその位置に普照寺(唐代後期の 760年に建立された大明寺を発祥とし、北宋時代初期の 1010年ごろに改名)があったことが由来と分かる。その東横に通波塘を挟んで、華亭県役所や松江府役所が立地していた。
そのまま松滙中路を前進すると、方塔園まで至る。その西端に、竣工されたばかりの ショッピング街「雲間新天地広場」の入り口が突然、ドーンと姿を現した(
下写真左
)。まだ工事中で、シンナーの匂いが一帯に充満していた。。。
ちなみに、この地区が雲間路といわれる由来は、華亭県役所の南側の 城門楼閣「雲間第一楼」があったためで、現在、その城門と 楼閣、城壁の一部は方塔園の北側にある松江二中学校へ移転され、その 正門(中山東路と雲間路の交差点)として利用されているという。下写真。
上の古地図には、華亭県役所の南正門前の橋名に「望雲橋」という記述が見える。
二段上の写真右は方塔園の全体地図。ちょうど左端に見える「雲間路」が通行止めとなり、新たに歩行者天国ショッピング街に生まれ変わったことになる。
なお
、方塔園内には巨大な池やボート遊びの水路が張り巡らされ、松江区民らの憩いの場となっていた。
方塔園
この方塔園の敷地は、もともと華亭県城内の地元名士の邸宅であったが、五代十国時代の呉越国統治下の 949年に 興国長寿寺(北宋時代の 11世紀初頭、興誕教寺へ改称)が建立された際、その境内に提供されて以降、寺院となる。 境内に建設された 寺塔(現在の方塔)は、北宋時代の 11世紀後期に初めて設置されたと考えられている。
発掘調査の結果、この公園一帯が唐代から宋代にかけての華亭県城の中心部だったことが分かっており、地下約 2 mには唐代から宋代の多くの遺物や城内水路の遺構が発見されているという。
元代に入って寺塔や寺院が撤去されてしまうも、明代に至ると、同じ敷地内に城隍廟と興誕塔院が再建される(上地図)。
日中戦争や国共内戦を経て、各種廟や寺院が焼失され、以後、再建されることはなかったという。戦後長らく放置されると、自然発生的に境内の大部分が宅地化され、また家庭菜園場や水田まで出現することとなった。
なお、明代、清代には方塔の建つ北側に小さな東西路地が通っており、当地・松江府城出身の有名人を記念して三公街と名付けられていたという。その三公とは、明代の著名な書画家である董文敏、明末に清軍に抵抗した 名将・李忠憨、そして清代の著名な書法家であった沈文洛を指す。
なお、方塔は明末以前から既に何度も建て替え工事が行われていたが、清代中期の 1770年に、てっぺんの 3階部分の全面建て替え作業が実施された記録が残る。さらに清代後期の 1844年には塔頂上の 塔刹(仏塔の最上部にある金属製の飾り)が交換される。
清末以降、方塔は修築工事も手掛けられず、徐々に損壊していき、共産党中国が建国される頃には、一階部分の階段を除き、完全に倒壊していたという。そのままさらに放置されるも、ついに 1974年5月、地元政府により復元工事が決定され、順次、敷地内の民家や農園らの退去が進められる。1977年始めにようやく復元工事が着工され、同年 12月7日に完成し、上海市の指定文化財として保護されることとなった。
翌 1978年、方塔とその周囲が歴史文化公園として一般開放されるに至る。
現在、園内には多くの文化遺産が各所から集められており、先述の 国宝級・方塔(北宋時代初期の建立。もともとは興誕教寺塔と呼ばれていた)を筆頭に、明代建造の高さ 4.75 m × 6.1 m の巨大かつ優美な 磚雕照壁(上海市内で最古のもの)、宋代の望仙橋、明代の 蘭瑞堂(別名:楠木庁)、清代の天妃宮や陳化成祠堂、そして近年に新設された 仿古長廊、古塹道(これは戦時中の塹壕が復元されたもの)、何陋軒、塔影舫、五老峰など、上海市や松江区政府の指定文化遺産も数多い。
方塔園の東端の方塔南路沿いに正面入り口がある(入場料は 12元)。広大な園内を巡る時間がなかったので今回、入園は控えておいた。
また、ちょうど方塔南路と松滙中路との交差点あたりに、南門居委員の事務所案内板が掲示されていたので、撮影してみた(下写真左)。まさに、この真南の掘割沿いに南城門が立地していたわけである。
そのまま
方塔南路
を北上し、中山東路を左折して、松江博物館を目指した。下写真右は、松江博物館の正面入り口。
この松江博物館であるが、清代に全国巨大都市ランキング 上位 15 の一角を占めた松江府城という歴史的な立場からすると、あまりに小規模で薄っぺらい 解説しかなかった。博物館の周りには近隣から集められた石碑や石柱が保存されていた。古くは東晋時代の墓碑に始まり、いずれも史的価値の高いものばかりなのだろうが、その放置感が中国らしかった(下写真左)。
本館見学にあたって、松江府(華亭県)周辺の行政区の変遷史を示す地図が一番に役だった。
博物館を見学後、方塔北路(中山東路を境に、方塔南路から名称変更)沿いをさらに北上し、環城東路を目指した。
途中、松江二中学の校舎を通過し(上写真右)、その横に巨大な
キリスト教会(邱家湾天主堂)
を発見する(下写真)。かなり由緒ある歴史が解説されていた。
邱家湾キリスト教会は、上海市松江区の中で、最古の教会建築物という。
その建立は、地元大富豪の 未亡人・許甘第(1607年~?)による巨額寄付によるものだった。
その女性は、キリスト教徒だった祖父の徐光启の影響を受け、幼少時から洗礼を受けていたという。クリスチャン名を Candice (甘地大、甘达弟とも書く)といい、その誕生日が 聖女 Candice の誕生日と同じということで、同名の洗礼名を授けられたという。
明代末期の 1622年、父の勧めで、松江府城内の富豪一族であった許遠度の元に嫁ぐ。新夫の許遠度も、その父の許纘会も敬虔なキリスト教信者だった縁もあった。
松江府城において許家は歴代の高官職を歴任しており、以後、彼女は許徐甘大夫人と呼ばれるようになる。
しかし、彼女が 46歳のときの 1637年、夫と死別し、その有り余る財産の中、寂しい余生を強いられることとなる。彼女自身は質素倹約の生活を続ける一方で、莫大な私財を寄付し、200ヵ所あまりの教会建設にまい進することとなる。
そうした中、1658年にイタリア人宣教師の潘国光がこの許氏未亡人の巨額援助を受けて、松江府城内に教会と伝道師らの居所を建設したのが、この邱家湾キリスト教会の始まりであった。
以後、清代前半の 1724年まで、松江府城内の教会には外国人宣教師が順番に配置された。フランス人、フィリピン人、イタリア人、ポルトガル人など、のべ 20名の名前が残されているという。
しかし、1724年に雍正帝がキリスト教の布教を 禁止(イエズス会宣教師の国外追放)すると、全国的に教会勢力は弾圧を受ける中、邱家湾教会やその敷地も接収され、取り壊されることとなる。しかし、当時の ポルトガル人、フランス人、オランダ人宣教師の三人は信徒らにかくまわれて布教を続けるも、地元官吏に発見され、強制国外退去となってしまうのだった。こうして松江区内の布教活動は完全に断絶することとなる。
しかし、アヘン戦争を経て北京条約が締結された 1860年、布教活動も解禁されると、松江府城内の元の敷地に教会が再建されるに至る(1872年)。ゴシック建築の教会堂の建設工事がスタートし、2年後の 1874年4月9日にようやく完成を見る。その外見は尖塔や煙突なども有する完全な西洋建築様式だったが、内部は中国式スタイルの室内構成となっており、華洋折衷が図られた設計となっていた。
清末の一時期、松江城を占領していた太平天国軍を掃討した際、洋槍隊を率いた米国人 Frederick Townsend Ward(1831~1862年)の居所ともなっている(1862年春。しかし、翌 1863年9月20日の
慈溪県城
攻略戦の際、戦死した)。清末の統計によると、松江教会区内の信者数は 26,050人が登録されていたという。
1966年から始まる文化大革命の時代にも大いに荒廃するも、1993年1月にようやく大規模修築が許可され、同年 6月18日に修繕された教会堂が再び、日の目を見ることとなった。
その建築様式は伝統的中国スタイルを多く取り入れた教会で、非常に芸術的価値が高いと評価され、 1995年7月に地元松江区政府から歴史文化遺産に指定され保護対象となっている。
そして
、ようやく環城東路に到着すると、とりあえず東門跡地まで進もうと道路沿いを東進する。ちょうどここに古城時代、北側城壁が連なっていたわけである。筆者が歩いた三分の一程度でも、かなり長大な距離だった(下写真左)。
下写真右は、途中で南へと進行方向を変える交差点あたり。ここから東面城壁が連なることになる。
ふと道路脇に東側の城外へ抜ける 道「東果子弄」があったので、少し郊外を見てみようと寄り道してみた。この地区には、古民家がまだまだ周囲に残されていた。この路地名は、その名が示す通り、かつて 梅、桃、アンズ、スモモなどの果樹園が広がっていたことに由来するという。今ではこれら農園は微塵も残されていなかったが。
再び
、環城東路に戻り、そのまま南下していると、いよいよ東門橋に到着した。
この環城東路と交差する大通りは、東西のメインストリートである中山東路。
橋の周囲は水郷風景も一部が保存されており、また堀川沿いは緑地公園となって、区政府がきちんと整備している様子が伝わってくる(下写真)。
かつて東門の脇には城内水路の水門があった。ちょうど下写真の辺りであろう。
ここまでで、かなりの距離を歩き通しだったので、少しバス移動して車内の座席で休憩しようと、東門前にあったバス停から泗涇古街を訪問してみた。
しばらく待つと、路線バス「
沪松専線
」が通過したので、すぐに飛び乗る(乗車後に、チケット販売員に直接支払う仕組み 3元)。
バスは筆者がさきほど必死で歩いてきた環城東路をいとも簡単に通過し、そのまま北門橋をわたって、沪松公路(滬松公路)を一直線に北上していった(下写真左が松江古城の北門あたり)。
乗車時間 30分ほどが経過すると、泗涇古街に到着する。
道路の橋上からの風景があまりに見事だったので、すぐにここだと目星がついた(上写真右)。沪松公路が泗涇塘にかかる泗涇塘橋を渡った地点に相当する。
あわててバス車内のチケット販売員に下車を依頼すると、その橋途中で臨機応変に降ろしてくれた。
沪松公路
を渡って、開江中路沿いに旧市街地に入ってみる。とすぐ右手に廃墟の 商店街「泗涇古玩城」が見えてきた(上写真左)。観光地振興策として地元政府や業者らが推進したのだろうが、残念ながら、集客力に乏しい小規模な水郷集落だけでは思った成果が上げられなかったようである。
さらに、古民家群が軒を連ねる開江中路を西進すると、正面に 七重塔「安方塔」が近づいてくるのが分かる。
旧市街地内では、あちこちに船の波止場や入り江が設けられており、往時の水運集落地の様子を妄想する手助けをしてくれる。
しかし、このとき、あまり当地訪問の下調べをしていなかったので、開江中路の一つ目の橋を渡り、南岸へ移動してみることにした。
その通りは江達南路といい(下写真左)、そのまま沪松公路まで出て、泗涇のバス停まで到着してしまった(下写真右)。
ここで帰りのバスに乗るのが最も効率的だと思い、ついに旧市街地の西端にある安方塔を拝謁することなく、当地を後にしてしまった。
■
泗涇老街
泗涇老街は、開江中路(開江東路)と 運河・泗涇塘との間にみられる古民家集積地で、水路沿いに渡って東西に細長く形成された水郷集落である。東は沪松公路から、西は泗涇江川路までとなっており、特に西端には 牌坊(西口牌坊)で入口ゲートが設けられており、その脇に優美な安方塔がそびえ建つスタイルだった。
なお、安方塔であるが、その高さは 35.18 mで、直径 12.45 m、各辺の長さ 5.42 mの正八角形で設計されており、七階建ての楼閣式宝塔となっている。塔のてっぺんである七階部分には釈迦如来像が安置され、全方位に向けて平和祈願のため祀られているという。
その凛として建つ姿は民謡にも歌われ、泗涇老街の 武安橋(西市橋)、福連橋(中市橋)、普度橋(東市橋)と、東田寺の宝塔をまとめて、泗涇の代表的な 遺産「三弓一箭」とたたえられる中、三弓一箭が安方塔の傍にあり。。。という歌詞に残っているという。
この旧市街地はもともと北宋時代に形成された村落で、当初は会波村と通称され、南宋時代に七間村へ改称された記録が残る。元代中期に泗涇の名称に変更されて今日まで継承されることとなった。その由来は当時、旧市街地を流れていた 4つの水路 ー 外波涇、通波涇、洞涇、張涇 ー から命名されたという。
元代後期に交易都市として発展を遂げ、泗涇里と通称されるようになる。
明代中期の 16世紀前半、泗涇市へ昇格される(上地図)。
この頃、北隣の七宝市出身の 富豪・徐寿が資金を出し、泗涇塘から蒲滙塘へ続く東西の運河が連結され、七宝市(現在の七宝老街の旧市街地。上海市閔行区七宝古鎮)と 泗涇市との間の 水運・陸路交通はますます便利となると、両者の経済は共に隆盛を極めることとなった。
泗涇鎮の見学後、再び松江区の中心部まで戻った。
往路と同じ、
東門跡地
で下車し、そのまま環城東路を徒歩で南下して、松江東バスターミナルを目指すことにした。
途中、掘割が松滙中路と接するあたりに新東門橋がかかっていた(下写真左)。
そのまま正面向かいにある
松江東バスターミナル
に徒歩で入ろうとすると、大きな違和感を覚えた。
周囲の大陸中国風の雑然としたバスターミナル前商店街にあって、一つだけモダンな看板のお店があった。コンビニ「ローソン」である(上写真右)。周囲から浮いたその存在感は我々日本人からすると、何か安心感を与えてくれるものだった。
そして、バスターミナルでトイレを使い、バス路線をチェックする。さすが、松江区の旧市街地傍にあるバス・ターミナルだけあって、東西南北の全方位向けの路線バスが発着していた。
ターミナル内で時刻表を写真撮影していると、係の人がこの時刻表は毎日毎時変わるから、使いものにならないよ!と助言してくれた。
■
上海市松江区の松江東バス・ターミナル
ここは上海市南方面、西方面の路線ルートを網羅しており、上海中心部からの玄関口となっていた。
主な路線バス網
南松専線(松江東バスターミナル -- 南橋バスターミナル) ➡
奉賢区
へ
松龍線(松江東バスターミナル -- 上海南駅北広場)
松新楓線(松江東バスターミナル -- 楓涇バスターミナル)
朱松線(松江東バスターミナル -- 金山バスターミナル) ➡
金山区
へ
松朱専線(松江東バスターミナル -- 朱家角バスターミナル)
松青線(松江東バスターミナル -- 青浦中心バスターミナル) ➡
青浦区
へ
その場その場で、適当に発車時刻を調整しているらしい。だいたいの時間間隔で発着されているようだった。
「南松線」と書かれた奉県区の南橋バスターミナル行きのバスは、10~15分に一本、運行されている、という案内だった(運行時間は 5:30~19:00)。
ただ、この電光掲示板で重要なのは、自分が乗る路線バスは、次に何時に出発し、どの乗り場から乗車するのか、という確認する点にあった。
筆者が向かう
奉県区の南橋バスターミナル
行き(南松専線)は ⑦番駐車場から 13:10 に発車、と表示されている。
バスターミナルのバス乗り場では皆、発車予定のバス駐車場の前で太陽に照りつくされて待っている。。。。ターミナルの建物が何のための待合スペースなのか分からない気がした。
バス停車ポイントに⑦と付された場所に、次の発車予定バスが入ってくると、皆、我先にと乗車する。席とり合戦だ。
皆が着席して 1分後に、発車時刻となると運賃回収人の女性が乗ってきた。すぐにバスが発車する。
バス車内ではこの運賃回収人に、行先に応じて 1~7元の運賃を支払う仕組みだった(奉賢区の南橋バスターミナルまでは 7元)。
【
松江県城
】
松江という地名は、そもそも付近を流れる呉淞江の河川名を起源としており(宋代までは呉松江といい、明代から清代に入る頃、呉淞江へ変化したという)、もともとは 華亭、雲間、谷水、五茸、南呉などと通称されてきた。
すでに 5000年以上前の新石器時代から人類の生息が確認されているという。
西周時代から春秋時代にかけて、呉国に属した。
この時代、呉国の富国強兵政策を推し進め、史上初の呉王を名乗った呉侯の 寿夢(紀元前 620年~前561年)が、この地にあった街道沿いに 休憩施設(亭)を開設する。以後、この一帯は「華亭」と呼ばれるようにったという言い伝えが残る。
その呉も戦国時代初期に越国により滅ぼされ、また中期には越もまた楚国により滅ぼされ、最終的に江南地方全土は楚国の版図下に組み込まれる。
その楚も紀元前 223年に秦国に滅ぼされると、翌紀元前 222年に秦国により郡県制が導入され、現在の松江区一帯は会稽郡下の
長水県(今の 浙江省嘉興市南湖区。
紀元前 210年、長水県は由拳県へ改称される)の東部に、また一部は
海塩県
(今の上海市金山区の南東部にあった甸山一帯に開設されるも、紀元前 210年、地盤沈下により柘湖に水没してしまうと、現在の嘉興市平湖市へ移転)の北部に、類県(今の 江蘇省昆山市の北東部)の南部にまたがって統括された。
後漢時代の 129年、浙江省西部が分離され呉郡が新設されると(浙江省東部だけが会稽郡として残る)、
由拳県
、
海塩県
、類県はすべて新設の呉郡に属した(上地図)。
三国時代、蜀の劉備と荊州問題で対立していた孫権は、陸遜の働きにより関羽討伐に成功し(219年)、領土問題を力づくで解決すると、同年11月、その功績をたたえて、陸遜を華亭侯に封じる。当時すでに呉郡の南部一帯は地元の名士だった陸家の荘園が広がっていたが、孫権によりその領主権を追認される形となった。
翌 220年にはさらに封地が加増され、北に隣接する類県の土地も与えられ、類侯となる。
229年、孫権が呉皇帝に即位すると、間もなくの 231年、由拳県が禾興県へ改称される。
242年、長男の 孫登(33歳)が病没すると、孫権(60歳)は次男の 孫和(224~253年。18歳)を皇太子に指名する。すると、孫和の諱名とだぶたっため、禾興県は
嘉興県
へ改称されることとなった(下地図)。
最終的に 250年、
二宮事件
を経て、孫和は皇太子を廃され、末弟の孫亮が選定される。
孫亮は 252年、9歳で 2代目皇帝に即位する。
時は少し下って東晋朝時代の 326年、3代目皇帝・司馬衍がその弟の司馬岳を呉王に封じると、呉郡は呉国へ昇格され、
嘉興県
、
海塩県
、類県の三県はそのまま呉国の版図下に置かれた。
南北朝時代の劉宋朝が建国された 420年、呉国は再び呉郡へ改編される。
梁朝時代の 507年、類県が廃止され 信義県(今の 江蘇省昆山市正儀鎮)に吸収合併されると、信義郡(郡都は、南沙県城 ー 今の江蘇省常熟市)に帰属される。
535年、信義県下のうち、もともと類県であったエリアが分離され、昆山県(今の江蘇省昆山市の北東部)が新設される。このとき、今の松江区西部がこれに帰属された。また、
海塩県の北東部が分離され、胥浦県と前京県が新設される
。今の松江区の南部はこれに統括される。同年、信義郡が廃止され、呉郡に帰属される。
唐代中期の 751年、呉郡太守の趙居貞が朝廷に上奏し、昆山県の南側、および嘉興県の東側、海塩県の北側を分離して、華亭県が新設される(下地図)。県城の中心は、今の方塔園と中山東路沿いの一帯に建造された。
唐代の 759年、呉郡が
蘇州
へ改編される(浙江西道に帰属)。華亭県はこのまま蘇州に属した。
唐末に全国で農民反乱が勃発すると、880年、農民軍を率いた王騰が華亭県城を占領してしまう。間もなく王騰の乱が平定されると、再び華亭県は唐朝下の
蘇州
に組み込まれる。
引き続き、農民反乱は各地で頻発し、この鎮圧を主導した各地の節度使らが独立系勢力として軍閥を形成していく。その中で台頭した軍人の 銭鏐(852~932年)がそのまま江南地方を乗っ取り、自身の勢力基盤としてしまう。
この戦争の最中だった 897年、銭鏐は部下の願全武を派遣し、この華亭県城を占領している。最終的に 907年、銭鏐が呉越国を建国すると、そのまま版図下に組み込まれた(五代十国時代のスタート)。
呉越王となっていた銭鏐は 924年、開元府役所を
嘉興県
城内に開設すると、華亭県はこの開元府の直轄領となる。
初代皇帝の銭鏐が 932年に崩御すると、その五男の銭元瓘が 2代目皇帝に即位する。銭元瓘は行政区のスリム化を図り、その一環として即位直後に開元府を廃止する。華亭県は再び、中呉軍(蘇州)に統括された。
940年、秀州を
嘉興県
城内(今の 浙江省嘉興市)に開設すると、華亭県はこの秀州の管轄下へ移籍される。下地図。
南宋時代初期の 1195年、秀州が
嘉興府
へ昇格されると、華亭県はそのまま嘉興府の直轄とされる。
この北宋時代から南宋時代にかけて、華北地方から多くの人々が流民となって江南地方に流入し、人口と経済の急速な膨張をもたらせる。その結果は華亭県の人口統計にも如実に示されており、唐代には 12,780戸だった戸籍が、1275年時点には 234,471戸が登録されるまでになっていたという。
その南宋朝も 1276年に
王都・臨安
がモンゴル軍に占領され崩壊すると、元朝はその占領地の行政区の大改編に着手する。
翌 1277年、華亭県が華亭府へ昇格され、華亭県一県のみを統括することとされる。当時の管轄域は非常に広く、住民人口も爆発的に増えていたため、行政負担を減らすべく、一府一県体制へ分離されたのだった。翌 1278年、華亭府は松江府へ改名される。
1290年、華亭県の北東部が分離され、新たに上海県が新設される(そのまま松江府に帰属)。
元代後期の 1326年、松江府が廃止され、華亭県は 嘉興路(江浙行省に帰属)に移籍される。あわせて、都水庸田使司が旧松江府役所内に開設される。
2年後の 1328年、都水庸田使司が廃止され、再び松江府が復活設置されると、華亭県は再度、松江府に統括された。
明代中期の 1542年、華亭県と上海県の一部から
青浦県
が新設されると(下地図)、青龍鎮城内に県役所が開設される。
清代初期の 1656年、華亭県の北西部が分離され、類県が新設される(松江府に帰属)。最初、県役所は松江府城外西の水次倉の村役場内に開設されるも、後に松江府城内に移転される。こうして、華亭県役所とともに、城内に二県の県役所が併設されることとなった(下絵図)。
1724年、両江総督の査弼納が
蘇州
、松江府下のいくつかの巨大県役所がその県域が大きすぎて、さらに細分化することを朝廷に上奏する。こうして、1725年に決議され、翌 1726年、華亭県の南東部にある白沙郷と雲間郷が分離され、
奉賢県
が、類県下の胥浦郷と華亭県下の南西部の一部分が分離されて
金山県
が、上海県下の長人郷が分離されて
南滙県
がそれぞれ新設される。また、1810年には
川沙撫民庁
が新設される。いずれも松江府にそのまま属した。
なお、明代中期以降、松江府下は紡績産業の一大集積エリアへ成長し、松江布として全国に流通する。その発端は元代初期に紡績技術の発明家として知られる黄道婆が
海南島
から移住して、当地に綿栽培や紡績業を伝えたことに由来するという。しかし、アヘン戦争直後から市場開放が進み、欧米列強から安価な輸入品が持ち込まれると、松江府下の織物産業は大打撃を受け経済は停滞し、代わって外国商館や領事館が開設された上海県が、国際交易都市として急速に台頭することとなるのだった。
中華民国が建国された直後の 1912年、全国で府制が廃止されると、華亭県と類県県が合併され、一つの華亭県となる(江蘇省に直轄)。 続いて 1914年、華亭県が松江県へ改称される。
現在、広大な城域を誇った松江古城は城門も、城壁もすべて撤去されてしまっており、わずかに地名や路地名にかつての風景を重ねざるを得ない状態だった ー 北門大橋、北門街、環城路、東門橋、長橋街、袜子弄、中山街道南門居委会、南内路、東門村 など。
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